『慶應はなぜ早稲田に勝てないのか?』
2002.12.01寄稿 小野 喜也 昭33経
今年の学生スポーツは例年にもまして、早稲田に負けた結果が目立ちます。
体育会各部のホームページを片端からアクセスすると、試合結果は11月末現在
では次のような状態ででした。
野球は春秋ともにストレート負け、ラグビーは対抗戦で74対5と叩きのめさ
れました。早慶レガッタの対抗エイトでは4艇身差で負け。テレビ中継のあるこ
のあたりまでの試合結果をご存じの方は多いかと思います。
現在、慶應義塾体育会には39部がありますが、早稲田に勝てなかった部がず
らりと並んでいます。
柔道は連敗中、剣道も負け、水泳(競泳)は早慶戦のページは空欄でしたが、
六大学対抗リーグ戦では早稲田優勝、慶應は5位(6位は東大)。テニスは男子
9ー0、女子7ー0の完全敗北。バスケットボールも男女共に敗退。バレーボー
ルも同じく男女敗退。レスリングは完敗。アメリカンフットボール零敗。ハンド
ボールも負け。ソフトテニス負け。合気道8対4の負けと●印が続きます。
早稲田に勝ったのは、弓術の125-120、洋弓の7166-6686、馬術の11-9、
サッカーの1-0の四つしか見当たりませんでした。射撃、ボクシング、フェンシ
ングは12月が早慶戦ということで、これから結果が出ます。
その他、ホームページは発信していても早慶戦についての掲載が無いのが、水
泳、器械体操、馬術、スキー、卓球、準硬式野球、重量挙、航空とあり、果たし
て早慶定期戦が現在あるのやらないのやらが判りません。
自動車は定期戦は掲載されていますが、試合結果が現れませんでした。
ホームページがあるはずなのに、アクセスしても画面の現れないのが、競走部、
ホッケー、スケート、ヨット、バトミントン、少林寺拳法で、ホームページの管
理をする部員を確保出来ないのでしょうか。ホームページが無いらしいのは、空
手、ゴルフ、拳法、山岳です。
これがインターネットから見た、慶應の体育会各部の今年の状態です。
体育会OBはご自分の出身部についてはご存じと思いますが、体育会全体がこ
のような状態にあることをご存じでしょうか? 私は柔道部出身ですが、今回の
ネットサーフで改めて調べてみて愕然たる思いです。
体育会出身ではない塾員の方々は、この様な状態にもあまり関心をお持ちでな
い方もおられるかも知れませんが、野球やラグビーの不振にはご不満の方も多い
事でしょう。
全体を見ると、入れ替えのあるリーグ制の競技では、1部に止まれず2部や3
部に低迷している種目も多く、早慶戦の戦績だけだはなく、慶應のスポーツが戦
前や戦後の栄光ある歴史とは程遠い状態に陥っていることは間違いありません。
このような変化は、経済成長に伴う人口の大都市集中、国民所得の向上、大学
進学率の増加などの社会変化を背景として、大学生総数の増加の中で起きて拡大
したものです。私どもが在学したころ、昭和30年代前半の慶應の学部塾生総数
は約1万名で体育会所属は2千名ほどでした。学部増加により現在の学部塾生総
数は2万7千名程度となりましたが、体育会所属は僅かに1千4百名程度です。
つまり、塾生総数の増加に反比例して体育会所属塾生というスポーツ競技人口が
激減しています。
問題は、早稲田と慶應とが、この時代環境の変化にどのように対応しているか
という点にあります。先日、早稲田の漕艇部の創部100周年記念行事の挨拶の
中で、早稲田大学前総長は「スポーツ振興を大学の方針としている。体育会の総
べての部が全国優勝をすることを目標としている。」と述べられたと聴こえて来
ました。
今年の春先から、早稲田は重点競技への支援を強化しているなどと伝えられて
いましたが、どうやらより長期かつ大規模なスポーツ振興の構想があるようです。
快進撃をしているラグビーについては、一昨年の監督交替と同時期に、芝生の
練習場が3面ある施設を、某金融機関から買取ったそうで、フィットネス設備は
完備され、個々の選手の体力測定と強化を指導する訓練などと、従前とは様変わ
りの、資金投入と指導強化が行なわれていると聴こえています。効果はたちまち
現れて昨シーズン以来、早稲田のラグビーは体力で他校を圧倒しています。
一方、慶應は室内プール無し、室内競技となっているハンドボールも屋外で他
部とグランドを分け合っていることに象徴されるように、体育設備は国公立大学
に比べても低い水準に留まっています。また、教育訓練において最も重要な指導
者についても、野球(今年からラグビーを追加)それぞれ1名への報酬を慶應が
負担している以外は、すべてOBの手弁当ボランティアと、OB会費からの報酬
による外部指導者が担っている状態で、社会状況の変化によって、OBの方の事
情や都合も変化していることに対応する施策の変化は見当たりません。
今年の早慶戦の戦績の不振の背景は、今年だけの問題ではなく、両校の体育ス
ポーツに対する方針の相違ではないかという思いが募ります。
元来、福澤先生が『先ず獣身を成し、しかる後人の心を養え』とされて体育振
興に心を砕かれたこと。小泉元塾長が自らのご経験を元に『練習ハ不可能ヲ可能
ニス』という名言を残され、「スポーツのもたらす三つの宝」という教育の場に
おけるスポーツの価値を説かれたこと。この歴史の上に立つ慶應義塾こそが、知
育偏重が問題となっている教育界の中で、先頭に立って体育振興の先導者であり
たいものです。
早稲田のように古くは「二部」と称する夜学や、近くは人間科学学部のような
スポーツ選手を推薦で受け入れるような制度はなくとも、一貫教育校を含めて塾
生の体力向上と競技力向上への施策は様々にあるのではないでしょうか。
研究・教育において先導的な業績を上げている慶應義塾は、体育においても先
端的な指導訓練への改革を必要としていると思われます。
安西塾長の指揮の下、慶應義塾社中の英知と総力を結集して、あらゆる方法を
検討して出来ることから直ぐに実行し、この屈辱的な状態を脱して先導者の立場
を創り上げなければならないと考えます。それは決して不可能なことではありま
せん。体育改革を支持なさる塾員の方は数多いのではないかと思われます。
創立150周年を近く迎える我が国最古の学塾としての、慶應義塾の誇りと団
結を、より強固なものとするためにも、義塾社中の皆様に体育のあり方について
のご議論を頂きたく拙文をしたためました。
古市 尚久さん(昭55商)にご寄稿を頂きました。
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自己紹介
古市 尚久(ふるいち なおひさ) 昭和55年 商学部卒業
慶應義塾體育會自転車競技倶楽部 総監督
日本学生自転車競技連盟 常務理事
日本自転車競技連盟 競技審判
「知っていそうで知らない自転車の不思議を大公開」
慶應義塾體育會自転車競技倶楽部も紹介します
誰もが乗れる自転車ですがその実態はあまり知られていません。
ひとりの自転車マニアの目で、独断と偏見に満ちた説明をさせていただきます。
自転車の最高速度 270km/h あなたは信じますか?
なんと自転車の最高速度ギネス記録は、268.83km/h
1995年、米国ソルトレイクにてF・ロンベルバーグ(オランダ)が空気抵抗を減らす
レースカーに追走して樹立。
これがなんと自動車の記録ではなく自転車の記録ですから驚き!
自転車レースのスピードは、通常50〜60km/h、ロードレースの下りでは約100
km/h位でます。
自転車競技ってどういうの?
競技は大きく分けて、ロードレースと(ツールドフランス等の公道レース)と、
ピストレース(競輪等のような競技場内でのレース)に分かれていて、自転車は
それぞれ専用のものを使用します。一回のレースとして走る距離は、400m〜300
km程度まで競技によりさまざまです。
長距離で有名なロードレースは、ボルドー〜パリ間584.5kmで、これを約13時間半、
平均時速は47kmで走り切ります。
自転車競技の人気は、ヨーロッパではものすごく、サッカーと人気を2分してい
ます。
元競輪選手、中野浩一選手の世界選手権スプリント10連覇の功績は、日本では
アートネイチャーというかつらのコマーシャルに出てくる程度ですが、世界での
その評価は非常に高く、スポーツ界の神様として、陸上競技のカールルイス選手
より高い評価を受けているのです。
紙より薄いフレームのパイプ!
レース用の自転車の重量は6〜8kgしかありません。ママチャリは約15kgです
が、強度が数十倍になっている事を考えれば驚異的です。フレーム材質は特殊鋼
が主ですが、その厚さは薄いところで約0.2mm。紙より薄いのです。最近はアル
ミ合金、カーボン、チタンなど航空宇宙工学用に開発された材質を使用するよう
になりました。
キスマークとタイヤの深〜い関係
自転車競技用のタイヤの幅は約2.5cm、空気圧は車の約5倍、 接地面積は
キスマークと同じ位の面積しかありません。唇で逆立ちしているのと同じよう
な状態で走るわけです。これで下り坂を100kmで駆け抜けるのですから命が
けですよね。
F1メーカーが自転車を作っているの?
そうなんです。自転車には最先端技術が応用されるため、世界中のあらゆる工業
製品メーカーが参入しています。
自動車メーカーでは、フェラーリ、ロータス、プジョー、ポルシェ、メルセデス
ベンツ、アウディ、BMW、ローバー等。スキーメーカーではヘッド、ルック等
また逆に、自転車部品で有名なイタリアのカンパニョーロ社は車のレース用ホイ
ールを生産したりしています。
レース用自転車の値段ですが、例えばロータス社の自転車は英国の金メダル獲得
の秘密兵器として開発され、一般市販はしませんでしたが噂では1台2000万円と
もいわれています。フェラーリの自転車は1台250万円くらいです。安い?
世界の三大過激スポーツ 自転車
トライアスロンの起源をご存知ですか?
ハワイで始まったアイアンマンレースなんです。世界中で一番辛いスポーツを
合体させて真の強者を決めようというのがその目的でした。
マラソン、自転車、遠泳、どれも確かに過激ですよね。
慶應義塾體育會自転車競技倶楽部
1902年(明治35年)創部、今年100周年を迎えた日本最古の自転車競技部です。
ライト兄弟の初飛行が1903年ですから大昔ですね。ちなみにライト兄弟の本業は
自転車屋でした。
初代部長は福澤諭吉先生のご長男である一太郎先生。
日本新記録やインカレ優勝経験も多数あり。
現在部員8名。
山田 健さん(昭52経)にご寄稿を頂きました。
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山田さんのお仕事をご紹介します。
National University of Singapore 大学教授です。
NUS Business School にて、
Finance & Accounting を教えておられます。
「新嘉坡」はシンガポールの漢字表記です。(^-^)小野 喜也
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「ことばのお話」
このたび新嘉坡に移り3ヶ月がたちました。昭和が平成に変わる少し前に日本
をはなれ、アメリカ、香港と渉ってきましたが、新嘉坡ほど日本人のためにイン
フラが整備されたところはないでしょう。幼稚園から高校まで、日本語の教育を
うけることができます。日本語で買物ができる魚屋があります。うちのうらには
日本人小学校があり、日本語が聞こえます。「カリアゲ」が通じる床屋がありま
す。
しかし、お店や屋台にいけば英語ではなく華語(新嘉坡でマンダリン=漢語の
こと)で話しかけられることが多いのには驚きました。着任そうそうはタクシー
の運転手から「お客さん、香港からでしょう」とか、お店でいきなり広東語で応
対されたのはびっくりしました。8年半もいれば香港人みたいになるのかなと思
っていましたが、カリアゲのおかげで最近そういうことはなくなりました。
今回はことばのお話をします。香港では97年の本土返還を契機に母国語教育を
重視することにしました。とはいっても完全な普通話(Putonhuaと発音、香港で
マンダリンのことをいう)教育はむりで、広東語が中心になります。英国領時代
は英語中心の教育で、公用語は英語とローカル言語の広東語だったので、正式な
普通話教育はやっていませんでした。そのため、普通話ができない人がずいぶん
います。香港で同僚だった本土人(北京出身)は、90年代のはじめ香港で普通話
を使うと、相手にされなっかたそうです。これには、たとえ普通話の内容がわか
っていても、本土人ゆえまともに応対してくれなかった、という意味も含んでい
ます。いまや状況はかわり、香港の街では普通話がだいたい通じるようになりま
した。
香港政庁は返還後、英語で他教科をおしえることを約半数の学校で禁止すると
いいました。英語ができなきゃ良い職につけないと、父兄が大反対しました。
またその影響で、それまで富裕層と外人のためだったインターナショナルスクー
ルに多くの親が子供をおくりはじめ、入学がむつかしくなりました。普通話か英
語か、ひとつを選ぶとなると、やはり英語なのでしょうか。
香港人の会話は、英語か広東語のいずれかで、混ぜることはあまりありません。
両方できる知合いの日本人によると、香港人は広東語でつきあうと、人がかわっ
たようにおもしろくなるといってました。英語で喋るときは、きっと真面目なの
でしょう。
さて、新嘉坡にきて驚いたのは、地元の人どうしでは3つぐらいの言葉を、平
気でごちゃごちゃにして使うことです。会話の途中で、どんどん切り替わって
いきます。華人でしたら英語、華語、福建語または広東語です。これに冗談用に
マレー語も加わるようです。英語自体もかなり特徴があり、語尾によけいなもの
をつけます。これがSinglishですね。Okay-laというふうに、語尾にラッ、ラーと調
子がよく、真似をしているとくせになりそうです。独特の抑揚もあります。
新嘉坡にしばらく住んでいると、だれでも影響されるみたいで、「本当の英語」
が母国語の人でも被害をまぬがれないようです。それにひきかえ、香港人の英語
はなかなか真似はできません。8つのイントネーションがあるうえ、息を微妙に
とめたりぬいたりする広東語をあやつる人たちですから、英語も複雑なのでしょ
う。
これからの中国ビジネスのため、華語はかかせない言葉です。そのため、新嘉
坡も学校でその教育に力をいれています。しかし、多民族国家でもあるゆえ、
マレー語、タミール語も公用語で、テレビ番組もそれぞれの言葉でやっています。
そういった意味で、新嘉坡の人たちはいろいろな言葉に寛容なのかもしれません。
カリアゲが通じるのもたすかります。
山田 健(1977年経済学部卒)
笹田 豊茂さん (昭31経)にご寄稿を頂きました。
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Henley Royal Regatta(略称:HRR)観戦記
ロンドンから西へ50〜60キロ行ったところにHenley on Thamesというテー
ムズ河畔の美しい土地があります。ここで1839年以来毎年開催されているボ
ートレースが有名なHenley Royal Regatta(ヘンリー・ロイヤル・レガッタ略して
HRR)です。
女王陛下をパトロンとして頂点に戴く伝統あるレガッタ=ボートレースで、
「ヘンリーを見ずしてボートを語るなかれ」とばかりに、我々は学生時代から頭
にインプットされていましたから、遠くから憧憬の念を持っていたものでした。
毎年春まだ浅き頃に行われる ケンブリッジ/オックスフォード両大学の対抗
ボートレースに代表されるように、英国は近代ボートレース発祥の地であり、そ
れだけに英国におけ
るボート競技の評価は非常に高いものがあります。ケンブリッジのオールカラー
はライトブルー、オックスフォードのそれはダークブルー。濃淡の差はあるとは
言え、共にブルーを基調としていることから、両校の代表選手は共に「ブルー」
と呼ばれ、社会的にも非常に高いステータスを持って迎えられるようです。
「私はケンブリッジでブルーを漕いだ」と言うだけで一目置かれるという訳です。
いわば階層社会英国の一面をしのばせるものがあります。
今年のHRRには各国から446組ものクルーが出場すると言う盛況。5日間
開催で、最終日に19種目の決勝レースが行われます。このHRRに塾端艇部O
B7名が観戦に出かけました。昭和27〜28年卒業OBが中心で、31年卒業
の小生が最も若いと言う編成です。
たぶんに赤ゲット風をまぬかれませんが、その時の印象を箇条書きにいたしまし
ょう。
1. さすがにHRRはよく準備された大会であり、また大変華やかな雰囲気を
持ちます。競馬の英国ダービーで紳士淑女が盛大に着飾って来場するシーンを
ご覧になったことがあると思いますが、HRRも全く同様、或いはそれ以上か
もしれません。我々も「エンクロージャー」と言う来賓席に入ったわけですが、
入場に際して服装規定があります。我々は三田漕艇倶楽部の濃紺のブレザージ
ャケットを着用しましたが、ズボンは白地を基調としなければならないとの規
則があります(また上着を脱いで歩くことは許されません)。
女性の場合にもドレスが膝下まであること、またズボン着用は禁止という規定
があります。これらは暗黙の規定で無く、案内状に明記されています。
2. 「エンクロージャー」と言う来賓席に入るには、その場で切符を買えばよ
いと言うような簡単なものではありません。日本を出発する3ヶ月も前から手
紙、e-mailなどでHRRの本部役員に申請して、ようやく許可されて手に入れた
ものです(有料)。たまたま三田漕艇倶楽部の恒遠顕現会長(26年OB)が
パイロット⑭の社長で、ヘンリーから近い町に英国法人があり、その方たちの
ご尽力もあって、ようやく手にした入場券(バッジ)でした。誰でも入れると
言うものではなく、いわばハイソサエティを対象にした英国の伝統的な階層社
会の姿を見せるものです。階層社会の是非論は本稿の目的ではありません。け
れども少なくとも単純な善玉・悪玉論は避けるべきだし、逆に内外を問わない
最近の社会規範の荒廃を見るとnoblesse obligeの意味を改めて考えさせられる
ものがあります。
3. 東京の隅田川での早慶ボートレースは、どこで見ようと勝手ですが、HR
Rはこれが厳重に規制されています。一般の人はどこで見るのだろうかと心配
になるほどで、恐らくレース後半のハイライトは、遠い位置からでしか見られ
ないと思います。
4. 会場施設は、すべてテントを張った架設建物ですが(大会本部とか艇庫は
恒久施設)、まず非常に大きな観戦用スタンドが何棟も準備されています。屋
根付、背もたれシート付の観客席ですから楽であり、またイングランド特有の
にわか雨(shower)が来ても心配がありません。大きなレストランが軒を並べ、
驚くなかれBarの出店まであります。制服に身を固めたブラスバンドが指揮者の
下、舞台の上でマーチや軽音楽を演奏しますが、曲目までが当日のプログラム
に詳細に掲載されています。そのほか多くの記念品売店(いわゆるHRRグッ
ズ)、みやげ物店があります。また、こうした大イベントで軽視されるトイレ
の問題ですが、大きく清潔なトイレ施設が用意されており混雑が全くありませ
ん。あれやこれや150年以上に及ぶ大会運営ノウハウの蓄積をうかがわせま
す。
5. 来場した観客の1/3位は観戦せずに、交歓の場をエンジョイしています、
確かに我々OBというのは自分の母校が出るレースは真剣に応援するが、他の
学校の勝ち負けには申し訳ないけれどもあまり関心はない。ましてや同伴の奥
様の場合は尚更ですから、友人知人と旧交を温めるのが大きな楽しみでありま
しょう。
6. こうして見ますと、日本との余りの格差に愕然とし、また驚きです。日本
でこうしたボートレースが開催されるのはいつの日になるのだろうか。緑に包
まれた美しい自然環境、資金、社会的認知度、そして伝統。どれをとってもた
め息が出ます。
7. 丁度ウインブルドンの開催と日程が重なっていましたが(いずれも7月7日
が決勝)、ホテルに帰ってTVのスポーツ番組を見ていると、テニスの方は事
細かに朝から夜まで報道しきりです。しかし、不思議なことにHRRのことは
一つも報道されない。なぜなのか? 我々のTVチャンネルの回し方が悪いの
かな? とも思ったが、そうでもなさそうだ。
そういえば会場でもTVカメラ用の足場などを一つも見かけなかった。と言う
ことから我々は次のように推測した、つまりHRRのプライドが、大衆迎合の
TV放映など無用とシャットアウトしたのではないか、と。案外これが正解の
ような気がしますが、この推測は誤りかもしれませんので情報通の方がいまし
たら教えて下さい。しかし新聞は別で、The Times紙上には詳細な解説記事が
連日写真入で大きく掲載されています。残念ながら日本の新聞では、ボート
記事などは小さくお義理のように出しているか、或いは全く無視しているの
とは大変な差である。
8. そして何よりも驚いたのは涼しさである。恥ずかしながら私は、ロンドン
がこんな北の位置にあるとは思わなかった。日本で言うと、樺太島の北半分に
ロンドンがあることを知ったのは驚きでした。旧日本領土境界線よりも北です。
とにかく涼しくて7月上旬と言うのに日本の晩秋と言う感じである。夜はおろ
か日中でも、上着に薄手のレインコートを羽織って歩いても、少しも暑くない。
こう見ると、亜熱帯を思わせる東京の炎天下でのネクタイ背広姿はまことに酷
としか言いようがない。日本のビジネスマンがこの苦行から解放される日が来
るのだろうか。
9. HRRを見に行く折角の機会だと言うので、イングランドからスコットラ
ンド地方を3泊4日のバスツアーで堪能した。ケンブリッジ大学やエジンバラ
などの古く美しい町々を数多く訪れた。現代文明とは無縁の名所旧跡ばかり選
んで見て歩いたものだから無理もないのだが、都市と都市の間に横たわるのは、
果てしなく続く平野とゆるやかな丘陵地帯の連続である。見えるのは緑の大地
と羊と牛のみで人影は全く見えない。「無人島みたいだね」と冗談を言ったく
らいである。山が多いわが国に比べると、その違いは大きい。
10. 次に「英国の料理はまずい」と定説のように言われているが、我々の感
想は「ホテルでの英国の朝食English Breakfastは本当に美味い」である。美味し
いベーコンやソーセージ、薄めにスライスしたトーストパン、小ぶりなトマト
などの野菜類、新鮮なミルクと紅茶、エトセトラ。これは結構な齢になりなが
らも いまだ食欲の衰えを知らない我ら体育会OBが味覚について寛容であるか
らだろう、と言う声があるかもしれません。しかし、かの文豪サマセット・モ
ームが「英国で良い食事をしようと思ったら、朝食を三度とれば良い」と言っ
ておりました。何やら ほめたのか、けなしたのか判断に迷う点もありますが、
朝食が美味しかったのは間違いない。何でも不味いと誤解されている英国食卓
の名誉のために、一言付け加えておきましょう。 嗚呼、小生もたった10日
間の旅行で、随分といっぱしの英国びいきになったものかな。
11. さて、旅も終わりに近づきHRRに行く前夜、ヘンリーに近いマーロー
橋のそばにある由緒正しき瀟洒なホテルThe Compleat Angler(see釣魚大全)に泊ま
ることになった。この日だけは張り込んだ高級ホテル宿泊である。前庭で佇ん
でいると、ボーイに荷物を持たせて令夫人が横を通り過ぎて行くのだが、何や
ら聞き覚えある特徴的な口調。すぐ思い出した、サッチャー元首相の声だと。
しかし残念ながら別人でしたというお笑いの一幕も。部屋に入ると支配人から
のプレゼントとして高級なシャンパンが氷で冷やしてテーブルの上にあった。
飲むべきか否か、飲んだら更に宿賃が上がるのではないかと、しがない議論を
したが、これは支配人からのプレゼントだから最初から勘定に入っているはず
であると判断。各自が部屋にあるシャンパンを持ち寄って一室に集合し、まず
は盛大に乾杯した。
トランクの底に残っていた鱈の干物や柿の種ピーナッツが酒の肴、なんと日本
的であることよ。さらに部屋にはCD装置があることを発見。実はそういう場
面もあろうかと、応援歌CDを私が密かに持って来ていた。そして「塾歌」を
聴いた。もちろん我々も静かな雰囲気のホテルで大声を出すような愚は避け、
全員耳を傾け、静かに口ずさんだのである。けだしテームズ河畔で音は小さく
とも、我が塾歌が流れた恐らく最初の瞬間だったろうと思う。楽しい夜だった。
いつの日か、我が慶応クルーがヘンリー・レガッタで優勝する日を夢見たい。
私事になりますが、今回のHRR参加に際し、同大会委員長への慶応端艇部か
らの心ばかりの記念品として端艇部創立100周年記念ネクタイと、会長なら
びに先輩諸氏からの指示で私が学生時代に翻訳したフェアバーン著「Rowing
Notes」を献呈いたしました。フェアバーンはケンブリッジ大学の漕手、コーチ
であり、ローイングのバイブル的な本でした(今年3月に改訳の手を入れ、
追加一編を新たに加えて完成。全100ページ余)。慶応三色旗を刷り込んだ英文
献辞の下に参加者全員がサインして献呈しました。私としては大変名誉な思い
出になり感謝しております。
最後に、9月15日(日曜)9時から、戸田コースで塾の「水上運動会」が開
かれます。今年は少し華やかさを加えて開催されるでしょう。慶応艇庫の対岸
の方が大会本部ですから、本部の方においで下さい。
学生諸君、OB諸先輩、ご父兄の方、お友達の方、皆様のご来場をお待ちして
おります。
笹田豊茂 1956年経済学部卒業。体育会端艇部OB:三田漕艇倶楽部会員。
⑭アンカー 代表取締役 t_sasada@kk-anchor.com
http://www.kk-anchor.com
星野 佳路さん (昭58経)にご寄稿をお願い致しました。
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『新別荘族のすすめ』 星野リゾート 星野佳路
「新幹線が軽井沢に来て日帰りが増えて困っている」という人が私の周辺にもい
るが、実際には、新幹線は観光需要にあまり影響を与えていないと私は考えてい
る。ツーリズム産業には3時間ルールというのがあり、交通インフラの整備で大
都市圏からの距離が3時間以内になると観光に大きな影響を与えるということで
あるが、このルールに従えば、もともと2時間で行けた軽井沢が、新幹線で1時
間になっても大きな影響はないということであり、実際その通りであったと考え
ている。日帰りも増えているがその傾向は以前からであり、かと言って宿泊が減
っているということも特には感じない。
しかし、新幹線の開通や高速道路の整備は、観光以外の面で大きなインパクトを
与えようとしている。それは軽井沢が通勤圏内に入ったからだ。新幹線開業時の
人口は約15000人程度であり、それ以前10年間で特に大きな増減がなかっ
たが、新幹線が開通し4年たった本年は17000人を超えてきている。星野エ
リアの周辺には以前より小池真理子さん、藤田宜永さん、内田康夫さん、高中正
義さん、そして玉置浩二さんなど、文人やアーティストが多く仕事をしながら生
活の拠点としているが、ここ4年ではビジネスマンが軽井沢に本宅を移し、東京
に毎日通う「新住民」と呼ばれる方々が増えている。私は、東京に出張にでかけ
る時に7:17分軽井沢駅発をよく利用するが、だいたいホームに立っているス
ーツ姿の面々は馴染みの顔である。
このような新住民の増加もあるが、実はそれよりも大きな変化があったのは、別
荘の利用の仕方であろう。今までは夏を中心に年に何回か利用するというパター
ンが主流であったが、東京の本宅と軽井沢の別荘を行き来しながら2重生活をす
る「新別荘族」が急増しているように感じる。星野エリアの周辺では、最近、東
京でビジネススクールを経営している方が別荘を建て、毎週末のように子供3人
とともに軽井沢の自然の中での生活を満喫している。
この新別荘族の特徴は、第1に別荘と本宅を頻繁に行き来し、別荘の利用が過去
と比較にならないほど多いことである。第2は、年間通して利用する傾向にある
ことだ。過去の軽井沢は夏のイメージが中心であったが、新別荘族は冬を含めて
四季を通して利用し、むしろその変化を季節ごとに楽しんでいる。第3は仕事を
引退した後に別荘ライフを始めるのではなく、仕事は現役、そして子育ての真最
中にファミリーにとってのライフスタイルとして軽井沢を選択している点だ。彼
等は東京が提供できるものと軽井沢が提供できるものをしっかりと区別し、その
両方を普段の生活の中に自然に取り込んでいるのである。
これからの別荘ライフは、単なる避暑ではなく「自然の中での生活が与えてくれ
る効能の享受」という方向に変わっていくと感じている。その機能は、都会では
得ることができない十分なスペース、別荘を取り囲む豊かな自然、そしてそれら
がもたらす癒しの機能なのであり、軽井沢と東京の2重生活は、日本におけるホ
リスティックなライフスタイルの実現なのである。
星野リゾートでは、こういう将来ビジョンに向かって新しい提案を始めている。
それは年間通して別荘を機能的に利用していただくためのお手伝いだ。避暑で
3週間程度滞在することだけを想定していた別荘とは異なり、年間利用の場合
にはある程度の都会的な利便性が重要になる。別荘における情報インフラも重
要だ。ある程度の仕事が別荘でできてしまえば東京に通勤しなくて良い日が増
えるであろう。別荘の掃除や食事の宅配などの機能も必要であろう。そして、
レストランでの食事などもいわゆる観光地価格ではなく、日常的な価格で質の
高い内容が要求されてくる。星野リゾートではこういう新別荘を企画する部門
を数年前に立ち上げ、これをSOBO(SmallOffice 別荘 Office)と名付け
た。新別荘族候補に立候補を考えている諸君は、是非ご連絡をいただきたい。
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星野佳路さんは「星野リゾート」社長、弟さん星野 究道さん(昭61経)と
共に経営しておられます。ホームページにお立寄りください。
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田中 浩さん(昭63文学部心理学専攻)にご寄稿をお願い致しました。
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『不真面目のススメ』
インターネット三田会の皆様、私は昭和63年文学部卒の田中浩と申します。
卒後は精神科単科の病院や女子短大の学生相談室等に勤務しておりました。
また、インターネット三田会では会員交流掲示板を運営させていただいており
ます。(みなさんの書き込みをお待ちしております。)
以前から、小野様よりリレーメッセージの依頼を頂いておりましたが、あれ
やこれやと理由をつけては、先延ばしにしておりました。今回も、お引き受け
した後で、何を書けばよいのか随分悩みましたが、結局、自分が一番関心のあ
ることがいいだろうと思い、メンタルヘルスについて、というか、その周辺に
関することを、若干書かせて頂こうと思います。
不真面目(非 生真面目)の奨め
一般に真面目というと よいイメージばかりだと思いますが、ここでは、
真面目、特に生真面目のもたらす心の弊害について書いてみようと思います。
なお、これらはあくまでも、可能性、私見、等のレベルであり、当然ながら
(表題のとおり?)あまりまじめなものではありません。参考程度に留めて
おいてください。
1、鬱、そして、自殺
★自殺者が4年連続3万人台 「負債・失業」は最多
・昨年1年間の自殺者は前年に比べ2・9%減の3万1042人で、
4年連続して3万人を超えたことが24日、警察庁のまとめで分か
った。負債や失業など「経済・生活問題」による自殺は過去最多と
なるなど、依然、リストラや景気の深刻な状態がうかがえる。
これは三大新聞のうちのひとつよりの抜粋です。例年自殺者は、平均交通
事故の3倍程度と言われていますが、この数年、異変がおきています。自殺
をする一番の理由は、鬱です。生真面目な人は鬱になりやすく、遊びが下手
でストレスを発散できないといわれています。不景気続きでリストラがはや
り、人員削減で一人当たりの仕事量が増加、疲労の蓄積、休むに休めず、、、
、休んでいては今度は自分がリストラの対象になってしまう、、、、そんな
悪循環がどんどん鬱状態の人を増加させています。
未成熟な人間の特徴は、
ことにあたって高貴な死を選ぼうとする点にある。
これに反して成熟した人間の特徴は、
ことにあたって卑屈な生を選ぼうとする点にある。
(J.Dサリンジャー ライ麦畑でつかまえて 野崎孝 訳 白水社 より)
生真面目に生きて自殺してしまうより、ある程度不真面目に生きて、ふて
ぶてしくいきましょう。 切り替えさへ上手にこなせれば、うまくいくはず
です。 そこが難しいと言われそうですが、その考え方自体が生真面目!
だめならだめで、再度チャレンジ! さあ 何度でも 必要に応じて頭を
不真面目モードに切り替えましょう。
2、心疾患と痴呆、そしてまじめさ
心筋梗塞や狭心症といわれる虚血精神疾患などは、几帳面、仕事一本槍な
人や、挑戦的な性格の人に多いといわれています。
これらの疾患の後遺症として、半身不随や痴呆があります。それまでいろ
いろなことを几帳面にこなしてきた人が半身不随になり、体の自由が効かな
くなると かなりのストレスを感じて、一層の悪循環におちいりがちです。
一方、血管障害によって脳の一部が壊死し、痴呆がでてくることもありま
す。一般に、ぼけると、それまでの性格が一層強く現れるようになるといわ
れています。つまり、真面目な人は一層まじめに、頑固な人はより頑固にと
いうわけです。(もちろん例外もあり、まったく逆のパターンを示す人も結
構おられるようですが。)
物事にこだわってしまう人(粘着質=ある意味まじめ)程ぼけやすいとい
う研究結果もあります。
老後の生活を考えてみても、社交的で人付き合いのよい人ほど刺激の多い
生活になるのでしょうか、老後も活発に生活しており、ぼける傾向はすくな
いらしいです。適度な好奇心もよいことだと思います。生涯学習が盛んな今
日、学問のススメではないですが、いろんなことに関心を持ち、学んでいく
こともいいかと思います。ただし、うまくいかなくても「あーだめだ 頭が
老化してる」などと決して悲観的に考えず、ここでも、軽く考えて、多少不
真面目、不謹慎なくらいに、「歳なんだから、すんなりいかなくて当然」く
らいにふてぶてしく?とらえるといいかと思います。
几帳面できちんとしていることは、健康な頃はいいかもしれないですが長
い目で見ると(人の性格など、特に生活パターンは 一朝一夕に変えられる
ものではない)決していいことだけではありません。それなりの大雑把さや
おおらかさ、人にも「ハンドルの遊び」のようなものが必要なのです。
この時期 暑くて熱くて大変ですが、熱中症にかかりやすい人の条件の
ひとつとして、
性格的に、我慢強い、まじめな者など「熱中しやすいひと」
というのがあります。 サボり気味くらいでちょうどいいのかもしれま
せん。
このメッセージに書かれたことも あまり気にせず軽く考え、深刻になら
ずに、肩の力を抜いて、、、根性だとか、精神論はいまどきはやりません
生真面目は不真面目(怠惰)に似たり
というのが最近の私の生き方です。休むに似たりな安直なものですが、み
なさまのご参考になれば幸です。
今月は、北御門 強さん(s59政)にご寄稿をお願い致しました。
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インターネット三田会の皆さん、こんにちは。
私は昭和59年(1984年)(政)卒の北御門と申します。卒業後は、米国系
コンピュータ会社の日本ユニシスで、I.Tスペシャリストを目指し14年在籍し
ました。
1989年にポーランド人と結婚した関係で、98年に日本精工(NSK)が
ポーランドのベアリング会社を買収したのを契機に、I.T Project担当として英
国にある欧州NSKに転職しました。そこからポーランドに派遣される形で現在
に至っております。この6月でポーランド滞在まる4年になります。会社はワ
ルシャワから南へ170KmのKielceという地方都市にあります。10分の徒歩
通勤なので「朝干した布団を、昼休みに裏返す」という芸当もできます。
(こんなことで威張ってどうすんの!!)
さて、今回はポーランドの生活で感じたこと、欧州旅行を通しての日本人と
してのIdentity、Internetの効用について、思いつくまま書かせて頂きます。
■ポーランド人は親日的?
ポーランドは一般的日本人から見れば、まだまだ地理的にも精神的にも遠い
国でしょう。歴史的にはコペルニクス、キュリー夫人、ショパン、現在ではロ
ーマカトリック法王ヨハネパウロ2世、ノーベル平和賞受賞者であるワレサ前
大統領、アンジェイワイダ監督、最近ではスキージャンプのアダム マーウェ
シが国民的ヒーローですね。
ポーランド人は概して、日本人に対して好意的です。年配者でしたらロシア
嫌いのため、「ロシアを負かした国」であること、また一般的には、Sony/
Panasonic等の高品質な精密機械、エレクトロニクス、故障の無いToyota/Honda
等の自動車等、日本製品のイメージは大変良く、「知的で働き者で金持ち」と
いうステレオタイプ化されたイメージが浸透しているようです。
ワレサ大統領時代も「第二の日本を目指す」という言葉もよく聞かれました。
良し悪しは別にして、同じアジア人でも「日本人」だと分かると、態度も友好
的になります。私の場合も、電車では子供、学生からご年配者まで良く話しか
けられて、日本の話をすると盛り上がり、最近では楽しみの一つになっていま
す。時にはあまり日本の良いことばかり言うので、「実際に見たらがっかりす
るかもよ」といろいろな問題点に触れることも少なくありません。
しかし実際に空手、柔道、合気道等の日本武道も盛んですし、最近見た国立
オペラハウスでの「蝶々夫人」では最近の日本舞踊も取り入れらる等、とても
勉強熱心です。
テレビで放映される日本関連番組も、鳥や自然の生態系を写真で撮りつづけ
るカメラマン、チンパンジーのアイの特集、ポーランド版おかあさんといっし
ょでは、NHK作成の人形劇等が紹介されています。2,3数年前、英国で見た
BBCの日本特集が、未だにヤクザ社会とか宝塚とか特異な日本をおもしろおか
しく紹介していたのと比較しますと、むしろより客観的に日本の文化の紹介に
取り組んでいる印象を受けます。
■ポーランドの負の遺産−共産主義精神は未だ健在
しかし、役所や切符売り場等の公的機関の窓口とか、昔からある店では「お
客の扱い」が共産主義時代と変わっておらず、「なんで客の私が、こんな目に
あうの!」と思わされることもよくあります。初めての旅行者は、彼等の態度
の悪さに驚かれると思いますので、その点はお覚悟を。
今、4年前に購入したワルシャワ郊外の森林地帯の中にある土地に家を建て
ています。自分が立てたいように自由にデザインして、それを少しずつ具現化
していく、というそのプロセス自体が楽しいですね。多くのポーランド人は何
年もかけて自分の手で作業をしますが、それが、月給3000ズロチ(10万
円前後)でやりくりしているんですね。
「この冬はドアをつけよう」とか「来年は床を貼ろう」とった感じです。
また、こちらの人はよく家族や夫婦で散歩します。「お金を使わないで人生
を楽しむ」という点においては、ポーランド人から学ぶものは多いと思います。
しかし、同時に役人からのいろいろな規制や要求には悩ませられました。
道路まで来ていた公の水道と、家の水道パイプとつなげるのに1年以上かかり
ました。
個人の家一件建てるのにも橋を建築するとの同様の手続きが求められたから
です。例えばワルシャワ都市開発担当12人のサインが必要で、その後に区役
所に持っていきます。役人は粗探しをするのが仕事だと認識している人が多く、
細かなことで簡単につき返してきます。「来週来い」とか「来週は自分が入院
するから3週間後に来い」等等。そうすると、またはじめからやり直しです。
木を切るのも一本一本チェックし、そのプロセスで賄賂を期待している人も
います。あんまり酷いので、「官僚組織は自分達の存在のためにある。ただ威
張るだけ、国民の生活を良くするためにはぜんぜん機能していない、経済発展
の邪魔。いっそのこと、役所を、コンビニしてしまったらどうか、」と思う今
日この頃ですが、最近の日本のニュースを聞く限り、あまりよそのことは言え
ないですね。
■ポーランドを拠点とした欧州旅行、そして日本人としてのIdentity
ポーランドに来て一番満足しているのは、「ワルシャワを基点とした欧州旅
行」がおもしろいこと。それも前もって歴史を勉強していくと10倍は楽しめ
ますね。99年は車でドイツを横断し、フランスのロアール川流域のシャトー
巡り(親戚宅に一週間滞在)、大西洋岸Nantes、モンサンミッシェル、そして
帰りはベルギーで結婚十周年の指輪を買い、オランダ、再度ドイツ(友人宅)
経由でポーランドへ戻りました。計5000キロを越すドライブでした。
2000年は、ブルガリア人の友人の地元である黒海沿岸の街バルナに飛行
機で飛んで2週間滞在しました。自家製トマトがうまかった・・・。地図を広
げて周辺を見ると、黒海対岸(勿論見えませんが)は聖書の舞台となったトル
コ、ギリシア方面ではテサロニケ、隣はアレキサンダー大王のマケドニア等々、
歴史ファンとしてはゾクゾクしてきます。ソフィアで地下鉄工事をすると、未
だに2,3世紀のローマ帝国ゆかりの遺跡がボロボロと出てきます。また掘り
出し物を求めて、アメリカ人やドイツ人がよく発掘に来るそうです。タクシー
の運チャンも「昔俺もそれをやっておまわりさんにつかまっちゃった。次回は
日本製の良い金属探知機を手に入れて金儲けしたいね。」なんて調子です。
2001年は、車でチェコ、オーストリア、スロベニア経由でクロアチアへ、
南のドゥブロブニクまで行き、カーフェリーを使いながら北上しイストリアへ、
そしてベニス。帰路はオーストリアのザルツカンマーグートのルートからザル
ツブルグに入り、最後はミュンヘンからアウトバーンに乗り、ドレスデン周り
でボーランドのブロツワフへ帰る、という4500Kmのドライブでした。
アウトバーンでは150Km近く出しているのに後ろのBMWから、「チカチ
カッ=遅いやつはドケ」 とやられてあせりました。とにかくクロアチアの海
岸線や島々、特に南部は海が綺麗で、2,30mの底まで透き通って見えます。
この国がディオクレティアヌス帝等のローマ帝国の舞台となった場所であるこ
とも意外と知られていないようです。多くの遺跡が戦争で破壊され、沢山の銃
弾の跡(穴)があちこちの遺跡に見られたのが痛々しい限りでした。それがた
った数年前の最近のことなんですね。
ウクライナのルブフへの小旅行も印象的でした。ポーランドの平均給与は
600USD前後、安い人(警察官や先生、看護婦さん等)はその半分くらいに
なります。ウクライナはそのまた、半分から1/3くらいですので、ポーラン
ド人が金持ちに見えました。失業率は裕に50%は超え、多くのウクライナ人
が失業率20%近くのポーランドへ出稼ぎや貿易で流れていますが、厳しい状
況の中、何とか生きていこうとするたくましさも感じられます。 日本経済が
今厳しいとは言っても、まだまだぬるま湯なのかもしれません。
今はまだ行っていない、スペイン−ポルトガル、ギリシャ、トルコ、北アフ
リカ等のルートの計画を練っている最中です。
ポーランド滞在も含めて、こうした海外旅行をしていて、痛感することは、
「日本の良さ、美しさ」「世界の中での国力」の再認識です。もちろん悪い面
もありますが、それに関しては多くの書籍や雑誌で指摘されていますので、敢
えて省略します。
自然環境にしても、英国ではウェールズ以外の海岸線やドイツの自然が意外
とつまらなく単調だったりすると、「海、川、山、海岸線で溢れている日本は、
実は多彩で美しい国である」という側面を再認識させられます。
同じような境遇で、同じように感じられている方も多いと思いますが、国外
に出て、日本人であることで恥ずかしい思いをしたことはありません。むしろ
「一目置かれている」感じです。もちろん、出会う人たちとの誠意ある会話が
大前提となりますが。
また、不運な歴史から国として機能してこなかった過去のつけが現国民にの
しかかっている国々を訪れる度に、福沢先生を始めとする明治初期の指導者や、
戦後復興時、日本の経済基盤を築き上げられた諸先輩の方々への感謝の念は、
抑えることができません。
また、今でも受け継がれている、「無闇に争いごとを好まない和を尊ぶ精神」
「相手(人)の立場にたって考えようとする道徳」「学ぶ謙虚な精神」等は世
界では当たり前ではなく、日本的美徳であり、今後も日本人として、世界の中
でリーダーシップをとって大切にしていきたいと思います。
■Internetの威力と大学OBネットワークの大切さを痛感
最後に、情報処理技術者の一人として。
海外生活が長期化して日々実感しているのが「Internetの威力」です。
10年前なら、米国に3週間出張しただけでも「浦島太郎」状態でした。
いまや、ポーランドの田舎都市に居ても、主要氏のニュースはもとより、ラジ
オのトーク番組も聞けますしね。書籍も紀伊国屋のインターネット書店を利用
すれば、1週間で手元につきます。但し本代と同額以上の送料がかかりますが、
書籍の場合は納得できる投資です。その内Book用両面印刷プリンターが発達す
れば、注文者の場所で本にする、というパターンも出てくるでしょう。また時
には九州の実家にいる父親や親戚の叔父叔母に対して、Polandの田舎都市にい
る私から、「今そちらの市役所で、こんなイベントやってるから言ってみたら
?」なんてアドバイスをすることもあります。
反面、これだけ技術が進歩しながら、自分の見たいテレビ番組がみられない、
という不満もあります。JSTVはNHK主体の番組編成だったり、スポーツの肝
心なシーンで、放映権の理由から静止画になったりするので、今ひとつ設置に
踏み切れません。早く、ブロードバンド環境で、ビデオオンデマンド操作によ
り、自分の好きな番組をダウンロードして、見た分だけカードで決済されるシ
ステムが、こちらまで浸透することを期待している次第です。
今月は、澤崎 至さん(昭47法)にご寄稿をお願い致しました。
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「私とジャズと慶応義塾」昭和47年法学部法律学科卒業 澤崎 至
私は、昭和41年慶応義塾大学法学部法律学科に入学、昭和47年に卒業しま
した。皆さんすぐお判りのように塾には6年在学していたのです。それは何故か
って?そうです、在学中は明けても暮れてもジャズの演奏に没頭していたからな
のです。現在では、中堅流通業の役員を経て公認会計士とともに大阪にて経営コ
ンサルタント業を営んでおります。
私が音楽活動の一歩を踏み出したのは、中学一年生の頃親から買ってもらった
アコースティックギターを手にしたときから。当時、エレキギターはまだ全盛で
はなく、ラジオで流れているポールアンカやエルビスプレスリーなどのロカビリ
ーなどをよく聴いていました。ポップスのためのギター教則本なども現在のよう
にまともなものもなく、カルカッシギターの教則本を頼りに、なんと古賀メロデ
ィーを弾いていたのです。高校入学と同時に友人の影響で一転クラシック少年に。
本当はオーボエかフルートをやりたかったのですが新設校には吹奏楽団は無くや
むなく混声四部合唱団に参加していました。
そんな私でしたが、大人っぽいジャズの響きに都会的なかっこよさを感じてお
り、多くのクラシックレコードに交じって初めて買ったのが全盛期のアートブレ
ーキーとジャズメッセンジャーズの「モ−ニン」でした。
はじめてドラムを叩く
大学入学後、初めてドラムに触れたのがなんとプロのバンドのテストでした。
信じられないことだと思われるでしょうが事実なのです。当時、おとなの遊びを
教えてくれた高校の先輩が早稲田の法学部におり、自由が丘の深夜喫茶でアルバ
イトをいっしょにすることになったのです。ろくにお客の来ない暇なお店でした
ので、よくカンターで長いスプーンとマドラーをもってBGMに合わせリズムを
とってカタカタとっていました。するとカウンター内にいたチーフに、「おまえ
ドラムできるの」と問いかけられ「いや、やったこと無いです、でもあんなの出
来るんじゃないですか」と思わず生意気にも応えてしまったのです。するとその
チーフが「新宿のキングというキャバレーでドラマ−を探しているけどテスト受
けてみない」。私、「でも触ったこともないし」。チーフ、「触れるだけでもい
いじゃん」。私は生来、楽観的というか、無鉄砲というか、向う見ずというか、
とにかくそういう人間でしたので「それもそうだな」と大胆不適にもテストを受
けに行ったのです。
湿った狭く薄暗い通路の先にあるステージの袖でしばらく見ていた後、バンマ
スの「ちょっと演ってみて」言葉に勢いを付けられて生まれて初めてスティック
を握ったのでした、しかもキャバレーのステージとはいえプロのバンドの本番中
に。
ステージが終わって「あそこ合わなかったし、あれはどうやるんだったか」と
内心びくびくしていた私に、控え室に引き上げてきたバンマスから思いもかけぬ
「じゃあ、何日からきてくれるかなあ」の言にびっくり仰天。でも生来の無鉄砲
精神からなんとかなるかと「じゃあ来月の初めから」と応えてしまったのです。
しかし、来月からとは言ったものの、それこそ今まで叩いたことがあるのは、祭り
の太鼓のまねごとだけ、リズムのパターンも何も知らないわけですから、急遽ロ
ックバンドをやっていたことがあるらしいことを聞きつけて、これも早稲田の友
人(アイスホッケー部!)にコーチをお願いしたのです。いまや、コクヨオフィ
スシステムの副社長を務める黒田國雄君を無理やりその店に呼んで、忙しく開店
前の掃除をしているボーイさん達の前で遠慮しいしいロックンロールの基本パタ
ーンを伝授してもらったのでした。
結局、そのバンドではほとんど歌謡曲とダンス音楽が中心であり私の志向する音
楽とは異ったため一月半ほどお世話になって辞めてしまいました。
昭和41年の秋でした。日本がまだ押せ押せの高度成長期にあってバンドも払底
しており、とにかく音が出てれば結構仕事になった頃の平和な物語でした。
大学のジャズバンド
わずかな期間でしたが、ドラムスに触れた経験から塾内に目を転じてみると大
勢の学生バンドがありました。そこで、熱心に勧誘をしていたKDJC(Keio
Dixieland Jazz Club)に加わりました。そのバンドではラッキーなことにドラマ
ーが欠員ですぐにレギュラーの座を与えられたのです。このバンドは名前のとお
りニューオリンズから発生した土臭い南部のトラディショナルジャズをもっぱら
演奏していました。しかし私はもともとスマートなモダンジャズ志向でしたので
トラディショナルジャズ一辺倒のKDJCには結局ついていけずここも一年参加
したのみで退部してしまったのでした。KDJCそのものは、十年位前にメンバ
ーの不足から塾内でのクラブは癈部となってしまいましたが、OB・OG会が残
っており、活発な演奏活動を今も続けています。このときのメンバーには六年程
前から交流が再開し現在も親しくさせていただいています。このKDJCには、
「あんたも発展途上人」などの名コピーを産みだ出し、コピーライターのいまや
大家となった真木準がトロンボーンで在団cしており、はにかみ屋の無口な青年だ
った当時桙フ彼の姿を懐かしく思い出します。
(KDJCのホームぺージ)
そしてKMPへ
KDJCを退部したあと、幸か不幸か二年生をもう一度(結局はあともう一回)
やることとなってしまい、改めて本格的に取り組めるバンドに入ろうと決心しま
した。二回目の二年生オリエンテーションで様々なクラブが勧誘する中、目にと
まったのがKMP(Keio Music Players )New Sound Orchestraでした。KM
Pが演奏していたのは当時のモダンジャズの大ヒット曲でジャズロックの走りだ
った「カミングホームベービー」でした。その垢抜けたサウンドもさることなが
ら、ネクタイをびしっと締めたスーツ姿のユニフォームのかっこ良さに大阪の田
舎高校出身の私はたちまち魅せられ一も二も無く入部を決めたのでした。そのバ
ンドには、リードアルトサキソフォンに、後年モダンジャズ界の重鎮と称される
山口真文氏(昭44政治卒)が在団され、温和な人柄ながらも厳しい指導をされて
いた記憶があります。(山口氏のホームページ)
このKMPはまだ創立されてから7年(「昭和35年創立」)と歴史が浅く、
新しい息吹に充ちておりました。一方、塾内には学生バンド最古参と言われた
「慶応ライトミュージックソサエティ」が存在し、お互いによきライバルとし
て競い合ったものでした。ある早稲田のバンドOBは「慶応は凄いよな、早稲田
の半分の学生数で二つの優勝を狙える水準のオーケストラがあるんだから、4倍
の差だもの」と言っていたのが印象的でした。当時のメンバーには塾の情報誌
「三田評論」2001年11月号に「JAZZが止まらない!」で閑談している赤坂
のジャズバー「リトルマニュエラ」のオーナーピアニストの中田光雄(昭45年
政治卒)も在団しておりました。
KMPの活動
KMPは、毎年12月に行われる年一回のリサイタルが最大の行事であり、その行
事成功のための練習そして夏・秋の合宿、リサイタル資金獲得のために塾内外の
クラブの主宰する演奏会やパーティへの出演等が大きな活動の柱となっていまし
た。夏には「ビータ」と称する各地の学生慶応会が開くコンサートへ二週間ほど
の演奏旅行に出かけ、一分間の乗換えのため駅のホームを重いドラムのケースを
抱え汗まみれになりながらあわただしく走りまわったこともありました。現在で
はほとんど行われないようですが、当時の春と秋のダンスパーティシーズンには
ほとんど毎週のようにホテルニューオータニや目黒パークレーンなどに出演して
いました。ちなみに、私の妻と始めて出合ったのも昭和44年12月の赤坂プリン
スホテルでの慶応のゴルフ部主催のパーティだったのです。また、大橋巨泉司会
のTBSのラジオ番組「大学対抗バンド合戦」での優勝めがけての活動、関東六
大学ビッグバンド連盟のコンサートへの出演、「三田祭」慶早戦前夜祭の「ラリ
ー」への出演とスケジュールがひっきりなしに続いていました。
そのKMPもメンバー不足のため一時癈部の危機がありましたが、先輩諸氏の
助言や援助により、塾公�Fの文化団体連盟所属の創立42年を迎える堂々たるクラ
ブに成長しております。
(KMPのホームページ)
慶応義塾出身のジャズミュージシャン
ここで慶応義塾出身のジャズミュージシャンに触れてみたいと思います。
慶応義塾の出身者は、政界・経済界・文学界・医学界等々で目覚しい活動をさ
れていますが、ジャズ界においても大きな足跡を残しています。伝統的に慶応出
身のジャズミュージシャンにはピアニストが多いようです。
ここではジャズピアニストに絞って少し詳しく述べてみます。
まず第一に取り上げなければならないのは、日本にバップスタイルのピアニスト
としてアメリカよりも早くそのスタイルを完成させたとされる伝説のピアニスト
といわれた故守安祥太郎氏(昭21年経卒)です。私は、故守安氏については全く
歴史上の人物としてしか判りませんが、その突出した先駆性は多くの人の言い伝
えとなっております。不幸にも昭和30年自死されたのでした。詳しくは、植田紗
加栄著「そして、風が走りぬけて行った・天才ジャズピアニスト守安祥太郎の生
涯」講談社1997年刊をご参照ください。
次に、もはや巨匠といっても差し支えが無いと思われる佐藤允彦氏(昭39年経)
はジャズ界のみならずクラシックにも影響を与えジャンルを超えた活動されてい
ます。また、ルパン三世などの映画音楽などで活躍され現在は自己のトリオを率
いて再びジャズ演奏を盛んにされている大野雄二氏(昭39年政卒)も挙げておか
なければならないと思います。
さらに昨年急逝された故鈴木宏昌氏(昭37年経卒)は、コルゲンさんの愛称
を持ち日本を代表するトランペッターとなったデビュー当時の日野皓正バンドの
ピアニストとして活躍をされていました。後にザ・プレイヤーズを結成、タモリ
の「今夜は最高」などTVにライブに元気に活躍されていました。私は、鈴木氏
とは親しくお話を交わすといったことはほとんどありませんでしたが、卒業後あ
る北欧系のアパレルブランドのファッションショーを手伝ったことがあり、その
際鈴木宏昌トリオに赤坂のクラブでの演奏をお願いしたことがあります。鈴木氏
にお願いしたのはショーの雰囲気に合わせ自由にスタンダードを演奏していただ
くことでした。趣旨を的確につかんでいただいた鈴木氏は、北欧の香りを漂わせ
る透明感のある演奏をして大いにショーを成功に導いていただいた記憶がありま
す。
5年ほど前青山のライブハウスに、前述の山口真文さんのテナーサックスとベ
ース・ドラムスの鈴木宏昌クァルテットの演奏を聴きに行ったことがあります。
魂の全てを燃焼し尽くすような演奏を目の当たりに見て、こんな演奏をしつづけ
ればジャズミュージシャンと言う人たちは長生きできないんじゃないかと、妙に
真剣に思った経験があります。
佐藤允彦氏のホームページにその鈴木氏との交流をつづったエッセイが載って
います。このエッセイを読むと塾の先輩後輩という暖かいつながりの中�ナ互いに
尊敬し高めあっている様子や素晴らしいお仲間との交流が良く判ります。
(佐藤氏のホームページ)
佐藤氏がプロデュースした鈴木氏のピアノソロアルバム「WITH MY WHOLE
HEART」(1996年)日本クラウン発売、特に和音の展開など偉才を発揮された
傑出したソロアルバムです。
テナーサックスの山口真文氏は最新作にはCD「INVITATION」スキップレコ
ード発売(1998年)、がありスタンダード中心の密度の濃い演奏が楽しめる作
品です。
日本のジャズドラマーの草分けであり、後に性格俳優として名をなし、晩年は
大阪芸術大学の教授となられた故フランキー堺氏(昭年26年卒)はじめ。管楽器
奏者としては、ジャズクラリネットの北村英治(昭和28年卒)氏がテディウイ
ルソン等海外のミュージシャンとのレコーディングを何度も行うなど、世界の
EIJI KITAMURAとして100枚を超えるアルバムを発表されています。また
西条孝之助氏(昭29年卒)は、ウエストコーストスタイルのバンドを結成・活躍
の後、現在ではよくNHKの番組などで前田憲男氏の率いるオーケストラ・
ウインドブレーカーズにてスタンゲッツを髣髴とさせる流麗なソロを披露されて
います。また関西で活躍されておられるヴィブラホーンの第一人者である鍋島直
昶氏(ジャズボーカルの大ベテランの笈田敏夫氏と同期)も現在76歳のご高齢
ながら今年も新作CDを発表の準備をされるなど元気に活躍されています。
以上私がざっと知りうるだけ(諸先輩とその周辺のみ・詳しくはありませんが
若い世代にも優秀なミュージシャンがいます)でも多くのミュージシャンがおり、
他にもレーシングドライバーとしても有名であった作・編曲家でピアニストの故
三保啓太郎氏、ジャズ評論家に大御所の故油井正一氏、私たちもライブをやらせ
ていただくなどたいへんお世話になった評論家で自由が丘「5スポット」のオー
ナーだった故いソノ・てルヲ氏、ジャズ評論家であると同時にジャズを現場で支
えるライブハウスやジャズ喫茶の経営でも多くの人に影響を与えた吉祥寺
「Funky」の故野口伊織氏や、現在も四谷で「イーグル」を経営されている後藤
雅洋氏など多士済済、「慶応とジャズ」というだけで優に数冊の本が出来てしま
うくらいです。
再開したバンド活動
昭和47年に大学を卒業後、しばらくはプレ戟[ヤーとしてトジャズからは遠ざかっ
ておりましたが、昭和60年現在も所属しているBJO(Bluesinユ Jazz Orchestra)
の創設に参加音楽活動を再開しました。現在は第五代目のバンドマスターをして
います。
このバンドは関西在住の社会人からなり、女性三名を含む17人のフルバンド
編成となっています。このバンドには慶応OBが私を含めて4人在団しておりま
す。スケジュール調整の難しさや転勤に伴うメンバーの欠員等々仕事をもつ社会
人バンドならではの苦労がありますが、週末三々五々と楽器を持つ20代から60
代のメンバーが現われ一つ一つの曲を仕上げていく喜びには、仕事の疲れや生活
のストレスも吹っ飛び、なにものにも変えることは出来ません。カウントベーシ
ーのビッグバンド曲や比較的スタンダードなものを教育委マ員会の主催のコンサー
トやライブハウスそしオてパーティなどで演奏しております。
(BJOのホームページ)
KOPの結成
また、一昨年の2000年には、ミレニアム関西合同三田会の開催の際、念願
の関西在住者からなる慶応卒業生によるバンドを結成、デビューすることが出来
ました。バンド名はKOP(Keio Old Persons)Super Band(OB・BANDとし
なかった理由はお判りですね)と名づけました。もはやインターネット三田会で
もおなじみとなった、小川理子さん(昭61理工卒)のボーカルとピアノをフィチ
ヤ−リングしたスタンダードジャズバンドです。アルトサックス・テナーサック
ス・トロンボーン・ヴィブラホーン・ピアノ・ベース・ドラムス正式メンバー7
人編成、内訳はKMP・OB二人、ライト・OB三人、他バンドOB二人となっ
ています。関西合同三田会の後、たいへん評判がよく、あちこちのライブハウス
から声がかかり活動を進めようとしていた矢先、小川さんはじめメンバーの約半
数が転勤、小川さんの帰阪スケジュールに従ってライブハウス、三田会催し等で
不定期に活動をしています。
好きでありつづけること
思い返せば、ドラムスのスティックを握ってからブランクはあったものの36年。
よくまあ続いてきたものだと思います。この年齢(現在55歳)になるとよく人に
「楽器が弾けるって素晴らしいですね」と言われます。「いやでも若い頃は先輩
に怒鳴られたり、自分の才能の無さにがっかりするなど、ずいぶんつらいことも
あったんですよ」とはいいますが、実際私自身音楽を続けられる喜びを日々感じ
ております。
こうした趣味を一貫して持ちつづけることの出来ることの喜び、何故自分がこ
うした趣味を持ちつづけることが出来るのか、今まで当然のこととして深く考え
ることもなかったのですが、最近次の言葉を聞いてたいへん納得しています。
大リーグへ渡ったイチロー選手が少し前ある証券会社のコマーシャルの中で語っ
ていた言葉です。
「今、自分がやっていること...が好きであるかどうか、それさえあれば、自
分を磨こうとするし、常にこう前を進もうとする、自分がいるはずなんですよね。
」 ジャズが、音楽が大好きなのです。なんといわれようと好きなものは好きな
のですね。好きでありつづけることの大切さ、素晴らしさを実感しております。
無論、家族も好き。研究したり、ものを書いたり、人と話したりすることが好き
だから仕事も好き。人生にとって最も大切なことは「好きなことを見つける」
「好きでありつづける」ことではないかと痛感しております。
これからもこの言葉を胸に、勝手きままな人生を支えてくれた妻や家族そして素
晴らしい友人や仲間たちを�蜷リに、仕事にも音楽活動にも精一杯t取り組んでいき
たいと思っております。
以上
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澤崎 至さんご多用の中のご寄稿を有難うございました。
当会サイト「趣味・道ケ楽/ジャズ」のライブハウス紹介の関西情報は、
澤崎さんにご提供頂いております。
今月は、掛田 成徳さん(平4政)にご寄稿をお願い致しました。
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「日本ブランド」を育もう
早速ですが、中小企業とは資本金1億円未満の企業のことをいうそうです。
個人事業の形態で、全社員数は社長を入れて14人というわが社は、中小企業と
いうより零細企業と呼んだ方がいいかもしれません。ある一つの零細企業から
見た自社とそれを取り巻く環境についての思いを書いてみたいと思います。
零細企業として、小さくても意地はあります。誇りもあります。その根拠に
は長年貫き通してきた会社としても信念があります。
ここでまず、そんなわが社の紹介をさせていただきたく思います。わが社は
日本軽電機製作所といい、東京都府中市で電源機器の設計・生産・販売を業と
しています。自社ブランド“AUTO STAC”を冠した独自の製品を、独自の販
売ルートで販売しています。主力製品は「自動電圧安定器」というもので、商
品の性質上、製品を100%輸出しています。それも90%は商社を介さない外国
企業との直接取引です。東南アジアや中近東においてはわが社のブランドは広
く知られ、市場をほぼ独占している国もあります。零細企業でもここまでやっ
ています。自社ブランド製品を自社で直接販売していく、これはひとつの誇り
です。
偉そうなことを書いたかも知れませんが、実は私自身この会社に入社したの
は昨年の6月でした。わが社は電子部品のトランスメーカーとして、今から42
年前に現在も社長の父が創業しました。電機業界では創業30年で老舗と言われ
るそうですが、その点ではわが社も老舗の部類に入ります。そんな父と叔父た
ちファミリーで経営するこの会社に私は入社しました。というより、感覚的に
は帰ってきたというほうがぴったり来ます。私は生まれた時から工場の敷地内
にあった家で育ちました。
慶応義塾大学卒業後、飛び込みでマレーシアにある日系電線メーカーに就職
し、現地で6年間勤務しました。その間には同社の仕事で、一人アメリカ事務所
を立ち上げて一年間勤務したこともあります。今、私は外の世界との接触が比
較的少ないわが社に少しでも新しい風を吹き込めれば、と考えています。現在、
総務と商社関係の営業を担当しています。もちろん人手の少ない零細企業です
から、生産が忙しい時には現場に入って作業もします。気が付いた仕事はなん
でもするのが基本です。経理もやりますし、外国からの引き合いの処理もしま
す。
話が遠回りしました。わが社の貫いてきた信念に話を戻しましょう。
日本のメーカーが続々と中国をはじめ海外に生産拠点を移す中、わが社はいま
だに日本での生産を行っています。これは一つの小さな意地といえるかもしれ
ません。中国への生産移管を提案する企業からのお話も頂きますが、すべてお
断りしてきました。なぜなら、日本でやっていける、またまだやっていくべき
だと考えているからです。
わが社が日本で製造業としてやっていくその理由は単純明快です。それは
日本で創業し、日本で育ち、日本人が経営している会社だからです。また日本
でやっていく上での大きなメリットはいまだ健在の「日本ブランド」のおかげ
です。MADE IN JAPANの製品を喜んでくれるお客様が海外にはたくさんいま
す。これは特殊技術を駆使した一品料理的な製品に限りません。わが社も同じ
製品を月産3,000台から4,000台販売しています。
日本には戦後50年にわたって培ってきた「日本ブランド」を手放す方向の
企業が多いことに、実は私は驚いています。日本メーカー各社の海外移管は
生産にとどまらず、さらに技術移管まで進みつつありますが、これが進行す
ればやがて「日本ブランド」は霧散してしまうでしょう。「日本ブランド」
は国の非常に貴重な財産であると思います。それが無くなってしまった場合に
日本産業界には何が残るのか非常に心配です。
コスト第一で考えれば、それは中国などで生産した方がよほど有利でしょう。
最近は中国製品の品質も上がってきていると聞きます。しかし、一つの信念と
して、「日本ブランド」を育て、またこの恩恵を授かってきた日本企業である
以上、このブランドをいつくしむことはわれわれの責任だと思います。また、
長い目で見れば国にとっても、各企業にとっても非常に有益なことだと思いま
す。一度失ったブランドイメージを取り戻すことは至難の業です。日本企業と
いいながら、実態は外国国籍といったほうがよい企業がいかに多いか。将来日
本は生き残れるのか、東京郊外の零細企業の工場でそんなことをつらつら考え
てしまいます。
話を広げさせてもらえれば、昭和40年代生まれの私たちの世代は、戦後の日
本の成長期にがんばって日本を豊かにしていただいた世代の方の遺産を受け継
ぎました。経済的な豊かさ、これを正の遺産の一つです。あえて具体例はあげ
ませんが、もちろん負の遺産も受け継がなくてはなりません。正の遺産はこれ
をより大きく育て、負の遺産はこれをより小さくするように努力し、次の世代
に引き継ぐことは当然の責任だと思います。偉大なる正の遺産である「日本ブ
ランド」を大事に育てるということはわれわれの世代にとっても大切な責任な
のではないでしょうか。
さて、これからのわが社の課題ですが、大きく2つ挙げさせていただきたい
と思います。現在わが社はサウジアラビア文部省のお仕事を頂き、実際のとこ
ろ生産が追いつかなくなるのではないか、と心配になるくらい仕事を抱えてい
ます。しかし、常に新たな商品を開発してアピールしていかなければやがて市
場から取り残されてしまいます。そこで昨年来、無停電電源装置の開発と、国
内同業者との大型の自動電圧安定器の共同開発を進めてきました。これらの商
品化が数ヵ月後に達成される予定です。もちろん市場に既存の製品とは一味も
二味も違うわが社独自の製品になります。
また、2、3年前から報道されて問題になっている模倣品対策も早急に実施し
なければなりません。その多くは中国製で、非常に厄介な問題です。わが社の
名前とMADE IN JAPANを印刷した外観がそっくりの模倣品が出回るようにな
った当初は驚き、呆れ、当社の製品も有名になったものだ、などと苦笑いして
いたのですが、最早笑って済まされる程度ではなくなりました。模倣品メーカ
ーも分かっているだけで5社あり、現在専門家の意見を聞きながら法的実力的
対策を講じているところです。この件につきましても、日本産業界が長年培っ
てきた「日本ブランド」という貴重な財産の侵害行為であり、わが社もその計
り知れない被害者のほんの一粒だと思います。これはわが社にとっても国にと
っても、なんとしても阻止しなければならない問題です。資金の問題や中国関
連当局の不透明な部分もあり、本格的な対抗策がなかなか打てず、正直なとこ
ろ、今では歯軋りする思いをしています。
最後になりましたが、私自身の将来の目標を掲げておきたいと思います。
今までの社会人としての経験から、多くの人と有益なお付き合いさせていただ
きましたが、今の自分にとって最大の目標人物は父である社長です。現在70歳
になりますが、会社経営者として40年の間蓄えてきた経験、度胸、勘など、
すべての力をなるべく短い時間で学び取って、父以上の零細企業のオヤジにな
るのが私の目標です。そしてこの会社の良い伝統を引き継いで、よりよい形で
次の世代まで育てたいと思っています。
皆さんのご意見がいただければ、是非参考にさせていただきたく思います。
ご意見がありましたらメールsskakeda@hotmail.comまでお願い致します。
今月は、甲野卓治さん(昭61文)にご寄稿をお願い致しました。
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「コンピューターの日本語表記について」
インターネット三田会の皆さん初めまして。昭和61年文学部人間科学専攻
卒の甲野卓治と申します。インターネット三田会では平成10年の秋、自宅でイ
ンターネットを始めた時点からお世話になっていますので、会員歴だけは古い方
だと自負しています(笑)。
私は卒業後、大手化学メーカーに入社し、大阪で印刷機材を扱う営業としてや
って来ましたが、数年前に当時の得意先であった印刷会社に転職、現在ではプリ
プレス部門のシステムおよびネットワーク管理の仕事を担当しています。印刷製
版の分野でもDTP(デスクトップパブリッシング)と呼ばれるMacintoshを中心
とするパソコンでの処理が主体となり、ここ数年で大きく業態が変わっておりま
す。
今回、小野様よりリレーメッセージの依頼を頂き、安直にお引き受けした後で
何を書けばよいのか随分悩みましたがパソコンを日常使って仕事をしている自分
の経験から少しでも会員の皆さまのお役に立てる事はないかと考えた結果、コン
ピューターの日本語表記について書かせていただくことにしました。DTPの現場
で最もトラブルが多く頭を悩ませるのは文字化けや字送りの乱れなど文字の処理
に関することです。ただ、ここでは専門的な事よりも皆さんが日常パソコンを使
われる時に知っておけば便利と思われることをいくつか選んで説明させていただ
くことにします。
1)コンピューターは日本語表記が苦手である
まずこれは覚えておいて頂きたいことです。Windows、 Mac、Unixなど現在の
主要なOSは英語圏で生まれたものであり、文字表記に関してはアルファベットの
大、小文字と数字、記号等、百数十文字を管理できれば事足りるシステムをベー
スとしています。しかし、日本語の場合、ひらがな、カタカナは勿論のこと数万
字を越える漢字かあり、とてもそのシステムでは賄いきれません(アジア、中東
諸国も事情は同じです)。よって欧文フォントの表記手段を拡張させた方法で現
在の日本語表記のシステムは作られていますが、これが日本語表記を巡る状況が
混乱している第一の原因です。
ちなみに2進8桁を基本とするコンピューターのデータ単位から欧文フォントは
1バイト(8ビット=2の8乗=256文字の表記が可能)フォント、和文フォントの
場合は2バイト(16ビット=2の16乗=65 ,536文字の表記が可能)フォントと
呼ばれています。また、日本語フォントのファイルは1バイトの文字グループを
無理やりグループ化して2バイトにまとめた煩雑な作りになっています(*近年、
文字をC-Mapと呼ばれるコードで文字を管理するCIDと呼ばれる新しいフォント
も出ていますが話が煩雑になる為ここでは触れません)。
またJISの規格によって取り決められた文字コードを元に幾つもの文字セット
が作られていますが、現在主流となっているフォントは主要なJIS第一水準と第
二水準の漢字のみのサポート(約7000字)となっており、それに漏れた漢字は
標準ではコンピューターでは表すことができません。ワープロなどで自分の名前
を正確に表記できない方がいらっしゃるのはそのためです。
2)データを交換する時には機種依存文字は使わない
メールなど、データのやり取りの際に注意すべきことがあります。異なるOS間
には互換性の無い文字があるということです。例えばWindowsの場合は90ms、
Macは90pvと両者ともJIS90に準拠した文字セットを採用していますが一部の記
号系の文字(マル日、ハートマーク、平方メートルといった文字)に互換性がな
い部分があり(一部はあるからややこしいのですが)、それらの文字はOSが変わ
ると必ず文字化けを起こします。こういった各OSが独自の文字コードを割り当て
ている文字のことを機種依存文字と呼びます。
有名な所ではMacの半角カタカナは1バイトで作られた特殊な文字コードとなっ
ているためWindowsへ持っていくと文字コードの判別が狂い、その文字以降の文
章が全ておかしな記号に化けてしまいます。
相手の使用する環境が分かっている時以外、特にホームページの作成やメール
のやり取りの際には記号パレットから選びだすような特殊な文字は使わない方が
無難です。
3)今後の日本語環境について
継ぎ足しだらけで成り立っているのが現在の日本語表記とも言えるのですが、
こういった状況を世界レベルで共通化しようという動きがあります。
第一が文字コートのユニコード化。
これは世界の全ての言語を一つの文字コードにまとめようとする動きです。こ
れが完成すれば言語別にカスタマイズされているOSやソフトのディスクを一本化
でき、またOSの違いによる文字化け等の問題もなくなります。しかし、元々ソフ
トの製造コストの削減を狙った欧米主導で進められた規格だったため、漢字の扱
いに不備な点が多く、現在も改定作業が続けられています。Windows98、Mac
OS8.5以降はOSレベルでユニコードをサポートしていますが、フォントとア
プリケーションの対応が必要なためメリットはほとんど形になっていません。
第二に「OpenType」と呼ばれる新しいフォントフォーマットの登場。
現在のフォントには、主にプロの出力に用いるPostScriptフォント(Macの
細明朝体など)と一般用のTrueType(WindowsのMS明朝、MSゴシック、Mac
のOSAKAなど)の二種類がありモニター表示やプリント時の仕組も全く異なった
ものとなっています。
元々はソフトメーカーの利害関係から異なる規格のフォントが存在することに
なった経緯があるのですが、最近のユニコード対応の動きをふまえて、これらを
統一するための新しいフォントの規格として登場したのがこのOpenTypeフォン
トです。簡単に言えば、従来の二種のフォントの良いところを合わせ持つ上、ユ
ニコードに完全対応した文字セットから成り、ファイル自体もOS間で共通という
新しいフォントフォーマットです。
しかし、このフォントが革新的なのはユニコードに含まれるJIS第三水準や第
四水準の漢字を含むJIS X 0213の総数20000文字を表記できることです。これ
は従来電算写植機しか扱うことができなかったほとんどの漢字が含まれる為、
この環境が一般的になればワープロで自分の名前を正確に印字できないなんて事
は無くなります。
OSではWindows2000、MacOSX以降が標準でサポートしていますが現在、
日本語フォントとしてリリースされているのはMacOSX付属のヒラギノ書体と
Adobe社の小塚書体の二種類のみです。また、この機能もアプリケーションの
対応が必要であり、現在使うことができるのはプロ用レイアウトソフトの
Indesign(Mac/Win)とMac用のワープロソフトEG-Word13(MacOSX版)
のみとなっています。実際のところ細かい問題はありますが今後、徐々に普及
が進んで行くと思います。
以上、コンピューターの文字について書いて来ましたが蛇足ながら最後に一言。
現在のコンピューターのスペックアップはすさまじいものがあります。私が学生
だったころ、社会心理学を専攻していましたので卒論では社会調査を行い、デー
タの解析は三田の電算機室のメインフレームを使いましたが、なんとプログラム
やデータ入力はパンチカードへの打ち込みで行っておりました。当時、西校舎と
生協の間にあったプレハブのパンチ室に何日もこもってデータ処理をしたのは懐
かしい思い出ですが、今ならExcelあたりで数式を作成すれば簡単に処理できて
しまう内容です。正に隔世の感ですが、ツールの向上は便利な反面、逆にある意
味での余裕を奪っている面もあるのではないでしょうか。データ処理が手軽にな
った分だけ多くの事を求められている現役の学生の方は本当に大変だと思います。
我々のDTPの現場でも数年前までは職人さんの手作業で丸一日かかっていた処
理や1億近い投資が必要だった専用システムで行っていた作業が、数十万のパソ
コンで簡単かつ迅速に処理できるようなってしまいました。確かにDTPが作業の
標準化と低コスト化に果たした役割は計り知れないものがありますが、短期間に
ここまで環境が変わると作業現場での職務分担にも大きな歪みが生じ頭の痛い問
題となっています。また、この手軽さが値引や納期競争の引き金になってしまっ
た一面もあります。
しかし、わずか数年で陳腐化してしまうハードの問題はどうにかならないでし
ょうか。特に今の職場では営業時代に自分で売込んだ機械に囲まれている私にと
っては深刻な問題です。たった5年前にUNIXサーバーのわずか40GBのディスク
アレイが1500万もしていたような世界ですから。償却の問題もあり簡単に廃棄
するわけにもいかず、そうかといって作業に支障をきたす遅い機械を放置するわ
けにもいかず・・・と、いかに好きで選んだ道とはいえ毎日複雑な思いで仕事を
している今日この頃です(笑)。
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『経済思想から見た教育制度』
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メールマガジン「日本国の研究」 2002年01月23日発行 第126号 論説号
に掲載された論説を、筆者と編集者のご了解を得て転載させて頂きました。
「日本国の研究」 編集長 猪瀬直樹氏サイト http://www.inose.gr.jp/
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「経済思想から見た教育制度」慶應義塾大学経済学部助教授 池田幸弘
●民間活力と教育制度
前回に引きつづき(拙稿「経済思想から見た規制緩和論」、本メールマガジ
ン65号参照)、今日私たちがかかえる諸問題をフリードマンとともに考えてい
くことにしたい。今回の問題は教育制度である。国立大学が独立行政法人化し
なければならないのはなぜか。どこの大学でも学生による授業評価が問題にな
っているのはなぜか。また、都市部での一般的傾向として、早い時期から私立
校を選ぶ両親が増加しているのはなぜか。
こうした問題を原理的に考えるためには、ジャーナリズムや現場での議論を
追跡するほか、教育や経済の言説にかんして古典とされてきた文献に立ち戻る
ことが必要であろう。前回同様、フリードマンの『資本主義と自由』と『選択
の自由』をもとにして、こうした問題について考えるヒントを探ってみたい。
●初等教育と授業料クーポン制度
まず初等教育段階からはじめよう。初等教育段階においても公立校、私立校
という制度上のちがいがある。フリードマンは現行の制度は、私立校にたいし
て不利に働くとし、その論拠を大略以下のように説明している。
いま公立校の運営にかかわるもろもろの費用を国庫が負担していると想定し
てみよう。これらは最終的には税金を通じて民間の経済主体によって負担され
る。簡単化のため、社会に存在する人間は二人だとしてみる。それぞれA、B
とする。公立校の運営にかんする国庫負担額が総額100万円だとすれば、こ
れらはA、Bによって負担される。A、Bの負担額はそれぞれ50万円になる。
ここで、Aは実際に公立校に通い、Bは私立を選択したと想定する。この場合、
Bはさらに付加的にたとえば100万円という私立校の授業料を負担する。B
の負担額は全体で150万円になる。Bはこれらの金額全体を負担していると
いう感覚はもたないかもしれないが、フリードマンは現行の制度は公立校、私
立校の間の競争、そして初等教育の選択を歪めているという。もし、税負担が
なければ、私立校を選ぶ消費者層は増大するはずだからである。
このような問題を解決するために考案されたのが、授業料クーポン制度であ
る。クーポン券にはある額面が記されてある。このクーポン券は、私立、公立
を問わずどこの学校でも使用することができる。もし額面40万のクーポン券で
あれば、国庫から学校にその額だけの支払いがなされる。このような制度の変
更によって何が変わるのか。
まず公立に通っていたAであるが、この生徒が通う学校の運営にかかわる費
用が50万であれば——これはさきの公立校の運営にかんする費用が総額100
万だとすれば、一人あたりの費用としては不自然ではない想定であろう——40
万をクーポン券で払い、残りの10万を私費で払うことになる。またBは100
万の授業料のうち40万をクーポン券で残額の60万を私費で払うことになる。こ
のとき、最終的にはクーポン券の支払いが民間の税負担によるものだとすれば、
Aの負担総額は50万、Bの負担総額は100万になる。Aの状態は以前と変わ
らないが、Bの負担は明らかに小さくなる。これが、授業料クーポン制度の含
意なのだ。
現行の制度は明らかに公立校に有利で私立校には不利だと、フリードマンは
言う。もちろん、現実の制度は日本にしてもアメリカにしてももっと複雑であ
る。しかし、受益者負担という原則からすれば、フリードマンの議論は明快だ
といえる。
●高等教育をいかにファイナンスするか
以上は初等教育段階での問題を指摘したものだが、さらなる問題としては大
学レヴェルでの教育を誰がどのようにしてファイナンスするかという問題があ
る。まず、フリードマンの所説を紹介する前に、誰が支払うかということにつ
いて予備的な考察が必要であろう。しばしば指摘されるように、大学での授業
料は我が国では両親が支払うケースが多い。これにたいして、欧米の大学では
学生本人がなんらかの形で負担することが多いとされている。
もっとも正確に言えば、森嶋通夫がその半生伝『終わりよければすべてよし』
(朝日新聞社)で述べているように、アングロサクソンの国では本人負担、ギ
リシャなどの南欧の国では両親が負担するという傾向もあるらしい。これは、
以下の議論にさいしても決定的な重要性を持っているが、家族制度の差異も手
伝ってのことなので、本人が負担せよといっても簡単にそうなるものでもない。
さて、このような問題が解決されたとしてみよう。『資本主義と自由』や
『選択の自由』で推奨されているのは、学生が将来の所得を根拠として授業料
に必要な金額を調達するというシステムである。簡単に言えばローンを組むわ
けだ。このようにして経済的に恵まれない学生であったとしても必要な資金を
借りることによって学業をつづけることができる。このさい、ローンの株式化
をフリードマンは示唆している。つまり、将来所得の一定割合を投資家に支払
うことを定めたうえで投資家と学生が契約を結ぶということになる。同じく年
収の1パーセントを投資家にたいして支払うという約束であっても年収500
万が期待される場合と年収1億が期待される場合とでは、投資家の意欲は大い
にちがってくる。有望な学生のローンが株式化されれば、高値で取り引きされ
る。また、流通市場が整備されたものであれば、投資家としても初期の時点で
すべての金額を固定化してしまう必要がなくなる。必要であれば途中で株式を
売却すればよいからである。
●終わりに
このように、フリードマンの考えの根底には受益者負担という概念がある。
学生は教育サーヴィスを買い、教員はできるだけ良質の教育サーヴィスを売る。
これは、経済学の基本的な概念を教育に適応したもので、新古典派の経済学者
にとってはさほどの違和感はないが、教育の現場にいる人びと、あるいは教育
学者にとっては議論の設定そのものに異論があるだろう。冒頭で述べた学生に
よる授業評価についても同じような見地から批判がなされることがある。いま
の学生にはたして授業の評価ができるだろうか、というわけだ。
筆者自身は授業評価にさいしては、二つの点を区別しなければならないと考
えている。形式的な評価と内容的な評価である。後者については、確かにその
ような評価が可能かどうかは議論の余地が大きい。しかし、形式的な評価は可
能だろう。ここで言う形式的な評価とは、声が大きすぎる、小さすぎる、板書
が多すぎる、少なすぎる、話し方が早すぎる、遅すぎるといったことである。
このような諸点については、受益者たる学生のコメントは参考になると思われ
る。たかが教育上の技術といって無視してはならない点であろう。
■著者略歴■
池田 幸弘 (いけだ ゆきひろ) 慶應義塾大学経済学部助教授、経済学博士。
専門は経済学史・経済思想史。主要な著作に Die Entstehungsgeschichte der
Grundsaetze Carl Mengers, St. Katharinen, 1997. "Carl Menger
in the
1860s", in Gerrit Meijer ed., New Perspectives on Austrian
Economics,
Routledge, London, 1995 他。
今月は、田久 浩志さん(昭53工/55修)にご寄稿をお願い致しました。
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『ロト6を当てやすくする方法』
中部学院大学 人間福祉学部 健康福祉学科 田久浩志
昭和53年工学部電気科卒、昭和55年工学研究科電気専攻修了の田久(たきゅ
う)ともうします。塾には中等部から12年ほど在学し、その後、産業医科大学、
東海大学医学部、東邦大学医学部、そして現在の中部学院大学と移動してきまし
た。工学、医学、福祉とわたりあるいた変り種です。医師ではありませんので
病気の相談はご容赦を。
現在の大学では、統計学、医療情報学、病院管理学などを教えておりますが、
お前の専門はなんだ?と言われると少々こまります。世の中、「専門がなけれ
ば」という風潮がありますが、近頃の不景気では少し風向きがかわてきました。
何でも出来るほうが案外生き延びれます。何でもできるスペシャリストにはな
りたいと思いますが、一つのことしかできないスペシャロイドになる気は毛頭
ございません。今日は、私の好きな「読者の立場にたった統計学」の話をいた
しましょう。
【お宝の山をほりあてよう】
データマイニングという言葉を聞いたことがあるだろうか。データに潜む規
則性を見つけ、それを役立てようという話である。まじめに行えば、会社や病
院に蓄積されている膨大なデータから役立つ情報を探し出す話になるが、なか
なか興味を持っていただくのは困難である。そこで、頭の体操もかねて今日は
「宝くじ」の話をお届けしよう。
ここで対象とするのは「ロト6」である。SMAPの中井君のCMで有名になっ
たが、43個の数字から異なる6個の数字を取り出してその一致度を競うもの
である。すべてあっていて賞金の積み残し(キャリーオーバー)があると最高
3億円も夢ではない。
私は仕事柄、看護婦の研究活動の支援が多く、誰もが興味をもってくれるLO
TO6の「データを題材にして授業をするのも悪くはない、と考えた。そこで、
データを第一勧業銀行のHPからダウンロードし、ああでもない、こうでもない、
とグラフを作り始めた。そんな作業をしていた2001年の暑い夏の夕方、妙なこ
とに気がついた。
全体の43個の数字の出現頻度をみると、特にどの数字がでるという傾向はな
い。しかし、見方を変えるとある種の規則性がデータの分布にあるように見え
るのである。この規則を読み出せば、中井君ではないが3億円入手するのも夢
ではない。1億あったら何をしようと夢は膨らむ。不動産、株式などを除いた
ら貧乏人にとって一億は使いづらいお金である。ロールスロイスやフェラーリ
もたかが3000-4000万円で買えてしまう。アンティークは値段があってない
ようなもの。いっそのこと、景気良く塾にどかっと寄付でもしようか、自分の
名前をつけた奨学基金でもつくろうかなどと夢は膨らんでくる。その日から、
8割のそろばん勘定と、2割の研究心(?)からの解析バトルが始まった。
【さいはなげられた】
メールの文字だけで、数字の分布を示すのは難しいので下記のURLをご覧に
なっていただきたい。
http://www.ccn.aitai.ne.jp/~takyu/takyu.html#LOTO
ここで用いた数字は少しまえのものでだが、第1回から第43回までのLOTO
6の当選番号をグラフに示したものである。このグラフを見ていただきたい。
これは、数字の1から数字の43までの頻度がほぼ一様になっているのを示して
いる。特にどの数字がでるようにも見えない。いくつかの数字は多く出現して
いる印象はある。
http://www.ccn.aitai.ne.jp/~takyu/TAKYU/LOTO/LOTO-00.htm
次に、6個の数字を小さい順に並べ、それをd1,d2からd6と名づける。この
d1からd6毎の頻度をみてみよう。今度は、かなり傾向がでているのがわかるだ
ろう。一番小さいd1は1から15あたりまでに偏り、逆に一番大きいd6はかなり
大きい数字に固まっている。
もしでたらめに数字を6個選ぶよりは、この法則を考慮して数字を選べば何十
倍もあたりやすくなるはずである。
http://www.ccn.aitai.ne.jp/~takyu/TAKYU/LOTO/LOTO-01.htm
そこで、第一勧業銀行にLOTO6の抽選の仕方を尋ねた。そうするとボール
43個をぐるぐる回し、そこから6個取り出すとの回答を得た。「ひょっとす
ると物理的なゆがみかな?」一瞬そう考えた。もし円盤をアーチェリーで射抜
く以前の宝くじの当選方法なら、数字の偏りはでない。しかしボールの現物を
ぐるぐるかき回していたら、ゆがみや傷で選ばれる確率はかわるのはありえる。
そのころ参加した統計ソフトSASの全国大会で友人の統計学の専門家に、こ
のことを尋ねてみた。皆から「田久さん、あんたのいってることはただしいと
思う。このデータは偏りがあるよ。」との返事をえた。こうなると勇気百倍、
こちらの思い違いではなさそうだ。その時、真面目な先生が発言した。「これ
はまずいですよ。第一勧業銀行におしえなければ」、とその瞬間である。専門
家が彼を囲み、一言「あんた、あした、横浜の運河にうかんでいるよ」。真面
目な先生いわく「失礼しました。出すぎた発言でした」。専門家も案外怖いも
のだと思い、その日は家路に急いだ。
【小さな疑問】
統計学の教科書では試料のばらつきをもとめる演習がよく記載されている。
0から1の間に一様に分布する試料から10個の試料を取り出して、その平均
と分散を求める、といった手合いの演習である。結果はほぼ、正規分布に近く
なるのであるが、それと、どこかLOTO6の問題が似ているのに気がついた。
理論的に考えるのは情報屋(このことばはあまり好きではない。ミステリーに
でてくるタレこみ屋に似ているからである)は好きではない。情報屋はいかに
効率よく仕事をするか、いかに簡単にデータを出すかにしのぎをけずるものだ
と私は思っている。どうせやるなら数値実験だ、43個の数字から6個の数字を
ランダムに取り出して、出た数字を記録するプログラムを作成して1万回繰り
返した。結果は、ほぼ理論的なd1-d6の分布となるはずである。その結果を表
示して驚いた。
http://www.ccn.aitai.ne.jp/~takyu/TAKYU/LOTO/LOTO-02.htm
その結果と、実際の数字の出現頻度はほぼ一致した。理論的な変数分布と試
料の変数の分布の一致度をはかるKolmogorov-smirnov検定という方法があ
るが、それにかけても、分布は同じと考えてよいという結果がでた。
つまり、誰も気がついていなかったが、LOTO6の数字のでる範囲は理論的に
推測できた訳である。
【確率はどれくらい?】
さて、LOTO6のあたる確率はどれくらいだろうか。最初の数字を43個から
選ぶとする。そうするとその確率は1/43。残りの42からまた選び、次は41か
らと繰り返すことを考えれば、理論的な確率が求まるはずである。つまり、
43*42*41*40*39*38 分の1の43億分の1があたる確率である。
今まではでたらめに数字を選んだから43億分の1であった。しかし、もし
d1がほぼ1から17の間からでると考えると、1/43でなく1/17の確率になる。
以下、他のd2,d3,d4,d5,d6に同じ操作を繰り返せばあたりやすくなった確率
が求まる。
試算の結果、ほぼ25倍当たりやすくなるという結果になった。LOTO6が
25倍当たりやすくなる、非常に魅力的なキャッチフレーズである。しかし、
ちょっとまっていただきたい。元が43億、25倍あたりやすくなっても1億
7千万分の1である、世界で一人しか当たらなかったのが、ほぼ日本で一人
あたるようなもの。こんなに当たりやすくなったと考えるか、これしか当た
らないと考えるか。それはその人の性格次第であろう。
また、d1が90%の確率ででる数字の範囲はここからここ、と自信を持って
いえるが、実際には6個の数字の組み合わせが必要である。つまり、どの数
字が当たるとはいえないのである。
しかし、ここまで来ると読者の皆さんは確率統計のおもしろさが少しはわ
かっていただけたであろう。それはそれで非常に重要なことである。
【おわりに】
統計学を学生に教えるのは難しい。正式には数III程度の積分の知識が必要
である。しかし数IIIの知識がなくても、保健、医療、福祉の分野に学生は進
学してくる。それらの学生に本気になって数式、積分を使って統計学を教え
れば、黒板の文字は華麗に睡眠薬に変身してしまう。そして多くの学生が、
卒業後の研究活動で必須の統計学より脱落してしまう。
これは教えるほうにも問題があり、一種のファカルティデベロップメント
の問題となり、教員の資質が問われるがその詳細はここでは言及しない。
しかしながら、学生が興味を持つLOTO6のような題材を使えば、脱落者は
少なくなるはずである。説明するのに難しい確率密度関数なる概念も、どの
数字を買えばどの程度あたるかと同じ話と説明すれば誰でも理解が可能である。
学生、受講者、読者が興味を持つ素材をいかに探すか、それが教員にとって
大きな課題である。そのような意味でデータマイニングの考えは役にたつ。
なぜなら、見過ごしていたデータにお宝が潜む可能性があるからだ。
【参考】
現在、使っている看護婦向けの統計題材を示します。誰もが興味をもつ生の
データを提供してもいい、という方は連絡してください。お礼に今回、話した
d1-d6の数字のでる確率をさしあげます。
大安吉日になると患者は退院するか
看護婦は茶髪をどこまで許すか
気合のはいったデートではヒールの高さは高くなるか
病棟によってつめの長さはことなるか
患者さんのちょっとまってはどれくらい?
学生の「友達みんな」は何人ぐらい
理想のBMI、現実のBMI
スマートな子は背の高い彼がすきか
イッキ飲みの経験とアルコール代謝能力
今月は、高橋洋文さん(昭47経)にご寄稿をお願い致しました。
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『伝統工芸』
私は昭和47年経済学部卒業の、高橋洋文と申します。
小野先輩より私が従事する、伝統産業あるいは伝統工芸に関し何か書いてみたら
というご依頼があり、拙き文ではありますが最近つらつら思う雑感を記してみま
す。
全国に多々ある伝統産業や、種々の伝統工芸をひとつに縛って語るのはかなり
無理があります。というのも中には機械で作られているものもあれば、こつこつ
とした職人の技でのみ成り立つものもあるからです。又そうした伝統工芸の中に
も、一つの作品、完成品を殆ど一人の力で作り上げることの出来るものと、一つ
一つの仕事がそれぞれ伝統工芸でありながら、それのみではただの一つの作品も
作れないもの、つまり多くの人の分業でのみ成り立つものはかなり事情が違いま
す。
私が従事している仕事(京手描友禅製造卸)は正にその分業制無くしては成り
立たない典型的な例です。実はこうした伝統工芸の分業でのみ成り立つ多くの伝
統産業は今存続のピンチに立たされており、大変多くの課題を抱えております。
手前味噌で恐縮ですが我が業界を例に挙げその問題を考えてみたいと思います。
皆さんは本物の手描友禅のきものがどんな工程で作られているかは勿論ご存じな
いと思いますが、細かく言うとざっと20工程もあるのです。その材料になる白
生地1反織るのにも同じほどの工程があり、そのまた原料の糸を作るまでいうと、
1枚のきものができるまでいったい何人の人の力とどれほどの時間がかかるのか
想像もつかないほどです。それにそのために必要な道具をつくる人までいうと、
これほどの労働集約型産業は他に類を見ないかもしれません。しかしながら農耕
型民族である日本を代表する産業ともいえます。つまり多くの人の協力なくして
はこの産業はなりたたず、人無くしては滅びるしかない運命にあります。確かに
京都以外でがんばっている産地もありますし、印刷のような低級なきものもある
ので、きもの全部が無くなる訳でもありません。ただ本物に対するこだわりを持
つにはどうしても同じような志を持つ多くの人が必要ということです。
私は卒業後いわゆる丁稚修行を経て、父が創業した仕事を、親孝行と思い長男
として何の迷いもなく、継ぐことにしました。当時他の業界もそうであったよう
に、その当時のきものや帯の業界環境も極めて良く、活気もありました。ところ
が爾来30年を経て、種々の京友禅製品(裏物も含め)の生産数は下降の一途を
たどり、現在組合統計では、ピークの生産数(昭和50年)に比べ、93%強減、
なんとたったの7%弱にまで下がっています。一向に回復の望みなくまだ下がり
そうです。特にいわゆるこだわりの高級品に顕著です。他の産地まで含めた全体
ではそこまでの落ち込みではありませんが、大変危機的状況であることに間違い
はありません。原因はいくつも考えられます。社会環境の変化によるきもの離れ
や、バブル崩壊後の経済状況の悪化が主たるものとはいえ、こうした中、大変深
刻な問題が顕在化しております。不況業種にはどんな産業にもいえますが、若年
労働者の参入がありません。したがって従事している人の高齢化は著しく、その
上倒産や廃業が相次ぎ、この業界から離れて行く人の数も、ここ数年急激に増え
ております。それは何もつくる人だけでなく、本物を売ってきた流通側も同じで
す。
その上もっと問題なのは、きもののことが良くわからない消費者が増えている
のを逆手に取り、手練手管で安物を思い切り高く売るような、まるでかつての豊
田商事のような売り方をしている業者が跋扈しているという現実があります。年
金を原資としてローンを組ませてしまうとか、実に業界人として恥ずかしいよう
な実態に対し、何の反省も自浄能力も無く、売れれば何でもありと言うことでは、
結局きもの離れを加速させ、益々真面目なものづくりをする人や、売る人たちの
首を締めているのです。宝石の業界にも同じような事があるようですが、メーカ
ー希望小売価格が明示できないと言う事が大きな原因とはいえ、知識も見識も無
い流通業者がどんどん増えている現状では、日本にとって大切な伝統工芸もいず
れ消えてしまうかもしれません
どうすればそうした伝統工芸の技を守り次世代につないでいけるのか。
現状では無理と言う事ですから要するに色々な面で変えていかねばならないと言
う事なのですが何をどう変えるか。結論を先に言えば、職人さんたちの生活の安
定に加え、夢や希望を与えることでしょう。ドイツにあるようなマイスター制度
などは参考になるのですが、肝心の京都には長年従事している人をただ表彰する
だけの制度しかなく、行政側に職人さんの面倒を見るという発想はありません。
文化の勃興と維持継承発展には、元来パトロンの存在が欠かせないのですが、今
の日本には強力な存在は見当たりません。これは一つには今の税制上の問題もあ
ると思われます。国が本気でこのことに腐心しなければ多くの伝統工芸はここ10
年以内に相当なピンチに陥ることになるでしょう。
それではまったく手がないのかというとそんなことは無いと思います。
人が日本にいないのなら外からつれてくるか、その技を他国に移転するような発
想があっても良いのではないでしょうか。多くの伝統工芸のルーツは中国や朝鮮
半島から伝来したものですから、別に他国の人間が日本の伝統工芸に従事するこ
とはまったく問題は無いと思いますし、私見ではベトナムの、特に女性なら辛気
くさい根気の要る仕事に向いていると思います。日本の文化は日本人で守ろうと
いうのが本筋では有っても、伝えることを一義とするなら発想の転換が必要でし
ょう。伝統は、単に伝承という事ではなくその時代、時代に合わせた革新あって
こそ意味があります。伝えようとするものが知恵を出し、時代の変化に対応した
取り組みをするのは当然のことでそのことに多少のリスクがあろうとも、勇気を
もって取り組めばきっと自ずから道は開けると信じております。私の業界で言え
ば、流通側に多くの問題があるとするならその構造改革に取り組む必要があると
思い、私は勇気を持って今年の2月に私の作品を常設展示する直営アンテナショ
ップを銀座に開設いたしました。ご興味ある方はホームページをご覧ください。
(http://www.taizou.jp)これは業界としては初の試みですが、他の業界では
あたりまえだと思いますし、これからも消費者にとって利のあることを前提とし
た改革を断行することで何とか良き文化の継承のお役に立てればと思います。
先人が培った技で成り立つ伝統工芸を、次世代に伝えるのはそのことで飯をく
わせてもらっている者たちの責任です。そうした使命感なくしては多くの文化は
滅びてしまうでしょう。又そうしたものを愛でる目を養うことも大切で、それに
は教育が欠かせません。ITにうつつを抜かすのも結構ですが、日本人がそのアイ
デンティティを発揮するためにも、日本にしかない文化をもっと日本人自身に啓
蒙することが肝要であると考えています。
長々と書いてしまいましたが、お読みになって色々感じられること有ればお教
え賜りたく思います。今年は福沢先生没後100年ということで、益々独立自尊の
意気高らかに前進してまいります。よろしくご指導ください。
昭和47年経済学部卒 高橋洋文(2代目高橋泰三) 敬白
リレー・メッセージ 第38回 2001.10.15
今月は、吉川 和秀さん(昭62経)にご寄稿をお願い致しました。
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「古紙は正しくリサイクルされているか?」
皆さんはリサイクル活動をしていますか? 近頃はどこの自治体でも分別収集
を手がけており、スーパーや子供会でも紙類、ペットボトルなどのリサイクル活
動をしております。しかし、これだけでは単にゴミの出す場所を変えただけにす
ぎないことを知っていますか?
本当のリサイクルとは皆さんがリサイクルされた商品を購入使用してこそ完了
するのです。今、リサイクル原料の余剰が問題となっています。なぜなんでしょ
うか。今日は古紙を通してリサイクルについてお話させて頂きます。
はじめまして。ご挨拶が後になりました。
私は昭和62年経済学部卒業の吉川和秀です。商社の紙パルプ部門に所属しており
ます。東京−静岡−大阪と国内ばかりを転勤し、一貫して製紙原料(パルプ・古
紙)に携わっています。商社の一般的印象とはちょっと違う泥臭い世界に浸って
います。
まずは紙・板紙のおおまかな全体像をお話しいたします。
世界の紙・板紙消費量は年間3億トン。世界一はアメリカで9千5百万トン。
2位は中国の3千5百万トン、3位は日本の3千万トンです。日本だけで世界の10%
を消費しています。国民一人当たりの年間消費量になりますと、1位アメリカ
350kg、日本は7位で240kg。中国は30kg弱に過ぎません。日本の紙・板紙業界は
輸出輸入量の少ない(それぞれ4−5%程度)国内閉鎖系の業界です。但し、製紙
原料(木材チップ・パルプ・古紙)の30%強は輸入品です。
次に原料構成を見てみましょう。紙・板紙は主に、木から作る「パルプ」と
リサイクル原料である「古紙」から作られます。製紙原料の内、古紙の占める
割合(古紙利用率=古紙使用量/繊維原料量)は世界で40%。日本は‘00年に57%、
‘89年に50%でしたので大きな進歩です。日本の古紙利用率と利用技術は世界
でもトップレベルにあります。日本の製紙業界では‘05年度の古紙利用率60%
の目標を立てています。平安時代には既に古紙の再利用がなされていたそうです。
いわゆる紙には、書籍・印刷・筆記用紙、新聞用紙、袋、ちり紙などの「紙」
と、段ボール箱、菓子箱などの「板紙」に分類されます。「板紙」分野での古紙
利用率は既に90%に達しており(つまり紙箱の原料は殆ど古紙です)これ以上の大
きな伸びは期待できません。「紙」分野ではいまだ30%程度ですので、ここでの
古紙利用促進が鍵となります。
ではその「紙」分野での古紙商品利用を考えてみましょう。「紙」を買う・
使う時に皆さんは古紙を意識しているでしょうか。私たちの生活に最も身近な
トイレットロールで考えてみましょう。正式な統計はありませんが、トイレット
ロールの‘00年生産量90万トンの内パルプロールは35%、古紙ロールは65%程度
です。‘90年頃の生産量は70万トンで、パルプロール20%、古紙ロール80%の割
合でした。10年間に増えた20万トンは殆どがパルプロールです。リサイクルが叫
ばれているにもかかわらず、消費性向はパルプロールに傾いています。
なぜでしょうか。私なりに考えてみます;
� パルプロールは白くて(清潔感)、柔らかい(使用感)。なのに価格は少し高い
だけ。
� 安いもの(古紙ロール)は粗悪品。実際カタいし弱いのにそれほど安くない。
� 古紙は貧乏くさい。見栄。
まあ、簡単に言ってしまえば贅沢なんですね。トイレに流したら二度と再生で
きませんので、トイレットロールこそ古紙であるべきです。
最近古紙ロールもかなり品質は良くなっています。パルプロールに匹敵するく
らいの白さと柔らかさ、強さを持つ商品も見受けられます。しかしながらここに
も問題があります。
古紙には印刷などがしてあるので、これを白くするには脱墨・漂白しなくては
なりません。洗濯の洗剤・漂白剤と同じ理屈です。また、古紙はリサイクルを進
めると強度が落ちていきます。シャツだって何度も洗濯していくとヨレヨレにな
りますね。古紙に強度をつけるには薬品を添加することになります。つまり古紙
にパルプ並みの品質を求めると、薬品を多く使用し廃液を汚すという悪い点
(=結構コストがかかる)がでてきてしまうのです。勿論廃液は製紙工場できれい
に浄化されていますのでご安心下さい。
結局、古紙は古紙としてありのままに使うのが自然なのです。多少色が黒っぽ
くても何も問題はありません。トイレットロールもコピー用紙も真っ白である必
要はないはずです。でも、柔らかさだけは必要ですかね。
ここまで述べて、古紙=善、パルプ=悪、との印象を持ったかも知れません。
少しパルプの弁護もします。パルプ材(木材チップ)は勿論「木」です。世界の木
材消費量の内、薪炭材55%、製材・合板30%、パルプ材15%です。
そのパルプ材の元は、�製材の残材(丸い木から四角い材木を切り取った三日
月型のヘリ=廃物利用)、�製材できない芯の腐った木や曲がった木(=廃物利
用)、�植林材(ユーカリなど=7−8年周期の農業) であります。つまり、パル
プ材そのものもリサイクル品と言ってもいいものです。
冒頭に戻りますが、皆さんがリサイクル商品を使用しなければ、リサイクル
活動はただゴミの捨て場所を変えただけに過ぎません。実際、日本の古紙は余
剰しています(余剰の理由はそれだけではありませんが)。つまり集めた程の量
を使っていないのです。
どれだけ余剰しているかといいますと、‘90年の古紙輸出量は2万2千トンで
した。‘00年は37万2千トンです。‘01年は1−6月だけで既に45万8千トンが輸
出されています。輸出価格は国内価格よりも安いので、古紙問屋は国内メーカ
ーが受入れてくれない古紙を泣く泣く安値で輸出しているわけです。有価物と
して輸出されていますが、一面では日本国内で処理しきれない紙ゴミを輸出し
ているとも思えませんか。
輸出港から遠い(=国内輸送費が高くつく)地方都市ではなかなか輸出もまま
なりません。10月3日付産経新聞朝刊には、島根県出雲市で(税金をかけて)分別
収集した古紙110トンを(また税金をかけて)焼却処分したという記事が出ていま
した。
回収業者が古紙の仕入れを止めればいいじゃないかと思いませんか? それ
がなかなかできることではないのです。古紙は業界で「発生物」と呼ばれてい
ます。生産量を調整できる工業製品ではなく、自然に沸いてでてくるような商
品だということです。
古紙の流れを簡単に説明します;
家庭・事業所→ちり紙交換・古紙問屋との契約・行政回収(自治体による分別回
収)・集団回収(子供会など)→古紙問屋(バラバラの古紙を1トン程度の固まりに
圧縮する)→製紙会社
回収ルート別に古紙の発生をおさえる方法を考えて見ますと;
� ちり紙交換などの個人回収者(家庭から):古紙問屋が仕入れ値を下げれば生
活が成り立たなくなり仕事を変える→回収されない古紙はゴミとなる。
� スーパーなど事業所:古紙問屋が回収の契約をしており減ることはない。
� 自治体の行政回収:税金でなりたっている。強制力があり減ることはない。
�子供会などの集団回収:古紙問屋が仕入れ値を下げても、自治体から子供会
などに回収量に応じた助成金(=税金)がでているので減ることはない。
� で減った部分も結局は��で回収されることになります。��の手段がなか
った昔ならば問屋が仕入れ値を下げればすぐに発生量が落込み(=ゴミが増える)
調整ができました。しかし、近年��の一般化(=税金を使って古紙を集める)と
ともに古紙回収量が飛躍的に伸び、一方で発生に歯止めをかけることができな
くなってしまいました。
行政主導のリサイクルはほぼ全ての例で「ゴミ減」からの発想であります。
多くの自治体では、自治体で使用する紙製品を古紙入りにするようになってき
ました(例:�役所のトイレで古紙ロールを使う �役所の文書用紙には古紙入
りの紙を使うなど)。それだけではまだまだ足りません。皆さん一人一人が自覚
してリサイクル商品を使用するようにしなくては、税金かけて何の為のリサクル
だかわかりません。多少色が汚くてもいいじゃないですか。この辺で少しリサイ
クル生活を心掛けてみませんか。
ご拝読いただきましてありがとうございました。
もっと知りたいかたは:日本製紙連合会http://www.jpa.gr.jp
リレー・メッセージ 第37回 2001.9.15
今月は佐藤 仁さん(平6経・通)にご寄稿をお願い致しました。
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「カレッジリング・パワー」
‘67年に美術大学デザイン科を卒業し、外資系製薬会社の宣伝部に入社しまし
た。在籍22年が過ぎた頃、マーケティングの仕事に強く興味を持ち、働きなが
らでも最適なマーケティングの勉強ができる慶應義塾大学を選択しました。
‘89年秋に経済学部に通信教育課程で入学し、’94年春に卒業しました。
卒業後、時を経る程に慶應での5年間は、人生にとって代え難いものであった
ことを実感してます。
卒業と同時にイの一番に、生協で「カレッジリング」(US.Jostens製)を注
文しました。リングを作ることは、自身のタイムマネージメントで成し遂げた証
としての記念であり、私にとっての塾員としてのエビデンスです。
今でも仕事上で策に詰まった時、辛い思いをしている時に、「卒業までの苦労
と今の苦労を比べたら、どうと言うことはない」とカレッジリングが励ましてい
るように感じます。私の「お守り」であり、パワーの源です。
時折、電車の吊革で、KEIOのカレッジリングに出会います。すると互いに「オ
オッ」と思わず微笑んでしまいます。「カレッジ・リング」は塾員を名乗らなく
ても互いに認識できる、仲介者になってくれます。そして、仲間意識を高めるツー
ルにもなります。
私のように外資系製薬会社に在職してますと、訪日する外人の中にはハーバー
ド、スタンフォード、ペンシルベニア等のカレッジリング(Jostens製)をして
いる方もいらして、私のリングを見ると親近感を持って話し掛けてくれます。
ビジネスの上でも役立ちます。リングに対する共通認識は、大枠のデザインが
世界統一(校名・校章のみが違う)ということにあるようです。
多くの日本人にはカレッジリングは馴染み難いようですが、私は、グローバ
ルの時代にフィットしたコミュニケーションン・ツールとして位置付けており
ます。一度、三田の生協で実物をご覧ください。
1994年3月経済学部卒 佐藤 仁
sniperjin@1994.jukuin.keio.ac.jp
(sniperの命名は21世紀の立案された目標を狙い打つということから付けました)
リレー・メッセージ 第36回 2001.8.15
今月は薮下裕子さん(平7文)にご寄稿をお願い致しました。
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「不良債権の譲渡の現場より」
インターネット三田会の皆様はじめまして。平成7年文学部卒の籔下裕子
と申します。インターネット三田会には2年ほど前から参加しております。
また、小野さま主催のオフライン会も他の会員の方々とお話できる貴重な機
会として、初回から時々出席させて頂いております。
さて、今回は自分の身近な話題からということで「不良債権は実際どのよう
に譲渡されているのだろうか?」というお話をさせて頂きます。
ここ数年、不良債権問題が新聞を賑わさない日はないといってよいでしょう。
「直接償却」「間接償却」「年内に処理」などという言葉を皆様も良くお聞
きになるかと存じます。実際この3年間で金融機関の抱えていた不良債権の処
理は10兆円にのぼるといわれています。
現在、私は不良債権のバルクセール(複数の物件を一括して売却すること)
を専門に扱う司法書士事務所に勤務しております。(来月には転職してしまう
のですが�) そこで見聞きしたことを簡単に皆様にご紹介させて頂きます。
私自身は金融のことには全く素人なので、不正確な点が多々あるかもしれま
せんが、大まかな話ということで、どうかご容赦下さい。
さて、不良債権の償却、つまり債権の売買等をするとき、そこには当然売り
手と買い手とが存在します。不良債権の売り手は皆さんご存知のように、主に
日本の金融機関です。銀行や生命保険会社、ノンバンク等がこれにあたります。
一方、買い手側の主役は主に外資系の証券会社や投資銀行、大手のファンド
会社といった外資系金融機関です。国内の企業もこのビジネスに参入していま
すが、その数は少なく、やはり外資系企業がメインといって良いでしょう。
では不良債権を買った外資系金融機関はその後、その債権をどのように処理
しているのでしょうか? なにしろ貸した額のお金が返ってくる見込みがない
から「不良」債権といわれ、皆困っているわけです。冒頭で「不良債権のバル
クセール」という言葉を申し上げましたが、この言葉通り、外資系金融機関は
債権を簿価よりはるかに低い値(簿価の概ね5〜10%ほど)でバルク(固まり)
で買います。固まりの中には債権の回収が絶望的なもの、権利関係が複雑で回
収が難しいものや回収コストに採算が合わないもの、また担保不動産の運用利
回りが見合わないものなども含まれています。
私が見聞きした限りでは、買い手側の外資系金融機関は以下のような処理を
しているようです。
1. 正常な債権についてはサービサー(債権回収会社)が回収。全額回収ではなく、
金額の折り合いをつけることも多いようです。
2. 後順位担保権で配当が望めなさそうな債権については債務者との直接交渉で、
担保権を消してあげる代わりにいくらか貰う。
3. いわゆる任意売却の際の「はんこ代」。(債権の担保となっている不動産が
任意売却されるとき、担保がついたままでは売れないので、担保権を抹消の
書類に押印してあげる代わりにいくばくか貰う)
4. 担保不動産から上がる賃料や、将来的に地価が回復した場合の差益を見込ん
での所有。(安く買ったので差額で儲かります)
5. 回収不能な債権の担保不動産に対しての競売申立てや賃料を差押等の法的手
続きを行い、そこから回収。
6. 不良債権の証券化。
7. 何らかの理由で商業的に採算が取れなかった不動産(地上げが途中で止まり
虫食い状態になっていたり、施設が老朽化しているなど)を再生して商業的
に価値のあるものにして転売もしくは証券化。
8. 主債権者として経営権を握って経営を再建して転売(ゴルフ場やホテルとか
の債権はよくこの手法とります)。
サービサーとはこれまで弁護士にしか許されていなかった債権回収業を法務
大臣による許可制をとることによって民間業者に解禁し、法律に定める特定金
銭債権の管理及び回収を行うことを業とすることを可能としたものです。
サービサーになるには法務省の許可が必要で、資本金5億円以上、取締役に弁
護士が1人以上含まれており暴力団員が関与していないことなどが要件とされ
ます。現在までに53社が営業許可を受けています。金融機関はそれぞれ自前
のサービサーを持つことが多く、上記の手続きは関連サービサーによって主に
行われます。
ところで不良債権の売買にあたって、買い手側の外資系金融機関本体の名前
が出てくることはあまりありません。ほとんどは債権購入のためにそれ専用に
作った受け皿会社が実際の売買にあたります。
私の担当するメインの仕事はその不良債権購入のための特定目的会社(SP
C/Special Purpose Company)の設立登記です。SPCは大概普通の日本法
人ではなく、外国会社の日本支店という形で設立されます。その多くはアメリ
カのデラウェア州か、タックスヘイヴンとして有名な英領西インド諸島のケイ
マンの法人として現地で設立され、その後日本の法務局で日本支店としての登
記をします。
その理由としては、デラウェア州法はアメリカの中ではもっとも会社に対す
る規制が緩くて手続も簡便であること(アメリカでも多くの企業が実際の活動
の拠点とは関係なくデラウェア州法人の形態を取っています)、またケイマン
諸島は税法上の利点だけでなく、他にもさまざまな点から良く利用されています。
このSPCなのですが、数が半端ではありません。1つの外資系金融機関に
つき、最低でも20〜30個ぐらいは持っているのではないでしょうか。一つの
まとまったポートフォリオを買うごとに作ったり、一つの大きな不動産物件
につき1個会社を作ったりしています。私にも「来週から債権を買い始めるか
ら明日中に会社作ってください」などという依頼がよくきます。また、用が
済むと閉鎖してしまい、一度に10社を閉鎖したこともあります。まさに使い
捨て可能なフレキシブルなハコ、といった感じです。
また、このSPCの社名の名づけ方が結構面白いのです。何しろ作るときは
一度に5社10社と作るので、それぞれの会社につき、個性(法則性?)があります。
港区の地名を端からつけて行く外資系投資銀行、アメリカの国立公園の名前を
順につけていく外資系ファンド会社、また魚(?)の名前をつけていたところ
もあります。ただ、どうしても似通った名前になってしまうため、忙しい外資
の会社では時にはトラブルも起こりがちです。以前、とあるクライアントで、
あるSPCを閉鎖しようとしたところ、誤ってそれと名前が酷似した別の活動
中の会社を閉鎖してしまった、などというトラブルもありました。(ちなみにそ
れは私がやったのではありません�念のため^^;)
さて、売り手と買い手との間で不良債権の売買の話が固まると、買い手側の
外資系会社から「今度○○銀行の債権6000件の移転をやりますので」といった
依頼が私の会社にやってきます。
その時点までに買い手側はその移転する債権についての登記簿謄本といった
大量の資料を準備していますので、その資料が宅急便で私の会社に送られてき
ます。数十個のダンボール入りの資料が次々と部屋にうずたかく積まれはじめ
ると、社内は「さあこれから忙しくなるぞ」といった緊張感に包まれます。そ
して数千件の債務者リストとともに、それぞれの債権の担保となっている不動
産につき、債権を移転するためにどのような登記をそれぞれする必要があるか、
登記簿の謄本を見ながらチェックして行きます。
また、売り手側の金融機関に実際に行って、不良債権移転のために必要な書
類の現物がそろっているかのチェックも重要な仕事です。私の今年の初仕事は
とある生命保険会社の本社に行き、そこの地下大金庫の中で同僚10数名と買い
手側の外資、および売り手側である生命保険の担当者の方とともに書類のチェ
ックをすることでした。金庫は「ルパン三世」に出てくるような、丸い金属製
の扉は天井まであり、壁の厚さ70センチはあろうかという大金庫で、いくら扉
が開け放たれているとはいえ、中で作業するのがなんとも息苦しかったのを憶
えています。
そして、それぞれの登記に必要な書類を作成して準備し、書類は不良債権移
転の本契約の日に引き渡され、登記がなされます。また差押等入っている担保
物権については裁判所への承継の手続きを、債権譲渡については債務者への通
知がそれぞれなされます。
このようにバルクセールには大量の書類と、大量のデータがつきものです。
それにしても日々ダンボールに詰まって送られてくる何百、何千という債務者
リストを見ていると、日本の不良債権の怖いほどの膨大さ、底深さを肌で感じ
るようになります。ひっきりなしにバルクセールの移転処理の依頼はきますし、
毎日の仕事ですから感覚は麻痺していくとはいえ、それでもやはりこの債務者
リストの一人一人にそれぞれの人生があり、生活があるはずだと考えずにはい
られません。
バブルの頂点、といわれていた時期に私は高校生になったばかりで、そのこ
ろ六本木で家族と食事をしたときのことは忘れられません。溜池から六本木に
むかう道、路上に大量の人が出ていました。皆歩くのでもなく、ただ路上で大
声で話し、はしゃいでいました。ただの金曜の夜だったと思いますが、お祭り
のような騒ぎでした。三田の学生になってから六本木に行くようになったとき、
あまりに静かなことに、ここがあの時と同じ街なのかと思いました。あのころ
の狂騒が今このリストに形を変えているのだろうか、と思ったりもします。
不良債権の処理(といっても私がかかわっているのはごくごく末端ですが)
は砂漠の砂を運び出すような作業に似ていると思うときがあります。日本の
バブルも、アメリカのバブルも永遠ではなかったことを思うと、この作業も
当然いつかは終るのでしょうが、その時になってやっと日本の経済の再生が
始まるのかと思うと、費やされた時間、失われた富、そして流された痛みの
大きさを思わずにはいられません。
リレー・メッセージ 第35回 2001.7.14
今月は海瀬亀太郎さん(s40法)にご寄稿をお願い致しました。
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「育林-友の会の件」
このメールをお読みの皆様は慶應義塾が山林を持っていることをご存知でし
ょうか。
日吉や湘南藤沢キャンパスも自然豊かな森に囲まれていますが、これとは別
に北は宮城県から南は和歌山県に至る7府県に160�(48万坪)東京ドー
ムの34倍にも及ぶ山林を持ち、幼稚舎から大学院生までこの広大な山林で植
樹や育林活動に汗を流しています。
これらの山林は慶應義塾創立100周年事業が一段落した昭和39年に、当
時の高村象平塾長が義塾の更なる100年後に想いを寄せ、義塾の少壮研究者
を育成するための財政的基盤確立の一方策として(財)福澤記念育林会を結成
し植林活動を始めたのが起源です。
その後も引き続き植林を進めてきましたが、前塾長の鳥居泰彦氏は、「この
山林をただ単に財産として持っているよりも、より広く教育の場として、また
交流の場として活用し、義塾として最も重視すべき人材育成に役立てたい」と
の強い信念から自らが先頭に立ち、「塾長と育林体験の旅」を企画するなど積
極的な教育現場への森林の活用が始まりました。
今、これらの山林では塾生・教職員・地域在住の塾員・地元の高校生山林で
働いている地元の方々・他大学の教職員などとの幅広い交流が行われています。
まさに福澤諭吉先生が唱えられた社中協力がここで具体的な活動として実現し
ています。
しかし、慶応義塾には農学部や林学部は無く、必然的にこの活動は地元の塾
員や林業三田会のメンバーの支援に頼っていますが、活動が広がるにつれ、よ
り広く多くの方に応援をしていただくことが望まれるようになってまいりまし
た。
加えてこの育林会の事業を通じ生涯学習の場として活用できないかとの想い
から、福澤記念育林会「育林−友の会」が福澤先生没後100年を機に発足致
しました。
事業計画は以下のとおりですが、是非この会にご加入いただき、友の会とと
もに福澤記念育林会を大きく育てる力になって頂きたいと念願しています。
● 育林友の会の事業計画
○ 育林会や林業三田会会員の森林を訪れ育林作業や散策を楽しむ。
○ 森林・環境・自然・教育関係者によるシンポジュームを開催する。
○ 育林友の会ニュースを発行する。
○ 学生達の育林体験活動の支援を行う。
尚、この会の運営は教職員や塾員のボランティア活動により進めて参ります。
● 「育林友の会」入会に関して
○ この会は広く塾員以外からも会員を募集しています。
○ 年会費は 一口5,000円(最高10口まで)。
○ 会費は銀行口座からの自動振替で徴収させて頂きます。
●資料請求先
下記にご連絡を頂ければ詳しい資料をお送りいたします。
**********************************************
* kaise@1965.jukuin.keio.ac.jp *
* 林業三田会 世話人代表 (財)福澤記念育林会理事 海瀬亀太郎 *
* メールの表題は「育林友の会の件」として下さい *
* お名前・ご住所を必ずお書きください *
**********************************************
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リレー・メッセージ 第34回 2001.6.15
今月は冨島久理子さん(s57仏文)にご寄稿をお願い致しました。
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インターネット三田会の皆様こんにちは。
57年度仏文科卒の冨島(中澤)久理子です。
毎回皆様の「会員の方からのリレー・メッセージ」を楽しみに読まさせて頂
いております。
今回、いつも大変お世話になっております小野様より、突然の寄稿依頼のメール
をいただき、「子育て」や「仕事」の話では皆様の為にはならないかと思いまし
たが、「卒業論文ではなく気楽に!」のお言葉でお引き受け致しました。
たわいもない話ですが息抜きの気持ちでお読み下さいさればと思います。
慶應義塾との縁は生まれた時(慶應病院で生まれる)から? 飛び飛びにつな
がります。 慶應での学生生活は高校からが始まりでした。
女子高の時はマンドリンクラブ、大学4年間は体育会ゴルフ部におりました。
卒業後千葉銀行に1年半勤めて、アメリカのカリフォルニアに留学(両親に言
わせると留学ではなく学?!と)。 1年の約束でしたが、約2年おり、戻っ
て来てIBMでアルバイト、その後母校の日吉の心理学研究所に嘱託で働いてお
りました。
カリフォルニアで知り合った主人と結婚してからはずっと津に住んでおりま
す。 もうどっぷりと三重県民になっております。
現在2人の子供がおり、中学2年生の息子は毎日ソフトテニスのクラブに全力
投球で、英会話、バイオリン、塾と毎日大忙し。
小学校5年生の娘はバレエ、ピアノ、英会話、塾とやはりお稽古だらけ。
よって私の生活は朝8時に会社に向かい、娘の帰宅に合わせて戻り、その後は
2人の塾、お稽古の送り迎えに明け暮れております。
ここ、三重県は塾に通う子供達の割合が、人口は少ないのに全国2位、3位
になっていると聞かされております。 実際、塾お稽古と掛け持ちで通ってい
る子供達が大多数を占めております。 慶應に入りたかった私の時代は小学校
で塾に通っている子供は東京でもまだまだ半分以下でした。
またこの辺りは交通が不便の為、どの家庭でも車での送り迎えが盛んです。
お蔭で私も車での生活中心で自分の足で歩く事が少なくなり、運動不足に陥り、
体育会4年間、留学先でのゴルフ三昧とは程遠く、つい最近も腰痛で2週間寝
込みました。 毎日の生活でやっと自分の時間をもてるのは夜の11時過ぎ。
学生の時から早ね早起きの私にとってはハードな生活をしております。
さて現在仕事と書きましたが、主人の会社(日用品雑貨・化粧品卸売業)で
海外事業課が3年前より立ち上がり、そちらの商品開発をしております。
カリフォルニアに住んでいた経験を生かし、また専業主婦の経験から海外の
生活用品を幅広く輸入しております。
インターネット三田会の
これは「便利・買い物・輸入雑貨」で載せて頂いておりますが
http://www.inet-mitakai.com/shoping.html
こちらのホームページの編集も只今、産休の社員に代わり私の担当です。
一度買い物に遊びに来て下さると大変嬉しく思います。 また一言発注の所に
メッセージを頂けたら仕事をしていても励みになります。
皆さん書かれておりましたが、本当に慶應の方は愛校心、団結心が強く、慶
應出身と言うだけで自然に輪になっていきます。 ここ、三重県も元参議院議
長の斎藤十朗先生をはじめ数多くの諸先輩がおられます。
津三田会、東海支部グリーンクラブ(体育会ゴルフ部卒業生の会)と、出席は、
子育て中と始めたばかりの仕事の忙しさでなかなか参加は難しいですが、参加
すると為になる事が多くあります。
仕事の話に戻りますが、ここのところ輸入の難しさを痛感しております。
主婦の立場で欲しいと思うものが、直ぐには「ハイどうぞ」と、消費者に提供
するにはいろいろな手続きがありそう簡単には出来ません。
皆様の中にも商社のお仕事に携わっておられる方は「当然!」とおっしゃられ
れる方もいると思います。
まして中小企業の当社は社内には優秀なスタッフがおりますが、設備が商社の
ように揃っておりません。 国内の石鹸やシャンプーを売っていても、海外の
石鹸等は規制があり、検査、資格の持っている社員がいるか…と。
なかなか向こうで「これ!!」と思ってもすぐさま輸入して売ることが出来ま
せん。 そうこうしている内に消費者に提供できる品物が当社では限られて
しまいます。
難題にぶつかる度に引き気味になっていた私にある日息子が、「お母さん、
前はこれも欲しい、あれもと、お客の立場で言っていたのに、ここの所言う
ことが、売れる為にはとお店の立場に見方が変わってきたよ?」と突然言わ
れはっとしました。
まだまだ消費者の立場で欲しい物はいっぱいあるのだから頭を切り替え、挑
戦しなくてはと。
機会があると友達にも何が欲しい?と聞き、又今は情報化時代で本当に瞬時
にいろいろな事を調べる事が出来インターネットも多いに活用しております。
パソコンも仕事で必要不可欠の為お陰で使いこなせるようになってきました。
ここ、3年位だけでも日本は急速に普及してきて、専業主婦をしていたらこ
うも時代の流れに乗れなかったのではと思います。
余談ですが慶應女子高等学校のホームページで、皆一人一人パソコンを前に
している授業風景を見た時には、当時宮永先生の授業でフォートランを習っ
た私にとっては、あまりの設備の違いに大変驚きました。
元に戻りますが、とにかくこの様にあらゆる手段を使って商品を開発し、
1つ1つ自分達の手で作り出しております。 子供を育てるのと同じ気持ち
です。その為、店頭で、開発した商品が消費者の目にとまり気に入って頂け
た時の喜びはひとしおです。
仕事に携わり間もない頃、たまたま実家に戻り、母達と出かけた荻窪ルミネ
で、 自分の手がけた商品が、POP(広告)と共に売られていたのを見た時
には、その場で叫びたいぐらい感激いたしました。 子供達もこんな離れた
所で、私のつくったPOPを発見し「アッ!!」と驚き、母は思わず3個も買
い求めてくれました。
その商品というのは、やっとここの所東京方面に多数出回るようになった
『クリニマルズ』(可愛い動物付きのお風呂用ボディースポンジ)です。
http://www.rakuten.co.jp/ts-comp/411604/
その他、その年の新製品を一堂に集めて展示するギフトショーがありますが、
本年の「第51回東京インターナショナルギフトショー2001年春」で当社が
出展した商品『バグトラップス』が「輸入品部門新製品人気コンテスト」に
おいて大賞をいただきました。
http://www.rakuten.co.jp/ts-comp/411179/436453/
海外事業課のスタッフ一同苦労して商品開発に努めていて良かったと、新た
にまた意欲が湧いてきました。 この商品もまもなく私共のホームページで
も買えるようになりますので興味がある方は商品説明を御覧になって頂けた
ら幸いです。
その他、男性の方にはこれからの時期、家庭サービスに浜辺に持参の、去年
「はなまるマーケット(TBS系列)」のクイズママダスや雑誌で取り上げら
れた『サンドアンカー&テーブル』や水に浮くリラックス出来る椅子『ヌー
ドルチェア-』がお勧めです。
http://www.rakuten.co.jp/ts-comp/424622/
女性の方には「海外に行くと必ず土産に、かさばって困るけれどプリント
が可愛いので買って来る」という
人気商品の 『バウンティーのペーパータオル』。
http://www.rakuten.co.jp/ts-comp/411171/
香りの素敵な『洗剤シリーズ』等がお勧めです。
お中元セットも間もなく登場します。
http://www.rakuten.co.jp/ts-comp/411179/438349/
何だか宣伝ばかりになってしまってすみません。
私にとっては今一番大切な事なので長々と書いてしまいました。
大きな店舗のサイトにはまだまだ全然かないませんが、
『便利に。安く。快適に。楽しく』をモットーに、常に消費者の立場を
考えて商品開発に努めて行きたいと思っています。
こんな商品が欲しいとかございましたら教えていただけると嬉しいです。
インターネット三田会の会員の方でお買い求めになっていただいた方が
おられました。 この場をお借りしてお礼申し上げます。
何時のまにか「専業主婦」から「意気込み主婦」に変っている自分に
気づきました。 又、息子に指摘されそうです.......
それでは梅雨時、体調にはくれぐれもお気をつけてお過ごし下さい。
皆様のますますのご発展とご健康をお祈り致しております。
何処かでつながり、慶應の輪を広げていける事を心より楽しみに
致しております。
http://www.rakuten.co.jp/ts-comp/
http://www.tomidaya.co.jp
リレー・メッセージ 第33回 2001.5.15
今月は矢板憲司さん(s51経)にご寄稿をお願い致しました。
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「神田の風景」
こんにちは。昭和51年卒の矢板憲司です。
今日は私の生まれ育った街について紹介させていただこうと思います。
私が住む街は神田。下町とオフィス街、伝統の町並と専門店街が入り交じった
如何にも東京らしい風景と思います。
今年は神田祭りが5月第二週に行われます。江戸時代は浅草の三社祭り、日本
橋の恵比寿講と共に江戸の3大祭りに数えられました。しかし、今では4年に
一度の開催とやや寂しくなっています。その原因は…そう、人口減少ですっか
り担ぎ手が居なくなったためです。
4年に一度の大祭は神田にお勤めの人は勿論のこと、各地から担ぎ手を集めて
ようやっとの開催となっています。神田祭は神輿の勇壮さを競うが故に、担ぎ
手不足は祭りを衰退させた大きな要因でしょう。町会毎に設えた神輿が神田の
街を威勢良く練り歩きます。
神輿を担いだ後は銭湯で汗流し。神田には今でも銭湯が残っていますが、特徴
はお湯が極めて熱いこと。熱湯好きの銭湯ファンは是非会社の帰りにお試しく
ださい。その後の一杯は格別かも。
さて神田祭りの中心は平将門を祭る神田明神。
神田明神の本社(やしろ)は江戸時代に御茶ノ水近くの小高い丘に引っ越して
いますが、将門首塚の残る大手町は今でも塚に背を向けて仕事をすると祟りが
あるとか。
神田明神の裏の急坂を降りると銭形平次が住んでいたという明神下。この辺り
は妻恋神社、湯島天神と続き正月は参拝客で大変な賑わいです。更に先へ進め
ば上野不忍池。明治の頃はこの池をめぐって競馬が開催されました。
さて、神田へ戻りましょう。明神下から昌平橋を南へ下ると左側の須田町付近
に老舗の飲食店が見えます。戦前に戻ったような木造2階建てのお店が並びま
す。一番名が売れているのが「神田やぶ蕎麦」。蒸篭が2枚、3枚とあっとい
う間に胃袋に収まっていきます。同じく蕎麦屋の老舗が「まつや」。ここは
「たまご丼」でも有名でお昼は大変な混みようです。小粋に蕎麦屋で一杯飲ん
でと考えていらっしゃる方、蕎麦屋で出てくる日本酒は「菊正宗」です(まつ
やのご主人によると蕎麦屋の8割はそうだとか)。理由は菊正が一番蕎麦に合
うからだそうです。今度彼女を連れて蕎麦屋へ行かれる際は日本酒を口に含ん
で「う~ん、これは菊正だな」とやってみられては如何でしょう。
さらにアンコウの「伊勢源」鳥鍋の「ぼたん」は今でも下足番の小父さんが陽
気に挨拶をして座敷に通してくれます(大きな畳部屋で、皆で鍋をつつきます)。
須田町からそのまま東へ行くと交通博物館を経由して秋葉原電気街。
相変わらず白物家電が中心ですがPCやゲームソフトも幅をきかして来ました。
最近は店舗の移り変わりが早いとか。この辺りで買い物をされる際は西川無線
をどうぞ。若専務は卒業25周年事業で奮闘中です(もう、若○でもないか…)。
さらにJRに沿って南へ。
神田駅近辺は山手線の飲み屋街の中では一番安い街ではないでしょうか。
東京駅と上野駅という大ターミナルに挟まれた絶好のロケーションと豊富な乗
降客。更にバブル崩壊によるオフィス需給のアンバランス。元々日本橋や大手
町に隣接するオフィス街だったのが、次々、飲み屋へと衣替えしつつあります。
ヤキトリの「とら八」、カニと刺身の「魚海船団」、中華の「好好」「蓬莱園」
(餃子やエビチリでなく、是非お店の推奨品を召し上がってください)が大衆
酒場としてお勧め。
神田の南端が鎌倉河岸。ここは日本におけるオフセット印刷の発祥の地。かく
云う私の親父も生前はここでオフセット印刷の工場をやっておりました。印刷
業も景気が良かったのは戦後の25年間。今では職人も集まらずビル街に変わ
っています。
先ほどの銭湯「稲荷湯」もこのビル街の中に。ちょっと見では銭湯と気付きま
せん。
さて、本屋街は同じ神田でも神田駅からはだいぶ離れています。
其処へ行くには地下鉄の神保町。「三省堂」「書泉」と云った総合書店からマ
イナーな出版物を扱う専門店まで、ここに来ても見つからない本はもう諦めた
方が良いくらい「すずらん通」沿に3、4階建の本屋が建ち並びます。そして
その横にあるのが「ミズノ」をはじめとしたスポーツ専門店。特に冬場はスキ
ー・スノボー用品を求める客で大混雑。よくも毎年買いに来る人がいるものだ
と東京の奥の深さを感じさせてくれます。
ここから神田明神の方角に戻れば明治、中央と云った学生街になり、日吉に似
た街並と言えるでしょう。神田駅周辺がサラリーマンのたむろする夜の街とす
れば、この辺は若者の行き来する昼の繁華街です。
さて、ざっとご紹介してまいりましたが、神田は結構広い街です。
しょっちゅう来られてる方も多いと思いますが、「え、直ぐ傍にそんな地区が
有ったの?」と感じた方も意外に多いのではないでしょうか?
近くには上野、浅草、銀座、日本橋と言った繁華街、九段、靖国、北の丸公園
と言った名所も控えております。
是非、家族連れで遊びにお越しください。
リレー・メッセージ 第32回 2001.4.15
今月は岸本 正さん(s50文)にご寄稿をお願い致しました。
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「慶応義塾と最近の私,教育改革のことなど,あれこれ」
インターネット三田会の皆様方,はじめまして。昭50文史卒岸本 正と申しま
す。当会に入会させていただいて3年くらいになりますでしょうか,小野様より毎
月送られてきますメールニュースをいつも楽しみにしている者です。オフライン会
にも昨年今年と2回ほど参加させていただきました。教員の世界は狭いもので(小
生,公立学校に勤務しております)私にとって,いろいろな職種の方々の専門分野
をかいま見たり,交流することで社会勉強ができる,生涯教育の貴重な場としてイ
ンターネット三田会を活用させていただいております。今回,寄稿のご依頼をたま
わり,小野様をはじめ会員の皆様に少しでも,ふだんの恩返しができればと思い,
拙文ながらあえて送付させていただきました。
さて,塾への思いについて最初に書かせていただきます。卒業以来40を過ぎる
まで塾とはほとんど疎遠にしておりました。それが数年前,卒業25周年の記念行
事に向けての組織づくりにお声がかかり,実行委員のはしくれをさせていただきま
したことが,塾への関心が向くようになったきっかけだったかと思います。毎秋,
日吉での連合三田会大会に家族で参加するようになったのもこの頃でした。幸いに
も愚息が普通部にお世話になるようになったのが3年前,今度は塾員という立場に
加えて,保護者という立場にもなって以来,塾への思いはますます募るようになり
ました。今でも息子の入学式で歌った塾歌の感動,感慨が忘れられません。今では,
すっかり生活の中に塾の存在が大きな依りどころとなっている次第です。
毎週土曜朝は,加藤寛学長の対談番組を見,小説は車谷長吉さんの新刊本を読み,
三田評論だけでなく塾生新聞を定期購読し,スポーツは秩父宮まで同期の上田総監
督率いるラグビーを応援しに行ったり・・・。昨秋は日吉での連続公開講座(一番
の印象は引退前の曙関の人柄に感動)や丸ノ内シティキャンパスでの村井教授や竹
中教授の講演にも顔を出したりなど,生活そのものが塾の方を向くようになり,自分
でもあきれるほど慶応びたり,慶応漬けの毎日ではあります。最近では,大晦日の第
2回世紀送迎会や和光での福澤展,それに初めての善福寺墓参などはもとより,岩
波書店より復刊された冨田正文氏の「考証福澤諭吉伝」上下巻を購入し,先生の遺
徳を学んでおります。妻いわく「お父さんほど愛校精神あふれる人はいないね」母
からは,「ある程度の年齢になるとみんなそうなるのよ,おじいさん(私の父,早
大出身)もそうじゃない」と言われる始末です。
さて,私の生業ですが横浜で公立学校に身を置いています。慶応義塾といえば,
経済界に数多くの人材を輩出してきたというイメージが強いのですが,教育史をひ
もとけば,福澤先生が塾を立ち上げられて以来,明治前期のわが国の教育界におけ
る塾出身者の比重はたいへんなものだったことがわかります。先日(3/26)にも三
田大学院校舎で三田教育会主催の研修会があり,福澤研究センター嘱託員曽野洋氏
(法学部ご出身,玉川大学講師,教育史)のお話をうかがう機会がありました。
紀州藩の中等教育と福澤門下生に関するお話でしたが,あらためてその感を深く
した次第です。このことを大きな誇りにして私も現職に励んでいるわけです。
現在,公教育の現場は,いわゆる「いじめ」「学級崩壊」「不登校」をはじめ,
戦後の新学制施行以来の制度疲労とも言われる種々の問題をかかえこんでいます。
と同時に,それらに対処すべく,また来年より実施される完全学校5日制に向けて,
新しい学校づくり,教育改革を模索していることは皆様もご存じのことでしょう。
私の経験から言っても,20年ほど前とは,子どもも親も社会も大きく変容し,地
域における公立学校のあり方もずいぶん変わってきたと思います。そんな状況の中
で教師自身も意識の変革を迫られています。教え込む教育から子どもの学習を支援
する教育観,学習観,子ども観への転換。このことは従来の経験が,これからは必
ずしも通用しないことを意味しており,現在ほど教員が厳しい状況に置かれている
時代はないかもしれません。もっともこのことは民間企業をはじめ,高等教育など
についても言えることでもあるでしょう。
そんな中で最近,新聞記事をきっかけに興味を持ち,実際に研修してきたことを
一つご紹介したいと思います。それは,新しい学校のあり方のひとつとされ,最近
とみに注目されている「チャータースクール」というものです。
ここで,日経新聞3/25付「教育を問う,第4部,もう一つの社会主義」記事
から引用させていただきます。
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税金を使って民間が運営する新しい形の学校(チャータースクール)。州や地区
の教育委員会から認可(=チャーター)を得れば,規則に縛られず,だれでも税金
で公立学校をつくれる。税金を使う代わりに,説明責任が強く求められる。チャー
ターは,ほぼ5年ごとの更新制。成績向上の公約を果たせなければ閉鎖される。1
991年にミネソタ州が導入して以来,全米で2000校に広がった。(中略)米
国でチャータースクールが急成長する背景には,荒れる公立校への不信がある。そ
れは日本も同じだ。
神奈川県藤沢市の小学校の佐々木洋平教諭は「湘南に新しい公立学校を創り出す
会」を結成した。きっかけは,学級崩壊への対応だった。二階からはさみやチョー
クが降ってくる。荒れた学年で担任制をやめ,98年に算数で習熟度別指導を導入。
その効果で騒ぎは収まった。だが同僚からは「目立ちたがり」と冷たい視線を浴び,
指導は2年で打ち切られた。「学年の輪切りでなく,子どもの進度に応じて教える
学校をつくりたい」空き教室活用による新しい学校設立を地元教委に提案したが壁
に当たった。チャーターのルールがないのだ。日本で学校を運営できるのは国か自
治体か,学校法人(私学)だけ。法律がそれ以外を想定していない。「多様なチャ
ータースクールづくりが既存の公立校を変える」(民間シンクタンクの「構想日本」
)「一定数の署名を集めれば地域の有志が学校をつくれるようにする」(金子郁容
慶応義塾幼稚舎長)新しい学校づくりを求める意見は強まっている。だが肝心の文
部科学省の腰は重い。(引用終わり)
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この「チャータースクール」2000年版「知恵蔵」電子ブック版によれば
「【チャータースクール】charter school<国際関係‐アメリカ>州政府とチャータ
ー(特許状,特許契約書)を交わした上で,親,教師,地域団体などが公費で自主
運営する公立学校。一九九一年,ミネソタ州で初めて法制化され,現在までに二九
州で約800校近くが設立された。児童の基礎学力の低下,教育サービスの地域格
差など,公教育の危機的現状に業を煮やした親たちの「手作り教育」への熱意を,
国際競争力の強化には学力増進が不可欠と考える連邦政府や産業界が後押しして,
公教育へ民間の活力を導入した結果といえる。クリントン大統領も,九七年の一般
教書演説で,教育改革の目玉の一つとしてこの制度をあげた。設立者の要求に沿っ
たカリキュラムが組め,子弟を私学にやる余裕のない層にも教育を選ぶ自由が与え
られるなど,メリットは少なくないが,チャータースクールが大きくなればなるほ
ど,一般校に充てる教育予算がそのあおりを食うなど,解決すべき課題も多い。」
とあります。
以前から新聞記事などでその存在は知っていました。しかし,その内容や日本で
の動向については詳しく調べてみたことはありませんでした。そこで,今回上の記
事中にある「湘南に新しい公立学校を創り出す会」のホームページを探し,いろい
ろと情報を得るうちに,これはアメリカの後を追って,近い将来わが国の公教育改
革の切り札になるものではないかと思い始めるようになりました。そこで,3/3
1に藤沢で引用文にもある金子幼稚舎長の講演を交えて,「創り出す会」のシンポ
ジウムがあることを知り,参加してみようと思い立ちました。以下はその簡単な報
告です。メモ風ですみません。
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【第1部 金子郁容氏 講演】
小学校長の立場に2年前になって以来,ちょっとした子どもたちとのふれあいが
大切であることを知った。舎長の講話への反応,ボランティアや情報は一人一人違
うという講話の意図を1年生なりにとらえられた。6年生が1年生と遊ぶ。子ども
は遊び学びを自ら創り出す。1年生をおんぶしたり。幼稚舎は比較的教員の採用が
自由であること,公募制をとっている。教員免許は前提としない,必要ならとると
いう体制。新しい教師が来ると校内が活気づく。公立校も教育方針を打ち出して人
事権をもってよい。しかし,それなりの責任をもたなければならない。公立校で校
長が直接,教職員を選べないのはおかしい。人件費の問題もあるが。幼稚舎では,
いろんな意味で競い合いがある。冬の縄跳び30種目に挑戦。標準記録を越えると
校内にはり出される。駆け足とび97分で幼稚舎記録が出た。その他,マリンバの
実力発揮 けん玉上手などいろんな場面で得意になれる。一つでもそれが見付けら
れると晴れがましい経験になる。それが,学校が楽しい場所,意味のある場所にな
ることにつながる。
「教育改革国民会議」委員の経験。首相の私的諮問機関,昨年末,最終報告書を出
した。役人が書いたのではなく,委員自ら執筆した。日本の教育システムは,紙の
上では進んでいる。文部科学省,初等中等局長発言,日本の教育は「完全な地方分
権化している」というが・・・福島の教育長公募,品川区の学区制柔軟化など新し
い動きはあるが,すでに15年前,臨時教育審議会の時代から議論されていた。学
校評議員制度についてもすでに出ていた。15年かけてやっと実現したが,できた
ものは中途半端。このように,日本の教育改革は,変革への自己規制が強く,教育
現場も萎縮化してしまう構造がある。しかし,社会改革を教育から始めるのはよい
ことだ。閉塞感を打破するために,「コミュニティスクール構想」を提言した。岩
波より刊行。新しいタイプの公立学校として 国,行政,私学(24000校のうち私
立小学校は170校しかない)私立中学校もたった2.6%。だれでも学校をつくれる,
やる気と能力,経験があれば。市民の自発性を尊重して,市町村やその広域連合体
が,一定の署名を集めて設立できるようにと提案。公立校の現状はあまりに中央集
権的,大きなヒエラルキーの中にある。細か過ぎる指導要領,多様な授業をしろと
はいうが。教育委員会が市民,教員などからなる協議会に学校設立の権限を委譲す
る。そのかわり一定の評価を受ける。地域のニーズに合わせて実施すればよい。日
本中をコミニティスクールにしろと言っているのではない。作りたい要求があれば
つくれる体制づくりを。日本のような画一的な公立校はめずらしい。いろんな公立
校があってよい。言葉は違ってもスピリットはチャータースクールと同じである。
NPO法案の流れ,コミニティスクール法案設立のためのHPつくる。政治的にも
進行中である。自民党,民主党の動きも具体的に行われている。
【第2部金子郁容氏,鶉浦裕氏,佐々木洋平氏パネルディスカッション】
司会
米国事情から見た日本の構想は?
鵜浦
公教育における独立運動ととらえている 行政の決定から市民主役へ
私立のよさを公立に生かす,萎縮する教師にやらせてみよう,やる気のある教師
に道を拓くことにつながる 実現のためには,いくつかの法案が競合するとよい
品川区の選択制 3/4が指定校に行きたくない 市民が公立学校をつくる,
今何故?
金子
公立学校はただではない 10兆円の税負担 私立校の保護者は税金の上に授
業料を払っている 巨大な官僚機構 当然の流れ 今まで一枚岩だったのがおか
しい 公立学校の中でもいくつかある これが当たり前
佐々木
今の体制を多少なりともよくしたい チャータースクールあ米国ですでに20
00校,実績あるものとして学ぶべきもの多い 特別な認可 ともかく風穴を開
ける 法案化に向け実践 とっぴな発想でなく必然 組織づくりは,学校関係者
だけでない 学校を築くところから市民と一緒に その代わり責任を,責任分か
ち合いをという発想
鵜浦
「起校家」という言葉をつくった 学校をクラフトする 品川区のような上から
の改革がもし成功しても市民による起校が必要か?
金子
選択肢をつくることは大切 教員を自分たちで選ぶ 10兆円の税金は我々が
払っている いくつかの不安定要素があってよい 地域のチョイスでよい
司会
湘南小学校(注)がもし品川区にできたら?
佐々木
6〜12才の児童 学びを子どもが決める,教師はサポート役 サマースクー
ル 毎月フリースクールを実践している しかし現状では指導要領を抜け出るこ
とはないだろう 担い手の責任と熱い思いが大切
鵜浦
独立校,自立校と約すか? 学校格差の問題が予想される 捨て身,存続をか
けた手段 父母,財界の要求はわかるが一般の人の要求はどれくらいあるのか?
金子
実際にやっているところを見せることが大切 行政には我々ができないところ
をやってもらう
佐々木
本日の第4回シンポ,あまり宣伝しなかったがこれだけ集まった 早く制度を
実現させて,会を解散しなければという思いが強い 制度づくりを別組織にした
「日本型チャータースクール推進センター」による法案作成を進めている
金子
チャータースクールとコミニティスクール構想との関係 ボランティア NPO
チャーター(契約)米国型のスピリットと,英国式の学校ごとに理事会を持ち,
行政は人事権を委譲するローカルマネージメントスクールの制度を手本に。ただ,
法案の要綱案を作成するだけで実際に法案を制定するのではない 議員立法の形
になるか?
佐々木
たまたま最初に知ったのがチャーターだった,コミニティスクールは後だった
だけ,ネーミングは問題ではない 制度づくりは,様々な方法で築き上げていく
必要がある
(注)「湘南小学校」は実在しない。「創り出す会」が考えている仮称の学校。
以下5項目をめざす。
・やりたいことを自分で決めて学習する学校
・選んで入る学校
・子どもの学習成果に責任を持つ学校
・公立の学校
・学年,学級のない学校
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以上ですが2時間半にわたる熱のこもった集会でした。なお,この「湘南に・
創り出す会」はNPO法人としての認可を正式に受けた団体だそうです。私がは
じめ警戒していた特定政党による政治的色あいは,少なくとも今回の参加した限
りでは感じられませんでした。当日の出席者も教育関係者だけでなく父母,市民,
学生,マスコミ関係と多種多様でした。
私の現在の立場としてはは,公教育に携わる者として,「湘南に・・・創り出
す会」のように,日本型チャータースクールを積極的に設立しようとする意志を
持つ者ではありません。しかし,現在の硬直化した公教育を揺さぶるたいへんよ
い教育動向であると判断します。それは,よい意味での教育現場における競争原
理導入の一つだと思うからです。上(文部科学省)からのそれではなく,下(教
育現場の切実な要求)からの動きだからこそ,今までにない貴重なもので,今後
注目すべき教育改革の一つの形だと思うのです。教育問題は,だれもが論議に参
加できる身近なものです。皆様は,どうお考えでしょうか。
以上,とりとめもなく書き連ねて参りましたが,お読みくださり有難うござい
ました。前記,加藤学長の番組によれば,現在の「教育基本法」は,高橋誠一郎
文部大臣の時代に成立したと聞きました。また,高村塾長,石川塾長はじめ慶応
義塾の多くの先達の方々が,政府の教育行政,政策に深くかかわっておられたこ
とと思います。現,鳥居塾長は,最近「中央教育審議会」の会長になられました。
金子舎長は上の報告にもあるように「教育改革国民会議」の委員でもあられまし
た。私はまだ,手にしておりませんが加藤寛学長らによる「教育は何を目指すべ
きか,新・教育基本法私案」がPHPより最近出版されたと聞きます。今後の教
育改革が明治の近代教育草創期と同じように,慶応義塾のリーダーシップのもと
に行われていくことを皆様と共に期待したいと思います。
私も,その末端(実は最前線か?)として励んでいきたいと思っております。
最後に蛇足ながら,最近のできごとで驚いたことをひとつ紹介させてください。
先月息子がもらってきた普通部の卒業証書を見てアレッと思いました。それは何
と27年前に私がいただいた大学の卒業証書とまったく同じ形式だったこと。中
身の様式も折りたたみ式の三色カラーのフォルダーも・・・これにはびっくりで
した。この春,塾高生となった息子には,こういうのが3冊たまるんだなぁと思
いました。ちなみに上の娘は来年大学受験,国文科を目指しています。私として
は,折口先生,池田先生の伝統のある塾文学部に進んでほしいと願っていますが,
果たしてどうなりますことやら・・・
【岸本アドレス】
mgh01431@nifty.ne.jp
【関連URL】
○教育改革情報(大沼安史さんのページ)
http://www.umlaut.co.jp/onuma/index.html
○湘南に新しい公立学校を創り出す会
http://www.tamago.org/Tsukurukai/index1.html
※上の報告中にある「湘南小学校」の具体的構想などについて詳しい情報があります。
○日本型チャータースクール推進センター
http://user3.allnet.ne.jp/charter^center/
○三田教育会
http://www.mitakyouikukai.keio.ac.jp/
リレー・メッセージ 第31回 2001.3.15
青山 紘一さん(平成9法・通)にご寄稿をお願い致しました。
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「福澤諭吉と特許制度」
1.はじめに
銀座・和光の「福澤諭吉没後100年記念展」(1/29〜2/10)は、福澤の先見性
を再認識する機会となった。
福澤が日本で最初に始めた「演説」が独立コーナーで扱われていたが、西欧
におけるスピーチ(公開討論、多事争論)の慣習を日本に導入したのは福澤であ
り、そもそも「speach」を「演説」と命名したのも福澤といわれている。
三田山上の「演説館」(重要文化財)は、明治8年の開館以来 実に120数年にわた
り670数回の演説会が現在まで続いている。
私が長年奉職している特許(Patent)の世界でも、一般にはあまり知られて
いないようであるが、特許制度を日本に最初に紹介したのは、福澤である。
慶應3年(1867年)発行の「西洋事情」(外編第3巻・491頁)に紹介している。
「私有の本を論ず」の項中に、「・・・・有益の物を発明したる者へは、官府より
国法を以て若干の時限を定め、其時限の間は発明に由て得る所の利潤を、独り
其発明家に附輿して、以人心を鼓舞する一助と為せり。之を発明の免許パテン
トと名づく。・・・・」(岩波・福澤諭吉全集第1巻、P.467)とある。
その後、この珍しい制度を当時の有識者や新聞が競って解説を始め、明治4
年の専売略規則、明治18年の専売特許条例を経て、今日の特許法に至ってい
る。
2.特許制度の意義
特許制度は、主として、研究開発に対するインセンティブを与える制度で
ある。新規な発明をしこれを公開した者に対して、一定期間(日本では特許
出願から20年間)の独占的実施権を付与することによって研究者や企業人の
研究開発意欲を促進させ、これによって産業の発達に寄与させるというもの
である。また、研究開発における公正な競争秩序の維持を図るための制度で
もある。
近年、新製品、新技術開発のための開発費が巨額化している。例えば医薬
品では、一新薬の開発費は2〜3百億円が相場である。その一方で、研究開
発の成果は形のない財産であるため、つねに他者の模倣にさらされるという
運命にある。競業者の模倣(フリーライド)を許せば、研究開発費を一人で
背負い込むことになり、競争上著しく不利な立場に追いやられる。
現在、特許制度を最も有効に活用しているのは、なんといっても米国であ
ろう。米国は、米国産業の国際競争力の低下現象が見えはじめた1970年代末
頃から、国家戦略として、プロ・パテント(特許重視)政策を採用し、その
後、技術貿易の黒字を急拡大させるなど、国際競争力を一挙に挽回している。
近年では、情報・ネットワーク技術やバイオテクノロジーなど21世紀のリ
ーディング技術・産業においても有利な地位を占めるために、プロ・パテン
トを高揚させたIP(知的財産)重視政策を推進している。
米国企業の特許・知的財産権攻勢によって、日本企業が窮地に追い込まれ
ているケースも少なくない。
3.21世紀のリーディング産業と特許
21世紀のリーディング産業といえば、ITとバイオ(遺伝子ビジネス)であ
ろう。
(1)ITと特許・知的財産権
21世紀を迎えて、IT革命がいよいよ本格化しようとしている。IT革命
は、あらゆる分野において、産業革命(18世紀)に匹敵する歴史的な大転換を
もたらし、「知識創発型社会」に急速に移行すものと予想されている。ビジ
ネスの方法も、超高速インターネット網の整備などによって、これまで想像
もできなかったような市場が形成され、また、電子商取引(E−コマース)を
中心とした新たな取引形態が生まれつつある。
ITの基盤技術の一つであるキルビー半導体特許(TI)は、1959年(昭和
34年)に米国に最初に特許出願されたものであるが、日本でも特許となり、
最近まで、日本の半導体メーカーが苦しめられてきた。
カーマーカー特許(AT&T)も、米国でいち早く特許となり、数学的操作
によりコンピュータを用いて新しい解法(最適解)を得るという応用数学の
分野に属するものが特許になったとして、関連業界や学会において大騒ぎと
なった。
最近では、米国において、逆オークション特許(インターネット上で客が、
例えば航空券の購入価格などの購入条件を指定し販売業者がそれに応じて価
格を提示し仲介者が購入条件に合う販売業者を見つけるというもの)、1ク
リック特許(顧客がウェブサイトで買い物をする際に入力した氏名、クレジ
ットカード番号、住所などをシステムに記憶しておき、これらの情報を2回
目以降の買い物の際には入力しなくても、顧客がマウスボタンを1度クリッ
クするだけで済むようにした方法)、金融サービス特許(複数の基金から資
金を単一ポートフォリオにプールし投資先の日々の変動や資金の変動をデー
タ処理しそれによって投資先の出資比率を決定するもの)などのビジネス方
法の基本特許が次々と成立しており、電子商取引や金融ビジネスの分野にお
いてもまたまた日本企業が特許紛争に巻き込まれるのではと懸念されてい
る。
ビジネス方法特許は、発明の主要部がビジネスモデルやビジネスアイデア
等の「非技術的な要素」によって占められており、技術的な要素として、コ
ンピュータ、ソフトウエア、データベース、ネットワークなどITの使用は
あるが、技術的な要素に選択の余地が少なく、実質的には、ビシネスの方法
自体が特許になってしまうという危惧がある。また、インターネット・ビジ
ネスなどでは、米国のビジネス方法特許が、日本など米国以外のサイト運営
者に対して、米国内でそのサイトにアクセスが可能なことを理由として行使
されることがあるか、といったことも懸念されている。
ビジネス方法(e−ビジネス)をIT(コンピュータ、ソフトウエア、デ
ータベース、ネットワークなど)と絡めて特許を取ってしまうというのは、
一種の盲点であった。
日本でも、米国に遅れて、ビジネス方法特許の出願がフィーバーしている。
凸版印刷のマピオン特許(インターネット上の広告情報の登録方法)、住友
銀行のパーフェクト特許(仮想支店を使用した振込処理システム)など、優
れたビジネスモデルがすでに特許となっている。
企業にとって、急速に進展するITを活用した優れたビジネスモデルを創
出し、これによって新たなビジネスを切り拓くこと、また既存のビジネスで
あってもこれらをITによって高度化を図っていくことは、21世紀・IT革
命が進行する中で、企業が発展していくうえで不可欠である。
(2)遺伝子・ゲノム特許
21世紀を迎え、遺伝子・ゲノムによるもう一つの産業革命が胎動している。
1990年にスタートした巨大国際プロジェクト「国際ヒトゲノム計画」は、
2000年6月に解読データのドラフト(概要版)が完成したと発表され、2001
年2月にはその内容が公表された。
こうしたヒトゲノム情報は、製薬医療分野において、ゲノム創薬(遺伝子
情報を活用した新薬の開発)、テーラーメイド医療(遺伝子を利用した個々人
にあった医療)への利用が図られるほか、今後、個人の体質をゲノム情報レ
ベルで把握し未然に発病を防ぐ予防医学への利用も期待されており、その他、
食品・農水産分野、環境分野(バイオレメディエーション)などへの活用も
期待される。
遺伝子・ゲノム分野においても、米国がほとんどの基本特許を押さえてい
る。わが国のゲノム研究は、遺伝子・ゲノム分野の基礎技術において欧米に
決定的な差をつけられており、遺伝子ビジネスにおいて重要な役割を果たす
大学やベンチヤー企業においても米国に圧倒的な差をつけられている。
ゲノム研究は、もともと純粋科学の分野に属し、その研究成果は純粋科学
研究の成果であり、当然のこととして人類共通の財産(公共財)であると考
えられてきた。これらを私的な財産(私的財)として特許権等により独占す
るという考え方はなかった。
ところが、米国では、最近、DNAの断片(EST)自体にも特許が付与
されている。特許権の範囲の解釈として、その断片を含む全ての遺伝子の利
用に権利が及ぶとなると、その影響力は計り知れないものとなる。PCR法
と呼ばれるDNAの増幅技術にも特許が成立しており、遺伝子研究の汎用的
ツールであるため、代替技術がなく、特許権者にその使用が拒絶されると研
究自体にも甚大な影響が生ずることになる。
ゲノム研究の成果としては、遺伝子情報が重要な部分を占めているが、ヒ
トゲノムの解読データを囲い込んで、そのデータベースを高額の契約金の下
に特定の者にのみ公開するというビジネスも行われている。
ゲノム研究における基礎的研究の成果は産業化に直結し、とくに遺伝子の
配列は有限であることから、遺伝子を特許で押さえた者は圧倒的に優位とな
る。特許制度は、たとえ紙一重の差であっても最先の発明者が特許権という
排他的独占的実施権を獲得し、劣後者は、特許権者の許諾がない限り業務と
して実施することができないという制度に設計されている。
4.特許制度の課題と展望
特許制度は属地主義であり、世界各国で発明を独占したい場合は、それぞ
れの国に特許出願をして特許権を得なければならない。
WTO(国際貿易機関)下の「TRIPs協定」や「工業所有権に関するパ
リ条約」などの国際条約が存在するが、各国、とくに米国は、特許を国家戦
略の一環として、自国に有利な運用を図ろうとしており、そのため、自国の
得意分野である基礎研究、IT関連、バイオテクノロジーなどに対して手厚
い保護を与えている。特許制度・運用の世界的なハーモナイゼーションが叫
ばれる中でも、先発明主義、1年間の完全グレースピリオド(猶予期間)な
ど独自の制度を維持し続けている。これに対して、日本は、世界的なハーモ
ナイゼーションに積極的に対応し、自国に有利な立法と運用を図ろうという
スタンスはほとんどみられない。基礎研究(原理の解明)より実用化技術(商
品化)を伝統的に得意としてきた日本にとってかえって不利な制度・運用に
向かっているという指摘もある。ミノルタカメラのα-7000はミノルタの苦
心作であり、大ヒット商品となったが、それまでほとんど活用されていなか
った米ハネウエルのAF原理特許(米国特許)によって多額の特許料を取ら
れる結果となった。キルビー半導体特許も同様の状況であった。
ネットワーク、サイバースペース上の著作権、デジタルコンテンツやデー
タベースの保護なども含め、特許・知的財産権政策は、国家的戦略を視座と
した取組みが必要であり、現在の低迷経済から脱却するうえで、その強力な
取組みが喫緊の課題といえよう。
これまで、日本では、知的財産制度を形成する各法制度間の調整がほとん
ど行われることなく、それぞれの所掌官庁が中心となってそれぞれの制度が
独自に拡充されてきた。すなわち、工業所有権=特許庁、著作権=文化庁、
半導体集積回路の回路配置利用権=経済産業省、植物新品種=農水省、不正
競争・営業秘密=経済産業省、知的財産権の水際取締制度=財務省(税関)、
・・・・といった、縦割りの構図が今なお続いている。ビジネス方法特許も、サ
イバー空間上のビジネス全体に対する法整備の観点から考える必要がある。
遺伝子・ゲノム情報の保護も、特許権の観点だけでなく、公共財と私財、情
報の保護(データベースの保護を含む)、さらに競争法(独禁法)などの法
域をも考慮して新たな制度設計を考える必要がある。
知的財産制度を、国家戦略として実効あるものとすることが不可欠である
が、そのためには、知的財産制度全体の所掌を「知的財産権庁」(仮称)に集
約して、一元的な企画、立案、運用を図ることが必要である。
5.結び
特許制度を日本に最初に紹介した福澤の膝元慶應義塾に、遅ればせながら
1999年に知的財産センター(略称IPC、http://www.ipc.keio.ac.jp/)が
設立され、慶應義塾の特許が生まれつつある。
米国では、大学の研究成果が産業界に移転されることによって、バイオ産
業やコンピュータ産業の隆盛、十数万人の雇用の創出に寄与したといわれて
いる。マサチューセッツ工科大学(MIT)の特許出願件数は年間260件、ソ
フトウェアのライセンスが110件、創業企業数が24件、技術移転に伴う収入も
約2億ドルに達する(いずれも1999年)。スタンフォード大学は、ノーベル賞
受賞者コーエンらの研究成果(1973年)である遺伝子組換え技術特許が、1997
年までに合計467社に特許実施権が供与され、この間に同大学が獲得した特許
料収入は2億ドルを超え、その特許を基礎として、バイオ・ベンチャーの元
祖ジェネンテック社をはじめ、多くのベンチャー企業をも誕生させている。
スタンフォード大学自身に対しても、その特許料収入を研究活動に充当して
さらなる研究成果をあげるという「知的創造サイクル」の確立に貢献してい
る。
福澤先生とゆかりの深い特許の分野においても、「世界の慶應義塾」を目
指すことが必要ではあるまいか。
(追記)
私事ですが、最近(本年2〜3月)、特許・知的財産権に関する以下の書
籍3点を刊行しました。
1.「知財六法 2001〜知的財産関係法令集〜」
青山紘一監修・(財)経済産業調査会編、A5判2,000頁、定価26,000円(税別)
知財関連の約300法令等を収録した本邦初の本格的な知的財産六法です。
2.「続・ビジネスモデル特許〜ビジネス特許審査基準の解説〜」
日本感性工学会知的財産研究部会編著、A5判370頁、定価4,000円(税別)
2000年12月末に公表されたビジネス特許の審査基準を解説するとともに、
ビジネス方法特許に関する最新情報を網羅しています。
3.「遺伝子ビジネスとゲノム特許」
日本感性工学会IP研究会編著、A5判490頁、定価4,400円(税別)
最近の遺伝子ビジネス、注目遺伝子・ゲノム特許、主要な特許係争を紹介
するとともに、バイオインフォマティクス、ゲノム創薬、テーラーメイド医
療、バイオレメディエーション、バイオベンチャーなど、ホットな話題を解
説しています。
内容の概要は、出版元・(財)経済産業調査会のHP(http://www.chosakai.
or.jp/)を 参照して下さい。
インターネット三田会会員に、いずれも定価の2割引でお世話させていた
だきますので、ご希望がありましたらE-mailでご連絡下さい。
(aoyama-hirokazu@jpo.go.jp)
特許・知的財産権の分野には、面白い研究テーマが無数にある未開拓の分野
です。IP研究会を主宰しておりますので、ご関心のある方はご参加下さい。
伊藤 紀子 さん(平成11文・通)にご寄稿をお願い致しました。
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「塾生時代を振り返って」
インターネット三田会の皆様、こんにちは。平成11年9月に、通信教育課程で
文学部を卒業しました、伊藤紀子と申します。早速ですが、通信教育課程で学ん
だ体験を、少しですがお話させていただきたいと思います。
私が慶應の通信教育課程の存在を知ったのは、短大卒業も間近だったある日の
ことでした。書店で見かけた「通信教育ガイド」の1ページに、慶應の通信教育
が載っていたのが最初の出会いです。卒業後就職はしましたが、いつか大学でも
う一度学びたい、そんな思いをずっと抱きながら働く毎日でした。でも仕事が忙
しく、自分の時間もままならないうちに、4年間が過ぎていきました。でも大学
に行きたいという気持ちは変わらず、このころからどうすればもう一度学べるの
か、真剣に考えるようになりました。一旦就職した以上、ここから先は自分の力
で勉強していく他はなく、時間の制約も大きかったため、自分のペースで学べる
通信教育で勉強しようと決心したのです。そして、同じ学ぶならやりがいのある
ところでと思い、慶應を選択しました。短大卒業・慶應の通信教育課程との出会
いから5年後、入学を果たすことができました。
入学はしたものの、最初の挫折は意外に早くやって来ました。入学許可が届い
て約2週間後、神戸で行われた新入生オリエンテーションの席上で、「卒業率は
約3%である」と聞かされ、慶應のネームバリューにつられて選択を誤ったので
はないかという思いにとらわれたのです。でも入学早々で意気込みだけは盛んだ
った私は、何としてでもその3%に入ってやろうと決心したのでした。
山のように送られてきたテキストの中から、まず「社会学」と「保健衛生」に
手をつけました。社会学のテキストは、先生独自の視点で書かれたテキストであ
るということでしたが、確かにまず何を言わんとしているのか、それをつかむだ
けでも相当苦労した覚えがあります。そして土曜日になると、図書館に通っては
参考書を探したりノートを作ったりしながら、何とか初めてのレポートを提出し
ました。
季節はあっという間に夏となり、初めてのスクーリングを迎えました。通信教
育生の中には、このスクーリングが大きなネックとなっている方も少なくないと
思います。私の場合も、職場が人数の少ない営業所であったため、限られた人数
で仕事をカバーしあうとなると、他の同僚に大きな負担を強いることになってし
まいました。スクーリングは3期間に分かれており、最初の年こそ3期間全部に
出席することができましたが、以後はお盆休みの重なるⅢ期に出来るだけ出席す
るようにしていました。毎年、スクーリングのための休みを取ることが、最大の
困難の一つだったと思います。そんな思いをして参加したスクーリングでしたが、
やはり受けた刺激は大きく、また私の周囲には、卒業が近づいている人も案外多
かったため、努力を重ねればいつか必ず卒業できるのではないかという気持ちを
強めることができました。
スクーリング後の9月に最初の科目試験を受けて、上記2科目の単位を修得し、
次に手をつけたのがドイツ語でした。外国語はとにかく早めに始めた方がいいと
よく言われますが、当時の私にはそのような感覚はなく、ただ「やってみたい」
という一心から始めたに過ぎません。特別外国語が嫌いということもなかったの
で、滑り出しは順調でした。が、後になるほどそうもいかず、特に第2部・第2
回のレポートは何回不合格になったかわかりません。やはり、語学は早めに始め
るに越したことはないような気がします。
さて、勉強を続けていくに当たって、私にとってもう一つ大きな意味を持って
いたのは、慶友会の存在でした。通信教育課程には、クラスや課外活動に相当す
るものがありません。それを補い、学生相互の情報交換や交流の場として、学生
が自主的に結成しているのが慶友会です。実は慶應への入学の決め手となったの
は、慶友会組織がしっかりしているということでした。私が初めて参加したのは
12月でしたが、ここで年齢も職業もさまざまな多くの学友と出会い、交流の幅
が広がりました。また、慶友会を通じて、講師派遣・科目試験の際のさまざまな
行事が行われており、全国の塾生の方とも広く交流を持つことができました。こ
うした学校行事に参加する際には、学割が使用できるため、旅行気分で各地に出
向いて、慶友会同士の交流を広めるのに努めました。数年間にわたって、慶友会
の会長を初めとする役員を歴任したので、多くの方に出会うことができたのは、
在学中の貴重な体験であったと思います。ただ、慶友会はあくまでも自主的なサ
ークルなので、参加や運営に関する考えは人それぞれであり、必ずしも楽な思い
ばかりではありませんでした。けれども、このようにして出会った方の中には、
今でもお付き合いさせていただいていろいろと教えていただいている方も多く、
通信教育ならではの出会いが得られたと思います。
こうして勉強を続けていくうち、何とか単位もたまり始め、卒論執筆へと進む
ことになりました。最初は岩崎春雄教授にご指導いただきましたが、テーマに対
して漠然とした考えしか抱いていず、なかなか具体的なテーマ決定に至りません
でした。スクーリングでの「英語学」の授業に触発され、言葉の裏にある意味や
心情について考察したいと思っていたのですが、忙しさを理由になかなか先へ進
むことができません。何回かの指導の後、先生の助言をもとに'lady'という語に
ついて書くことに決定しました。が、それと同時に岩崎先生が定年退官となって
しまわれ、私の指導教授は同じく文学部の唐須教光教授に引き継がれました。唐
須先生にご指導いただくようになってからも、あまり思うようには進みませんで
したが、少しずつ本を読み始めたりするようになり、ようやく卒論を具体的に進
めることができるようになったのです。今思うと、最初の頃何もできなかったの
は自分に対する言い訳だったと思います。少し手を伸ばす気力があれば、もっと
早く一歩前に進めていたことでしょう。それでも、失った時間は取り戻すことは
できません。書き始めた以上は、ベストを尽くした論文を書くこと、これしか私
にできることはありませんでした。
規定の指導日以外にも1度指導の機会を作っていただき、期限を1ヶ月延長し
て、ようやく卒論提出にこぎつけました。まだまだやり足らないところも多かっ
たのですが、とにかくこれで大学生活の集大成を成し遂げた、自分なりの満足感
に包まれて、最後の関門、総合面接試問の日を待つばかりとなりました。総合面
接試問では、卒論の内容を中心に唐須先生とドイツ文学の柴田先生から、質問が
出されました。そして先生方から、「これからが本当の研究ですね。」とのお言
葉をいただき、まだまだ至らなかった卒論研究を、これからも続けて深めていき
たいと思いながら、三田キャンパスを後にしたのでした。こうして平成11年9
月をもって、無事卒業することができました。
最初の目的であった、「大学で学び、卒業すること」は長い年月を要しました
が、ようやく達成することができました。そして卒業すると同時に、それは新た
なスタート地点に達したに過ぎないのだということを、強く感じるようになりま
した。この4月から、もっと研究を続けたいという思いを果たすべく、新しい道
に進む予定です。慶應で学べたことに誇りを持ちながら、それを何らかの形で社
会に還元できるよう、一層の飛躍を続けたいと思っています。
リレー・メッセージ 第29回 2001.2.15
藤木 隆樹さん(1990 平2理工)にご寄稿をお願い致しました。
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「アメリカ暮らし あれこれ」
昨日はバレンタインデーでした。会員の皆さんは、いかがお過ごしになられ
ましたでしょうか?アメリカでは、Valentine’s Dayは、日本とは反対に男
性から女性にプレゼントを送る日ですが、男性の私にとっては、義理チョコと
分かっていても、なんとなくウキウキする日本のバレンタインデーも少し懐か
しいものです。
私は90年に理工学部電気工学科を卒業後、建設会社に入社。94年から96年
まではボルティモアにあるジョーンズホプキンス大学に留学し、98年にニュ
ーヨーク近郊のオフィスに赴任しましたので、卒業後、半分近くをアメリカで
過ごしたことになります。今日はアメリカ暮らしの中で私が感じていることを、
恋しい日本と比べながら、お伝えしたいと思います。
ご存知のように、アメリカはレディーファーストの国です。最初は、郷に入ら
ば郷に従え、見よう見まね、面白半分で、嫁さんのためにドアを開けたりして
いたのですが、最近は私(開ける人)も嫁さん(開けられる人)も、すっかり
と板についたようです。昨年、日本に一時帰国した時に、嫁さんがドアの前で、
つい、じっと開けられるのを待っていて、二人で吹き出してしまった程です。
このドアのマナーは、何も男性から女性に限ってのことではありません。老若
男女問わず、相手のためにドアを開けてあげる、また、次の人のためにドアを
開けて支えてあげるのは、いわばアメリカの常識で、更には「ありがとう」
「どういたしまして」、「良い天気だね」「仕事をしているには、もったいな
い程だよね」などと、ちょっとした言葉を交わすのが、一般的な光景です。自
動ドアの普及した日本と一概に比較するのは難しいですが、日本からのお客さ
んが一番感心し、また、女性に一番人気なのが、このドアの常識です。
こういった日常の動作の中で言葉を交わすことが、オフィスでもコミュニケー
ションの基本となっています。たとえば、新しく採用や、日本からの赴任があっ
た場合でも、紹介されるのは、ごく身近な同僚にだけですので、その他多くの人
たちとは、こうしたコミュニケーションの中で、顔と名前を覚えていかなくては
なりません。日本のような、スタッフ全員が一堂に会しての自己紹介や、「では、
今夜7時から、居酒屋○○で。」なんていう歓迎会も残念ながらありません。
塾生の頃から、サークル代表という立場を利用(?)して、コンパで「塾生注
目!」を連呼し、その快感に酔いしれたり、早慶戦コンパで隣合わせた体育会
の方々と、まるで黒田節のような大きな器で、日本酒を一気飲み対決をして、気
を失いかけたりと、(お酒もまあまあ強かったのですが)大勢で騒ぐことが好き
だった私は、この“飲みニケーション”信奉者でもあったのですが、こちらに来
てめっきりと、飲む機会も酒量も減ってしまいました。そうすると不思議なもの
で、体の方が慣れてくるというか、適応してきて、たまに(薄いと思っていたア
メリカの)缶ビール2本程で、結構いい気分になるようになりました。酒税が無
いおかげで、日本のブランドでも日本より安く手に入るために、酒量が減っても
経済効果はあまり感じませんが、家に真っ直ぐ帰る品行方正な夫として、嫁さん
の評判は良いようです。
もちろん、打ち合わせの後など、アメリカ人の同僚と連れ立って食事に行き、
お酒を飲むこともありますし、私のオフィスも年に1回だけですが、全員が家族
も含めて参加できるクリスマスパーティーがあります。しかし、これらは仕事の
関係の延長線上にあり、「宴会」というようなくだけたものではありません。か
といって、堅苦しい仕事の話をしているのかというと、そうでもないのです。
オフィスよりも、まあまあ、冗談や趣味の話が多くなるといった程度です。
つまり、仕事から私生活までが、緩やかな曲線で結ばれていて、仕事の面でも
家庭の事情などを考慮して予定を立てたりする反面、必要な時には、残業もすれ
ば、自宅で仕事を片づけてくることもあるというのが、こちらでのライフスタイ
ルだと言えます。日本ではどうも誤解があるようですが、アメリカは祭日や休暇
日数も少なく実に良く働きます。しかし、仕事と生活がうまくバランスしていて、
「仕事の憂さをはらす」ためのアフター5も必要ないのだと思います。
日本で報道されるアメリカは、特異な地域や人、事件などに焦点が集まっており、
日本人の中には、どうも偏ったイメージが作られているように感じます。しかし、
私が接する大多数のアメリカ人からは、とても保守的で、真面目で、大人しい印
象を受けます。
先日、ブッシュ大統領が就任演説で、「米国は、血筋や生まれ、育ちを重んじる
国ではない。私利私欲を超えた市民たちが理想のもとに集まってできた国家であ
る。」と、市民の理想にふれていました。この国に暮らしていると、普通の人々
の言動から、はっきりとそれを感じることが出来ます。
少し前になりますが、私の自宅アパートの前で交通事故が起きたことがありまし
た。幸い、車同士の衝突で、大事故ではなかったのですが、ベランダに出てみる
と、アパートの世話役一家のご主人が、道路に出て、事故の様子を見ています。
他の人も数人出てきて、交通整理をしているようです。見ると隣のベランダの人
も様子をうかがっていて、「事故の後、すぐに警察に電話したのに、来るのが遅
いよ。また、電話してみる。」と言って、部屋に戻っていきました。ただ野次馬
として見物していた私は、恥ずかしくなってしまいました。
私の住む街は、比較的小さな新しい街だということもありますが、住民の声が街
作りに反映されていることが良く分かります。道路の左折レーン(日本の右折レ
ーン)や、信号機の新設など、不自由だなと思っていたことはやがて解決されて
いきます。中には、アパートの自治会のようなものの議題になっていた案件もあ
って、意思決定の単純明快さと、対応の早さには感心してしまいます。
また、街が平和なお陰で、お巡りさんの仕事も、非常に私たちの暮らしに密着し
ています。朝夕の通勤ラッシュ時の交通整理はもちろんのこと、ちょっとした道
路工事の迂回の案内まで、必ずお巡りさんがやっています。もちろん、速度違反
も取り締まっていますが、住民の多くは、道路に出る時に、飛ばしてくる車があ
ると危ないことを十分に分かっているので、捕まるのは大抵、街を通過する車両
であり、取り締まりも大歓迎です。消防士さんの活躍は無いに越したことはない
のですが、年に数回、道路に消防車をならべて、消防士さんたちが募金を呼び掛
けることがあり、やはり住民の一人として、自然と募金をしたくなります。
こうした緊急車両の出動時には、町全体のサイレンが鳴り響き、住民に何か起こ
ったということを知らせます。私の北陸の田舎を思わせるような、古びたシステ
ムですが、かえって街の一体感を感じさせます。
さて、この私の住む街なのですが、実はハドソン川を挟んで、マンハッタンの対
岸にあります。摩天楼とは目と鼻の先です。川が州境になっているという事もあ
りますが、大都市の近くで、ここまで都市化を免れているのは、住民の自治意識
のおかげだといえるでしょう。実際、この地域には、週末の都市からの流入を嫌
って、日曜日は、食料品など以外の店を開けてはいけないという、禁酒法の名残
のような法律があり、地域内にある巨大なショッピングモールも、日曜はお休み
です。
そのお隣、マンハッタンで、タクシーに乗ったときのこと。最近のイエローキャ
ブのドライバーは、中東からの移民が多く、その彼もイスラム教徒だったのです
が、大変な安全運転でした。曰く「悪いことをすると、あの世にいってから、罰
を受けなければ、天国に行けない。」イスラムの教義には、全く明るくないので
すが、最終的に天国に行けるのはずいぶん寛大だなと思い、最近のイスラム教人
気の訳もここにあるのかと勘ぐったりしました。さて、そこで、あなたの宗教は
何だと聞かれ、私たち全員が無宗教だとこたえると、ちょっと驚いた様子。でも、
神さまは信じているよねと、念をおされてしまいました。
神さまといえば、日本でも、宗教はともかく、小さい頃から「神様が見ているわ
よ」と教えられたものです。しかし、それは、サンタクロースを信じているのが
格好悪くなる年頃があるように、ある年齢で、心の隅の方に追いやってしまった
ような気がします。別に非行に走るわけではありませんが、善悪の基準を、良心
(神様?)から自分の理屈にある程度、都合よく置き換えてしまったように思い
ます。
日本の皆さんには、いまさらと思い、日本との対比にはあまり触れませんでした
が、皆さんの日本の常識と比べて、お感じになる印象は様々だと思います。「日
本だってこれくらい当然」という、お叱りも受けそうです。実際、私もアメリカ
との違いをみて、日本もこうならなくてはと、力んでみたり、やはり日本の方が
しっくりくるなと懐かしんでみたり、時と場合により色々です。しかし、皆さん
にも、これは日本にもあったらいいなと感じていただけることが必ずあると思い
ます。
ここまで、つらづらと書いてきて、最後にこう結ぶのは非常に無責任なようで
もあり恐縮ですが、みなさん、機会があればアメリカに来て、是非、違いを肌で
感じていただきたいと思います。アメリカでの留学、仕事を考えておられる方、
チャンスを逃さず挑戦してみてください。
最後に、諸先輩方にお願いとして、後輩に海外で活躍するチャンスをどしどし
与えて下さい。日本は既にアメリカにも追いつき、ある部分では追い越し、先
進諸国の一員ですが、リーダーだからこそ、諸外国に学び、理解する意義があ
ると思います。
木幡 利枝さん(平10文 )にご寄稿をお願い致しました。
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インターネット三田会の皆様、おめでとうございます。
文学部 人間関係学科 心理学専攻(平成10年卒)の木幡利枝(こばた りえ)
と申します。現在、主税局 東京都目黒都税事務所に勤務しております。
昨年、皆様には大変お世話になりました。今年も何卒、宜しくお願い致します。
そして、本年も皆様にとりまして、より良き年でありますよう心からお祈り致し
ます。拙い文章ですが、お読み頂ければ嬉しく存じます。
「最強の味方」
「最強の味方とは誰か?」
こう訊かれて皆さんは誰を思い浮かべるであろうか。
私がこの問いを投げ掛けられたのは、昨年の秋のこと。
いきなり所長室に呼ばれたのである。
何か失敗をしただろうか。恐る恐る所長室のドアをノックした。
話の内容は、日常業務に対する姿勢についてであった。その頃、私は某国家資格
取得の為の講習会参加を申し込んでいた。その時事務所で申し込んだのは私一人
であった。
「脚が悪いから出来ないと後ろ向きになるのではなく、やってみようと前向き
な所がいいね。それに君はいつも笑顔で、見ていて気持ちがいいよ。」
いつも笑顔?思わず自分の顔に手を当てる私に、所長はこう続けた。
「何か目標を立てたら『実現させよう』と自分自身と約束しなさい。自分を信じ
なさい。そして、自分を信じたら、自分の期待に自分で応えてあげなさい。自分
を裏切ってはいけない。最強の味方は誰か?それは、『自分自身』だよ。」
自分を裏切ってはいけない。その言葉を切っ掛けに、これまでの自分を振り返
ってみた。
平成10年に入都した頃、私は自分の足元がはっきり見えない毎日を送ってい
た。事務所に初出勤した日、組織改正に伴うパーテイションの移設工事の関係で、
計画経理係中がバタバタしていた。もちろん入ったばかりの私に構う余裕等ある
筈も無く、何の説明もないまま仕事を任された。結果は当然失敗。上司や先輩に
怒鳴られた。
私の担当する経理は、直接税務に関わっている訳ではない。庁舎維持管理、予
算執行状況管理、契約事務、物品管理等、「職員の縁の下の力持ち」的役割を担
っている。
その後、経理研修を受け、契約事務規則等を学び、自分の業務の根拠となるも
のを知る事が出来た。しかし、不安は消えなかった。
「知識は簡単に手に入る。しかし、知恵は汗の中からしか生まれてこない。」
という言葉があるように、この不安は実務経験の未熟さから来るものだろうと思
い込んでいた。
しかし、その不安の本当の理由を私は入都3年目にして悟る事になった。
昨年4月、新しい所長が転任し、スピードの促進を訴え、それと共に「自ら
『実践』し、一層の『協働化』を図り、目指す『成果』に結びつける」という
キーワードを私たち職員に示した。
高い数値目標が掲げられ、事務所内の雰囲気がガラリと変わった。そして、
私の係のメンバーも変わった。事務所全体が以前にも増して活気付き、それと共
に、私の業務も一段と多忙になった。
それにも関わらず、いつしか脚の痛みを忘れ、体調も良くなり、そしてあの不
安感も何処かに消えてしまっていた。
「3年目で慣れたのだろう」と思っていた矢先のことである。
9月22日、臨戸・臨場に携わる職員の「動く窓口」機能の充実強化を狙いと
して、職場研修「所管外実務研修」(課税事務)」が行われた。
都政のこれまで経験したことのないスピードの変化を肌で感じながら、きめ細
かなO(観察)、P(計画、立案)、D(事業執行・実施)、C(検証・確認)、
A(処置・見直し)が重要となる。
このOPDCAサイクルにより、効果的、効率的な仕事の進め方を追求し、常に
広い視野と洞察力をもって課題・問題の発見やその対応が速やかに行えるように
「感性」を働かせていこうという教えがあった。
引き続いて課税担当職員から、所管税目の基礎的部分の知識や取り組み状況の
提供があった。所管外の業務にも意識を持たせることで、税務という大きな流れ
の中で自分の業務がどんな役割を果たしているのか認識し、自己研鑚への更なる
意欲に結びつかせる、意義のある研修であった。
そして、私にとっても、他の職員の業務を知ることで、どんなサポートを行っ
ていけば良いのか、その取っ掛かりが掴めたような気がした。その時、ハタと気
が付いた。
不安を感じていた頃、私は自分の担当業務それのみばかりに眼がいって、全体
の中で捉えるということをしてこなかったのではないだろうか。
入都して間もない頃、自分の担当外の業務について先輩職員について質問した
ことがあった。その答えは、「自分の担当だけやっていればいいの!」と一言。
それ以来、私は畏縮してしまった。当然その先輩職員が不在の時、担当外の業務
に対しては上手く対応出来ず、益々、自分に自信がなくなった。
もちろん、一度のアプローチで諦めた訳ではない。質問で駄目ならと手の空い
た時に観察していたが、同じ答えが返ってきた。先輩職員としては、「自分の業
務に専念して欲しい。脚に障害のある私に負担を掛けたくない。」という親切心
だったのかもしれない。
しかし、私はその2年間、一緒に仕事をしていると実感出来ず、「自分」を出
して会話することが出来なくなってしまった。
「自分は駄目だ」と否定ばかりするようになった。
昨年の4月、係のメンバーが変わり、都職員歴は私より長いが経理は初めてと
いう人がやって来た。当然、色々質問される。それに答えていきながら、一緒に
考えるという充実感と楽しさを感じるようになった。目黒都税事務所のキーワー
ドのひとつである「協働化」を感じ始めていた。また、経理は初めてという人の
見方は、私とは違ったものであり、その意見を聞くのも興味深かった。多分、そ
の頃ではないだろうか。不安が消えたのは。
「一人ではない。横に手を繋ぐ人が居る。そして、自分も人と手を繋ぐことが
出来る。」ということに気が付いた時、自分自身を否定することを止めた。
人は、考えようによって幸せにも不幸せにもなる。否定することを止めた時、
自分なりの創意工夫が生まれ、以前にも増して、業務も捗るようになった。素直
に物事とそして自分自身と向き合えるようになった御蔭だろう。
そして、この頃である。私がインターネット三田会に会員登録させて頂いたの
は。小野様の温かい御助言会員の皆様の慶応義塾への熱い思いに触れ、自分を肯
定した時、私の世界は徐々に広がり始めた。
そう思えた時、私は自分でも知らぬ間に笑顔を取り戻していたのだ。所長から
「笑顔がいい」と言われ、初めてそのことに気が付いた。
国家資格試験を受けてみようと思ったのも、「職員が働きやすい環境を作る為
の資格」と聞き、業務に生かしていきたいという前向きな気持ちからだった。
自分を信じろという所長の言葉と、頑張れという周囲の激励を受け、3日間の
講習に参加。そして2ヶ月後に臨んだ国家試験。
合格通知が届いたのはクリスマスイブの日だった。もちろん合格通知も嬉しか
ったが、何より励ましてくれた周囲の人の気持ちが嬉しかった。私にとっては最
高のクリスマスプレゼントになった。以前の私なら、試験を受ける前に諦めてい
ただろう。
「最強の味方は自分」という所長の言葉。だが、「自分」という最強の味方を
つけるにはまず周囲への信頼が第一ではないだろうか。
周囲をそして自分自身を信じることが出来ない者に、決して勝利の女神は微笑
むことはないのである。
私は言葉や人の心は花の種に似ていると思っている。知らない間に自分の心の
中に根を張り、芽を出し、成長していく。だが、いくら良い種を植えてもらって
も、「努力」という水を遣り、「信頼」という良い栄養を与えなければ成長する
ことはない。そう思いながら、私は次のような歌を詠んだ。
「戸惑いの 日々多かりし 時期(とき)は去り いつか咲かせん 心に花を」
2001年の今年、私は社会人4年目になる。2000年の歳月を経て、次の
新たな100年、1000年への第一歩の年である。この意義ある年に、私の心
の中にある「種」に少しでも水と栄養を遣っていきたい。
これから私の中でどう成長していくのかまだ分からないが、何時か美しい花を
咲かせたいと思っている。
私の拙い文章をお読み下さって本当に有難うございました。とても素直な気持ち
で書かせて頂きました。
これからもご指導宜しくお願い致します。
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