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会員からのメッセージ
インターネット三田会では、登録会員に毎月1回「News Letter」をお届けしています。
この会報に、会員の方からの「リレー・メッセージ」をご寄稿頂いております。
広く社中の皆様にお読み頂くために、ご寄稿メッセージをこのページに掲載しております。
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「テネシー便り」の別ページに掲載しております。
<索引>
第80回 2008.4.15 (寄稿者のご希望により削除しました)
第79回 2007.10.15 「甘い果実?」 昭32文 横山 正明さん
第78回 2007.5.16 「バンコク便り」 昭32文 横山 正明さん
第77回 2007.3.15 「バンコク便り」 昭32文 横山 正明さん
第76回 2006.12.15 「ホワイトクリスマスin軽井沢2006」昭60女子高 斎藤 明子さん
第75回 2006.12.15 「ミクシィ三田会のご紹介」 平3理工 伏見 靖さん
第74回 2006.11.15 「SOI (School of internet)を見て」 平7法・通 近藤 裕司さん
第73回 2006.11.15 「2006年慶応連合三田会出席:雑感エトセトラ」 昭31経 笹田 豊茂さん
第72回 2006.10.14 「絵を描く動機」 昭62文・通 大林高基さん ( 画名 林楷人)
第71回 2006.9.15 「福澤諭吉とノブレス・オブリージュ」 平11政、平13法修 平15法博 小川原正道さん
第70回 2006.3.15 「応用力」の学習コミュニティ作りにもお力を!」昭48経 高橋りう司さん
第69回 2005.05.15 「日吉台に軍靴の音が響いた頃」 昭42法 宮川 幸雄さん
第68回 2005.03.15 「オレゴン便り」 昭48文 ルース規子(旧姓・高橋)さん
第67回 2004.12.15 「不思議なスランプ」 『紀州の食文化』 平2経 名手 慶一さん
第66回 2004.11.15 「意思あるところ、、を実感した瞬間」 昭42経 安保 日出男さん
第65回 2004.08.15 「一生涯を打ち込む仕事について…音楽家と私」 昭42商 高橋 勝彦さん
第64回 2004.07.15 「沖縄の思い出」 昭55商 中野 玄基さん
第63回 2004.06.15 「小姑おやじの人生訓」 昭58経 上野 精一さん
第62回 2004.04.15 「歯周病のお話」 特選 二階堂 雅彦さん
第61回 2004.03.16 「商標を巡る最近の話題」 平3理工 伏見 靖さん
第60回 2004.03.16 「冬のかまくら」 昭48政 俵谷 保さん
第59回 2003.12.15 「始まる市民の司法参加 〜あなたも裁判員〜」 平8法 久保内 統さん
第58回 2003.11.15 「イケバナを楽しむ外国人」 平9文・通 鈴木 榮子さん
第57回 2003.10.15 「レストランの楽しみ方」 平7総合 寺田 心平さん
第56回 2003.9.16 「全日本大学選手権(インカレ)で優勝・・・観戦記」昭31経 笹田 豊茂さん
第55回 2003.6.15 「タイ國の特性観察」 平9総合 所澤 さやかさん
第54回 2003.5.14 「永井荷風と小泉信三」 昭42法 宮川 幸雄さん
第53回 2003.4.15 「昭和16年夏の敗戦」…現実の「数字」から学ぶべきこと 昭41経 田坂 裕人さん
第52回 2003.2.15 「最近の中国の身近な話題」 昭44工 松原 陽一さん
第51回 2003.1.15 「慶應チャペル」 昭40経 浜地 道雄さん
第50回 2002.12.15 「慶應はなぜ早稲田に勝てないのか?」 昭33経 小野 喜也さん
第49回 2002.11.15 「知っていそうで知らない自転車の不思議を大公開」 昭55商 古市 尚久さん
第48回 2002.10.15 「ことばのお話」 昭52経 山田 健さん
第47回 2002.9.15 「Henley Royal Regatta(略称:HRR)観戦記」 昭31経 笹田 豊茂さん
第46回 2002.8.15 「新別荘族のすすめ」 昭58経 星野 佳路さん
第45回 2002.8.15 「不真面目のススメ」 昭63文 田中 浩さん
第44回 2002.7.15 「ポーランドからのお便り」 昭59政 北御門 強さん
第43回 2002.6.15 「私とジャズと慶応義塾」 昭47法 澤崎 至さん
第42回 2002.5.15 「日本ブランドを育もう」 平4政 掛田 成徳さん
第41回 2002.4.15 「コンピューターの日本語表記について」 昭61文 甲野 卓治さん
特別寄稿2002.2.15 「経済思想から見た教育制度」 昭57経 池田 幸弘さん
第40回 2002.1.15 「ロト6を当てやすくする方法」 昭53工 田久 浩志さん
第39回 2001.11.15 「伝統工芸」 昭47経 高橋 洋文さん
第38回 2001.10.15 「古紙は正しくリサイクルされているか?」 昭62経 吉川 和秀さん
第37回 2001.9.15 「カレッジリング・パワー」 平6経・通 佐藤 仁さん
第36回 2001.8.15 「不良債権処理の現場より」 平7法 薮下 裕子さん
第35回 2001.7.14 「育林-友の会の件」 昭40法 海瀬 亀太郎さん
第34回 2001.6.15 「子育てと仕事」 昭57文 冨島 久理子さん
第33回 2001.5.15 「神田の風景」 昭51経 矢板 憲司さん
第32回 2001.4.15 「慶應義塾と最近の私,教育改革のことなど,あれこれ」 昭50文 岸本 正さん
第31回 2001.3.15 「福澤諭吉と特許制度」 平9法・通 青山 紘一さん
第30回 2001.3.15 「塾生時代を振り返って」 平11文・通 伊藤 紀子さん
第29回 2001.2.15 「アメリカ暮らし あれこれ」 平2理工 藤木 隆樹さん
第28回 2001.1.15 「最強の味方」 平10文 木幡 利枝さん
第27回 2000.12.15 「サービスの対価」 昭32経 笹田 豊茂さん
特別寄稿 2000.12.10 「「うっしー」の思い出」 昭44経 牛田 光さん
第26回 2000.11.16 「最近の義塾・塾生事情」 平11政 小川原 正道さん
第25回 2000.10.16 「塾内紛争と鍛心會」 昭48商 加賀美 公一さん
第24回 2000.09.15 「ごきげんだからうまくいく」 昭55医 坪田 一男さん
第23回 2000.08.15 「少子化と大学」 昭51政 津賀 一保さん
第22回 2000.07.15 「慶應義塾IT化の進捗」 平4文 木村(高岸)朋子さん
第21回a 2000.06.15 「ハイジスキーアカデミー」 昭41法 長谷川 剛さん
第21回b 2000.06.15 「早慶戦観戦記」 昭52法 宇賀神 宰司さん
第20回 2000.05.15 「沖縄ロッカーたちの思い出」 昭52法 神山 和郎さん
第19回 2000.04.15 「アコーディオンのこと」 昭47法 原田 典昭さん
第18回 2000.03.20 「地方公務員の仕事と鳥取県での生活」 昭63商 岡山 佳文さん
第17回 2000.02.14 「地方大学・短大をなくしてはいけない」昭53経 由谷 裕哉さん
第16回 2000.01.15 「2000年を迎えたシドニー」 平9文 福田 恭子さん
第15回 1999.12.14 「中年リストラ転職始末記」 昭51経 田中 邦彦さん
第14回 1999.11.14 「愚痴とプレゼントと狸」 昭14経 牛田 信雄さん
第13回 1999.10.15 「Language and my life」 昭36商 江藤 美保子さん
第12回 1999.09.15 「能と慶應観世会」 平4年文 小林 泰夫さん
第11回 1999.08.15 「北海道連合三田会/釧路三田会」 平9理工 川井 徹也さん
第10回 1999.07.15 「慶應義塾の通信教育」 昭61文 鈴木 正治さん
第9回 1999.06.15 「アメリカと日本の文化の違い」 昭61経 武本 粧紀子さん
第8回 1999.05.14 「三鷹三田会パソコン教室」 昭38工 堀池 喜一郎さん
特別寄稿 1999.04.28 「慶早レガッタ観戦記」 平3文 田沼 千鶴子さん
第7回 1999.04.14 「『一貫教育』に加え『一生学習』を!」昭51経 妹尾 堅一郎さん
第6回 1999.03.14 「コンピュータなんて笑い飛ばせ!」 昭44経 藤田 秀一さん
第5回 1999.02.14 「日本語のマレーシアンジャーナリスト」 平8文 Yap Toin Yee さん
第4回 1999.01.12 「見たかい? 三田会?」 昭62文 湯浅 直美さん
第3回 1998.12.16 「思い出のパナマ三田会」 昭43経 小笠原 直樹さん
第2回 1998.11.15 「オランジュリー美術館展」 昭43政 芦沢 俊美さん
第1回 1998.10.15 「慶應スピリッツのもとに」 平9総合 蒋 崢さん(本企画提案者)
リレー・メッセージ 第27回 2000.12.15
笹田豊茂さん(昭31経)から温かいご支援のご寄稿を賜りました。
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サービスの対価:人はなぜ床屋さんにお金を払うのか
「日本人は無形のサービスというものにお金を払う習慣がない」と、よく言われ
ますが、習慣がないと言い切るのは言い過ぎで、ちゃんと習慣はあるのです。
たとえば、床屋に行って気持ち良くなって居眠りしている間にちゃんと髪を切っ
て洗って整髪してくれる。だから「あヽ気持ち良かった。ありがとう」と言いな
がらお金をちゃんと払います。これは床屋さんのサービスに対して対価を支払っ
たわけです。ですから、「俺の髪を切り取ったのだから、切った髪のぶんの金を
払え?」とは誰も申しません。
はてさて、なんで床屋さんの話を持ち出したのか? それは下に述べる話に多
少はリンクするからです。というのは、近頃ちょっと思い当たることがあった。
なにを隠そう、今この文が乗っている「インターネット三田会」に関連すること
である。
私は自分の日記をめくってみると、今年の4月に 『インターネット三田会』
に入会しています。インターネット三田会のNews Letterあるいはホームページ
を通じて何かと有用な、あるいは楽しい情報で、大変重宝している。だから、
もうずいぶん前から入会しているとばかり思っていたが、まだ半年程度のお付
き合いでしかないが、大変いろいろなメリットを享受した。たとえばMCC:丸
の内シティキャンパス?私は恥ずかしながらインターネット三田会のNewsで初
めて知りましたが、さっそくプレオープン講演会の8回,9回,10回の三回
を申し込みました。
そのほか、旅行、食べ物、お酒、音楽、ジョークなどの日常的な検索はもと
より、慶応義塾についての様々なニュース?三田通りに立ち上がった新研究棟、
幻の門移転などなどOBにとって知りたいことがたくさん載っている。
そして、何よりもインターネット三田会長の小野喜也さんの「母校に対する
熱い思い」に溢れているのが一番うれしいのである。世のなか慶応のOB数多
しと言えども、身銭を切って在野で母校を語るメディアは他にないであろう。
まさに貴重な存在である。
いつもNews LetterがE-mailで届くたびに、あるいはホームペー
ジをめくるたびに、何が書いてあるのかと言う興味と共に、私が常に思わざる
を得ないのは、作成している小野さんの手作り作業の労苦のことである。だか
ら、いつも「ご苦労様」とE-mailで返信します。
しかし、ただ有難がってばかりで良いのかなと、大変遅かったが、ようやく
私も気づき始めた。それこそ冒頭の床屋の話である。実は、インターネット三
田会の経費は会長である小野さんの完全な手弁当で現在まで維持されて来たの
だ。皆さんもそうでしょうが実はほかならぬ私も、経費はどこかで何とかなっ
ているのだろう位に簡単に考えていた。規約にも第5条「入会金および会費は
無料とします」とあるので、ここまで読んで安心していた?ならば入っても損
はあるまいと。私も含めて人間は自分の都合の良いように勝手に考えるものら
しい。しかし最近さすがに経費はどうなってるの? と考えるようになった。
そして、規約第6条に「本会の運営経費は、本会の活動に賛同する個人およ
び法人の賛助会費によるものとします」とある。 えっ? はじめて第6条を
見たような気がした小生は驚きました。第5条の「無料」に気を取られて第6
条をすっ飛ばして見過ごしていた。
問い合わせると、創刊いらい2年半、払ったのは個人/法人をと問わず、皆無
と!!! 何たる事ぞ。がく然としました。
会員の皆様、おそらく上記の実情を初めてお知りになったでしょう?私もそ
うですが。インターネット三田会を愛するならば賛助会費を払いましょう。そ
うしなければいつか運営が難しくなります?会員が増えれば時にはアルバイト
を使って処理をやらねばならぬケースもあるし、時期が来れば機器の更新も必
要になる?等々。
それに賛助会費の額を決めていないところが良い。
懐と相談しながら相応にやりましょう?年に1000円でも良い。今払えない
学生は就職した初任給から払いなさい(仕送りの多い学生や余裕のある学生の
方は考えて下さいね)、会社からお給料を頂いているOBの方も宜しくどうぞ
?数千円くらい。幸い上限を設けていませんので、いくら多くても政治献金の
ように罰せられることはありません。逆にちょっと今はね、という方はしばら
く無料でインターネット三田会に声援を送りましょう。
会員の皆様に、所感とお願いのメッセージをお送りしました。
2001年新しい世紀の足音がそこまで来ました。
インターネット三田会の皆様のご健勝とご活躍を心から祈念申し上げます。
会員 笹田豊茂 31年経済学部卒業。体育会端艇部OB。
じんせいざん東京/⑭人青山東京エージェンシー代表取締役
E-mail: sasada@jinseizan.co.jp
ご参考:
インターネット三田会の賛助会費の払い込み先:
郵便振替 口座番号 00100ー9ー34715
口座名称 インターネット三田会
銀行口座 さくら銀行 旗の台支店
普通預金 口座番号 6828506
口座名 インターネット三田会
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特別寄稿 追悼 牛田信雄様(昭14経済) 2000.12.10
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1915年生まれ、80歳からインターネットに取組まれ、当会の最高年齢会員
であられた牛田信雄先輩が平成8年4月19日ご逝去されました。
昨年11月には「会員リレー・メッセージ」に軽妙洒脱な文をご寄稿いただき
当会に肩入れをして頂いておりました。
慎んでお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈り申し上げます。
ご子息、当会会員の牛田光さん(昭44経済)にご寄稿をお願いしました。
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「うっしー」の思い出 2000年12月10日
小野さんから、今年4月19日に他界した私の父の思い出話を、インターネッ
トとの係わりで寄稿するようにとのお話しがあり、思いつくままキーを叩きまし
た。
我々のパソコン仲間「CFN」(Click Friends Ninomiya)では、父は「長
老うっしー」と親しみをもって呼ばれておりました。「CFN」は、神奈川県
二宮市に住む4組のご夫妻と父がメンバーでスタートしました。
「うっしー」は大正4年、新宿区牛込の生まれです。大正12年の関東大震災も物
心ついてからの経験であり、よく私に大地震の恐ろしさを語っておりました。震
災後、五反田に移り、そこから当時三田にあった(?)幼稚舎へ歩いて通ったそ
うです。「友達と編み上げ靴を履いて、カシャカシャと、まだ舗装なんてされて
いない道を歩いて毎日通ったモンだ。道路には、まだ馬力が走っていて、馬が糞
をそこらじゅうにボタボタ落としながら歩いていたモンだ。」と、よく当時の話
をしておりました。馬力とは荷馬車のことです。
「うっしー」はスポーツマン・タイプではなく、文学青年でありました。それで
も幼稚舎や普通部の時代には、友達とサッカーをしたり、ボクシングでノックア
ウトをくらったという話をよく聞かされました。福沢先生の教えにそって、塾の
教育は先ず体を鍛えることから始まっていた様です。そして幼稚舎時代からの友
人関係を見ても、いわゆる旧き良き時代の慶応ボーイの典型のような人でした。
予科から大学は経済学部へ進み、よく勉強をしたそうです。「うっしー」の友人
たちからは、優等生と呼ばれておりました。朝早くから三田の図書館に行き勉強
した時のことを、私に、「冬の朝、図書館の階段を上って行くと、『ペンは剣よ
りも強し』のステンドグラスに朝日があたって光っている。その素晴らしい光景
は今でも夢に見るヨ。」と語ってくれました。私も三田に通うようになってから
図書館に行き、そのステンドグラスを見上げて、「これがアレかぁ」と感動した
思い出があります。
「うっしー」は学生時代から豊富な趣味を持っておりました。なけなしの金を持
って、友達とダンスホールへ通った事や、タップダンスまで踊った事が自慢でし
た。また「うっしー」はフランスと絵画に憧れていたようです。大学の講義のほ
かにアテネ・フランセにも通い、フランス語会話が得意でした。絵画は、絵を鑑
賞するだけでなく自分でも油絵を描き、生涯を通じての趣味となりました。そし
て文学では、「マルセル・プルースト」と「ジェームス・ジョイス」でした。
大学卒業後は、サラリーマンとして定年まで勤め上げました。戦渦をくぐり抜
け、終戦後の混乱期から高度成長へと時代が移る中で、いわゆるモーレツ社員の
典型でした。子供の頃の私は、朝、革ベルトのようなもので髭剃機を研ぎ、ヒゲ
を剃っている「うっしー」の姿しか見た事がありませんでした。
そんな「うっしー」に、最も辛い思い出は、最愛の妻に二度先立たれた事です。
一度目は、私の母です。母は、私の18歳の誕生日の二日あとに息を引き取りまし
た。「うっしー」が50歳の時でした。
そして、二度目は「うっしー」80歳の時でした。
「うっしー」は、会社を引退してから60歳のときに永年の疲れがドッと出たかの
ように胃潰瘍で入院しました。胃の4/5を摘出する大手術でした。退院後も、
輸血の影響から血清肝炎にかかり苦しみました。医者は高蛋白摂取と安静をすす
めました。しかし「うっしー」は、「俺は日本人だ。米の飯と適度の運動が健康
の元である。」と云って、玄米食と、それまで続けていたハイキングを再び始め
たのです。
始めの頃こそ、フラフラでしたが、毎週のように山歩きを続け、遂には主治医が
ビックリするほど健康体になってしまったのです。「うっしー」は「山を歩くと、
新鮮な空気と、木々から出るフィットンチッドで健康になるのだ。」と、当然の
ことの様に云っておりました。そして、その山歩きを通じて、素晴らしい女性に
めぐり合ったのです。
60歳から70歳まで「うっしー」は、フランス語ができるという事もあって、あ
る画廊に勤めておりました。仕事のかたわら、趣味の絵画の勉強と、ハイキング
を、その素敵な女性とともに楽しんでおりました。そして70歳を迎えて、画廊の
仕事からも退き、二人で神奈川県の二宮に居を構えました。二人で一緒にハイキ
ングをしたり、絵画教室に参加して絵を描いたりして仲睦まじく10余年の月日を
過ごしたのです。ところが、平成8年2月、突然、最愛の人に、再びあの世へと先
立たれてしまいました。その時の「うっしー」の落ち込みは激しく、入院してし
まうほどでした。
丁度その年は、Windows95がブームになり、インターネット・Eメールが一般
ユーザーに広まったところでした。「うっしー」は、二宮で絵画教室に参加して
いただけでなく、その横で開かれていた、パソコン教室にも顔を出していたので
す。病院を退院後、落ち込んでいた「うっしー」は、「海外にも友人がいるのだ
から、インターネットを始めると、また世の中が広がりますよ。」といったアド
バイスを受けて、その教室の先生のお世話でパソコンを購入し、未知の世界への
挑戦を始めたのです。それから探求心旺盛な「うっしー」は、インターネット・
Eメール・デジカメ・とドンドンはまって行きました。「オイ、パソコンは面白
いぞ。おまえもやれよ。」と言われて、あわてて私も遅れること半年で、パソコ
ンを購入しました。
二宮で一人暮らしとなった「うっしー」と、私の間で親子の交換日誌ならぬ、交
換メールが始まりました。ちなみに「うっしー」は、なんとブラインドタッチで
文章を打っていたのです!
こうして、「うっしー」の生活に、パソコンはなくてはならないものとなりま
した。パソコン教室の先生を中心にして、地元二宮の親しいご夫妻のグループが、
パソコンとインターネットの勉強をする会をつくることになり、「うっしー」も
参加して「CFN」の名付け親になりました。私も後からメンバーに加えていた
だきました。そして、皆で「CFN」のホームページを作り、それぞれ個人のペ
ージをリンクさせようということになりました。「うっしー」のページには現在
でもアクセスできます。
ただ、「うっしー」のボヤキは、同年代の友人にパソコンを扱う人のいないこ
とでした。そこで、こんどは絵手紙の勉強を始め、俳句をつけたお手製の絵葉書
を友人に贈るようになり、贈られた方々から大変よろこばれました。題材は、グ
ルメの「うっしー」らしく、季節の旬の食物や、花をテーマにしたものが多かっ
たようです。
「うっしー」は、その後の2度の入退院で、ソーシャルワーカーさんや、ヘルパ
ーさん・訪問看護婦さんのお世話になるようになりましたが、その皆さんとも
メールで連絡を取り合う、というようにパソコンを活用しておりました。そして
3度目の入院で、あの世へと旅立って行きました。
「したきこと ほぼやり終えて 春の旅」
という句を、「うっしー」は私に残してゆきました。今ごろは、仲の良かった悪
友達と一緒に、天国の銀座を飲み歩いているのではないでしょうか...?
なお、CFNでは、「うっしー」の追悼ページCFNホームページを作成しました。
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今月のご寄稿は、小川原正道さん(平成11年法学部政治学科卒)にお願いし
ました。
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「最近の義塾・塾生事情」
私は昨年法学部政治学科を卒業し、現在大学院法学研究科に所属しています。
本欄では、みなさんに私から見た最近の義塾と塾生事情の一端をお伝えしたいと
思います。
私が慶應義塾にお世話になってからわずか5年半ですが、この間にも塾内の様
子はだいぶ変わりました。長期休暇をはさむたびに教室や図書館のパソコンの数
が増え、かつての大教室や「たまり場」は次々と「パソコンルーム」に生まれ変
わり、今や狭い三田キャンパスではゆっくりと憩う場もなくなってしまいました。
幻の門があった場所にも、最先端の「グローバル・セキュリティー・センター」
のビルが立っています。
湘南藤沢キャンパスを筆頭に日本の情報化の先端に立ち、「慶應義塾スーパー
ハイウェイ構想」など、モデル的な情報社会を提示してきた義塾ですが、最近は
既存の5キャンパスに加え、山形にTTCK(鶴岡タウンキャンパス)、川崎に
K2(ケースクウェア)キャンパス、そして丸の内にシティキャンパスと、全国
に環境科学や遺伝子工学、さらに経営論など、時代の要請に応える衛星キャンパ
スの設置を次々と決定し、空間を越えネットワークで結ばれた巨大キャンパスを
形成しつつあります。
十一月一日には、慶應学術事業会が野村総合研究所とともに「近未来の大学経
営〜課題と展望〜」と題するフォーラムを開催。基調講演では鳥居塾長が、今後
慶応が力を入れる分野として、教育、研究、医療、学術事業の四点を上げ、フォ
ーラムでは学術事業について上記の情報化への対応や新型キャンパスの建設にと
どまらず、「大学運営の課題とビジネスプロセスの改革」「大学における事件・
事故時の危機管理」「受験検討者への情報発信とリレーションシップの構築」
「グローバルな人材の育成と国際水準の研究の推進」「地域の人材育成と産学連
携」といった多様なテーマでの分科会が開催され、様々な民間企業や大学関係者
が次世代の大学経営について議論を交わしました。これは週刊誌に「独走慶応大
学の野望」と書かれるような単なるトレンドの追求やビジネスチャンスの獲得と
いったもの以上に、「時代の先駆者」たらんとする建学の理念に裏付けられた取
り組みの一端と言えるでしょう。
さて、そんな情報化の影で憩いの場が消えつつある三田で、塾生が集う場所は
どこでしょうか?ベンチや教室はもちろんですが、最近になって、地べたに座っ
て過ごす塾生が増えてきました。しかも、三田山上に見える塾生の数全体が増え
ている・・・。これは入学定数が増えたからではありません。端的にいって、「ま
じめに学校に来る学生が増えた」からのようです。
出席をとらない授業でも、近年まじめに出席する学生が増えているというのは、
先生方の印象でもあります。ただ、まじめに出席する学生が増えた反面、共通し
て聞かれる声は、「おもしろい声が減った」ということです。これは私自身が学
部生と接していても感じることですが、みながまじめに勉強して「それなり」の
答えは出すけれど、独創性や個性ある答えが少ない。レポートを求めても、イン
ターネットで調べた出所不詳の情報を切り張りして出してくる・・・。情報化の影で、
そんな画一化も進んでいるようです。
もう一つ、最近の傾向として、サークルに所属する塾生が減っている、という
ことがあります。応援指導部をはじめ、部員の獲得に苦労している声は、文化ス
ポーツ、伝統新興を問わず、あらゆるジャンルのサークルにあるようです。そこ
には、「組織に所属して縛られたくない」という共通の声が聞こえてきます。
これはサークルだけでなく、ゼミが選択制になっている商学部や政治学科などで
も見られる現象です。
もちろん、画一化や個人主義化が進んでいるといっても、個性的でおもしろい
塾生が多いのも確かです。ただ、慶應義塾の塾生とはいえ、世間でとりざたされ
る「若者事情」から無縁ではないのも事実でしょう。少なくとも、地べたに座っ
て携帯電話でメールを書いている塾生も、テストでもないのにごったがえす三田
山上も、大声や携帯の呼出音が鳴り響く日吉図書館も、数年前まで見られなかっ
たわけですから。
また、情報化が進んでいるとはいえ、塾生レベルではインターネットでの情報
収集や電子メールでの交流、といった一般的レベルでの利用がほとんど。今後、
全国規模に広がる高度な情報ネットワークや知的資産を、どう塾生に還元してい
くかが、義塾の大きな課題になるでしょう。
とはいえ、今秋の東京六大学野球の優勝決定戦となる慶早戦での熱心な応援や、
優勝後のパレード、祝勝会などを見ていると、強い愛塾心は脈々と塾生に受け継
がれていることを実感します。情報化の波や、個人主義、画一化の波が、否応も
なく打ち付ける現代。そんな今だからこそ、歴史を一貫して相続されてきた伝統
の精神——独立自尊、気品の泉源、知徳の模範——を温める必要があると思いま
す。
小川原正道
(平成11年政卒。大学院法学研究科政治学専攻所属。洗足学園短大非常勤講師)
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今月のご寄稿は、加賀美公一さん(昭和48年商卒)にお願いしました。
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「塾内紛争と鍛心會」
1968年秋、日吉の並木道の隅を夏休み前から設けられて居る机と椅子のバリ
ケードを避けながら、我々塾高生は毎日真面目に通学していました。
大学は米軍の塾医学部に対する研究資金の供与の報道に端を発した学生紛争で、
学生のスト(授業拒否)と極左過激派に依るバリケード封鎖で、長期に亘り授業
の出来ない状態が続いていました。極左過激派に依る校舎封鎖や違法暴力行為は、
本塾のみならず東大(70年入学試験は実施せず。)、京大など当時の国立一期校、
早稲田、法政、明治などの東京六大学はおろか、全国の大学や一部高校に燎原の
火の如く広がって行き、塾では73年5月の学費値上げ反対紛争の終焉まで続く事
に成りました。
一方、海外に目を向ければ、激化するベトナム戦争に反対するカリフォルニア
大学バークレー校に象徴される米国の学生反戦運動、新学制に反対するフランス、
党の権力闘争が形を変えて表面化した文化大革命に於ける紅衛兵の暴走と、学生
や若人に依る紛争や混乱が同時多発的に起きていました。
当時塾高3年生(馬術部)だった私は、最後の日吉祭をバリケードの隅を通って
行く様なものには絶対したくないと思い、塾高體育會各部や応援指導部の幹部を
糾合、実力に依る並木道のバリケード封鎖の解除を画策していました。 Xデー
2日前、どこから情報が漏れたのか、当時大学で反極左過激派活動をしていた良
識派塾生の集まり「ストを回避し話し合いを守る会」のK氏並びにW氏に、田園
調布の喫茶店「モレシャン」に私と応援団長のKが呼び出されました。 話の主
旨は、前夜 良識派塾生のT、O、S、Yらが過激派に拉致、日吉のバリケード
内に連行され暴行を受け、重傷を負って入院した事、直近にその様な事件が有り、
非常に状況が緊迫している時に體育會系塾高生約300名がバリケード解除の実
力行使をした場合、過激派との攻防は熾烈を極め、彼我の人的損害は図り知れな
い事、大学の事は大学生の手で必ず解決するので、もう少し時間が欲しいと云う
事でした。極左過激派の実体を始めて知った我々は、直ちに実力行使中止指令を
発しました。
自身が鍛心會会員でも在ったKならびにW氏とそこでお会いし、学生紛争に対
する見方や考え方、それに基づく行動などの話を伺った事、又当時の體育會の紛
争不介入と云う姿勢に対する不満が、後日(70年春)、私が交通事故に遭って
鞭打ち症を患い、乗馬が続けられず馬術部を退部、鍛心會に入会するきっかけに
成りました。
その後、良識派塾生の努力が実り、他大学では当たり前だった警察(機動隊)
の導入も無く、米軍資金導入反対紛争は終わり「ストを回避し話し合いを守る会」
も解散しましたが、鍛心會の会員や良識派塾生が塾を護る為に物心両面の多大な
支援を惜しまなかった昭和22年卒を中心とした塾員との関係は現在まで続いて
います。
その後も年中行事と化した学園紛争の度に、鍛心會や良識派塾生は、反極左過
激派組織を作り、学生のストライキは労働者のそれと異なり、権利の放棄である
事、例え本塾に大学改革が必要と有っても、それは福沢先生の建学の精神を生か
し体制内改革で行なうべきものである事、過激派が他大学の過激派に応援を頼む
「外人部隊」の導入は、全くナンセンスである事等々を塾生等に訴え続け、それ
は73年5月の学費値上げ反対紛争の終わりまで続け、その後大きな学園紛争は塾
から姿を消しました。
「学費値上げ反対紛争」のお陰で我々73年卒は当時公式な卒業式が挙行されませ
んでしたが、卒業25周年の1998年3月23日、現役の卒業式の直後、日吉記念館
2階席が満場の招待塾員で揺れる中、「卒業25周年記念卒業式」が塾からプレゼ
ントされ、薬師寺常任理事の昭和47年学事報告、鳥居塾長に依る当時の佐藤 朔
塾長(故人)の卒業式式辞代読の後、万雷の拍手の中、卒業生代表として山本徳次
郎君、小泉体育賞受賞者代表として萩野友康君が鳥居塾長より其々卒業証書、小
泉体育賞の授与を受けました。その後の塾歌は込み上げる涙で最後まで唄える者
少なく、一同改めて塾に学んだ良さを再確認致しました。)
日本全国の学園が、未だに理由は分かりませんが騒然としていたあの時代に義
塾に入学、鍛心會に入部し、極左過激派暴力集団と対峙、一般塾生では及びも付
かない数々の事案に遭遇し、命の危険を冒し乍ら「愛塾」の一念で、塾当局、塾
員そして塾生が力を合わせて一つ一つ問題を解決した経験は、その時々にお会い
し、30年に亘る永いお付き合いに成った先輩、同級生、後輩と共に私の一生の宝
に成りました。
「征共の意気に燃え立つ若き血を 今ぞ散らさむ山櫻花」
おわり。
加賀美公一
(昭和48年商卒 三田鍛心會 日吉回漕店、Metropolitan BMW社長)
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リレー・メッセージ 第24回 2000.09.15
今月のご寄稿は、坪田一男さん(昭和55年医学部卒)にお願いしました。
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『ごきげんだからうまくいく』
東京歯科大学眼科教授
坪田一男(昭和55年卒)
address:tsubota@tdc.ac.jp
Web: tsubota.ne.jp
昭和55年医学部卒の坪田一男です。普通部からお世話になり、卒業後は眼科
医となりました。現在東京歯科大学眼科において角膜専門医として仕事をしてい
ます。角膜といってもなじみがないかも知れませんが、黒目の部分のことです。
ここには透明な蓋のような組織があり、これを角膜といいます。角膜が乾くとド
ライアイとなります。角膜にはコンタクトレンズをのせます。タイガーウッズが
受けて有名になったLASIKという近視手術は角膜にレーザーをあてて行います。
また移植では角膜移植が有名ですね。これらの角膜の病気と白内障の手術が僕の
専門ということになります。
今回も目の話をさせていただこうと思いましたが、最近サンマーク出版から
“ごきげんだからうまくいく”という本を出版しましたところとても嬉しい評価
をいただきました。そこで今回はこの本のご紹介をちょっとしたいと思います
(宣伝もかねてです)。
ごきげんでいるためには“人生で成功しなければならない”とみんな言う。
成功して初めてごきげんになると言う。
本書はこの常識に挑戦する。
ごきげんだから成功するのだ。
現在失業率は5%の越え、つらい世の中になった。病院のためと思って仕事を
すれば上司から誤解され、手術もうまくいかないと胃潰瘍が再発する。文部省の
科学研究費はすべてはずれて、これから研究費の手当ての案もない。企業なら完
全に破産である。風邪はしょちゅうひくし、持病の腰痛とドライアイはいっこう
によくならない。だから僕は今日不機嫌なのだ。人生が100%おもしろくない
のだ。病気があってどうしてごきげんでいられようか?と普通は考える。でも自
分はそういう人生を送りたくない。今、1999年6月2日の早朝だが、なぜか
昨晩から続く胃の痛みに“がんじゃないか”という不安のもとにこうやって原稿
を書いている。でもそういう状態であっても自分のなかに、“胃が痛くても、絶
対ごきげんに今を生きるぞ”という気持ちが芽生えてくるのを感じる。こうやっ
て考えが出てくると胃の痛みも減ってくるから不思議である。
自分は深い満足感につつまれて毎日を送りたい。とても強く思っている。そし
てそれをまわりのひとたちに伝えていきたいと思って生きてきた。毎日、毎月、
毎年それを自分に伝え、まわりの人にも伝えてきた。そうしているうちになぜか
“ごきげん”が習慣になったと思う。まわりにもごきげんな人が多い。たくさん
の友達や楽しい家族、仕事の仲間たち。みんなごきげんだ。どうもごきげんは芽
生えれば伝染するらしい。
今の仕事は大学の教授である。眼科学を教え、患者さんの診察にあたる。自分
自身がドライアイという病気なので、ドライアイを撲滅するのが僕の夢だ。研究
チームを作って一生懸命研究している。そのうち素晴らしい発見をしたらパテン
トをとって薬の開発までのりだしたいと思っている。最近、重症のドライアイで
目が見えなくなってしまった患者さんに新しい治療法を開発した。角膜上皮細胞
のステムセル(幹細胞)移植である。これは今話題になっている骨髄移植が血液
細胞のステムセル移植とすると、こちらは目の細胞のステムセル移植である。な
にしろ今まで治らなかった患者さんが治ってしまうからすごい。画期的な治療法
を始めて世界の注目を浴びている。当然自分の仕事にはとても満足している。家
族はとても素晴らしく5人の子供に恵まれた。友達は幼稚園時代からずーっと今
までいい友達に恵まれている。幸いドライアイを除いて大きな病気もせずに今ま
で生きてきた。 昔の中国の古い教えによれば、幸せになるには4つの基本が必
要だという。1つは天職とよべる仕事、2つは最愛の家族、3つはかけがえのな
い友達、4つは自分の健康だ。これがあれば人生幸せに生きられるという。きっ
と僕はこの4つがあるからごきげんなんだろう。と親友から言われたが本当にそ
うなのかと疑問に思った。これがこの本を書くきっかけだ。
病院に行けば拒絶反応で再手術をしなければならない患者さんが待っている(な
んでなおらないんだろう)。
素晴らしい家族というとそれだけで幸せのシンボルだが、ちょっと今も“お父様
は子供の話を何も聴いていない。”“急に家にお客様を連れてくるのはやめて。
”と家内と子供たちから怒られた(父の権威はどこにあるんだ)。
1998年の文部省のドライアイ研究費の申請を却下したのは僕の友達である
(あんちくしょう)。
今年のスキーでは腰を痛めて、今では10分以上立っているともう我慢ができな
いほどの腰痛持ちになってしまった(本当に痛い)。“この腰痛さえなければ人
生快適なのに”と毎日3回は思う。これだけでも十分不機嫌になれる痛みである。
いろいろな問題に囲まれていながら、それでも僕がごきげんなのは、最初から
ごきげんを選択しているからなのだ。もっと正しく言えば“ごきげんを選択する
ことを習慣”にしているからなのだ。今日は晴れたから“ごきげん”なわけじゃ
ない。晴れようが雨が降ろうがごきげんを選択するのだ。毎日、毎時間、毎分、
毎秒、生きている間中ずーっとごきげんを選択するのだ。
いい仕事があるからごきげんだ、なんてめんどいことは言わない。
いい家族がいるからごきげんだ、なんて暑苦しいことは言わない。
いい友達に恵まれたから自分はごきげんだ、なんてストーリーは作らない。
健康だからごきげんね、なんてそんな単純な解釈にはついていけない。
これでは本末が転倒している。
いい仕事は僕がごきげんに仕事を続けてきたから今あるのだ。
いい家族も僕がごきげんだからいるんだ。
いい友達も僕がごきげんだから長く続くのだ。
ごきげんだったので、病気にならなかったのだ。
ごちゃごちゃ理由を言っているのはめんどくさい。
最初からごきげんになろう。
ごきげんを選択しよう。
あの人はあんなに素敵だからごきげんなのよね、というストーリーはもうやめだ。
あんなに素敵なのはごきげんを選択した結果なのだ。ごきげんはひとつのストラ
ジー(人生の戦略)になりうる時代がやってきたのである。
最近細胞の研究でおもしろいことがわかってきた。T細胞という体の免疫をつか
さどるリンパ球の研究からである。IL-10というサイトカインが実は細胞の状態
によってT細胞を元気にもするし、抑制もすることがわかってきたのだ。同じシ
グナルなのに細胞の状態によって違うのである。ILー10というサイトカイン
を認識するリセプターは同じだが、そのあとの細胞内のシグナルトランスダクシ
ョン(信号伝達経路)が細胞によって違ってきてしまうのだ。
これをたとえば言えば“がんばってね。”と友達に言った時に本当にがんばれる
状態にある時と、もう体力と精神力の限界にきていて“がんばってね”なんてい
うと駄目になっちゃう状態に似ている。うつ病の時には“がんばれ”は禁句とい
うのは細胞レベルからもうなずける話なのだ。
さて外側からの同じシグナルに対して細胞が2つの選択を行えるというのは画期
的な発見だ。今までは同じシグナルに対しては同じ反応が起こると信じられてき
たのに、細胞の状態によって細胞レベルでもこれだけの自由度があったのである。
僕たちはどうか?同じ刺激がやってきても自分の状態によって反応が変わるはず
である。“また患者さんが拒絶反応を起こしました。どうしましょう。”
不機嫌な僕ならどんな反応をしてしまうのか恐いくらいである。でもごきげんの
状態にいる僕は明るく答える。“よーし、次こそがんばろう。至急角膜の手配を
してくれ。患者さんも今度こそよくなりますよ。”T細胞でいえばILー10が
与えられた時に抑制されるのじゃなくて、活性化する状態にしておきたい。自分
をいつもごきげんにしておきたい。そしてそれは僕たちの自由の選択としてそう
したい。
ごきげんは人生の目的でもあり、ストラテジー(戦略)にもなりえる。この本は
“ごきげん”という状態を選択して人生を生きようという提言を行う本だ。細胞
レベルの研究からも十分実現可能なストラテジーなのだ。でも待ってよ。そんな
に簡単にはいかないよ。だっていろいろと問題もあるもんね。ごきげんを選んじ
ゃいけないっていう教育も受けてしまっていることだし、エゴにも対処しなきゃ
ならない。そうなのだ。ごきげんを選ぼうと言っても簡単には選べないところが
おもしろいのだ。本当はとても簡単。自分のごきげんレベルに意識を払って、ち
ょっとごきげんレベルを上げてみるところから練習が始まる。でもそれは信じら
れないって? だからこの本がある。この本の中には7つの基本的な人生に対する
理解が詳しく書いてある。これによって自分のことが今よりもわかるようになる
だろう。友達や同僚のことももっと多く理解できるようになるだろう。そして自
分自身の理解が深まった状態では“ごきげん”を選ぶことが少し易しくなってい
ることに気づくはずである。この本にはあなたがごきげんを選択するために学習
すべき知識と習慣がつまっているのである。
ごきげんだからうまくいく(サンマーク出版)より
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リレー・メッセージ 第23回 2000.08.15
今月のご寄稿は、津賀一保さん(昭51法・政治)にお願いしました。
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『少子化と大学』
まずは自己紹介
インターネット三田会会員の皆様 こんにちは
私は昭和51年政治学科を卒業した津賀一保です。
現在は川崎市高津区久本にある、洗足学園大学・短期大学で事務長を務めてい
ます。
洗足学園大学は音楽学部の単科大学、短期大学の学科構成は音楽科、幼児教育
科、英文科の3科です。
今回は今、大学・短大の高等教育機関が当面する問題について私見をお話させ
ていただきます。
大学を巡る状況
平成12年4月に大学審議会は『大学入試の改善について(中間まとめ)』を
とりまとめました。
この中で大学入学者選抜を巡る状況を6点挙げていますが、その中で変化しつ
つある状況として挙げている3点について記します。
1. 現在の大学=国民の半数近くが進学する教育機関
2. 大学に求められるもの=広く大学教育を受ける機会を提供すること
3. 卒業時における質の確保(出口管理、大学教育の充実)
平成11年度において大学への進学率は約49%に達している。一方、近年の
少子化の進行により、18歳人口は、平成4年には205万人であったものが、
平成11年には155万人までに減少している。平成21年には120万人とピ
ーク時の6割になってしまうとされている。また、大学の収容力については、平
成21年度には大学進学を希望するものはいずれかの大学に進学することが出来
る状況となる。全体としてみれば、既に大学入試は過度の競争ではなくなってき
ている。このように、既に大学は、特別の教育の場ではなく、国民の半数近くが
進学する教育機関となっている。
大学に進学するものが少数の時代には、大学は特別な教育の場であった。その
ために、入試は選抜色の強いものであった。しかしながら、国民の半数近くが進
学する教育機関として、今後の大学は、国民の進学意欲を積極的に受け止め、従
来のように受験生を選抜するという視点ではなく、高等学校と大学の接続を重視
し、広く大学教育を受ける機会を提供する視点を持つことが重要である。
また、国民に広く大学教育を受ける機会を提供していくという観点からは、大
学入学後の教育のあり方が重要になってくる。
従来の大学評価はともすれば、入口段階すなわち大学入試の難易度等により基
づきなされてきており、卒業生の評価さえも入口段階での評価を受けてきた。す
なわち、大学で何を学んだかではなく、どこの大学を卒業したか、もっといえ
ば、入試を突破したかが重要な関心事となっていた。
しかし、国際的競争力の強化が求められる中で、産業構造や雇用形態に大きな
変化が起こり大学の卒業生に対して、どこの大学を卒業したのかではなく、個々
の学生が課題探求能力を持ち、その上に専門的な能力や技能を身につけているこ
とを求めるようになってきている。
また、大学教育は、社会生活を送る上で必要な知識、技能を身に付けるだけで
はなく、幅広い教養を身に付けるなど、一人一人の生活を豊かにしていく上でも
重要な役割を果たすものとなっている。
このような要請に応えるためにも、大学全体として、大学教育を充実し、卒業
時における質の確保を重視していくことが必要になっている。(以上抜粋)
なお、大学の収容力について平成21年において全入になるとしていますが、
この根拠の中には以下の条件でシミュレーションがなされています。
1. 大学の進学率は高いままキープされる
2. 受験者は専門学校より短大、短大より大学を選択する
3. 浪人は存在しない
進学率が今より下がれば、全入は平成21年より早いであろうし、大学の優位
性が崩れても、あるいは、受験生は大学に入学できればどこの大学であっても良
いというのではなく、やはり一部有名大学に人気が集中し浪人が存在すれば全入
時代は早まるし、あるいは、全入時代は既に来ていると考えるのが妥当でしょ
う。日本私立学校振興・共済事業団の調査では、定員割れを起こしている大学は
全体の約3割、短大にいたっては約6割という現実があります。
全入時代の大学教育
全入時代を迎えた大学は多様なニーズを求められる、それに応えることが出来
る教育機関となっていかなければなりません。そのためには現在よりも一層、大
学の教育目的、特色、専門分野の特性に応じて多様化、個性化を進めていくこと
になります。また、受験生の能力、適性、履修歴も多様化してきます。
大学も受験生も多様化していく中で、大学としての特色を打ち出し、専門教育
の内容をより高度化、より多様化、より開放的にしていくことが肝要でありま
す。
一方では、全入時代を迎え各大学の競争は激しくなることが予想されます。そ
の競争には『質』という観点と、『学生確保』の観点の二面があります。どちら
の面にしても、大学の特色を受験生や社会に示していくことによって、競争力が
強化されることとなります。では、何を特色としていくのでしょうか。
受験生等が大学を選択する基準としてはいくつかの要因があります。建物、設
備、備品、奨学金、学生食堂などの学生サービスも勿論大切でしょう。しかしな
がら、受験生等が今後、もっとも重要視するのは、その大学に入学して何を学
び、何を身につけることが出来るかであると思われます。つまり、カリキュラム
そのものであると断言できます。カリキュラムこそが今後は注目され、評価され
ることとなります。
カリキュラムという大学教育の本質を大切にすることが、今後重要になってく
る、ごく当たり前のことなのですが、今までの大学評価はこの本質で議論される
ことが少なかったように思われます。ともすると、大学の評価は、入試の偏差値
であったり、卒業後の就職状況でなされていました。しかし、社会構造の変化等
により、卒業生個人の能力が評価される時代となってきた現在、その大学でどの
ように成長できるのかが問われ、その本質であるところのカリキュラムが評価さ
れることとなります。
カリキュラムの改訂と同時に、教育方法についても研究、開発をすることが重
要です。立派なカリキュラムがあっても、教育の方法がマッチしていなければそ
の効果を充分に挙げる事は難しいでしょう。したがって、教授陣の教育方法の研
究、開発についても同時に進行することが必要となってきます。
また、卒業生個人の能力や質が問われるわけですので、今後は卒業の審査につ
いても厳しくしていくことが社会から求められることとなります。しかし、多様
な学生、様様な学習歴を持った学生が入学してくるわけですからその成績評価に
ついても今後は議論されることとなります。
既存の学部、学科の教育改革は、これまで長く続けられてきた教育課程、教員
組織、教育方法等の改革を伴うことから、その改革には、種々の難しい問題が介
在し、困難も伴うことも事実です。しかし、これからの時代の大学としての社会
的責任を果たしていくためにも、また、競争に打ち勝って評価される大学として
存続するためにも、最大限の努力をして、教育改革を推進することが必要である
と認識をしています。
おわりに
長々と、文章を抜粋したり、私見についてもお解りにくい文章だと思います。
学校の常識は世間の非常識と昔から言われてきました。しかし、これがまかり通
らない時代になってきました。16年前に大学に勤め始めたときに「学校経営」
ということばを使った私に、ある教授が「学校は経営ではない、運営と言うん
だ」といわれたことがありました。いまではごく当たり前に学校経営という言葉
が通用するようになりました。
今後も、世間の常識に近づくべく努力をしてまいりたいと思います。
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リレー・メッセージ 第22回 2000.07.15
今月のご寄稿は、木村(高岸)朋子さん 平4文卒にお願い致しました。
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インターネット三田会会員の皆さま、はじめまして。平成4年文学部文学科英
米文学専攻卒の木村(高岸)朋子と申します。
皆さまは、「故郷」と言われたら、まずどこを思い浮かべますか?
「故郷」を、辞書で調べてみました。(大辞林 第二版)
・ふるさと 【故郷・古里・故里】
(1)生まれ育った土地。故郷(こきよう)。「—の山川」「第二の—」
(2)(比喩的に)精神的なよりどころ。「心の—」
(以下略)
父が転勤族で、幼稚園から中学校まで卒業アルバムを2冊ずつ持つ私には、
(1)の意味での「故郷」がありません。どこの土地、どこの学校でも、根無し
草のような頼りなさを感じていました。高校に至って、やっと入学したところを
卒業することができましたが、東京の区立中学から神奈川の県立高校に入ったた
めか、今一つ溶け込みきれなかったというのが正直なところです。そんな私が、
ついに(2)の意味での「故郷」にたどり着いたのが、慶應義塾大学に入学した
時でした。
あまりの居心地のよさに、ついに就職先にまで慶應義塾を選び、職員となって現
在に至ります。
慶應義塾には、大きく分けて4種類の人間がいます。学生と塾員と教員と職員
です。この中で、学生や塾員の方々にとって、よく分からない存在が職員ではな
いかと思います。学生の方々にとって身近なのは、学事センター(旧教務部)や
学生総合センター(旧学生部、就職部)に働く職員でしょう。また、塾員の方々
にとって身近なのは、渉外・塾員担当(旧塾員課)がある渉外室かと思います。
普通の会社のように、人事部もあれば経理部もあります。私は、この3月まで、
「業務改革推進室」という部署に所属していました(現在は組織変更により、人
事部情報環境担当になっています)。
「業務改革推進室」とは、その名の通り、業務改革を推進する部署でした。
新卒職員募集に際し、人事部がWebページに公開している挨拶から引用します。
http://www.jinji.keio.ac.jp/saiyo/aisatsu.html
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慶應義塾ではいま、より付加価値の高い学生・教育へのサービスを目的とした、
業務改革が推進されています。これは、従来の事務システムを見直し、徹底し
た事務の効率化、最適化を成し遂げようとする意志の表われです。140年余の
歴史という財産を継承しながら、他方では不要な形式や不合理な方法を思いき
って改めていく。
この動きは、事務組織の再編成であり、学校経営に多大なメリットをもたらす
ことになるでしょう。また、これにより職員が事をしやすい環境を作り出し、
職員自身の自己実現をも同時に達成していこうというねらいもあります。
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この3月まで足かけ4年に渡って慶應義塾の職員部門で推進されてきました
「業務改革プロジェクト」について、少し述べたいと思います。皆さまの職員
理解の一助になれば幸いです。
このプロジェクトの中で、大きな位置を占めたのが、業務ネットワークの整備
とそれにともなう新しい文化・習慣の成立・醸成でした。現在、慶應義塾で働く
私たち職員の机上には、ほぼ1人1台のパソコンが置かれ、日常の連絡や情報提
供においては、当たり前のように電子メールが飛び交い、「インフォメーション」
と呼ばれる電子掲示板上では、各キャンパスのさまざまな業務連絡が掲載されて
います。
わずか3年間で、義塾の事務部門ではネットワークに繋がったパソコンを利用し
て日々の仕事をし、ネットワーク上で情報を共有し、そしてそれぞれが情報を発
信していく光景が「日常」になっていました。
振り返ってみれば、業務改革が始まる前の今から5−6年前の義塾の各職場に
は大型計算機の端末としてのデスクトップパソコン(もちろんWindowsマシンで
はありませんでした)が数台ずつ置かれ、文書作成はワープロ専用機とパソコン
上のワープロソフトが混在して文書の交換もままならない状態でした。また一部
のパソコンユーザーが、表計算やデータベースソフトで自己開発のシステムで個々
に処理をするという状況で、データの連携などはまったくありませんでした。
電子メールに至っては、ほんの一部の人が学生と一緒に計算センターのアカウント
を使っていただけです。塾内の情報伝達は紙を主とし、電話や会議などを介して、
徐々に、時には期限遅れで全塾に伝わっていく形でした。
業務改革推進室の発足から約1年間の準備検討期間を経て、1997年3月に全キ
ャンパスの事務系を結んだ業務ネットワークが敷設されました。当初は全塾事務
室(約100)に各1台ずつの共用パソコン配備からスタートしましたが、翌年夏
までに5次にわたって増備を重ね、約1年で800台ものパソコンを設置し、ほぼ
1人1台の配備を完了したのです。これらの設置はすべて職員の手で行いました。
またネットワーク環境に慣れるためのパソコン研修も積極的に行い、紙の回覧や
部課長会議の結果を部課内で口頭で伝達する習慣は、徐々にネットワーク上に移
行し、情報伝達のスピード化と組織のフラット化が確実に進んでいます。
1998年3月には、若手職員数名が指名され、三田キャンパス内の様々な問題点
を探り、また広く意見を集めるための機能を検討すべく、三田キャンパス・ウォ
ッチャーズ(2000年より三田キャンパス・アメニティ・プロジェクト)が組織
されました。三田キャンパスの問題点を提示し、関連する部門に回答を求めると
いう活動を行っています。三田キャンパス・アメニティ・プロジェクトよりの提
言を受け、キャンパスに案内板を設置したり、滑りやすい外の階段の表面を削っ
て滑りにくくしたりという、目覚しい改善が行われました。1999年1月にはこれ
までの経過や成果を紹介するホームページを職員に公開し、同時にWebを活用し
た「意見収集と回答掲載(対象:職員に限定)」の新システムを始動させました。
1999年11月には『教員用要望カード』を研究室受付に設置し、職員以外からの
意見収集をスタートしています。
大型計算機上で稼動していた事務系の基幹システム(経理・管財、学生管理、
塾員管理)も、日本アイ・ビー・エムからの技術支援(一部請負)を受け、業務
改革推進室が中心となって新システム開発を行いました。現在はUNIX機上で稼動
しています(一部開発継続中)。2000年春学期には、すべての学部にWebによ
る履修申告システムが導入されました。学生は、申告期間中なら、いつでもどこ
からでも履修申告を行えるようになったのです。
業務改革プロジェクトにより、情報を活用するためのインフラ部分は、かなり
整備されました。新システムも、順調に稼動しつつあります。ただ、それを使う
のは人間だということを忘れてはいけないなと痛感しています。ネットワークを
より有効に利用し、業務機能を強化し、サービスを拡大していくことが実現され
なければ、せっかくのインフラも生きません。真価を問われるのは、まさにこれ
からだと思っています。
慶應義塾を「故郷」と思ってくださる塾員の方は、どのくらいいらっしゃるの
でしょう? ひとりでも多くの塾員の方にとって、慶應義塾がいつまでも懐かし
い「故郷」であり続けられるよう、職員としての誇りを持って、日々努力してい
きたいと思っています。「故郷」をよりよい所にするため、どうか皆さまのお知
恵をお貸しください。
私のもう一つの「故郷」は、「武蔵小山(東急目蒲線、目黒駅から2つ目)」
です。1995年9月にこの街に住み始めて以来、すっかり長いアーケードの商店
街「パルム」の抗しがたい魅力の虜です。昔ながらの下町の暖かさを保ちながら、
新参者も優しく迎えてくれるこの街で、やっと(1)の意味での故郷に出会えた
気がしています。「この街にずっと住みたい。どこに行っても、いつかここに帰
ってきたい」と強く思います。夫(高岸洋一・平成4年理工学部計測工学科卒)
とふたりで、「武蔵小山お店ガイド」
http://www.mita.keio.ac.jp/~kimutomo/koyamaj.html
というページを立ち上げておりますので、よろしかったらお立ち寄りください。
そして、ぜひ実際に武蔵小山に足をお運びください。その際には、私にもお声を
かけていただけますでしょうか。武蔵小山の居酒屋でご一緒にグラスを傾けつつ、
共通の故郷である慶應義塾のこと、皆さまそれぞれの故郷のことなどを語り合え
るとうれしいなと思います。
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「ハイジスキーアカデミー」長谷川 剛さん(昭和41年法学部法律学科卒)
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はじめまして。
私は昭和41年に卒業(法学部法律学科)、東京で8年間のサラリーマン生活後、
いわゆる脱サラをし、田舎(山形県上山市)に戻り、現在の蔵王山の国有林の中
腹に宿泊施設(ヒュッテハイジをつくり、ここを拠点に子どものためのスキース
クール及びサマースクールを開校しております。
おかげさまで今年で28年を迎えた「ハイジキッズスキーアカデミー」は多く
の方にご利用いただいてきました。現在当校は日本唯一の全日本スキー連盟公認
の子ども専門常設スキースクールであり、日本の子どもスキーの草分け的存在と
して認めて頂くようになりました。
その昔から、雪国に住む人々の狩猟や交通の手段として発達してきたスキーも、
時代の変遷とともに、レジャーやレクレーションとして、非常な人気を博してき
ました。
また、子どもからお年寄りにいたるまで誰もが、気軽に楽しめるスポーツでも
あることから、これからの高齢化に向けて、健康づくりに活用できる可能性も持
つスポーツとしてあらためて注目されています。
「あらゆるスポーツの中で、その王者の名に値するスポーツがあるとすれば、そ
れはスキーをおいてほにない。スキーほど筋肉を鍛え、身体をしなやかに、しか
も弾力的にし、注意力を高め、巧緻性を養い、意志力を強め、心気を爽快にする
スポーツはほかにない。」これは,今から90年前にグリーンランドをスキーで
横断したノルウエーの極地探検家ナンセンの紀行文の一部です。
このようにすぐれた生活用具や遊具でもある「スキー」を柱に、子どもたちを
対象に、 雪や自然の中で遊びながら、自然の美しさと厳しさを感じてほしい。
体を動かすことが楽しいことを感じてほしい。
集団生活を通して、自律心や協調性を身につけてほしい。
そんな願いをこめながら、私たちの教室は1973年にスタートしました。
冬休み、春休み期間に行われるスキーキャンプ「雪の教室」は、フランスの
都会の子どもたちが生活と勉強の場をそのまま、スキー場に移して行われてい
る「CLASSE DE NEIGE」(雪の学校)を参考に、雪国の生活の中で
体験しながら学べるよう、カリキュラムが組まれております。
また、地元の子どもたちを対象に平日、土曜日、日曜日を利用し、3ケ月にわ
たって、冬の自然の移り変わりをみながら、じっくりとスキーの上達を目指す
ウイ—クデー、ホリデーコースも開校しています。
いずれのコースもスキーを楽しみながら、自然な上達をめざすということを第
一義としています。技術的なことより、集団生活を通して協調性、思いやりの心
を育むことを大切にします。
私の掲げるスクールのモットーは"子どもたちが楽しく過ごすこと"です。
ワイワイおしゃべりしながらレッスンをする。ときには、好きなところを好きな
ように滑りなさい、というように、自然にスキーを好きになれるように配慮して
います。
また、毎晩レッスン後に行われるミーテイングでは、ゲームを通して年齢の違
う友達と親しみ、同じ部屋同士で協力して、スタンツ(一芸)を発表するなどの
練習を通して協調性も養うお手伝いができるかと思います。
このほか、小さなお子さま連れのファミリーのために、託児施設「キンダーラ
ンドハイジ」では、6ケ月〜5歳くらいまでを対象に、専任の保母が責任をもっ
てお預かりするサービスも行っています。
ここでスクールの位置する蔵王坊平高原についてご紹介させてください。
蔵王坊平高原は、蔵王温泉スキー場の南側に隣接している、蔵王国定公園のほぼ
中央、標高1000mに位置しております。子どもたちの自然へのファーストス
テップとしては、大変恵まれた自然環境にあります。
蔵王ライザスキーワールド、キャンプ場、ペンションビレッジなどの集団施設
ゾーン、広大な公園、運動施設などがバランスよく配置されており、子どもたち
が安全にのびのびと生活できる理想的な環境です。
この自然環境のなかで夏のスクールも、1976年よりスタートしました。
冬と同じく、夏もやはり"子どもたちが楽しく過ごすこと"を目標に、野外活動、
テニス、乗馬、水遊びなどを通して、自由に自然の中で過ごせる環境を用意し
ています。
強制されるのではなく、また特別なことをするのでもなく、自分の家や田舎で
過ごすように、山の四季の移り変わりを肌で感じながら過ごしてくれることが一
番の理想です。そのため、テニスや乗馬を楽しみながら、ハンドクラフトや野外
活動も、生徒の希望によって日程に組み込んだりすることもできます。
草の上をはだしで走ったり、虫を追いかけて、大地に大の字になって、都会と違
う真っ青な空を見つめることもできます。
やりたいことを自分で選択しながら過ごすことができるよう、スタッフがお手伝
いします。スタッフは幼稚園等の教員経験者、保母資格保持者あるいは教育学部
の学生が多くを占めています。
親元を離れ、ふだん一緒の学校のお友達とも離れ、初めて出会う友達といつも
と違う環境の中で、さまざまな体験をすることによって、子どもの自主性、積極
性が生まれます。
日常から離れたところで、子どもだけの時間を持つことによって、結果的に家族
との時間の貴重さ、を知ることになると思います。
この30年間、子どもたちを見続けてきて、体力の低下が非常に目に付きます。
小子化で、近所の年齢の違う子どもたちと外遊びがしにくかったり、周囲の環境
から、体を動かして遊ぶことが難しいなどの原因があげられるかと思います。
年齢の違う子ども同士で思いっきり体を動かして遊び、時にはけんかをしながら、
関わりあうことが思いやりの心や、感受性を育て、心を豊かにしていく大事な要
素なのではないでしょうか。
最近の犯罪の低年齢化、凶悪化は目を覆うばかりですが、子どもの心を豊かに
する「何か」に、私たちの教室がお役にたてればと考えております。
最近では、雪国の学校でもスキーの授業が減りつつあるのが現状です。私たち
はこの時期こそ、子どもたちの人間形成に、積極的に「スキー」を活用すべきだ
と痛感しております。子どもの心を豊かにできる、一つの選択肢として、
「スキー」や「野外活動」を通じての教育的価値をもう一度見直していただけれ
ば幸いです。
★ ホームページ・アドレス http://www.heidi.co.jp/
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「早慶戦観戦記」 宇賀神 宰司さん(平成5年商学部卒)日経BP社在籍
(うがじん・さいじ)
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タイトル
慶早戦観戦記:学生席には学生証が必要!
本文
卒業して7年以上になる(まだ7年ですが…)。学生時分は春秋と熱心に神宮に
足を運んだものだが、最近は戦績すら感心を持たないありさま。そんなとき、ひ
ょんなことからスウェーデンの女の子を慶早戦に案内することになった。
慶早戦で思い出すのは、なんといってもチケット取りに席取りだ。大人数を抱
えるテニスサークルの幹事だった私は、応援指導部、体育会、塾高出身者などあ
らゆるツテを頼りに学生席のチケット集めに奔走した。
次は席取り。試合前日から男子学生は泊まり込みで行列を作るが、すっかり大
宴会と化す。試合中には最上段につぶれている学生が横たわっている状態だった。
そんなすさまじい争奪戦をいまさらやれるわけはないのだが、とにかく学生席
で観たい!!! なんとかならないものか?
5月28日、第2戦が開催された。私は試合開始の2時間前の11時に球場に向かっ
た。きっと、大量に買いすぎた学生がチケットをもてあましている頃ではないか
と思ったからだ。しかし、今シーズン慶應は5位に低迷。相手の早稲田も前日の試
合で優勝を逃している。午前中は小雨のち曇り。という状況からか、学生席は窓口
で販売していた。しかも内野席をだ。
いささか肩透かしに合いつつ「2枚ください」というと、「学生証をお願いしま
す」と切り返された。それがないと販売できないという。「そんなあ〜、私はOB
ですよ。なんとかならないんですか?」。学生席は当然学生のもの。自分が学生だ
ったら、そう思うだろうが、今となっては理不尽に感じる。「それなら誰か学生に
買ってもらうよう頼んでもらえませんか?」と販売員の女子学生。ああ、そんな簡
単なことでいいのか。
ふと、あたりを見回すと学らんを着た学生がいる。「すみません、OBなんです
が学生席のチケットを買いたいのですよ。販売員が代わりに買ってもらえというの
で協力してもらえませんか?」「ああ、それなら我々のチケットをお譲りしますよ」。
彼は主催者らしく何枚かのチケットから2枚を売ってくれた。「これ、席はどこに
なるのですか? 私が学生のころは整理番号がありましたけれど…」「今日はどこ
か空いていると思いますよ。もしなければ『全慶連』の席がありますから、そこに
座ってください」「全慶連の席っ! 前の方にあるいい席ですよね?」「その通り
です。応援よろしくお願いします」
というわけで、今までの人生の中で一番いい席で見られることになった。超ラッ
キーだ! 次回以降もこの方法が使えるとは思えないが、なんとかなるものだ。
試合の方は理想的な慶応ペースの試合。早い回に先行し、その後も着実に得点を
重ねる。最終的に5対2で勝利! 早稲田も点を入れ、ひやひやする場面もあり、
盛り上がりに盛り上がった。相変わらずの「突撃のテーマ」や「若き血」に加えさ
まざまな新バージョンの応援があった。雰囲気は学生の頃と変わらず楽しかった。
さすがにもはや「学生に戻った気がした」ということはなかったが、思わず一生懸
命応援した。案内した手前もあり、やはり勝ったのはなんとも気分がいいものだ。
しかし、気になったのは学生の頃に比べて、援団の声が響かなかったことだ。
例えばエール交換の時、相手の早稲田の声は球場中に響いたものだが、今回はあま
り聞こえなかった。原因は風向きか、マイクのボリュームを下げているのか?
恐らく後者ではないかと思う。近年、近所住民の苦情が多いらしく、私が学生の時
分には徹夜の席取が禁止されたこともある。なんとかうまく共存して欲しいものだ。
さて、今回の観戦の特記事項は、スウェーデンの女の子を案内したことである。
ほとんどのヨーロッパ人がそうであるように、彼女も野球を知らない。当然、私は
ルールを説明しなければいけない。
予想通り、これは困難を極めた。サッカーなら「手を使わずボールを操り、ゴー
ルと呼ぶ枠にボールを入れると点が入る」というだけ。ラクビーなら「相手の陣地
を越え、ボールを置けば点が入る。前に投げたら反則」という具合におおまかに説
明ができる。しかし、野球とはなんと難しいスポーツなのだろうか!
私の説明方法は以下の通り、
・9人対9人で争い点数が多いほうが勝ち。
・ディフェンスとオフェンスに分かれ、アウト3回で交代。それを9回繰り返す。
・アウトの説明:ピッチャーが投げたボールをバッターが打ち野手がダイレクト
に取ったら即アウト。ダイレクトでない場合、バッターは一塁、二塁、三塁そして
ホームへ順に走る。それぞれの塁に至る前に、野手にボールが来るか、タッチした
らアウト。塁上は安全地帯。ほかに三振したらアウト。
・三振の説明:ストライクゾーン(図で示した)ならストライク。ほかはボール。
振ったらストライク。前に飛ばなかったらファールでストライク。ストライク3つ
で三振アウト。ボール4つで一塁に行ける。
・以上のようにして、ランナーがホームに帰ってきたら1点。柵超えしたらホー
ムランで歩いてホームに帰ってこれる。
とりあえず、これだけ事前に説明してゲームに臨んだ。2ストライクからのファ
ールはカウントされないとか、必然的に塁に行く場合はタッチが必要ないとか、細
かい話は抜き。しかし質問はいろいろされる「今、何が起きたの?」「ランナーが
2塁と1塁と両方でアウトになったんだ」。「なんで三振したのにバッターは走るの」
「ええっと、振り逃げというのは…」。「なんで今ピッチャーはこっちに向かって
(三塁に)ボールを投げたの」「ランナーは走る準備をしていて、ピッチャーはそ
れをけん制するために…、ううむ…」。結局、なんだか分からないうちに慶応が勝
ってしまったようだ。
それと面白かったのは、応援の説明だ。彼女とは英語で会話するが、日本語に興
味があり聞こえた単語の意味を知りたがる。「かっせかっせ」「かっとばせ〜」
「ぶっとばせ」「塾生注目!」「なんだ〜!」などなど。これらを「It means
"hit!".」という具合に説明する。しかし「おーりゃ」とか「よーポン」というのは
一体全体なんなんだろうか? 改めて野球の応援、特に慶早戦には、いわゆる専門
用語がたくさんあるという印象だ。
きっと留学生の多い慶応のこと。野球のルール、慶早戦について、応援について、
英語でまとめられた冊子などがあるに違いない。どなたか所在をご存知でしょうか?
次回はぜひこれをゲットしてから行きたいもの。またOBらしいスマートなチケット
の購入術はあるのでしょうか? OBはやはり一般席でおとなしく見るべきなのでし
ょうか?
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最後に宣伝を1つ。私は現在、日経BP社で「日経WinPC」というヘビーユーザー
向けのパソコン雑誌を編集しています。全国書店には発売しておりますので、ぜひ
ご一読ください。「なんだか難しいなあ〜」という向きには「日経クリック」
「日経PCビギナーズ21」など初心者向けもあります。
ホームページはhttp://www.nikkeibp.co.jp/です。
ぜひこちらもご覧ください。
おわり
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リレー・メッセージ 第20回 2000.05.15
今月は、神山和郎さん(昭和52年法学部法律学科卒)にご寄稿を頂きました。
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「沖縄ロッカーたちの思い出」
今からもう15年以上前のことになる。
当時私は楽器メーカーの大阪支店で営業の仕事をしていた(今も同じ会社にいる
が)。沖縄県も営業エリアとして担当することになり、それで、毎月2回は沖縄
を訪問することになった。
沖縄は九州支店のほうが便利で近いような気もするが、荷物の配送便(ずっと昔
は船が主流だった)は大阪からのほうがずっと多く、ビジネス的には大阪のほう
が身近である、従って戦後はずっと大阪支店が担当していた、という説明を聞い
たことがある。
沖縄か本土に返還されたのはもう少し前のことである。
既に那覇市には基地がなく、自動車も左側通行になっていたが、それでもコザ
(今の沖縄市)までいくと大勢のアメリカ人(ほとんどは兵士)がいる。
沖縄といえば独特の音階を持った沖縄民謡が有名だが、その頃より少し前に、
沖縄ではロックムーブメントが起こり、多くのロックバンドが形成されてきて
いた。
紫、マリーWithメデユーサ、そしてCondition−Green(コンデイション・
グリーン)という、3つの有名なバンドがあって、地元では大変な人気を博し、
さらに本土上陸公演(という言葉は適切なのか)も果たしたグループもいたの
である。
私が訪問した頃にはその熱気は既に下火となり、紫も解散して伝説化してい
た。ある日、取引先の楽器店のFさんから、あるロックバンドの話を聞かされた。
「ウチが付き合ってるバンドと一回会ってみる? 昔活躍したバンドで、みんな
少し年はとったけど今もライブハウスを経営しながらステージで頑張ってるよ。
結構えぐいステージをするよ。」
当時若かった私は、正直言って年取ったロックバンドにはあまり興味はなかっ
た。もともと私はロックよりもJAZZマニアであったのだが、楽器メーカーでは
当時ポピュラー系の楽器の営業を担当しており、ロックやポピュラーのミュージ
シャンと接触することも多く、出張で沖縄に行く以上、仕事に関連する人たちと
コネクションを取るべきことは当然のように考えていた。
「はあそうですか・・・」
えぐい、という事がどんなことなのかわからなかったが、なんとなく気が進まな
いまま、夜になって、そのコザの楽器店の近くの、大通りに面したビルの地下に
ある、薄暗いライブハウスに連れて行かれた。(ライブハウスは大体が薄暗いも
のだけど・・・)
店は結構広く、100平方メートルは軽くあったか。ステージ(といってもほと
んど客席と同じ高さ)に向かってソファーのような長いすとテーブルが並んでい
るが、そのほとんどが破れたり、バネが飛び出したりしている。そして店内のデ
コレーションも化け物の人形があったり、手やコウモリ(もちろん作り物)が天
井からぶら下がっていたり、と、遊園地のお化け屋敷の入り口を髣髴させるよう
な、怪しげな雰囲気である。
入ってみて驚いたのは、客が20人ほど座っていたが、全員アメリカ兵なのであ
る。まだ演奏は始まっておらず、190cm位はありそうな白人や黒人が、ジーンズ
にTシャツで、いすに座って騒いでいる。日本人はどこにも見当たらない。われわ
れだけだ。
これは、考えようによっては、大変物騒なところなのだろう。
しかしFさんは平気で中にずんずんと入っていく。ステージ近くのいすにすわると
、カウンターの奥のスタッフと手で挨拶している。何人かいる男のスタッフはみん
なドリンクを作ったり、料理をしたり運んだりと忙しそうである。
やがてブザーが鳴ってステージが始まる時間になると、さっきまでドリンクを
テーブルに運んでいた人たちが楽器を持って登場した。
なるほど、自分たちで店を運営しながら演奏をしているわけか。と納得する間に
1曲目が始まった。
腰を抜かしそうになった。テクニック自体は最高にうまいというわけではない。
しかし何だろう、パワーだろうか、うちに秘めるソウルがさせるのか。とにかく、
本土では聞いたことがないような迫力をいきなり思い知らされたのである。
そのバンドがあの「Condition−Green」であった。少し前には紫と並んだ地元
の大人気バンドだったのだが、時代は若いバンドに移り、今では米兵が主な客筋に
なっているという。
しかしながら、彼らのバンドの見せ場は他にあった。それは、ステージでのパフ
ォーマンスである。ロックの演奏が終わると、勝ちゃんと呼ばれている大柄のリー
ダーがステージの一番前に腰掛けて、ポケットから歯ブラシと歯磨きをだし、いき
なり歯を磨き始めたのである。
顔中ひげ面で歯磨き粉を顔から床に垂らしながらクチャクチャと動かしている。
兵士たちは「Oh、No!」とか言いながら、しかし期待してきたこともあって、喜ん
でいる。
次に勝ちゃんは履いている大きなブーツを「やっこらせ」と片足脱ぐとその中の
臭いをかぎ、「ウッ」と顔をしかめた。そして次にビール瓶を持ってきてその中に
ビールを注ぎ、ゆらゆらと揺らしたあと、一番前に座っている兵士たちに、こっち
に来い、このビールを飲めという。
兵士たちは「おまえ行け」と譲り合ってはいたが、結局、かなり酔っていそうな
白人がステージに出てきて、足臭と歯磨き粉が入り混じったその飲み物を飲み干し
たのである。
その次には別のメンバーがバケツを持ち出した。そして中に手を入れては何かを
取り出して客席にピッ、ピッと投げている。何かと思って、飛んできたものをよく
見ると、ヤモリであった。ヤモリがテーブルの上の料理の皿の上に張りついている
。
もう他の兵隊たちは大騒ぎで、店中が興奮状態である。
あとでFさんに聞くと、あんなのは昔に比べると何てことはないらしい。
かつてはステージで大蛇を首に巻いたり、ニワトリの首をステージで切って走らせ
たりと、狂気の沙汰で、さすがにその筋から注意があったという。
しかしながら、前述したように、音楽自体は大変スリリングで凄まじいパワーで
ある。すっかり Condition−Green のファンになってしまった。もちろんあの
店の独特の雰囲気、熱気もあるのだろうが、大阪や神戸や東京では体験できない音
楽である。
それからは、出張のたびにこの店を訪れることになった。
いつもステージが終わってから、彼らは店を閉めて食事に出かけるのだが、「一緒
に行きませんか?」としばしば同行を誘われた。焼肉屋が多かったように思う。ス
テージで消耗しきっていたのだろう、彼らの食欲もきわめて旺盛であった。そして
必ず彼らがご馳走してくれた。
彼らは共同生活をしており、昼間は島の北部の方で、ダイビングをしながら漁を
していると言う。そのライセンスカードも見せてくれた。またリーダーの勝ちゃん
の奥さんは金髪のアメリカ人である。一緒に店を切り盛りしている。
当時、私の会社では、影響力のありそうな、ミュージシャンには楽器をプレゼン
トし、ステージで使ってもらうこともしばしばだったが、このバンドのために本社
を説得して、楽器を持ち込んだ。エレキギター、エレキベース、そして当時発売し
たばかりの超小型シンセサイザー(電子楽器の一種)まで持っていったのだが、彼
らも大喜びで楽器を手にし、ステージの上でも使ってくれていた。
ある日「こんな楽器はもらえないか」と言われたのが大変高い楽器で、全国的に
活躍していない彼らに提供することはできない。さすがに断ると、そのギタリスト
はふん、と鼻先で笑って、「なんだあんた、権力ないんだね」と言う。
瞬間に私は不愉快になった。当時私は28才、会社ではかなり若い方に入る。そん
なに簡単に高い商品を人に上げる力があるはずがない。権力がないのは当たり前で
ある。私も若かったので、ムッとして、「うん、もっと有名な人なら別だけどね」
と返した。
リーダーの勝ちゃんはさすがに気配を察したのか、さっと話題を変えて、
「神山さん、こんなの要りません?」と言って大きな貝殻をくれた。
それは直径20cmはあろうかという巻貝で、名前はわからなかったが、土産物屋で
売っているようにつるつるに磨き上げたものではなく、中身を取り払ったままの、
ザラザラ、トゲトゲしたものである。彼らがダイビングをしてとってきたものだ
と言う。
「この位のものはいつもとれるさ」沖縄の人は、内地の人間にわかりやすい言葉を
使うときは、決まって「・・・さ」という語尾を多用する。そのときもそうだった
。
私は彼らに頼んで、その貝にメンバー全員のサインをしてもらった。これでその場
の険悪な雰囲気はどこかへ吹き飛んだ。この貝はその後ずっとわが家のリビングの
一番良い場所を占めることになる。
あるとき彼らに、「Condition−Greenというグループ名の由来は何?」と聞い
たことがある。瞬間彼らの言葉が途切れた後、一人がポツリと答えた。
「なに、そのうちわかるさ。」
後で知ったのであるが、かつてコザで米軍に対する住民の暴動が起きたとき、米
軍は兵士に対して基地から出ないように、またいつでも出動できるような態勢をと
るような指示を出していたらしい。そのときの指示の名称が「Condition−Green」
だったと言うわけだ。それなら Condition−Red とか、Condition− Yellow
もあるのかもしれないが。
沖縄県の営業を担当しながら、こんなことも知らない自分を恥じた。
その後私も大阪支店から異動になって、沖縄に行くこともなくなり、はや15年が
経った。Condition−Greenの経営するライブハウスは、改装して大きくなった後、
米軍兵士もあまり来なくなり、今ではなくなってしまったと聞く。客筋のほとんど
を米軍兵士に頼るというビジネスは、兵士たちのふところを直撃する円高がもろに
跳ね返ってくるのだろう。
Condition−Greenのメンバーをその後テレビの取材番組で一度だけ見たことが
ある。純粋の現地の人だと思っていた人が実はアメリカ兵とのハーフだったり、親
に捨てられたり、潜りで仮死状態になったりと、みんなそれなりの人生を背負って
歩んできたようだ。
ステージだけ見ると常軌を逸したとんでもなく滅茶苦茶なやつら、ステージ後の
食事中は大変お人好し、そして実際はいろいろな苦悩も背負っている人たち、とて
つもなくいい人たち、であった、と思う。あれ以降、もうあんな激しい、心の琴線
に触れるようなロックを聞くこともなくなってしまったような気がする。
沖縄には何かがある、と本当にそう思う。
「紫」は少し前に再結成したことがある。メンバーの人たちがライブハウスを新し
くオープンしたという話も聞く。
「マリーWithメデユーサ」は時々テレビで取り上げられ、バンドも続けているらし
い。
Condition−Greenはあれからどうしているのだろうか。沖縄のどこかでギターを
弾いたり、海に潜って魚や貝を取ったりという生活を相変わらず続けているのかも
しれない。
またいつかどこかで会いたいと真剣にそう思う。
どなたか消息を知っている方がいれば教えてほしい。
終
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今月は、原田典昭さん(昭和47年法学部法律学科卒)にご寄稿を頂きました。
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「アコーディオンのこと」
塾の皆さんこんにちは。いま、33年前の日吉の第三校舎の風景を思い出して
います。
1Fと2Fが学生団体ルームになっていて、ずらりと部屋が並んだその2階は、
ドアといわず、壁といわず、張り紙だらけでした。
「ダンスパーティ案内」、「○○発表会」だとか、華やかだった学生運動のビラ
ももちろんありました。それはとても活力に満ち溢れていました。クラシカルギ
タークラブに所属していた私ですが、5年まえから アコーディオンにオルグされ、
気分は 日吉 です。
アコーディオンは鋼鉄のリードをジャバラが作る空気の圧力で震わせて奏でる
楽器です。最近では小林靖弘や 亡くなったアストル・ピアソラによってアコーデ
イオンや、その親戚のバンドネオンがマイナーから、メイジャーへとその知名度
をあげてきています。
一体アコーディオンの何が面白いのか?について
(1)アコースチックな音 そのもの
ハートにひびく音。電子音楽の世界とは次元の異なる質の文化です。
(2)体の動きが そのまま音になる
右手は鍵盤でメロディー。左手は低音部のメロディとリズム。そして肝心な
ジャバラの開閉。
気持ちの高揚があればジャバラを強く動かし、心 おだやかなれば優しく動か
す。
ピアノと異なって、ジャバラが動く限り 音は伸びていきますから、ピアノと
は異なった表現ができるのです。
(3)ハンディである
重いものでも11kg。軽いものは7kg。気の向く場所に持っていけます。
電源は不要。
(4)運動になる
ジャバラの開閉をしながら演奏(練習)するだけでなく、両手、両腕、さら
に10本の指、 指先をすべて使います。アルツハイマーなどの予防に指の運
動が効果的とありましたから、きっと老化防止 、若返りになるかもしれませ
ん。
(5)和音、楽曲の勉強
左にあるボタン(ベースボタン)は、音楽で云う主要三和音がずらりと並ん
でいます。
基本的にはバッハも、演歌も、タンゴも、ミュゼットもポルカも、全て この
3つ並んだボタンを押すだけで 低音部の演奏(いわゆる伴奏)ができます。
このことは、自分で作曲したりするとき、きわめて便利な機能です。あの亡
きブレスリーも若いときはアコーディオンを習っていたのです。
(6)人と人をつなぐ
−−−「何よりも蛇腹の開け閉めによって生まれる音の息遣いが、さまざ
まな人の息のように 共鳴する。教会で祈っている人、靴を作りつづけてい
る人、大道芸人、夜の通路に立つ女たちのさまざまな声が風で混ぜ合わさ
れて一つになっているような音」−−−−(梅津時比古)
この文章はアコーデイオンの名手の一人であるシュテファン・フッソングの東
京公演時に書かれた新聞記事の一部です。実際、過去数回、ヨーロッパの街で、
私も同じ感覚を得ました。
東京を、日本の街をもっと生き生きとさせたい。
私は、近い将来 ストリート・パフォーマンスをやってみようと考えています。
それは道行く人の顔が、へたな演奏ででも すこしでもにこやかになることが
出来れば、と思うからで、そのきっかけをつくることに興味があるのです。
日吉から33年たって いまだに成長していないのかも知れません。
もし、街であったら声をかけあいましょう。
原田典昭 (S47.法律卒) メール LEJ00523@nifty.ne.jp
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今月は、岡山佳文さん(昭和63年商学部卒)にご寄稿を頂きました。
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「地方公務員の仕事と鳥取県での生活」
昭和63年に商学部を卒業してから12年。鳥取県に帰ってきて10年。月日が
めぐるのは早いものです。私は、鳥取県庁に勤務している地方公務員です。
地方公務員の仕事や鳥取県での生活について、会員の皆様にお話したいと思います。
卒業してから2年間勤めていた民間企業を離れて、私は平成2年に鳥取県庁の職
員となりました。その前年の夏に採用試験を受けましたが、当時はバブル絶頂期で、
公務員人気が低かったことに加えて、退職者が多く補充がたくさん必要な時期でし
たから、かつてない低い倍率でした。だからこそ、私の同期には、農学部なのに農
林技師ではなく行政職を受けて受かった人がいたり、いろいろな業界からの転職者
がいたり、面白い経歴の人がたくさんいます。そんな大勢の同期とともに、私の地
方公務員としての10年間が始まったわけです。
それからの10年間は、ご承知のとおり、めまぐるしい10年間でした。バブル
が崩壊し、大学生の就職活動も当時とは様変わりになりました。そして、公務員人
気は絶好調。ついでに、公務員批判も花盛りです。国民や県民の税金で給料が賄わ
れているので、確かに、公務員は常に監視され批判に晒されるべき立場といえるの
ですが、マスコミの論調などを見ていると、何だか、社会的なストレスのスケープ
ゴートになっているような気がしてなりません。
会社勤めをしていたころ、平成元年のゼミのOB会で、同期生に来年から公務員
になることを告げると、「もう、民間には転職できないね」といわれました。公務
員の仕事は、「お役所しごと」と揶揄されるように、コストパフォーマンスを考え
ない独占的な殿様商売と思われているふしがあります。公務員のやり方では、民間
では通用しないと考えられているふしがあります。
しかしながら、これから急速に進むであろう地方分権を視野に入れるとき、「地
方」公務員は、これまでのそんな公務員のイメージと決別し、戦略的思考をもって、
地域づくりに邁進する必要があると考えます。それは、地域が住民に選ばれる時代
が到来し、地域間の競争が激化するからです。近い将来、もしかしたら、都道府県
の数が淘汰され減っているかもしれない。そんなことが現実に起こり得る時代にな
ってくると思うからです。
民間企業から地方公務員になって、はじめに感じたのは、職場で使用する紙の量
の多さと押印する書類の多さでした。許認可手続きのために申請者に提出していた
だく書類などそのときどきに外部とやり取りする資料、県議会議事録や国からの通
達など過去に遡って保管されている資料のほか、部課単位で情報を共有するための
報告書や事務決裁のための稟議書といった内部でやり取りする資料など、いろいろ
な書類があります。
職員ひとりひとりが職務を分掌しているのですが、公的な意思決定や外部への報
告等を行うに当たっては、原則として、部長あるいは課長の名で公文書を作成しま
す。よって、担当者は文書として原案を作成し、すべての関係者がその起案文書に
いちいち押印して内容の確認をおこなったうえで、決裁権者の部長や課長が意思決
定を行うのが通例です。
通常、関連する資料を添付するなどして、その書類一式を読めば内容がわかるよ
うにしますから、このこともまた書類を多くしている原因のひとつです。しかしな
がら、書類の作成とその供覧は、特定の職員の偏った判断によって公的な意思決定
の公正中立が侵されないためのシステムとして機能していると思いますし、意思決
定の経過を公文書として残しておいて、行政サービスの消費者としての県民に公開
できるようにしておくためには必要なことです。このことは、極端な見方をすれば、
個人は信用されていないということになるのかもしれません。また、公的な意思決
定には絶対に誤りがあってはならないという大前提があるともいえるでしょう。
地方公務員の仕事の内容は多彩です。一般事務(文系の総合職)の場合、2、3
年で異動になるので、まったく畑違いの仕事を急に任されるということも少なくな
いと思います。私の場合は、衛生課で水道行政を勉強させていただき、その後1年
間の米国研修を受けた後、国際交流財団を経て、山陰・夢みなと博覧会協会でイベ
ント業務を経験し、現在は企画部公園都市政策課です。私は、「地方」公務員です
から、鳥取県庁に就職した当初は海外出張なんて夢の世界になったと思いましたが、
これまで、アメリカに1年間の研修派遣を受けたほか、ブラジルに1回、韓国に4
回出張した経験があります。
鳥取県には、智頭急行株式会社という3セク鉄道があります。マレーシアのマハ
ティール首相が自国の鉄道建設の参考にするため、わざわざ試乗においでになった
ことがあったのですが、鳥取駅に降りたマハティール首相がホームに降り立ってか
ら専用車に乗るまでの通訳をやらされたことがありました。ほんの二言三言でした
が、冷や汗と脂汗を同時にかいた体験でした。あのとき間近で拝見したマハティー
ル首相の眼光の鋭さには、一国を率いる人物としての威厳が感じられて、恐れ多く
思いました。
それから、タンザニアの在日特命全権大使が体験されたときは、全行程の通訳を
やらされたのですが、レセプションの歓迎挨拶で突然「英雄色を好む」と諺を引用
された方があって、訳語がわからなくて適当にごまかしてしまった苦い記憶もあり
ます。
他にも山陰・夢みなと博覧会の準備では、海外の有効提携都市との連絡調整を行
うなど、私は、学生時代に連想していた公務員の仕事とは大きくかけ離れた内容の
仕事にこれまで携わってきました。
学生時代に持っていた漠然とした職業のイメージがいかに頼りないものか。特定
のブランド企業にこだわらないで、偶然の出逢いに身を任せてみても、思わぬ発見
があって面白いのではないか。鳥取に帰る前に勤めた民間企業でも、たくさんの貴
重は発見がありました。これから卒業する塾生の皆さんには、あまり意味のないこ
だわりを捨てて、自由気ままに社会に巣立ってほしいと思っています。
さて、特別語学が得意なわけではなかった私は、先にお話したアメリカでの1年
間の研修での後半の半年間はインターンとして訪れた組織の中で疎外感を感じる毎
日を過ごしました。財団法人自治体国際化協会が行っているこの研修は、アメリカ
コースでは、前半の半年間をニューヨーク市郊外のペース大学で英語と行政一般の
研修を受講し、その後、米国内の自治体に研修生がそれぞれインターンとして派遣
されるというものでしたが、私は、派遣される前までは、衛生課で水道行政を担当
していたことから、フロリダ州にある南フロリダ水資源管理組合に派遣されること
になったのです。
アメリカの行政組織の職員は、専門職的な性格が強く、特に水資源管理組合では
環境工学等の関連分野で博士号を持っていたりする人がざらにいる部署に配置され、
事務職の私は、何が出来るわけでもなく、ましてや、語学の壁もあって、フロリダ
州の水資源行政年鑑をひとりで日本語に訳する日々を過ごしていました。
鳥取県庁に行政職で就職した私は、いわゆる一般事務職ですから、スペシャリス
トではなくゼネラリストであり、2年間の勤務経験を積んで派遣されたものの、仕
事の進め方の異なる場でそれを活かす術もなく、途方にくれていました。インター
ンとして所属した組織がミスマッチだったこともあるかもしれませんが、自分自身
の実力のなさや国際化の壁の高さを思い知った半年間でした。
日本に帰ってから、国際交流員として鳥取県庁にやってきている外国人が、とき
おり、所在なさそうにしているのを見ると、組織の中で自分の居場所が与えられて
いない寂しさがにじみ出ているように感じることがあります。自分が同じような立
場になったことがあるので、この点については、相手の立場に立って考え、行動す
ることができるようになったのではないかと思います。行政に携わる者に大切なこ
とは、相手の立場に立って考えること、このことに尽きると思います。
鳥取県では、中国、韓国、ロシア、モンゴルといった環日本海地域との交流に力
を入れています。この北東アジアにおける地域間の経済や文化などの交流において、
近い将来、鳥取県が拠点としての役割を果たすことができるようにソフトとハード
の双方から整備を進めています。また、少子化・高齢化の時代の流れを睨んで、子
どもを産み育てやすい環境づくりやバリアフリーのまちづくりを積極的に推進して
います。その他、県民生活のいろいろな場面で展開される施策のすべてについて、
鳥取県では、県民の声を素直に聞いて施策に反映させるよう、幹部による出前説明
会を開くなど、さまざまな努力をしているところです。
県庁内を巡回するツアーを毎週定期的に設けて、知事室その他を県民に見学して
いただく取り組みや、廊下や階段に県内の小学生の絵画などを展示する県庁ギャラ
リーの設置など、ともすれば縁遠かった県庁を県民にとって親しみのある県庁に変
えていくことも、県民との意思疎通を円滑にするために実施されています。また、
ホームページ「とりネット」を公開し、毎週定例的に行われる知事の記者会見の全
文や県議会議事録、マスコミへ提供した資料などを掲載するとともに、個人情報の
保護に留意しつつ積極的に情報公開を進めるための条例を整備するなど、わかりや
すい県政を推進しています。
新世紀を迎える2001年には、鳥取市と共同で公設民営方式による鳥取環境大
学(仮称)を開学することとしているほか、鳥取県中部の倉吉市には、さまざまな
交流の拠点となる倉吉未来中心、鳥取県の特産である梨をテーマとした博物館など
が開館することとなっています。
高速道路網の整備も着々と進み、西部では、米子から高知まで1本の高速道路で
結ばれていますし、東部では、10年後には、鳥取と姫路が高速道路で結ばれるこ
とになっています。氷温、キチンキトサンなどの鳥取県で産まれ育った技術は内外
で高く評価され、関連産業の振興に一役買っています。これからの鳥取県に期待し
ていただきたいと思います。
最後になりましたが、鳥取県の魅力についてお話します。
私の生活の舞台となっている鳥取県は、夏は海水浴、冬はスキーを存分に楽しめる
自然の豊かなところです。自転車か自家用車による通勤が主な手段で、一部の路線
で通勤渋滞が起こりますが、満員電車で押しつぶされることはありません。遊園地
などのアミューズメント施設やメジャーなアーティストのコンサートがないので退
屈に思うこともありますが、なかなか暮らしやすいところではないかと自負してい
ます。
鳥取県には、たくさんの温泉があります。古くからある温泉としては、鳥取県東
部から、岩井、鳥取、吉岡、浜村、鹿野、東郷、羽合、三朝、関金、皆生の10の
温泉地があり、この他にも、境港市、福部村や中山町などで公営の温泉施設を開放
しています。温泉のほか、知名度の高い歴史ある観光地としては、「鳥取砂丘」や
「大山」がありますが、最近では、県や市町村の手で特色ある観光施設が続々と誕
生しています。
平成11年春にオープンした西日本最大級のフラワーパーク「とっとり花回廊」
では、雄大な大山を望みながら、四季折々に咲き乱れる花々を鑑賞することができ
ます。このほかにも植田正治写真美術館、童謡唱歌のふるさと鳥取をモチーフにつ
くられた「わらべ館」などがあります。特産物としては、「二十世紀梨」と「松葉
がに」は鳥取を代表する味覚として広く知られています。このほかにも、生産高日
本一のらっきょう、高品質でおいしいスイカなどがあります。
UJIターンするなら鳥取県、企業進出や工場の増設も鳥取県、旅行するなら、
もちろん、鳥取県。皆様のお越しを心よりお待ちしております。
私のレポートは以上です。鳥取県には、鳥取三田会と米子三田会があり、私は鳥
取三田会に所属しています。最近は、私は最近参加していませんが、鳥取には、毎
年、春秋に開催される関東六大学のOB会による六大学野球があります。ところが、
慶應は一度も優勝したことがありません。今年こそはと、会員一同、毎年思ってい
ますが、どうにもなりません。新ミレニアムを迎えた今年は、一地方ではあります
が、この六大学野球の優勝を含め、鳥取での慶應のますますの発展に微力ながら力
を尽くしたいと考えています。
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リレー・メッセージ 第17回 2000.02.14
今月は、由谷 裕哉さん(昭和53年経済学部卆)からのご寄稿です。
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はじめまして。
私は1986年に大学院社会学研究科の博士課程をいわゆる満期退学し、その後
複数の大学・短大の非常勤などを経て、1988年に今の勤務先である北陸地方の
短大の新設に伴って専任教員になりました。
勤務先では社会学・社会調査などの科目を担当しており、昨年母校より学位
(博士号)を得ることができました。
主に少子化の影響から大学に冬の時代が到来していることはマスコミ等でしば
しば報道されていますが、ここでは私の勤務先がそれに含まれる1980年代後半
から90年代前半にかけての大学新設ラッシュの時期にできた地方の新設大学・
短大の内情を、レポートしたいと思います。
さて、まさに日本経済におけるバブル期とも一部重なるこの時期に雨後の筍の
ように沢山の大学が出来た背景の一には、第二次ベビーブーム世代が中・高生に
さしかかっており、受験生増加が見込まれたことがあります(ピークは1992年
頃)。
しかしそれだけではなく、文部省がこの受験生数右肩上がりの時期に大学新設
や学部増に対して比較的寛容であったため、これまで大学・短大のなかった地方
の非県庁所在地の中小都市が、そうした新設教育機関の所在地として名乗りをあ
げたことがあるように思います。
私の勤務先も人口10万人余の非県庁所在地にあり、それが設立されるまでの最
高学府は高等学校でした。
書店の教育問題関係のコーナーでよく見かける、危ない大学云々とか潰れる大
学云々といったタイトルの本で、粗製濫造とか大学のバーゲンセールとかこきお
ろされることの多い新設大学の大半は、およそこういった環境のもとで作られた
と見ていいと思います(なおこれらの本では、私の所のような短大はほとんど問
題にもされていませんが)。つまり、地方の非県庁所在地である中小都市で、若
年層の流出という現象がおよそオイルショック後に深刻な問題となってきたこと
がこのことの背景にあるのではないか、と私は見ているのです。
若年層の転出とそれに伴う中小都市の活力減退に関して、例えば私が1980年
代後半から90年代初頭にかけて慶應関係の比較的大きめな調査プロジェクトに
参加した、東北太平洋岸のM市の例を見ましょう(同調査の際、当地の三田会の
皆様にもご援助頂きました)。
同市は1955年に市街地の周辺部を合併して現在の市域になった時の人口が5
万3千人ほどでしたが、高度成長期の人口増に引き続き、オイルショック後も漸
増して人口6万人台を超える時期が10年ほどありました。しかし1980年代後半
頃から人口減少が留まらず、現在は人口5万8千人台となっています。
同市では1974年にはじめてコンビニエンスストアが出来たのを皮切りに、深
夜営業の小売店が徐々に増え始めましたが、お店側の一番の悩みは大学生がいな
いためアルバイト労働力が慢性的に不足していることだそうです。同市には198
9年に県立の短大が出来ましたが、学生数も少なく若年のテンポラリー労働力不
足は解消していないとのこと。
そして我々が調査中に驚いたのは、同市で出されているタウン誌の投稿記事で、
親元にいるのは嫌だという趣旨の中・高生たちの投稿がけっこう多く、しかも
(東京ではなく)県庁所在地の都市に出たいという内容が少なくないことでした。
同市から県庁のある市までローカル鉄道またはバスで2時間ほどかかってしまい、
そこからさらに新幹線に乗って東京に出ることは夢見ることすらできないのでし
ょうか。
また、あまり社会科学的データでもないのですが、1980年代に一世を風靡し
た少女漫画家紡木たくの、中国地方の非県庁所在地都市の高校を舞台とした作品
『瞬きもせず』にも、高校生が卒業後に街を出て行くので街の活気が失われて
魅力に乏しい、といった舞台設定がされていました。
目を自分の勤務先のある北陸のK市に転じますと、人口は先のM市の2倍弱
あるし飛行場があるので東京には近いし県庁所在地へも汽車その他で小一時間、
等々のおかげか、流石に1980年代以降の人口減はないみたいです。
でも、1985年と90年の国勢調査の差がなんと30人程度の増加(^0^)らしく、
また90年代に入ってから転出者人口が転入者人口を上回る年度の方が多いとの
ことで(市の市民課による)、いつ人口減状態に入るか余談を許しません。
同市では、大資本のメーカーの立地に加えて新たな企業誘致もあり、最近郊
外型の大型小売店ができたりもしてはいますが、古い商店街のある中心部は不
動産価格が下落の一途らしく、どちらかといえば若者が少なく街の活気が失わ
れてゆく方向にあると思います。
以上、あまり正確なデータでもありませんが、1980年代後半〜90年代前半
に新設された大学・短大の設立の重要な背景と私が考えている、地方の非県庁
所在地都市のオイルショック後、とりわけ1980年代以降の(主に若年層流出
による)活力低下を概観しました。
もとより、若年労働力が当地に留まって欲しいといった市民のニーズはある
べき大学教育の本質とは関係ない、と堅い批判をする方もおられるでしょう。
実際、先述した危ない大学本の類では、(こういった地方中小都市の現状分析
には目を向けずに)日本の大学の過半数は潰れてしかるべき、式の切り捨て議
論がなされています。
しかし、四年制大学入試が急に広き門となったここ一両年ほどの間に、私の勤
務先では、子供を遠隔地の大学に学ばせるとか四年制大学にやるとかの経済力
に不足する家庭の学生が目に見えて多くなりました。
一方で、わが短大の最近の入学者減のおかげで、学校周辺に3つ4つほどあ
る学生向けアパートでは、次年度以降前の通りに入居者を確保できるのかと我
々大学関係者以上に心配しているといったことが実際に起こっています。
ですから地方中小都市に新設大学を立ち上げかつ維持することは、教育論だ
けで割り切れない様々な連関効果が地域社会にあるし、だからこそ期待されて
もいるのだと思います。
そういった意味では、少なくとも県庁所在地に住んでいる人(若者)もいな
い人も同じレベルの教育的な福利厚生を受ける環境が日本にもたらされるまで
は、こうした地方大学・短大を(自分が今いるからというだけではなく)なく
してはいけないのだと私は思っています。
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リレー・メッセージ 第16回 2000.01.15
今月は、シドニー在住、福田恭子さん(平成9年文学部卆)からのご寄稿です。
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「・・・5,4,3,2,1, Happy New Year!」
大きな歓声と誰彼構わず吹き鳴らすラッパ(?)の騒音を浴びながら、2000年
ミレニアムの新年を迎えた。と同時に打ち上げられた花火が夜空を彩り、ハーバー
ブリッジからは仕掛け花火が打ち上げられ、もう観衆は興奮状態。
特に今回のニューイヤー恒例の花火は例年の3倍の量ということもあって、一目
観ようと集まった人々でオペラハウスからハーバーブリッジ周辺は埋め尽くされて
いる。
ゆったりと花火を観ることの出来る場所、例えばオペラハウスの敷地内や周辺の
レストラン、ホテル、クルーズなどの席は、今年は何とA$1,000〜3,000(約7
〜21万円)の値段が付けられた。
タダで花火を観るためには、日本の通勤電車並に混雑した人込みに揉まれること
を覚悟しなければならない。それでも、やはり今年の花火はどうしても観ておきた
かった。
踊りだす人、雄叫びをあげる人、真夏のお祭り騒ぎの「New Year's Eve Party」
は、ハーバーブリッジに浮かび上がった「eternity」の文字を最後にお開きになっ
た。興奮冷め遣らぬ人々の中帰路につきながら、ふと2時間後に迎えるであろう
日本の厳かなお正月を懐かしく思った。
卒業後、すぐにオーストラリア留学を実行。長い人生の一時期を海外で生活する
のが夢だった。オーストラリアを選んだのは、以前シドニーに住む友人の元を訪ね
て以来すっかり気に入ってしまったから。
その時は3ヶ月の観光ビザを取り、バスでシドニーからアデレード、エアーズロ
ック、キャサリン、ダーウィン、ケアンズ、ゴールドコーストそしてシドニーに戻
ってくるというオーストラリア大陸東半分を廻る旅(こちらでは「ラウンド」と呼
ばれている)をし、数々の観光地を訪れその雄大な自然に圧倒され、360°見渡せ
る地平線や夜空を埋め尽くす星空に感動し、この大陸に魅了されてしまった。
シドニーに戻ってからも、バスの中で気軽に話かけてくるおじさん、ピンクのビ
キニで浜辺に寝そべるお婆ちゃんなど、この国の人々のフレンドリーさや人の目を
気にしない態度に共感。またここに戻ってくる決意をしたのだった。
今回はスチューデントビザで来豪し、数ヶ月語学を学んだ後、IT(Information
Technology)のDiploma取得コースに進んだ。語学学校で知り合った友達は一人
二人と日本に帰ってゆき、段々寂しくなってきた頃に「シドニー三田会」の存在
を「インターネット三田会」のホームページで知った。
早速連絡をとると、幹事のジミー田中さんは入会を歓迎して下さり、すぐに飲み
会に誘って下さった。そこで会員の皆さんに紹介して頂いたのだが、まずその淙々
たる肩書きにビックリさせられた。
シドニーに進出している日本企業のトップクラスの方々や弁護士、公認会計士、
日本総領事館夫人など、そんな方々に囲まれ委縮する私に対して皆さんは気さく
に接して下さった。
「シドニー三田会」の中では各々の肩書きなど脱ぎ捨て、塾生同志という意識
で語らい合っているのだろう。そして私だけでなく、海外に駐在し生活している
皆さんにとっても、この会は日本から遠く離れている寂しさを紛らわしてくれる
心強い存在になっているのだと感じた。
「シドニー三田会」の主な活動は、年1度行なわれるゴルフの慶早戦(毎年あ
の大橋巨泉も参加するとのこと)や塾内コンペ、毎月第三水曜日に行なわれる
「水々会」と称する飲み会、テニスや釣りなどのイベント、その他、現役体育会
系の学生がシドニーに遠征に来た際にはクルーズディナーに招待したり、試合を
観戦しに行くこともある。
会員数は100名近く。先にも述べたが、その殆どが日本企業の駐在員として各
方面で活躍なさっている。そして様々なイベントを通じて常に交流を深め、和気
あいあいと活動しているのである。
ただ、やはりこの会の中ではゴルフは必須であり、私もそのお仲間に加わるべ
く最近練習を始めた。
この国は日本に比べたらゴルフ天国。シドニーシティ中心部からも車で5分で
ゴルフ場に到着。18ホールのプレイフィはA$30〜(ゴルフ場の質にも因ります
が…)。
サマータイムの実施されている夏場は夜9時くらいまで明るいので、5時から
ハーフを廻れてプレイフィも安くなる。しかも一人でもコースを回れるので、
初心者の私でも他のメンバーに気兼ねすることなく、いつでも好きなときに練習
することが出来るのだ。
しかし練習すればするほど、ゴルフは回を重ねてもそう簡単に上手くはならな
いのだということを実感。三田会の皆さんのお仲間入りをするにはもう少し時間
がかかりそうだ。
さて、今年はシドニーはオリンピックイヤーということもあり日に日に盛り上
がりを見せている。去年の春に売り出されたチケットは、その配付方法に多少の
混乱をみせながらも既に完売。その値段もかなりなもので(入場式のチケットは
A$1,000以上、私の観たかった水泳はサブプールの端の席でも$70)、結局手に
することは出来ず、マラソンやトライアスロン以外は近くにいながらTVで観戦す
ることになりそうだ。
ただ、未だにオリンピックに向けての整備の工事が各所で行なわれているとい
う状態で、本当に当日までに完成するのだろうかと首をかしげたくなる。これも、
仕事よりHolidayを優先させるというAusie気質の表れだろう。ここでは時がゆ
っくりと流れている(と思うのは私だけだろうか?)。
もうしばらくこのぬるま湯の中に身を浸し、周りから急かされることもとやか
く言われることもなく、しっかりと自分を見つめて暮らしていこうと思っている。
Kyoko Fukuda
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リレー・メッセージ 第15 回 1999.12.14
今月は、昭和51年経済学部卆 田中邦彦さんからのご寄稿です。
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<中年リストラ転職始末記>
鉄鋼会社の厳しいリストラ政策の中、13年がんばったシステム事業部が赤字を
解消できず廃止が決まり、部員全員が社内失業となった。1社内本業部門回帰/2関
係会社出向/3資本関係の無い外部会社への出向/4早期退職の選択があったが前2
択はその場しのぎですぐ同じ運命になると判断、不況の中、中年で早期退職すればと
てもやっていけないとも思い、この際残り15年を託せる外部会社への出向を希望し
た。
さっそく転職研修を受ける。履歴書の書き方、人材銀行見学、先輩の体験談など
で2週間の間洗脳される。はじめは屈辱感が拭えず気分が滅入る。いわく、外部会社
の場合はその会社の文化になじめるかどうかがカギになる。当社社員は優秀で仕事は
問題なくこなせるが、やりすぎるとプロパの反発を招くし、やらなければ上からNG
を食らう。如何に社長イズムに同化するかを賭けた敵地への単独落下傘降下…・
いざ求人資料を見ると会社規模、勤務地、業績などで満足できる所はなかなか見つ
からなかった。
自分のコネでも探し始め、大学関係をINTERNETで探し始めてすぐ小野さ
んにめぐり逢った。ちょうど自社から紹介されたある上場会社に目を付けているとメ
ールすると、なんとその会社のシステム部門長が小野さんの親友であり、慶応OBの
社長とも面識があるとのこと。不思議な偶然に心が高ぶった。小野さんに紹介状をし
たためていただきアタック体勢に入った矢先、その会社が合併準備に入ったため採用
できなくなって話は途切れてしまったが、小野さんにメールで励まされながら活動を
続けた。
転職活動は気が滅入るものだが、それが顔に出てしまい面接で<こいつは元気が
無い>と烙印を押されて駄目になることが多い。要は気合だ。自己のキャリアを信じ
て<新しい人生をはじめるんだ>という希望に燃えた熱き心を維持できるかどうかが
重要だ。
気合が運気を呼だのか、すぐ2つのソフトハウスから引き合いがあり、新宿の会
社から内定が出た。本日中に回答が欲しいと。一方の市ヶ谷の会社の最終面接は翌日
だった。
悩んだ。新宿で一人で飲んだ。夕刻帰宅途中<2兎追うものは…>と人事から新
宿の会社にOKするよう要請がケイタイに追い討ちのように入った。巣鴨の駅で途中
下車した。規模、条件はほぼ同じだったが市ヶ谷のさわやかな並木道の傍にある会社
の雰囲気の明るさに心引かれた。一次面接の時支店長が僕を身内のように扱ってくれ
<この若者達を指導してやって欲しい>と大勢の若者の熱気でむんむんする開発ルー
ムに案内してくれた。
新宿の会社は社長は親し気に熱意を持って話してくれたが゛横にいた役員がおび
えているような感じで気になった。家内にケイタイで相談した。<行きたいな、と思
ったところに正直な気持ちで賭けてみたら? 市ヶ谷の面接駄目でも、あきらめつくでしょ?
NGでもまた話はどんどんくるよ。> 2ヶ月のつらい求職活動が瞬時に
頭を駆け巡り涙が自然に出た。はじめて弱気になり純粋な気持ちになれた。打算で
はない、愛着が大事だ。<我が社>といえる心を持てるかどうかだ。ホームのベン
チに座り込んでケイタイを取った。人事に新宿の会社を断る様電話した。
市ヶ谷の会社に決まった。小野さんとファカルティではじめてお会いしてさわや
かな風の吹くキャンパスで、慶応の伝統と独立自尊の蘊蓄ある話を聞きながら自分
を振り返っていた。<我かく戦えり>と自信を持ってだれにでも語れると思った。
慶応イズムの気概と明るさと自己のアイデンティティを貫けたと思った。話は全
く尽きず、とうとう夕暮れが迫り再会をお約束して小野さんと別れた。
今、転職して4ヶ月、勝負はこれからであるが選択は間違っていなかった。やる
ことがたくさんあって自分のすべてを出してもまだ天井が高い。なにせ平成になっ
てから20%成長をKEEPしてきた会社だ。社員の目が輝いている。みんな若い
。まるで溶岩のように熱く一個所にとどまっていない。時間が足りない。
大きな誤算があった。僕が入った会社は実質6000人、上場企業の中途転職者
が200人、一人の社長が統治する20社の会社集団ということが後で分かった。
会社イコール事業部という感じで幹部同士の交流が盛んだ。入社してすぐ1部上場
会社を買収して飲み込んだ。
生涯を託せる器を持った会社だと感じることができた。上司はNECから出向、
副社長はNTT出身、常務は慶応の3年先輩…・と言う具合で多くの味方がおり
敵地落下傘降下ではぜんぜん無かった。ラッキー!
一度困難をかいくぐった経験は人を何倍も強くする。たいていの危機も泰然と楽
観的方向で対応する心の余裕と冷徹な頭脳が身に付いてくる。その後親友が相次い
で転職の局面に遭遇して僕のアドバイスで気合いを入れている。人生はすばらしい
。
持つべき物は友、妻、自己のアイデンティティ。これらは年齢とともにますますか
けがえの無い宝になって行く。
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今月は、昭和14年経済学部卆 牛田信雄さんにご執筆をお願いしました。
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「愚痴とプレゼントと狸」
歳を取ると愚痴っぽくなる。癇癪持ちになり、人の悪口をいう。これは何とか慎ま
ねばならぬと思う。一生懸命心掛けているのだが...。ところが癇癪玉は破裂させ
る位の方がストレスの解消になって、精神衛生に良いとのこと。世の中全く変わった
ものだ。
さて、最近朝餉のトーストに凝っている。パンは市販のごく安い六枚カットだ。バ
ターは10gに仕切り10枚入っている雪印。この一片(つまり一区切り・10g)
を縦に三等分し、10/3gを4ヶのカケラに切る。四角いパンを縦に3等分し、これ
をオーブントースター1,000wで1分30秒ほど焼き、狐色にして暫く乾燥す
る。2〜3分でよい。カリカリになったものに先程のバターをパン一片に4等間隔に
並べ、500wで2分弱焼く。これだけで実にうまい。
アト醤油味の白ゴマを卓上ミキサーでジーと砕いてかけたり、ローマイヤのレバー
ペーストを塗ったり、ディジョン(キューピーで結構)のマスタードやスーパーで買
うワサビ漬などをその日により、少々塗って楽しみ、最後はアオハタのイチゴジャム
かオレンジママレード。一度お試しあれ。
次はプレゼントについて。
人にものをあげる時、小生は生来ケチンボで、使っている内いらなくなったものや、
安く手に入ったものなどをプレゼントにした。
しかし、これはいけない事であると注意された。プレゼントというものは、「自分が
欲しいな」と思うもの、また予算の中で買えるAクラスのものを贈呈することだとい
うのだ。例えば5,000円の予算だったら5,000円位で買えるいろいろの品物
のうち、Aクラスのもの。虎屋のようかん、ウエストのクッキー、ホットマンのタオ
ル、洋ものの石けんなどになろうか。夢々、割引の洋陶器など贈ってはならぬと。
最後は狸のはなし。
女とカネは狸とそっくりだ。こっちが追っかければ追っかける程どんどん逃げる。
こんなものには見向きもせず、さっさと前を向いて歩けば、女もカネも後からついて
来る—と。この話を女性に話したら、「女から見れば、男とおカネが狸よ」と、そう
か、吾々は、竹林の中でうろうろしている狸なんだ。この世は竹林なんだ。
そうとわかったら、月夜の晩にポンポコポンとやるか。 のぶ
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今月は、昭和36年商学部卆 江藤 美保子さんにご執筆をお願いしました。
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「Language and my life」
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
子供たちが大きくなった時、せめて手紙のやりとりは、日本語でしたいと願
っていました。これは勿論、その方がなにかとラクだからという、母親の都合
を最優先で考えたのです。まあ、結果をいうと、そのはかない期待はものの見
事に裏切られました。
しかし、ある時期までは、二人の娘達が片言を話しはじめたとき以来、私は
せっせと日本語で話し掛けました。日本の絵本やら積み木やらも使って、最後
の頃には日本の国語の教科書も使ってひらがなとカタカナまでは教えました。
もう忘れてるでしょうけど。
それまでにも、日本人を母親に持つ、多くのお子さんに接した時、母親との
やりとりが、日本語以外の言葉でなされていることが殆どでした。しかし、私
には子どもの言葉のどんな小さな誤りも(発音も文法上の問題も)、自分の母
国語である日本語の他には、それを正すことは勿論、気づくことさえ出来ない
筈で、やはり自分には、そんな度胸はない、日本語しか使えないという思いか
らでもあったのです。
子ども達が生まれたのはノルウェーで、周りに日本語の通じるところはどこ
にもありませんでした。私にとっても、日本語で話し掛けることの出来るのは、
この幼い子供たちだけでした。いわば私自身のストレス発散の手段でもあった
のですね。
そんな環境の中で、母親の日本語と、父親を含め他の全ての人々のノルウェ
ー語と、またその上に、両親の会話や、母親が周囲の人と話す英語と、やがて
通いはじめたアメリカ系の幼児教室での先生達ネイティブの英語、そこへ通っ
てくるさまざまの国籍の子供たちのいろんな言葉をとらえながら、彼女たちは
幼児期を過ごしました。
母親には日本語で話しかけ、同じ事を父親に向かってノルウェー語で繰り返
し、いわば生まれながらに通訳みたいなことをして、いつのまに複数の言語と
いう観念が出来たのか、不思議な気がしたものです。そんな頃、クリスマスを
控えて3歳の娘は突然こう尋ねました。「ママ、サンタクロースはいくつの言
葉ができるの」。私は、一体何を言ってるのかすぐには理解出来ませんでした。
すると、この下の娘は「だってママは、サンタクロースは一人でいろんな子
のところをまわるって言ったじゃない。じゃあ、いろんな言葉でお話できない
とだめでしょ。」
また、或時は姉妹同士のやりとりを日本語でやってるのをなんとなく聞いて
ますと、ノルウェー語の限定詞は、名詞の語尾にenが付くのですが、”そのx
x”とか言いたい時には、なんと日本語の名詞語尾に、このenを付けてしゃべ
ってるのです。そのお菓子は、なんて言うのは ”お菓子en(オカシエン)”
なんてぐあいになるわけです。
私など、英語でもどの場合に定冠詞にするのか、ドイツ語となったらいつ、
この限定語尾を付けるのか、いまだに不確かなのに、どうしてわかるのか、彼
女達の会話の可笑しさに笑いながらも不思議でした。
その頃二人は6歳と4歳だったと思いますが、どうしてそれにエンが付くの
と思わず尋ねてみましたが、勿論説明は得られませんでした。
こんな疑問を抱きながら、また、この子達の言語感覚を不思議に思い続けな
がら、私は今、シンガポールの大学等で日本語を教えはじめて15年になります。
5歳になった上の娘を連れて帰国した時、ノルウェーでは英語のままで放映さ
れて見ていた「大草原の小さな家」を日本語でやってました。吹き替えとは知ら
ず「ママ、ローラって、日本語も話せるのねえ、上手ねえ」としきりに感心して
ましたが、他の子ども番組で、子供たちの話す言葉は殆ど理解できず、また私の
友人や親戚を訪ねても、自分の母親と同じような立場で話し掛けてくれる女の人
の言葉はよく分かるのですが、子どもや男性が話し掛けると変な顔をして、さっ
ぱり理解しませんでした。
7歳と5歳でシンガポールにやってきてまもなく、ある日本人のお母さんがこ
の二人の話すのを聞いて「あら、あなた達のママは関西の出身なの」と言われま
した。
私自身は高校までを関西に過ごしましたが、それを簡単に見破る(?)人は少
ないのです。ただ、本を朗読するとバれる確率は高まります。かつて、友人で大
阪から東京の高校に転校した人から、国語の時間になると教科書を朗読させられ、
関西なまりを直されたと聞いたことがありますが、私はその”洗礼”を受けてな
かったからでしょう。
ノルウェーという、日本語環境から遠ざかり、しかも自分の幼児言語は関西な
まりでしか身についていなくて、東京に住んでからは使う機会のなかった幼児語
をそのまま自分の子ども相手に話してたんだなと知らされました。そればかりか、
このノルウェーでの9年間のうちに、いつのまにやら、大学に入って以来、東京
に住んで誤魔化し続けた東京風アクセントのメッキが剥げかかっていた事にも気
づきました。
人間の言語能力は、たとえどこの国の言葉であれ、生後まもなくから発達を続
けない限り、障害として残るという話を読んだことがあります。また、言語の習
得能力というのは、その人の第一言語のレベルを、それ以外の言語をいくら勉強
しても、絶対に超えられないという話も聞いた事があります。
私のような者にも、英語の成績がよくならないと、お子さんの事で相談される
こともありますが、それからは、国語が2とか3では英語が4や5は期待出来な
いでしょうと答えることにしています。確かに、難解といわれる学校の入試問題
の和文英訳など、日本文の方の文章の構造が掴めずには、英語以前のところで歯
が立たないだろうと思えるものが沢山あります。
一方、日本語クラスで、なかなか上達しない学生が、英語でくれるメール等を
見ますと、たいていは私でさえ気づくようなミスがいっぱいありますし、更に中
国語やらマレー語も出来るなんて言われても、想像がついてしまいます。
最近は中国からスカラーシップを貰って、シンガポールの大学に学ぶ学生が増
えていて、私が非常勤で働く理工大学(国立)でも選択科目として日本語をとる
学生が多いのですが、第一言語としての中国語がしっかり身についてる彼らは、
二言語教育を国の方針として小学校からやっている(英語プラス親の言葉である
中国語やマレー語など)、シンガポールの学生よりも、授業が英語で行われてい
るにもかかわらず、習得が早いように思えます。
もちろん、この二言語教育そのもののよい点はたくさんあり、ましてや最近の
コンピューター化された環境の中では、英語苦手人種の代表みたいな日本人から
みて、どんなにか有利です。
私事ながら、通訳・翻訳を事業の一環としている小さな会社を運営してもおり
ますが、日本人の優秀な通訳の第一条件には、日本語が上手な事を最優先として
考えてます。
帰国子女とかバイリンガルとか、いろんな話題は沢山ありますが、いくつもの
言語がどれも同じレベルというのは、どれも不完全ということではないかと、私
は思います。
鳥居塾長がシンガポールにみえた時、最近の国語教育から、漢文や古文が外さ
れたという話をされましたが、英語習得に力を入れようというのは結構ですが、
日本人として日本に生きる限り、所詮は第二言語の域を出ず、その第二言語のレ
ベルアップには、我々の第一言語を先ずしっかりと教育して欲しいと思います。
このとりとめのない話の最後に付け加えますと、カタカナ言葉、日本語を勉強
する外国人にとっては、テニヲハよりも敬語よりも、これこそがずっとずっと難
しいのです。私も日本を離れてますと困ることがしょっちゅうあります。ワープ
ロ、パソコン、フリーダイヤルなんかも、意味がわかるまでは考えましたから、
デジカメがすぐわかるガイジンがいたら尊敬してしまうでしょう。
お喋り娘達のその後は、上はノルウェーに戻って教育を受け、下はシンガポー
ルや世界各地に姉妹校のある、イギリス系高校からイギリスの大学を卒え、イギ
リスを中心に、いまや母親の行ったことがないところまでも出かけてます。やっ
ぱり英語のできる奴は有利だなあと思います。悔しいですが、これが今の世界の
現実でしょう。
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今月は、平成4年文学部卒、小林泰夫さんにご執筆をお願いしました。
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「能と慶應観世会」
塾員のみなさま、こんにちは。 1992年に文学部文学科仏文学専攻を
卒業した小林泰夫と申します。現在 通信関係の会社に勤務しております。
私は大学時代に「能」のサークルに入ったのがきっかけで、卒業後も趣味と
して能の謡と仕舞の稽古を続けています。今回は学生時代のサークルの思い出、
そして能について思うことなどを書かせて頂きたいと思います。 私が学生
時代に所属していたのは「慶應観世会」という能楽サークルです。
能でおもに主役を演じる役を「シテ方」と言いますが、シテ方には「観世」、
「宝生」、「金春」、「金剛」、「喜多」の五流あり、慶應観世会は文字通り
観世流のサークルです。 会を指導して下さるのは、塾の卒業生でもある観世
流能楽師・坂井音重師で、 学生は週2回の日吉キャンパスでの自主稽古のほか、
月2、3回坂井師のお宅 の舞台で稽古をつけて頂いています。
慶應観世会は、1936(昭和11)年に創立されました。坂井音重師の父上、
故坂井音次郎師に創立以来ご指導頂き、音次郎師亡き後は音重師が後を 継いで
ご指導に当たられています。 ちなみに「慶応観世会」という名称は、観世流
第24世宗家故観世左近師に 命名して頂いたものです。いわば「家元公認」の
サークルであり、その意味で 普通の学生サークルとはかなり性格が異なっています。
私は大学入学後に能を始めました。演劇と、日本の古典的なものに 漠然とした
興味関心があったのがきっかけで、本当に軽い気持ちで慶応 観世会の門をたたい
たのでした。それまで能を生で見たことは一度もなく、 能とは「面をつけてする
日本の古典劇」ぐらいの認識しか持っていません でした。
慶應大学には、観世流のほかに宝生流のサークルもあるのですが、 能楽界で一番
大きな流派が観世流であることは知っていたので、取り敢え ず大きい流派の方が
何かと好都合だろう、というあまり根拠のない理由で 観世会を選びました。
能楽サークルには入ったものの、実はもう一つ学生劇団(こちらは現代劇) を
かけ持ちしており、大学1、2年の頃は圧倒的に劇団の方に入れ込んでいた ので
した。観世会の稽古には何回かに1回だけ顔を出す程度で、ほとんど幽霊 部員に
近い状態でした。その後2年生から3年生に上がるとき、劇団の先輩が ほとんど
卒業してしまったため、劇団は自然消滅しました。 観世会では、大学2年の年
末に来年度の代表を誰が務めるかでもめました。 毎年3年生が代表を務めること
になっているのですが、その時点である程度真面 目にサークルに出てきていたの
は私を含めて3人でした。私は、代表なんか絶対 なるものかと思っていたのです
が、他の2人が断固として拒み、なだめすかされ た結果、渋々代表を引き受ける
ことになってしまいました。 代表になったことをきっかけとして、自分で言う
のも何ですが私は別人のように 能に入れ込んでいきました。50年以上続く伝統
あるサークルの代表をいい加減 な気持ちで務めるわけにはいかないと思い、稽古
には欠かさず出るようになり、 能の舞台もがむしゃらに見るようになったのです。
週1回はプロの生の舞台を 見ることを自分に課し、足しげく能楽堂に通って手
当たり次第に能を見たもので した。このころ、とにかく分からないながらもたく
さんの舞台を見たことが、鑑賞眼を 養う上で大変役に立ったと思います。
慶應観世会、そして学生時代の最大の思い出は、大学4年のときに「能」を 舞
わせて頂いたことです。ちなみに能の世界では、玄人(プロ)と素人(アマ) は
厳格に区別されており、素人が「能」を舞うということはいろいろな意味で 非常
に大変なことなのです。そして、学生は言うまでもなく素人です。 慶應観世会
では、観世宗家のご理解、坂井先生をはじめとする諸先生方の 格別のご配慮・ご協力、
そしてOBによる経済的援助等によって、4年生が「能」を 出すことが出来るのです。
渋谷の観世能楽堂で毎年夏に開催される自演会 「慶應観世会能」では、4年生が
演じる能のほか、一曲の一部を抜き出して舞う 「仕舞」(しまい)、それに囃子が
加わった「舞囃子」(まいばやし)、一曲を通して 着座して謡う「素謡」(すうたい)、
一曲の一部を抜き出して謡う「連吟」(れんぎん) 等が学生とOBによって演じられ
ます。 私は大学4年のとき「小鍛冶」(こかじ)という能を舞いました。稲荷明神
の 助けを得て刀匠が名剣を打つというストーリーで、前半は童子、後半は稲荷 明神が
シテ(主役)となります。前シテは同級生の女性、そして後シテを私が 務めました。
年明け早々から約7ヶ月間能の稽古に励み、学生時代の集大成の つもりで臨んだ本番
の舞台は無事終わり、演能後には言いようのない充足感、 満足感を得ることが出来ました。
「能のどこが面白いのか」と良く聞かれるのですが、なかなかはっきり答え られない
自分にしょちゅうもどかしさを覚えます。能はさまざまな要素から成り 立つ総合芸術で
あり、自分はその中で「これ」が好きとはなかなか言いきれない のです。より正確には
、どの要素も自分には心地よく、それらの総体である能は 私にとってやはり心地よいも
のなのです。 逆に言うと、たくさんの要素の中のどれか一つにでも興味を持てれば、
能に 面白さを感じることができるのではないでしょうか。例えば、演者の生身の身体
から発せられる謡の声、囃子の楽器の音色、囃子方の掛け声、西洋音楽とは 異質の
リズム・メロディ、抑制された舞の動き、様々な能面や装束の意匠、 余分なものを極限
まで削ぎ落としたストイックな演出などなど... 能は様々なアプローチを受け入れる
だけの間口の広さと、懐の深さを兼ね備えた 演劇だと思います。
現在私は、坂井音重先生のもとへ月2回稽古に通っています。やりたい曲が 次から次
に出てきて困るぐらいで、それを少しずつ順番にこなしているという状態です。 稽古の
成果の発表の場としては、年2、3回の社中の発表会のほか、OBとして 出演する
「慶應観世会能」、そして全国の大学の能楽サークルが集まる「全国大学 学生・OB
謡曲連合会謡会」等があります。これらの会を通じて様々な年齢、境遇の 方と交流する
ことができるのは何よりの楽しみです。 また、慶應観世会のOB組織である
「三田観世会」に所属し、現役学生の活動 を微力ながら支援しています。
自分が学生時代に能を通じて味わった感激や感動 を、是非若い学生達にも経験して
ほしいと願わずにはいられません。 この先いつまで稽古を続けられるかは分かりま
せんが、とにかくやる気だけは 十分なので、職場環境、そして経済状況が許す限りは
続けていきたいと思って います。 最後に1つ宣伝を。 今年の初めから慶應観世会の
ホームページを開設し、現在私がメンテナンスを 行っています。
こちらにも是非お立ち寄りください。 http://home.att.ne.jp/blue/keio-kanze/
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今月は、平成9年理工学部卒、川井 徹也さんにご執筆をお願いしました。
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「北海道連合三田会/釧路三田会」
インターネット三田会会員の皆様、初めまして。
平成9年度理工学部卒の川井徹也と申します。
私は塾を卒業後、乳業会社に就職を した途端に、乳業界の聖地ともいう
べき北海道へ赴任して、早2年になります。
さて、皆様は北海道という響きにどのようなイメージをお持ちでしょうか。
どこま でも続く草原、狐をはじめとする多くの野生動物、沢山の温泉、新
鮮な魚介類など様 々なイメージをお持ちかと思いますが、私の住む別海町は
人間より牛の数の方が多い というほどの田舎で、そうしたイメージ通りの北
海道の風景が広がっております。
なかなか当地のような場所に住んでいますと、塾員の方とお目にかかる機会
は少ないのですが、このインターネット三田会を通じて、塾員の方が多方面
にわたって活躍 されている様子を拝見し、塾のネットワーク素晴らしさに、
ただただ圧倒されるばかりです。
以前、連合三田会のパンフレットで、本当に慶應のネットワークを感じる
のは卒業してから、という旨の記事を目にしましたが、全くその通りだと思
っております。
もう昨年の事になりますが、このネットワークの素晴らしさを体験する機
会がありました。昨年の夏、インターネット三田会を通じて釧路三田会を紹
介して頂き、釧路で鳥居塾長をお迎えして催された北海道連合三田会のパー
ティーに参加させて頂きました。
初めての三田会への参加ということもあり、かなり緊張してパーティーに
臨んだのですが、釧路三田会の皆さんが気さくな方ばかりで、まるで旧知の
先輩のように接して頂きました。驚いた事に、私がよく利用する地元では名
の知れたパン屋さんのオーナーやレストランのオーナーが釧路三田会の会員
の方だったりと、三田会を通じて一 気に自分の世界が広がったように思い
ます。
実は私は1997年度年度三田会の副代表幹事を務めさせていただいている
のですが、 他の役員とは物理的にかなり距離があるため、なかなか活動ら
しい活動できないまま時間ばかりが過ぎています。
しかしながら、三田会での素晴らしい繋がりを経験した今、年度三田会の
活動は勿論の事、このインターネット三田会でも微力ながら協力さ せて頂き、
“慶應ネットワーク”が更に広がり、多くの塾員の方がその恩恵を受けられ
るようになればと思っております。
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今月は、昭和61年文学部・通卒、鈴木 正治さんにご執筆をお願いしました。
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「慶應義塾の通信教育」
我が家の窓際で、卒業記念の置時計が時を刻んでいる。日吉での雨の卒業式。
二谷友里恵さんがご両親に付き添われ、大学卒業と、郷ひろみさんとの挙式を
控えて二重の幸せに輝きながら、マスコミのインタビューに答えていた。
小雨にけぶる夕暮れのキャンパスで、そこだけがテレビのライトで、ぼうと明る
かった。
紫色の表紙の『慶應義塾大学卒業証書』を手にしてから、はや十二年を経た今
定年を迎えて、自分のライフワークに打ち込める時となり、パソコンに向かって
習作戯曲の執筆に日を送っている昨今である。
記念の時計を見詰ていると、卒業に辿り着くまでの、長くて苦しかった年月を
思い出す。テキストの履修、レポートの作成、科目試験等。とにかく自分が学ぶ
行動を起こさなければ、一歩も前に進まない。次々と送られて来るテキストは、
たちまち机上に山となる。向学への意欲と、挫折との、追い駆けっこであった。
科目試験は年4回、それぞれ2日有る。この日を目標にして、レポートが採点
され、返送されて来る日数を計算に入れ、全ての学習計画を立てる。職務に必要
とされる時間以外、残りの時間を総て勉学につぎ込む。出張中の新幹線の車内も、
出先での仕事を終えて帰ったビジネスホテルの部屋も教室である。新聞もテレビ
も見ていられない、一杯飲みに行くなんてとんでもない。こうして、テキストに
よる必要履修の70単位を取得する。孤独な勉学、そして自分との戦いである。
仕事との両立も大変であったが、加えて私の職務に必要な、電気主任技術者、
高圧電気工事士、冷凍機、ボイラー、消防設備士等々の免状や、資格を得る為の
勉強も、私にとって欠かせぬ重要な課題であった。
こうした状況に加えて、相次ぐ両親の死去、結婚、就職したアメリカ系会社の
倒産、転職等が重なり、21年もの長期在籍となってしまった。
この間、必死の思いで取得しながら、今はただ、机上のお飾りと化した数々の
免状のなかで、今後の人生の心の支えとなるのは、やはり、慶應義塾大学を通信
教育課程で卒業したという、誇りと自負心である。
先月、三田校に立ち寄った。久しぶりのキャンパスには新緑の風が吹き抜け、
ここで青春を謳歌できる、幸せな若者たちで溢れていた。彼らはこの同じ校舎に
両親か、或いは祖父母の年代の人たちが、面接授業に通って来ているのを知って
いるのであろうか。
夜間スクーリングは大変であった。勤めを持っている者は皆同様であったろう。
開講時間に間に合うように仕事を終わらせ、残業を断り、上司や同僚に気兼ねし
つつ会社を出て駆けつける。その苦労も、教室に座り、憧れの名教授や珍教授の
講義を聴いているうちに忘れ、学生としての喜びに変わる。なかには昼の仕事の
疲れからか、居眠りをしている人も居るには居たが。
今年の夜間スクーリングは、9月22日から12月18日まで行われる。その
頃、三田の通りを、下校する若い学生達の流れに逆らって、教室に急ぐ中高年の
人々の姿が見られるであろう。
夏季スククーリングは、更に大変であった。夏季休暇を含めても何日かは別に
会社や職場に、休暇の申請をしなくてはならない。交代で夏季休暇を取っている
なか、只でさえ人手が不足している職場の上司や同僚がいい顔をする筈は無い。
平素の勤務態度が、面接授業出席への了解を取りつける、大切な要素となる。
首尾好く通学日数を確保できた人には、炎天下の体育実技と、蒸し風呂のよう
な教室での講義が待っている。でも、スポーツで汗を流した後のシャワーは爽快
だったし、窓から時折入る涼風を頬に感じながら、講義に耳を傾けているときの
充実感は、何事にも換え難いものであった。
なお本年度の夏季スクーリングは、Ⅰ期Ⅱ期が日吉キャンパスにて7月24日
から8月31日迄と、8月2日から8月9日との二回に分けて実施され、そして
Ⅲ期は三田キャンパスに移り、8月11日から8月18日迄行われる。
スクーリングで取得した30単位は、テキストでの70単位より私には価値が
有ったように思われる。教授と差し向かい、その人格にふれ、学友達と交流して
友情を築き、佐藤亮一教授を囲んでのコンパに舌鼓を打ち、自分も塾生の一人な
のだという実感に浸れたという貴重な体験は、私の人生にとって忘れられぬ好き
想い出である。
映画評論家の水野晴朗氏は、岡山の郵便局時代、慶應通信教育テキスト課程の
単位は総て取得したものの、スクーリングに出られず、上京して映画会社に入社
して後初めて、出席が可能となったという。卒業は昭和38年、卒業まで9年を
要した。卒業論文のテーマは井原西鶴で、池田弥三郎教授の指導を受けられた。
森 雅子さんは、結婚後の子育てだけの平凡な生活にもの足らず、昭和43年
慶応の通信課程に入学、昭和50年、7年かかった卒業式には見事総代となる。
さらに、翌51年、35歳で史学科大学院生となり、平成4年3月慶応大学院の
史学科博士課程を卒業された。
「 勉強が面白くて面白くて、1分でも2分でも暇があれば勉強していました。
お手洗いにも洗濯場にも、テキストとノートがあり、家族が寝静まるのを待って
こっそり本を開くのが生き甲斐になっていました。」
「 子供をみてくれる人が居ないので、サマースクーリングに参加できず、保育
の設備が欲しい!と切実に思いました。」
主婦が、家事育児を疎かにせず、通信教育での学生生活を続ける事の大変さが
実感として伝わってくる。こうして、4人の子育てをしながら、大学院まで卒業
されたのである。通信教育は家族の暖かい理解と協力が得られてこそ成功する。
小説『子育てごっこ』で昭和50年に第四十一回文学界新人賞を取り、52年
に第七十六回直木賞を受賞された、作家三好京三氏は、高校を卒業して3年後、
慶應大学通信教育部に入学したが落伍。二度目の挑戦にて卒業まで6年間かけて
昭和46年に40歳で岩手から奥さんを同道されて卒業式に臨まれた。この勉学
の体験をもとに書かれた作品が『キャンパスの雨』である。
先に、孤独な勉学と書いたが、慶友会に入会したことにより、履修上の助けと
なる補習とか助言など、色々な援助も受けられたし学友も出来た。先輩の体験を
聞くのは、自分の生活の特殊性に即した履修計画を立てる上で有益であった。
「若き血」のテーマ音楽で始まる、ラジオたんぱ『慶応義塾の時間』( 毎週月曜
〜木曜の午後10時から30分間 )の放送による外国語授業は自宅に居乍にして
塾生気分になれる。不在時には留守録音にしておけば、通勤時の車内で繰り返し
聴くことが出来る。放送授業で10単位まで面接授業に振り替えることが可能。
ラジオから流れる「若き血」を聴くとき、勉学への闘志が鼓舞された。
さて、最後の難関に、卒業論文提出が有る。私は 「テネシー・ウイリァムズ」を
選んだが、私の卒業論文を指導して下さった、文学部英米文学科の斎藤偕子教授
との出会いが無かったら、ここで、遂に挫折していたかもしれない。面接による
指導、お手紙による激励を通して、大学での勉強の何かを改めてお教えいただき
論文完成まで熱心に導いて下さった。無事卒業出来たのも斎藤先生のお蔭です。
卒業後は、通信三田会の会員として先輩、後輩との交流が得られた。東京通信
三田会の行事に参加し、『復元江戸東京地図・特装版』(45000円 朝日新聞社)の
著者、俵 元昭氏(昭和31年通信課程にて文学部卒業。長谷川伸賞受賞作家)
から、江戸文化の興味有る話を聴き。東京名所巡りとして、会員のみなさんと、
柴又帝釈天や、寅さん記念館、そしてのんびりと江戸川を散策するのは愉しい。
通信三田会会長の加納時男氏(東京電力前副社長)は、昭和32年に東京大学
法学部を卒業後、東京電力に通いながら、慶応義塾大学経済学部を通信教育課程
で学ばれ、昭和39年に卒業されている。
平成5年『通信三田会報』上での塾長インタビューにおいて、加納会長は生涯
教育と大学とのつながりについて、 「成人とか社会人・専門家などの様々な人が
もう一度大学で、新しい気持ちで学んでいくという意味で、生涯学習は普及して
きていると思います。」 と語った。慶應大学通信教育の新たな方向と展開を見据
えての言葉と考える。
鳥居塾長は通信三田会への提言として、 「福沢先生が慶應義塾の校名に込めら
れた我々へのメッセージは、塾生・教職員・塾員この三者が、生涯に渡って教え
合い、助け合い、睦み合っていく学塾にしなさい、ということです。通信三田会
の方にはぜひ誇りを持って活動して頂きたい。 「自分は慶應義塾に学んで本当に
良かった」 という熱い思いが慶應にとって宝です。その気持ちが常に三田会を通
じて高まり、結集し、お互いに確かめ合い、お互いに睦み合う世界になるように
して頂きたいと思います。」 と述べられている。
平成6年10月14日、通信三田会会員8000名突破祝賀パーティが交詢社
で開かれた。席上、池田通信教育部長は 「マルチメディア時代といわれますが、
通信教育でこそ、その真価が発揮されるので、生涯教育という時代に益々注目さ
れています。」 と言われた。Eメールでのレポート提出は、最近試験的に6科目
行なったという。インターネットでの通信教育が実施されるのは、まだまだ先の
ことかも知れないが、何時か必ず実現するであろう。
小野喜也氏が世話人となり活動を続けているインターネット三田会は、三田会
を世界的な広がりとした。鳥居塾長の提言は、パソコンを通して交流し合える、
インターネト三田会で更に現実的、且つ身近なものにすることが出来ると思う。
テレビの本放送が始まり、初の民間航空機が日本の空を飛んだ、昭和27年に
34名の卒業生を世に送り出した慶應義塾大学通信教育部は、今年春の卒業式で
は361名が新たに塾員となり、通信三田会の会員総数は9915名となった。
ということは、この30倍以上もの人が、残念ながら涙を飲んで慶應から離れて
いったということにもなる。
当初から、慶應義塾大学の通信教育は、他の大学の通信教育に比してレベルが
高く卒業証書を手にするのは難しいと云われていた。通信教育部出身といえども
慶應義塾社中となるからには、それに相応しい学力と人格、加えてなによりも、
通信で学ぶ者には、強い克己心が必要である。
マルチメディア時代を迎えて、新しいメディアの導入、例えばCDROMでの
テキストの履修、Eメールによるレポートの提出、そして、パソコンをネットに
して行う面接授業等が実用化し、取り入れられる時代が近い将来くるとしても、
通信での勉学が安易に為ることは決してない。あくまでも、質の向上に結びつく
もので、勉学に対する真摯な態度は、今以上に要求されるであろう。
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今月は、シカゴにお住まいの 昭和61年経済学部卒 武本 粧紀子さんに、
ご執筆をお願いしました。
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「アメリカと日本の文化の違い」
皆様お元気ですか?
経済学部を1986年(昭和61年)に卒業した武本粧紀子(たけもとさきこ)で
す。
卒業後、外資系の証券会社に4年半ほど勤めた後、1990年に渡米して、ア
メリカ生活もはや9年となりました。最初はニューヨーク州のコーネル大学で
一年間聴講生として英語と授業についていくためのノウハウを学びました。
1991年にイリノイ大学アーバナ・シャンペン校に入学し、人事管理の勉強
をしました。1993年に労働産業学科で修士号を取得しました。
実は、当初、修士号を取得するだけの留学の予定でした。
実際、卒業する3ヶ月程前まで日本に帰国するつもりで、日本に再就職先も
みつけてありました。しかし、やはり実社会でアメリカの人事管理を学びたい
と思い、アメリカで就職をしました。
幸いにも就職先がアメリカ永住権のサポートをしてくれたので、数年後には
永住権を取得しました。また、1996年にこちらで知り合った日本人と結婚し
ました。夫婦別姓でDINKの生活を楽しんでいます。
二人で冬はスキー、夏はゴルフを月平均6回ほどやっています。
シカゴ周辺では、ゴルフ場は車で10~15分走るごとにあり、18ホールプ
レーするのに、普通$20~$30(日本円で約2千~3千円)、高い所でも$100
(日本円で約一万円)くらいです。
ここでは、ゴルフは子供連れで楽しめる身近なスポーツなのです。
ということで、本職の人事管理の観点からアメリカと日本の文化の違いについ
て書いてみたいと思います。
<人事関係の違い>
アメリカの人事管理と日本の人事管理の違いは、アメリカは「公正」を、日
本は「平等」を基調にしているといわれている。
「公正」な人事管理とは、同期に入社した人に同じ給料を支払い、同じように
昇進させるということとは程遠く、本人の能力や仕事の効率によって給料や昇
進が決まるということである。
もともと宗教の自由を求めて移民してきたピューリタンが築いた国であるア
メリカは、南北戦争や公民権運動などを経て、日本では考えられないほど自由
と公正さを求めようとする。
アメリカでの人事の基本となることは、従業員を宗教、年齢、 性別、既婚・未婚
の別、出身国、人種、肌の色などによって差別してはいけないということである。
(1. ) 履歴書と面接。 日本で市販されているような統一した用紙はない。
基本的には、本人が好きなように書く。また、会社によっては自社指定の用
紙を用意しているところもある。
しかし、履歴書に写真を貼ることを義務づけてはいけない。写真を見れば人
種や性別がわかってしまう。
これは、人種や性別によって、面接という機会も与たえないというような差別
を生み出しかねないからである。
生年月日、性別、出身地、家族構成、既婚・未婚の別、身長・体重なども履
歴書に書くよう求めてはいけないことはもちろん、面接でも聞くべきではない。
アメリカでは、仕事と関係ないことで差別をしてはいけないのである。
面接はあくまでも仕事の面接なので、仕事と直接関係のあることしか聞くべき
ではない。
最近は、シカゴ交響楽団の入団テストは、人種差別を廃止するために、オー
ディションの時には審査員と応募者のあいだにカーテンをひき、演奏された曲
の善し悪しだけで審査が行われるようになった程である。
だだし、映画をつくるのにケネディー大統領の役の人を募集するのに「白人男
性」とするのは「根本的な必要性」として差別にはならない。
(2.)給料。
個人主義の発達したアメリカでは、給料はあくまでも本人の能力と仕事の質
に対して支払われているものである。従って、同じ大学を卒業して会社に同時に
入社しても初任給は違う可能性がある。
学部が違い、仕事が違う場合はもちろん(セールスマンとコンピューター技師
など)、たとえおなじセールスマンとして雇われても、たとえば中国市場に売り
込みたい会社で、片方の新入社員は中国語ができ、もう片方はできなかったら、
中国語のできる社員の方は、中国語の能力に対して給料が支払われる場合がある。
次に、 給料はあくまでも仕事に対して支払われるものである。
従って、結婚しているとか、子供がたくさんいるというのに対してまで、会社は
給料を支払うことはない。
配偶者が働くか否か、また、子供をつくるかつくらないかはあくまでも本人の
責任で行うべきことであり、会社に扶養の責任は全く無いことである。
また、通勤費も会社は負担することはない。勝手に遠くから通っている社員に対
して、会社は責任を追う必要はないのである。
(3.) 身障者差別。
アメリカでは、身障者を差別することが禁じられているのはもちろんのこと、
会社に身障者が応募してきたら、会社は身障者が働けるようにあらゆる努力をし
なくてはいけない。
最近問題となったのは、プロゴルフのツアーに参加したい足の悪いゴルファー
がいた。彼は少しは歩けるのだが、18ホール歩いてまわるのはとても無理であ
った。アメリカのプロゴルフツアーは、18ホール全部歩き、カートに乗っては
いけないという規定があった。
この足の悪いゴルファーは、「ゴルフは走る能力を競っているのではなく、
あくまでも球を打つ競技である。従って、ゴルフの球を打つ能力とは関係の無い
ところで「歩け」と強要し、自分をゴルフプロとしての「仕事」から締め出すの
は身障者差別である。」というのであった。結局、裁判所はこのゴルファーに味
方し、彼はプロツアーにカートに乗って参加できることとなった。
なお、アメリカでは、身障者とは手足が不自由の人だけではなく、AIDSな
どの難しい病気をもっている人までが身障者とされている。
妊婦も一時的身障者とみなされている。
(4.) 産休。
産休が全部で12週間法律で認められているというのは大体日本と同じである
が、アメリカでは「産前6週間および産後6週間」という規定はない。
あくまでも全部で12週間である。従って、産休をとる女性は、お産の一週間前
ぐらいまで働いて産後11週間休みをとる人が多い。
ところで、クリントン大統領になってから「家族介護法」という法律で、男
性も育児休暇を12週間までとることが法律で認められた。
「家族介護法」とは、産休の規定だけではなく、「本人、配偶者、子供、親」
が介護が必要な病気とけがの時と、1歳以下の養子を含めた子供の世話には一
年間に12週間までは休職を認め、復職時には同じ仕事にもどさなければいけ
ないという法律である。もちろん法律は男女ともに適用される。
ここまで書くとアメリカはあたかも従業員の子育てに関して手厚い保護をあ
たえているように誤解されるかもしれないが、アメリカには日本の優生保護法
のようなものはない。生理休暇も女性の夜勤や長時間に渡る残業を禁じるよう
な法律もないし、女性が育児時間などももらうことはできない。
日本で現在推進されているような育児休職制などないし、推進しようという
動きすらない。
あくまでも男女は平等、しかし妊娠中の女性だけは一時的に身障者の扱いをし
てあげましょう、ということである。
(5.) 残業・国民の祝日。
アメリカではヨーロッパと違い残業も多いし、祝祭日など日本よりも少ない。
大体、アメリカに従業員に祝祭日を与えなくてはいけないという法律はない。
祝祭日はあくまでも会社が従業員にあたえる福利厚生なのである。
どの祝祭日を会社の祝祭日にするかもあくまでも会社の自由である。
ただ、慣例として、正月(1月1日)、独立記念日、感謝祭、クリスマス
および他の5日~6日という、年間9日か10日を会社の祝祭日としていると
ころが多いようである。
なお、アメリカにはゴールデンウィークやお正月のように、誰もが連続休暇
をとれるような大型ホリデーウィークはない。
自分達こそ働きバチと思っている日本人は、案外この事実を知らないようであ
るが………。
(6.) 年齢制限。 アメリカでは年齢による差別は禁止されている。
従って、合理的な理由無しに仕事に年齢制限を設けてはいけない。
当然、停年を定めることも違法である。
「合理的な理由」といっても、漠然と「50歳を過ぎると体力や視力が低下す
るのでパイロットの定年は50歳。」などの理由は「合理的」とは認められな
い。体力や視力の低下はあくまでも個人差があるからだ。
たとえば、視力が0.8以下になったら飛行機を操縦するのが危険と科学的に
証明されていれば、「視力が0.8以下になったらパイロットの停年。」とする
ことはできる。
同様に、人を募集する時に合理的な理由なしに「30歳以下」などという年齢
制限を設けることも法律で禁じられている。
(7.) セクハラ(性的いやがらせ)。
日本でも最近「セクハラ」が話題になっているようだが、アメリカでいうセ
クハラは日本で考えられているように性的ないやがらせだけを指すのではない。
男性が職場で女性の体にさわるなどはもちろんのこと、昇進などの見返りに性
的関係を要求すること、職場にヌード写真などを貼って女性が働きにくい環境
にすること、女性だから昇進させなかったことなど、みなセクハラとみなされ
る。
なお、セクハラは男性から女性に向けられたいやがらせだけを指すのではなく、
女性から女性、男性から男性、女性から男性への嫌がらせも、被害を受けた側
が性的ないやがらせととればセクハラで? ると認められる。
たとえば、女性が職場に男性ヌード写真を持ち込んだとする。
このために、もしこの職場が働きにくい環境になったと女性から苦情がでたら、
これは女性から女性へのセクハラとなる。同様に、男性から苦情がでたら、こ
れは女性から男性へのセクハラとなる。
(8.) 禁煙。 職場だけに限らず、アメリカでは禁煙が徹底されている。
吸う人の権利がすわない人の権利より優先されている日本とは違い、10人
の中に1人でもタバコをすわない人がいたらタバコを吸うべきではないと思っ
て間違いない。
現に、職場はほとんどの会社や役所が禁煙であるし、レストランでも禁煙席
と喫煙席をわけるか、全面禁煙にするのが普通である。
私の住んでいるシカゴでは、冬になると気温は氷点下10度以下になるのが普
通である(氷点下40度になることすらある)。
それでも、タバコを吸う人は、会社では建物の外にでてタバコを吸っている。
ところで、お酒の法律も日本では考えられないほどきびしい。
21歳以下の人はお酒を飲んではいけないので、まず、お酒を買うときには必
ず身分証明書をみせなくてはいけない。
身分証明書となる運転免許証も、21歳以下だと一目でわかるよう免許証が
21歳以上の人のものと違う。21歳以下の人がお酒を買ったり飲んだりする
ことはもちろん、売ることも禁止されている。
従って、スーパーマーケットでビールを買おうとするとき、うっかり若い人
のやっているレジにいくと大変なことになる。21歳以下の店員はまずお酒を
売れる年齢の店員を呼んできて、大人の店員がお酒だけ売る。
だから、余分な時間がかかるのである。
もちろん、たとえスーパーマーケットであってもお酒を買う時にもし21歳以
下と疑われたら、身分証明書の提示を求められる。
東洋系は若く見られるせいか、私でもうれしいことにバーにいくといまだ身分
証明書の提示を求められることがある。
このため、お酒の自動販売機はこの国には存在しない。
(9.) 注意する。 アメリカ人は人前で注意されることを極端に嫌う。
そのため、職場で部下を注意する時は、他人から見えない別室に連れていっ
て注意を与えなければならない。
人前でなくても人を怒鳴ってはいけない。また、アメリカ人は物事をはっき
りいうが、はっきりいうのと喧嘩を売るのとは違う。
ところで、婦人や子供を殴るのは「家庭の問題」で済まされることではない。
カナダ駐在だった日本人の外交官が妻を殴って警察に逮捕されたことは日本で
も話題になったようだが、公園で泣いていた子供の顔にはり倒された跡があっ
たので近くにいた親はその場で警察に逮捕されたという事件もあったほどだ。
子供を親の目の届かないところに置いておくことも禁じられている。
親がいないときには、12歳までは子守りをつけなければいけないという法律
があるほどだ。
それを知らない日本人の母親が、日本のつもりでちょっと近くに買い物に行く
時、赤ちゃんが寝ていたので寝かしたまま買い物に行ったところ、赤ちゃんが
目を覚まして泣き出したため、近所の人が警察に通報して母親はおまわりさん
に大目玉をくらったという事実もある。
(10.) 呼び方。アメリカでは、名字ではなく名前で呼ぶのが当たり前で
ある。
自分の上司であれ、20歳以上年上の叔父や叔母であれ、親しくなったら、
「サム、メアリー」など名前を呼び捨てにするものである。
もちろん、医者にたいして「スミス先生」とかお客に対して「ウィルソンさ
ん」というような呼び方もするが、それはあくまでも患者と医者、売り子と
客の関係の時であり、看護婦と医者のような関係であったら、やはりお互い
名前を呼び捨てで呼ぶのが普通である。
私などそこまでアメリカナイズしたら夫の親に何をいわれるかわからないが、
舅・姑のことも名前を呼び捨てにするのが普通である。
名前で呼ぶのが普通のせいか、アメリカ人は日本人ほど名字にこだわらない。
夫婦私のように夫婦別姓も法律で認められているし、同じ両親からうまれた
子供に一人ずつ違う名字をつけることもできる。
その名字が親の名字と違っていても構わないのである。
しかし、男性が結婚で名字変えるということは日本よりももっともっと珍し
いことである。まずないといっても良いぐらいだ。
自分に娘しかいないので婿をとって名字を継がせよう、という習慣がない。
私たち夫婦も、せっかく別姓にしているので、子供ができたら一人は夫の名
字、もう一人は私の名字にしようと話し合っている。
まあ、なにはともあれ、アメリカは住みやすいところです。
また、留学やアメリカで働くことを考えている方は、是非挑戦してみる価値
があります。
この国は、努力すれば必ずそれだけ自分に返ってくる国です。
最後に一つ、年齢や結婚のことで留学をためらっている方、私のように20代
後半で単身留学して、キャリアをつけて30歳をすぎてからでも素敵な出会
いはあるものです(私は、キャリアがあったからこそ理解のある夫と巡り合
ったと思っています)。
人生はくれぐれも慌てないように。
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今月は、昭和38年工学部卒 堀池喜一郎さんにご執筆をお願いしました。
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「三鷹三田会パソコン教室」
工学部管理工学科1963年卒業の堀池喜一郎です。
良かったか、悪かったか分かりませんが、永い会社員生活もそろ
そろ終わりに近づいている、そういう世代です。
私は元来、同窓会や地域の会にはあまり積極参加の方でなかった
のですが昨年夏に、三鷹三田会で活性化をねらってホームページを
作成することになり活動に参加しました。リレーメッセージとして、
「同窓会ホームページについて地域で考えた」つれづれを書こうと
思います。
三鷹三田会はホームページを作成して発信したものの、総会に参
加した三田会員のほとんどはページを見ることが出来ない人ばかり
でした。若い人が少ない、女性が多いなどありますが、どうやらパ
ソコンになじむ機会がなかった人が多いと感じました。
パソコン、電子メールの勉強会員を募集したところ、15人が集
まり(47歳から70歳まで平均55歳、女性が6割)ました。参
加アンケートで「勉強してなにがしたいか」を聞きましたら、私が
想像した以上に、この人たちは具体的なテーマを書いてきました。
「身障者への普及」「健康データベース」「世界の自然情報の検索」
「宗教関係の調査」「メール友達を作る」など、熟年がいろいろな
自分の活動をしたいと空想しているのです。
最初の集まりで、勉強会をどう運営するかの議論で「同窓会員に
こだわらず広く地域ですすめよう」という意見や「三田会がベース
でも地域の人が出入りする会の方が良い」という意見も出て、単な
る「パソコン教室」ではないスタートを切りました。
この三田会会員だけでなく、ということは実際に15名の中に奥
様や友人など他学校卒業生が数名含まれていることで当然でした。
4月までに、6回の研修会と自宅や市内の施設を利用しての宿題
提出によって、まだ定着まではいっていませんが全員が「電子メー
ル送受信」と「ホームページのアクセス」を習得しました。
今後は2ケ月に一回の「活用紹介とQ&Aのサロン会」で継続し
てゆくことになっています。
熱心な学習の中で、お互いに親しい知り合いができました。三鷹
市内には市の第三セクターがやっている「SOHOオフィス」とい
う図書館のようにインターネットを活用出来る施設や、ケーブルテ
レビ会社Parkcitynetや、高速回線を設置しているパソ
コン教室が複数あります。これらを三々五々、メンバーは自由に利
用することに慣れました。積極的な学習意欲に講師の私が驚きまし
た。
研修会でさすが「地域」さすが「三田会」と思ったのは、教える
体制が気軽くできることでした。PC知識を教えることに熟知した
人も会員にいるし、操作に慣れた在学生も多数居る。さらに個人で
少し経験をしている「パソコン先輩のおじさんやおばさんたち」が
毎回ボランティアでかわるがわるサブ講師を買って出てくれたこと
でした。
お陰でキーボードも初めての受講生が分厚いサポートの中で、新
しい世界発見の驚きや失敗の爆笑の中で習得を進めていったのでし
た。皆さんが自転車で集まる地域ですから気軽な雰囲気で進みまし
た。
デジタル・ネットワーク社会が到来と言いますが、一体どういう
社会になるのか。操作が出来て活用が進めばそれでよいとはどうも
思えません。受講する中で「万能でもないし簡単でもない」とみん
なは痛感したはずです。
一体何のために高額なパソコンを購入して、しかも時間を消費し
なければならないのか。もう一度こういう疑問を持つようになって
いるのがこの頃のようです。
最初にみなさんはやりたい事を書いてくれましたが、それが実現
することが操作ができることよりなにより大切です。それはパソコ
ンの操作が出来ても実現しないのです。もっと難しい大事なことは、
自分のやりたい夢を「粘り強く実現に向けて続けること」なのです。
そのため三鷹三田会のサロン会は、同窓会の親睦を深め、パソコ
ンの技術を習得するに留まらず、そういう熟年を含めた市民が地域
での活動、個人での活動を、お互いに刺激を受け合うような会では
ないかと思っています。
三鷹市の産業政策である「SOHOオフィス推進」をしている市
の企画スタッフから話を聞きました。
三鷹はシニア人口が多く、大学教授が2千人も居るという知的レ
ベルが高い人がたくさん居る。しかしこの熟年の人たちがインター
ネットで情報発信をして、社会的に有効な活動を展開するには、こ
の人たちの具体的な活動がはじまらねばならない。しかし、市や企
業にはこの人たちが、どういう人か何ができるのか、何を手伝えば
よいのか、それに役立つ情報は全くない。
三鷹三田会の勉強会はとても興味を持って眺めているとのことで
した。
私は同じ事が同窓会ホームページにも言えるのではないかと思っ
ています。既存会員の情報交換にも使えますが、参加できない、し
たくない塾員が気楽に参加できるとか、三田会をベースにしている
が他の人も含めた地域活動などの基盤に役立つことはできないか、
という考えです。
まだなにも実現はしているわけではありませんが、会員個人の積
極的な意志と支援するボランティア体制や情報発信の基盤があれば
進んで行くような気がします。
パソコンの開発思想の旗手アラン・ケイは「コンピュータとはコ
ミュニケーションとファンタジーのツールである」と言っています。
ファンタジーの道具とは個人の衣装のように気分を創ることらしい。
私たちはインターネットの情報を検索したり発信したりする体験
作業の中で広い外部社会のと現実や夢と出会い、より深い自分自身
の常識を再発見して元気付くのということのようです。
三鷹の勉強会で「やりたいこと」として参加者が書かれたことは
みな新規なハイテク駆使なことではありませんでした。日常生活の
中にある、古く昔からあるアナログ(やっかいな人間や自然とのや
りとり)な世界の夢です。
こうした夢の実現に、自分を日々元気付けることに役立つつなが
りが、三田会であり、ホームページであれば、と思っています。
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平成3年文学部・通卒 評議員 田沼千鶴子さん からご寄稿を頂きました。
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インタ-ネット三田会会員の皆様はじめまして、こんにちは!
今回のレガッタ観戦は初めての経験でした。 4月18日、朝9時の開会式に始まり、第1レ-スから第13レ-スまでありました。
メインはやはり第13レ-ス・慶早対校レガッタでした。レ-スはJR総武線両国駅そばの両国橋上流よりスタ-トして、蔵前橋・厩橋・駒形橋・吾妻橋・言問橋・桜橋の下流までの全長3,200mで競われました。ヘリコプタ-の先導で、雨の中、両チ-ムがゴ-ルをすぎると、私は「慶應が勝った」と思わず、歓声を上げてしまいました。
私がいた招待席のある本部テントでは早稲田の奥島総長と慶應の鳥居塾長が並んで着席されていました。また、早慶両OBの方々も同様に隣あって着席されておりました。
スタ-トの様子等はモニタ-テレビでよく見えるので、みなさん自分がレ-スに参加しているように、熱くなっていらっしゃる姿をかいま見ることができました。
ここからはゴ-ル手前の7. 800m位しか見えませんでした。それでも、OBの方々は画面上に映されるオ-ルのピッチや深さのとりかたで、勝敗がすぐにわかるようでした。やっぱり、昔とった杵柄はすごいものです。みなさん、70歳前後の年代だとお見受けしましたが、上背があり、姿勢がよく、逞しい体格なので圧倒されてしました。全員申し合わせたように、着ていらした濃紺系のブ
レザ-にレガッタ対校戦の伝統を感じました。
対岸の早稲田、慶應の両大学応援団とも、雨の中、声を涸らして声援を送っていました。傘をさした観衆の方々もえんじの小旗と三色旗をふって、両大学チ-ムの戦いを見守っていました。残念ながら、応援の人数は早稲田におよびませんでしたが、勝つことができて、ホッとしました。
これからも、三大慶早戦(レガッタ・野球・ラクビ-)の応援にはぜひ行きたいものです。来年も、「早稲田に勝って」と念じながら、祝杯をあげてきました。
4月18日(日) 墨田川にて
第68回早慶レガッタ大会プログラム
9:00 開会式
? 9:40 東大・一橋OB招待レ-ス 500m
? 9:50 墨田・台東両区招待ナックルフォア 500m
?10:10 早慶OBエイト 500m
?10:20 カヌ-エキシビジョン 500m
?10:30 早慶60歳以上OBエイト 500m
?10:50 早慶教職員ナックルフォア 500m
?11:10 高校舵手付フォアB 1,100m
?11:30 高校舵手付フォアA 1,100m
?11:50 学部対校舵手付フォア 1,100m
?12:20 対校女子舵手付フォアスカル 1,100m
?13:00 対校舵手付フォアスカル 3,200m
?14:00 第二エイト 3,200m
?14:50 対校エイト 3,200m
16:00 閉会式
{大会本部までの最寄り駅地下鉄銀座線・東武伊勢崎線の浅草駅より徒歩15分}
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今月は、昭和51年経済学部卒 妹尾堅一郎さんにご執筆をお願いしました。
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「『一貫教育』に加え『一生学習』を!」
インターネット三田会のみなさんへ
こんにちわ、会員の妹尾堅一郎(せのお けんいちろう)です。
私のメッセージは、「何歳になっても、思い立ったら学んでみよう」です。具体的には「社会人大学院へ行ってみませんか」となります。その理由は・・・ちょっと個人的な思いもありますので、自己紹介的に私の経験を少々述べさせてください。
私は中等部20回生、日吉の塾校時代は荒れる70年安保の前後、校長室占拠なんてこともありました。経済学部の1・2年はバリケードでほとんど授業もなし、何回定期試験が流れたことか・・・三田に移ってからは落ちついたキャンパスになりましたが、「内部進学者」がろくすっぽ「勉強せず」だったので、ほとんど「無学力」の状態でした。
S51に卒業、大手化学メーカーに就職。猛烈社員の典型で、人事屋5年、マーケティング本部5年、計10年ほど頑張った頃、猛然と「知識欲」が頭をもたげてきました。会社に不満があって他に憧れたというより、むしろ、それまで勉強をしていなっかたせいか、知らない「知」の世界を覗いてみたい気分になったわけです。
それから、新しいマネジメントの方法論を開発した先生のいる英国国立ランカスター大学経営大学院へ行こうと、中学英語のイロハから勉強し直し、なんとか入学できました。修士を1年で終え、博士課程に進み、恩師の急死等の難関もありましたが、足掛け6年も充実した英国生活を過ごせました。
家族の事情で92年に帰国しましたが、幸い、産能大学助教授の職を得ると共に、
慶應では経済学部(情報学)とSFC(社会調査法、情報活動論)で非常勤講師を
することができました。この4月から慶應に移り、大学直属で「知的財産研究プロ
ジェクト」担当になります。大学における「知(特許から教授法まで幅広い)」を
社会還元したり、産学官協同プロジェクトによって新たな「知」を生み出したりす
ることを研究・教育・実践するわけです。会員の皆さん、よろしくお願いします。
さて、こんな自己紹介をしたのは、私のように、社会人になってから、もう一度
勉強をしてみたい、とか、新たな専門性を得てキャリアアップを図ろう、という方
も多いのではないか、と考えたからです。実際、私の身の回りでは、「社会人大学
院志望者」が数多く出てきています。それを紹介しましょう。
昨年の春秋、東京と大阪で、朝日新聞やダイヤモンド社が主催する「大学院 社
会人入学ガイダンス」といったイベントで講演をしました。どちらの会場にも多く
の熱心な方が押し寄せて講座の整理券が出るほどでした。何より驚いたのは、どこ
の大学院のブースも資料が無くなるほど盛況だったことです。日本でもここまで大
学院に関心を持つ社会人が増えてきたわけです。これには「追い風」があります。
文部省が大学院の整備充実を積極的に進めようというのです。10年後には、少な
くとも25万人の大学院生を見込んでおり、推進の仕方では、もっと多くなるだろ
う、とさえ言っています。では、なぜ、「今、大学院」なのでしょうか?
文部省の大学審議会からの答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について
(答申)−競争的環境の中で個性が輝く大学−」が昨年10月に出ました。詳しく
は、次の文部省のホームページをご覧下さい。
(大学審議会の会長は石川忠雄元塾長、鳥居現塾長も委員でいらっしゃいます)
答申全文:http://www.monbu.go.jp/singi/daigaku/00000303/
要旨:http://www.monbu.go.jp/singi/daigaku/00000302/
この答申書は、次の三つを指摘しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−
これからの大学院には、
(1)学術研究の高度化と優れた研究者の養成機能の強化、
(2)高度専門職業人の養成機能,社会人の再学習機能の強化、
(3)教育研究を通じた国際貢献が特に求められており、いずれの面からも大学院
の更なる整備充実が必要である。
−−−−−−−−−−−−−−−−
これを私流に解説すると、こうなります。
●優秀な研究者の育成が求められている。
つまり、従来からの「研究者育成」についても、特に理工系を中心に、技術開発
力で差をつけられつつある欧米に危機感をいだいており、その分野でも追いつかせ
たい、ということがあります。情報系・バイオ系等、これからの分野では熾烈な競
争が行われていますが、日本が欧米に比べ今一つ精彩に欠けるのは、トップクラス
の研究者が少ないというだけでなく、それを支える裾野の広い、層の厚い人材群が
まだ育っていないことにあるというわけです。今後を見据えて、幅広い分野で研究
者養成が行なわれなければならないのですね。
●高度な社会人の養成を大学院で
一方、今回の答申の特色の一つは、大学院を「高度な職業人育成」のためのプロ
フェッショナル教育機関、社会人の再学習機関と位置づけたことにあります。先に
述べた「研究者の養成」は学卒からそのまま大学院に行く人材を念頭においている
のに対して、これは、いったん社会に出た人々の教育を想定しています。つまり社
会の高度な発達によって、一段階上の実務の専門家を育成する必要性が高まってい
るわけです。MBAや金融の専門家等のビジネスパーソン養成だけではなく、福祉
介護やカウンセリング、行政、教育、その他、実務の専門家育成が大きくクローズ
アップされています。
●大学院留学生を増やす
3番目の「教育研究を通じた国際貢献が特に求められており」という文言は、アジ
アを中心により多くの留学生を迎え入れなければならないということを示している
ようです。ご存じのとおり、欧米へ留学したアジアの人々が、欧米と太いパイプを
築いているのに対して、日本は非常に遅れをとっています。特に、大学院レベルの
交流をもっと進めなければならないのは、日本の国際化を推進する上で重要なポイ
ントですね。
●大学院の多様化が始まる
以上のような理由から、文部省も従来の方針を変えて、都心型キャンパスや夜間
大学院等々についても柔軟な姿勢を見せています。(慶應も赤坂のアークヒルズに
都心キャンパスを設置してビジネススクールやSFC大学院の授業を行っているの
はご存じのとおりです。)
さらに、通信制の大学院が何校かスタートします。詳しくは、次の二つを見て下さ
い。
http://www.monbu.go.jp/singi/daigaku/00000157/
http://www.uce.or.jp/forum/index.html
*************
★一方で、海外の大学院への留学希望者も急増しています。私は出身校である英国
国立ランカスター大学の日本の代表として留学希望者の支援を長年行なっています
が、それをとみに実感します。(英国国立ランカスター大学東京オフィス、〒110
-0001 東京都台東区谷中1-5-11 #201、電話:03-5814-5939、FAX:
03-5814-5950)
海外大学院への留学希望者の増加を意外に思われる方もいるかもしれません。語
学留学や大学生の学部留学は激減しています。確かに、企業派遣はバブル崩壊以降
激減しました。しかし、次の三つの理由で、海外留学院希望者が増えているようで
す。
第一は、経済不況が逆に作用して、資格や実力をつけるために大学院に行って高
度なプロフェッショナル教育を受けようという傾向が出てきたことです。その時、
英米の大学院の方が、社会人教育、特にプロフェッショナル教育の先進国であるの
で、そこへの留学を希望するわけです。
第二は、日本の経済、企業、社会をあきらめて海外や外資系企業へ飛び立とうと
いう人が増えたことです。日本の企業に比べ、欧米企業の方が魅力的になってきた
ので、海外留学を経験して、欧米企業で働く道を拓きたいわけです。また、国際機
関やNGOやNPOで働く意欲を持つ人々が増えてきており、そのために海外の大学院
を出るというキャリア形成を目指し始めているのです。
第三は、どうせ1回の人生ならば好きなことをやろうという人が増えたことです。
つまり、高度成長時代の「滅私奉公」的人生観も崩壊しつつあり、組織に埋没する
のではなく、自己実現を追求する人が増えてきたのです。
つまり、キャリア志向で、個の自立を考える人(=独立自尊)にとって大学院教
育と学位が魅力になってきたわけです。その流れの中で、日本の大学院も急速に整
備充実しつつあります。つまり、海外だけでなく、日本の大学院も選択肢に入って
きて、選択の幅が拡がりつつあるわけです。志を持つ人にとって、いい時代になっ
てきました。
***************
★「ダブルメジャー」と「リカレント」
生涯学習の波が本格化しています。何も定年後だけではありません。近年の学問・
技術の急速な発達によって、かつて大学で学んだことが陳腐化していることも多々
あります。第一線で仕事をしている人々こそ、もう一度、最先端を学び直す必要が
あるのです。
従来学んだことにプラスして、もう一つの専門を学ぶことを「ダブルメジャー化」
、専門分野の最新の知識や技術を学び直すことを「リカレント」と、私は勝手に区
別していますが、そのどちらも、今や非常に重要になってきています。いずれにせ
よ、近年の大学院ブームは、社会全体として新たな学習の波がおこり始めたことを
意味しているようです。
(詳しくは、3月刊の拙書「研究計画の考え方:大学院を目指す人のために」ダイ
ヤモンド社をお読み下さい。すみません、どさくさにまぎれてPRでした(^o^) )
というわけで、以前に比べ、ここ数年、「学ぶ機会」が拡充しつつあります。
大学院とまでいかなくても、社会人講座も充実してきています。例えば、ビジネス
スクールや慶應外語以外に、慶應が関連している社会人講座としては、例えば、次
のアーク都市塾(赤坂)があります。
http://www.cyber66.or.jp/toshijuku/
さらに、労働省では昨年12月から教育訓練給付制度をスタートさせました。一定
の条件を満たすと、労働大臣の指定する教育訓練(4000講座以上ある)を受講
し修了した場合、教育訓練施設に支払った授業料の80%まで(上限20万円)を支給
してくれるというものです。 詳しくは、次をご覧下さい。
http://www.mol.go.jp/topics/seido/anteikyoku/kyouiku/index.htm
いずれにせよ、学ぶ機会は抜群に増えました。環境もさらに良くなっていくでしょ
う。もう一度、勉強し直してみたい、そんな会員の皆さん、学んでみようと思い立っ
たが吉日、です。
「学問のススメ」は、若き学生時代だけのことではないのです!!
慶應は一貫教育ですが、それに加え、ぜひ「一生学習」をしてみませんか?
以上、長くなりましたが、このメッセージと情報提供が、少しでもお役に立てば幸
いです。
妹尾堅一郎(1999/4/12 谷中池端亭にて)
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今月は、昭和44年年経済学部卒 藤田秀一さんに、ご執筆をお願いしました。
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「コンピュータなんて笑い飛ばせ!」
私は卒業後外資系のコンピュータ会社に入社し、これまでコンピュータ一筋
に生きてきた人間です。3年前に早期定年退職の適用を受けて退職し、現在は
自分の小さな会社を興して自由業の立場でこの業界に携わっています。
古巣の会社にも塾出身者は大勢いるのですが、三田会の活動というものはほ
とんどなく、私も最近まで自分が塾出身ということを意識したことはあまりあ
りませんでした。
ところが周囲に熱心な活動をしている友人が数名、私がコンピュータを使え
る事に目をつけられて、とうとう99年の連合三田会大会というビッグイベン
トの手伝いをする羽目となったのでした。
コンピュータ屋というのは、この不況期でも今どきの技術者として話題を浴
びることが多いのですが、本来その仕事は裏方そのもの。「世の中は、駕篭に
乗る人かつぐ人、そのまた草鞋を作る人」まさに草鞋を作る立場なのでした。
本来空気か水のごとく透明な存在であるはずのコンピュータが、なぜにこの
ように世の中を騒がせるのか。どうもコンピュータというものが、多くの人に
とって思うようにならないもののようです。それでいて、コンピュータを知ら
なくては世の中から取り残される。会社からリストラされると、再就職に不利
になる。などなど。
古き良きバブルの時代、「コンピュータなんて子供のおもちゃだ!」とか、
コンピュータ技術者を「オタク人間」などとずいぶん馬鹿にされたものでした。
そんな人たちが今、目を血走らせてコンピュータの勉強をし、買ってきた入
門書が "猿にもわかるWxxxx" 。。。。読んで、理解できないで、「俺は猿に
も劣るのか!」
いいえ、こんな時代だからこそ、コンピュータなんて笑い飛ばしましょう。
所詮道具ではありませんか。わからないあなたが悪いのではなく、人に理解
されないコンピュータや、それを作ったメーカーやソフトウェア会社が悪い
のです。
Q:「パソコンを買ったのだが、どうも使いこなせなくて。。。」
A:メーカーやソフト会社が売りたいがために、不要な機能で水脹れにした
パソコンなんて、使いこなす必要なんてありません。むしろ自分にとって
"使える" 機能を厳選して使いましょう。パソコンの達人と呼ばれている人達
でも、搭載機能の1割も使っていないのです。
Q:「インターネットを使えないと時代に取り残されるのでは???」
A:インターネットは確かに便利です。それができるとコミュニケーション
の輪が大きく広がる事も事実です。しかし好事魔多し。プライバシーが晒さ
れる危険。コンピュータウイルス侵入の危険。邪悪な勧誘に巻き込まれる危
険。魔の部分はTVなどで報道されているとおりです。
明確な目的が見つからない場合、"使わない!" というのも有効な選択肢な
のではないでしょうか。
Q:「2000年問題???」
A:そんなものなるようにしかなりません。もはや手に負えないところまで
来ています。ある程度のダメージは受忍する覚悟を持ちましょう。
と、まあ、コンピュータが無くては生きてゆけない我が身に、最近うっ積し
ている憤まんでした。人里はなれた山奥か離島で、ゆっくりと暮らしたいと
夢見る今日この頃です。ちなみに私はモバイルが嫌いで、ポケットサイズパ
ソコンを持ち歩くということはやりません。
そんな私が、99連合三田会委員の名簿から宛先シールを出力したり、ホー
ムページの更新をしたり、メーリングリストの世話人をしたり、結構楽しく
手伝いをさせてもらっています。
以上
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リレー・メッセージ 第5回 1999.02.14
マレーシアの首都クアラルンプールのヤップさんにお願いしました。
葉忠義 Yap Toin Yee さんは、平成8年文学部国文学科卒業です。
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「日本語のマレーシアンジャーナリスト」
サラリーマンの生活には先月ピリオドを打ちました。慶応を卒業して会社に入
ったのは、2年半前のことでした。
これからはというと、卒業した時点の夢を再び追いかけます。フリーランス・
ジャーナリスト。聞こえの良い仕事だと言われていますが、その未知の世界に
入るのは、まだこれからです。
言語の天才。
マレーシアン・チャイニーズのぼくは、幼い頃からずっと言語の選択に悩まさ
れていたものです。うちでは福建語、そとに出れば広東語、客家語、マンダリ
ンなどが音として耳に流れてきます。この人としゃべるときにこの言葉を使う
のだと、子どもながらもそういった「常識」を身体で覚えたのです。
マレーシアン・チャイニーズの場合、大体マレー語、英語、マンダリン、広東
語が話せます。そういうことで日本に行ったら、言語に関して天才だと言われ
て環境に恵まれているのだなあと思いながらも、自分の最適な言語はなんなの
かと。大学に入る前には、人種問題、ナショナリズム、母国語などで悩まされ
ていました。
外国語での表現。
たくさんの言語の習得のなか、まともに身につけたのは日本語だけかもしれま
せん。日本文学を専門として学問の奥義を窮めるために、日本語と長いこと付
き合ってきました。表現の手段と選択がありますが、わたしは日本語と真剣に
付き合ってきた分、ジャーナリズムにおいて日本語で表現したいと思っていま
す。
日本語学校の時のこと。
アメリカの日本文学研究者であるドナルド・キーン氏は、日本語はもう日本人
だけのものでなくなった。と日本語先生に教わった覚えがあります。その言葉
から得た感銘を今でも忘れられません。今でもあの先生に感謝の意を申し上げ
ていないままです。
マレーシアン・チャイニーズ。
母国といえば、生まれのマレーシアとなります。母語といえば、福建語です。
マレーシアの華人であることについて、どういう意味をなすのか。今の自分
にとっても探りたい課題です。
わたしにとっての最適な表現言語は、日本語だと思います。何故日本語なの
か。朝飯に何故味噌汁なのかと同じ質問のようで答えられません。きっと体
質に合っているからなのではないだろうかと思います。
先が不透明な時代。
先が不透明な時代と言われる今、果たしてどうなるのでしょうか。見えない
ものが見えるように不断の努力も要求されています。不透明さは、人間の目
にあるのではないかと思います。「先見の明」の持ち主こそが勝者の条件の
ひとつと言えるのではないでしょうか。
夢。
自分の先が見えてくると判断し、夢を再び拾いあげて暖め、そして前進した
い。日本語のマレーシアンジャーナリスト。夢を育んでいきたい。
三田会。
このたび、クアラルンプールのKL三田会の幹事さんである伊吹さんに誘わ
れ、今度幹事になることとなりました。幹事。感動。感謝。KL三田会を盛
り上げて行きたいと思います。応援、宜しくお願い致します。
Eric YAP Tiong Yee <yaperic@iname.com>
Personal page (Japanese) : http://www.kt.rim.or.jp/~azure/yap/
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ご執筆を、北九州三田会(門司三田会)の湯浅 直美さんにお願いしました。
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「見たかい? 三田会?」
慶応義塾という学校に連なっていることを誇りに思う事もあれば、ちょっと困っ
たなと思う事もある。
皆さん、ありません?
私なんかテレビに向井さんがお出になれば「やったー!」と前者、逮捕報道され
た人の出身校として塾が出ると後者の気分なんです。別に面識がある訳でもな
く、私が塾員だと知っている人の方が世間には少ないんですから、何も自分の事
のように一喜一憂する理由はないはずなんですけれど。
やっぱり、見たかい? 三田会? 何時の間にか気にしている、気になってい
る。
皆さん始めまして。
インターネット三田会に参加させて頂いて2年目、湯浅直美と申します。
昭和63年文、図書・情卒。習った事を右から左に横流しして生計を立てていま
す。
日頃は北九州三田会の端っこで、宴会要員として活動中(活動という言葉には、
幅広い意味があると思う今日この頃、(笑)。北九州は門司、小倉、戸畑、八幡、
若松の5市が合併した市なので、三田会も合併して現在の形になっています。
旧5市の対抗意識もなく和気藹々の集まり(お近くの皆様、毎月の昼食会ぜひご
参加くださいねー、と宣伝)です。
地方の塾員としては「三田評論」と会合とこのインターネット三田会が大事な情
報源で、見たかい?気分を味わっていますが、昨年末は念願のインターネット三
田会会長にお会いすることができました。ネットもますます充実のご予定とか、
大いに期待してお待ちしています。
今年の三田会、どんな楽しい事が起きるでしょう?
皆さんごいっしょに、見たかい? 三田会? しましょうね。
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昭和43年経済学部卒業の小笠原 直樹さんからのメッセージです。
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「思い出のパナマ三田会」
塾に入学し毎年春秋にはクラス仲間と神宮に何回か行く学生で、4年生の
67年秋に三田祭実行委員会に首を突っ込んだのが縁で今でも付き合ってい
る学友が多い。
卒業後しばらくして海外と行ったり来たりで中南米に9年程滞在していた。
74年にパナマへ赴任して会社(ソニー)のスタッフしか顔見知りがいない時に、
塾員で忘年会をやるからとお呼びがかかり塾の諸先輩にパナマ滞在の心得等々
聞いた晩が懐かしい。
この日がパナマ三田会の結成となり初代会長は丸紅の岩田さんだった。
2度目にパナマに赴任したのが80年。当時は大平総理のもとで第二パナマ
運河構想の調査が進んでおり、日本人の数も飛躍的に増え200世帯を超えて
いた。三田会も続いていたし塾員の数も増えていた。この時の会長は伊藤忠
の本庄屋さんだった。
ご主人同伴で丘の上を歌う奥様塾員も加わり結構頻繁に、にぎやかに三田
会が開催されていた。私たちの代の文連委員長だった青木建設の笠原も当時
パナマにいて、日本への出張の際に、パナマ三田会、の三色旗を作ってきた。
三田会のゴルフ大会もよく開催した。三井物産の和田さんが一番うまかっ
たかな。早稲田卒業生とゴルフの慶早戦をやったこともあった。ゴルフ大会
の日にはキャディにチップを渡し、スタートホールに近い木のてっぺんに三
色旗を揚げ、パナマ人や他の日本人には慶応卒業生の慶応気狂いぶりは顰蹙
であったようだ。
三田会のHPで海外三田会にパナマは載っていないがいつのまにか消滅し
てしまったのだろうか。それとも笠原が塾にパナマ三田会を登録しないでい
たのだろうか。ソニーを退職し、パナマを訪れる機会はないが誰か動向を知
っていたら教えて下さい。
今は、ゲームソフトとゲーム雑誌を作るアクセラという会社を設立し、不
況下苦労しています。これを読んでいる皆さんは是非"ONLINE"というオンラ
インゲーム専門誌を買って下さい。インターネットの新しい世界を垣間見る
ことができますよ。12月16日発売のゲーム情報誌"エンタ"もよろしく。
"ダビスタ"のゲームボーイ版も開発中でこれは来年3月に発売予定です。通勤・
通学途中にゲームボーイカラーで"ダビスタ"という現象が巻き起こらないと、
20%カットしている役員報酬を元に戻せないので、皆さん応援よろしく。
小笠原 直樹
株式会社 アクセラ 社長室
TEL 03-3464-8265
FAX 03-3464-8261
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ご執筆は、昭和43年法学部政治学科卒業の芦沢俊美さんにお願いをいたしました。
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「オランジュリー美術館展」
はじめまして。日本テレビ三田会および事業局在籍の芦沢俊美です。
68年政治学科卒業後、4月より日本テレビ放送網(株)に入社し以来
本年で30年目を迎えました。ところが、社の三田会の存在を肌で感じ
るに至ったのは僅かに2年前、現在の職場である事業局に移ってから
です。それまではアナウンス部に所属しており社内交流の重要度に
気づいていませんでした。と申しましても、わが三田会がその存在と
団結を社内に誇示(?)するのは毎年4月の新入社員歓迎パーティの
1度だけ。それ以外の活動は全くありません。(と認識していますが)
前回のこの欄を担当した蒋君を迎えた97年の歓迎会で、初めて団結
の輪に飛び込んだ「不良会員」の私が貴重な本欄を汚すのは、誠に
僭越とは思いますが、少々、時間と視力をお借りします。
事業局で私が担当しているのは主に展覧会イベントです。現在、我々
のグループが抱えているのは、ピュリツアー賞写真展とオランジュリー
美術館展で、共に日本テレビ開局45年記念として全力投球です。
おかげさまで前者は今年2月の東京展から全国各地で好評を博して
おり、横浜を終わって、次は仙台そして浦添、福岡、高知を巡回し、
来年4月の静岡で1年余りの国内展が終了することになっています。
あるいは塾員の皆様でこの展覧会開催にお力添えいただいた方も
いらっしゃるかも知れません。この場で御礼申し上げます。
一方のオランジュリーは、パリにある美術館が改装工事に入るため
所蔵作品をそっくり海外に貸し出すことになったものです。「最初で
最後の日本公開」というキャッチフレーズ通り、所蔵作品140点余り
から日本側が選択した81点、印象派からエコールドパリの著名画家
13人の作品が一堂に会します。ルノワールは17点中、日本初公開が
何と16点、セザンヌも初公開8点を含む14点、さらにマティスの10点、
ピカソの6点、ドランの6点はどれも日本初公開という貴重な作品群です。
あとは無事に東京・渋谷の東急文化村での11月14日(土)開幕を待つ
ばかりです。来年2月に東京展が終ると、名古屋、広島、新潟を巡回し、
京都で日本におけるオランジュリー美術館展が閉幕します。
このメールを打っているパソコン君も、最初は平仮名変換から即オラン
ジュリーと打ち出せず、何度も「オラン受理ー」に泣かされた展覧会です
が、来年の秋には日本全国1億2000万人がオランジュリーの名前を認知し、
どちら様のパソコン、ワープロも一発変換可能となっていることを夢見て
いる今日この頃です。
リレー投稿、次回は1968年卒業の同期生、小笠原直樹さんに引き継ぎます。
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リレー・メッセージ 第1回 1998.10.15
投稿はこの企画の提案者である、平成9年総合政策学部卒業の蒋崢さんにお願い
しました。
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「慶應スピリッツのもとに」
私は中国生まれ中国育ちの慶應大学卒業生です。
いま、日本にいるのも、仕事をしているのも、すべて慶應があったからの話です。
私は15歳のとき来日し、国際高校を経て、慶應義塾大学の総合政策学部に
入学しました(97年卒)。慶應で日本語を勉強し、日本の文化、社会を理
解し、そして、何と言っても、慶應スピリッツ—「独立自尊」を学んだの
です。慶應は私にとって、学問を教わる学府というよりも、もはや人生そ
のものを教えてくれる生涯の師匠です。
在学中、私は帝国ホテルの地下1階にある「(東京)三田倶楽部」に大変お
世話になりました。そこで出会った先輩たちは、今日に至っても常に私に
大切なアドバイスをし、あらゆる面において指導していただいているのです。
私は、慶應の「縦の繋がり」に深く感心・感動・感激しております。
また、私たち慶應の中国人留学生は、慶應の伝統を受け継ごうと考え、自ら
「慶應中国人三田会」を設立し、慶應出身の中国人OB会を運営しております。
現在のメンバーは100人以上にものぼり、講演会やサロン、懇親会、合宿な
ど多岐にわたる活動をしております。
現在私の勤務先・日本テレビにも「日本テレビ三田会」があります。慶應
出身の社員の交流会や新入社員の歓迎会などが行われております。
実は、なんと私の故郷・上海にも「上海三田会」があります。私の中国人
の先輩が帰国後、そこの運営に携わっていることを先日聞きました。
さらに、世界を網羅したインターネット上にも、この「インターネット三
田会」が小野先輩のお陰で設立されました。
世界のどこに行っても、どの人種にも、我が慶應の存在は不滅です!
そして、蒋崢というひとりの人間も、我が慶應スピリッツのもとに、
一生懸命生きていきたいと思います!!
次回は「日本テレビ三田会」でお世話になっている日本テレビ
芦沢俊美先輩にバトンタッチ致します。宜しくお願いいたします。
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