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会員からのメッセージ
インターネット三田会では、登録会員に毎月1回「News Letter」をお届けしています。
この会報に、会員の方からの「リレー・メッセージ」をご寄稿頂いております。
広く社中の皆様にお読み頂くために、ご寄稿メッセージをこのページに掲載しております。
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「テネシー便り」の別ページに掲載しております。
<索引>
第80回 2008.4.15 「慶應の言語学ジャーナルの発行への提言」平14経 岩崎永一さん
第79回 2007.10.15 「甘い果実?」 昭32文 横山 正明さん
第78回 2007.5.16 「バンコク便り」 昭32文 横山 正明さん
第77回 2007.3.15 「バンコク便り」 昭32文 横山 正明さん
第76回 2006.12.15 「ホワイトクリスマスin軽井沢2006」昭60女子高 斎藤 明子さん
第75回 2006.12.15 「ミクシィ三田会のご紹介」 平3理工 伏見 靖さん
第74回 2006.11.15 「SOI (School of internet)を見て」 平7法・通 近藤 裕司さん
第73回 2006.11.15 「2006年慶応連合三田会出席:雑感エトセトラ」 昭31経 笹田 豊茂さん
第72回 2006.10.14 「絵を描く動機」 昭62文・通 大林高基さん ( 画名 林楷人)
第71回 2006.9.15 「福澤諭吉とノブレス・オブリージュ」 平11政、平13法修 平15法博 小川原正道さん
第70回 2006.3.15 「応用力」の学習コミュニティ作りにもお力を!」昭48経 高橋りう司さん
第69回 2005.05.15 「日吉台に軍靴の音が響いた頃」 昭42法 宮川 幸雄さん
第68回 2005.03.15 「オレゴン便り」 昭48文 ルース規子(旧姓・高橋)さん
第67回 2004.12.15 「不思議なスランプ」 『紀州の食文化』 平2経 名手 慶一さん
第66回 2004.11.15 「意思あるところ、、を実感した瞬間」 昭42経 安保 日出男さん
第65回 2004.08.15 「一生涯を打ち込む仕事について…音楽家と私」 昭42商 高橋 勝彦さん
第64回 2004.07.15 「沖縄の思い出」 昭55商 中野 玄基さん
第63回 2004.06.15 「小姑おやじの人生訓」 昭58経 上野 精一さん
第62回 2004.04.15 「歯周病のお話」 特選 二階堂 雅彦さん
第61回 2004.03.16 「商標を巡る最近の話題」 平3理工 伏見 靖さん
第60回 2004.03.16 「冬のかまくら」 昭48政 俵谷 保さん
第59回 2003.12.15 「始まる市民の司法参加 〜あなたも裁判員〜」 平8法 久保内 統さん
第58回 2003.11.15 「イケバナを楽しむ外国人」 平9文・通 鈴木 榮子さん
第57回 2003.10.15 「レストランの楽しみ方」 平7総合 寺田 心平さん
第56回 2003.9.16 「全日本大学選手権(インカレ)で優勝・・・観戦記」昭31経 笹田 豊茂さん
第55回 2003.6.15 「タイ國の特性観察」 平9総合 所澤 さやかさん
第54回 2003.5.14 「永井荷風と小泉信三」 昭42法 宮川 幸雄さん
第53回 2003.4.15 「昭和16年夏の敗戦」…現実の「数字」から学ぶべきこと 昭41経 田坂 裕人さん
第52回 2003.2.15 「最近の中国の身近な話題」 昭44工 松原 陽一さん
第51回 2003.1.15 「慶應チャペル」 昭40経 浜地 道雄さん
第50回 2002.12.15 「慶應はなぜ早稲田に勝てないのか?」 昭33経 小野 喜也さん
第49回 2002.11.15 「知っていそうで知らない自転車の不思議を大公開」 昭55商 古市 尚久さん
第48回 2002.10.15 「ことばのお話」 昭52経 山田 健さん
第47回 2002.9.15 「Henley Royal Regatta(略称:HRR)観戦記」 昭31経 笹田 豊茂さん
第46回 2002.8.15 「新別荘族のすすめ」 昭58経 星野 佳路さん
第45回 2002.8.15 「不真面目のススメ」 昭63文 田中 浩さん
第44回 2002.7.15 「ポーランドからのお便り」 昭59政 北御門 強さん
第43回 2002.6.15 「私とジャズと慶応義塾」 昭47法 澤崎 至さん
第42回 2002.5.15 「日本ブランドを育もう」 平4政 掛田 成徳さん
第41回 2002.4.15 「コンピューターの日本語表記について」 昭61文 甲野 卓治さん
特別寄稿2002.2.15 「経済思想から見た教育制度」 昭57経 池田 幸弘さん
第40回 2002.1.15 「ロト6を当てやすくする方法」 昭53工 田久 浩志さん
第39回 2001.11.15 「伝統工芸」 昭47経 高橋 洋文さん
第38回 2001.10.15 「古紙は正しくリサイクルされているか?」 昭62経 吉川 和秀さん
第37回 2001.9.15 「カレッジリング・パワー」 平6経・通 佐藤 仁さん
第36回 2001.8.15 「不良債権処理の現場より」 平7法 薮下 裕子さん
第35回 2001.7.14 「育林-友の会の件」 昭40法 海瀬 亀太郎さん
第34回 2001.6.15 「子育てと仕事」 昭57文 冨島 久理子さん
第33回 2001.5.15 「神田の風景」 昭51経 矢板 憲司さん
第32回 2001.4.15 「慶應義塾と最近の私,教育改革のことなど,あれこれ」 昭50文 岸本 正さん
第31回 2001.3.15 「福澤諭吉と特許制度」 平9法・通 青山 紘一さん
第30回 2001.3.15 「塾生時代を振り返って」 平11文・通 伊藤 紀子さん
第29回 2001.2.15 「アメリカ暮らし あれこれ」 平2理工 藤木 隆樹さん
第28回 2001.1.15 「最強の味方」 平10文 木幡 利枝さん
第27回 2000.12.15 「サービスの対価」 昭32経 笹田 豊茂さん
特別寄稿 2000.12.10 「「うっしー」の思い出」 昭44経 牛田 光さん
第26回 2000.11.16 「最近の義塾・塾生事情」 平11政 小川原 正道さん
第25回 2000.10.16 「塾内紛争と鍛心會」 昭48商 加賀美 公一さん
第24回 2000.09.15 「ごきげんだからうまくいく」 昭55医 坪田 一男さん
第23回 2000.08.15 「少子化と大学」 昭51政 津賀 一保さん
第22回 2000.07.15 「慶應義塾IT化の進捗」 平4文 木村(高岸)朋子さん
第21回a 2000.06.15 「ハイジスキーアカデミー」 昭41法 長谷川 剛さん
第21回b 2000.06.15 「早慶戦観戦記」 昭52法 宇賀神 宰司さん
第20回 2000.05.15 「沖縄ロッカーたちの思い出」 昭52法 神山 和郎さん
第19回 2000.04.15 「アコーディオンのこと」 昭47法 原田 典昭さん
第18回 2000.03.20 「地方公務員の仕事と鳥取県での生活」 昭63商 岡山 佳文さん
第17回 2000.02.14 「地方大学・短大をなくしてはいけない」昭53経 由谷 裕哉さん
第16回 2000.01.15 「2000年を迎えたシドニー」 平9文 福田 恭子さん
第15回 1999.12.14 「中年リストラ転職始末記」 昭51経 田中 邦彦さん
第14回 1999.11.14 「愚痴とプレゼントと狸」 昭14経 牛田 信雄さん
第13回 1999.10.15 「Language and my life」 昭36商 江藤 美保子さん
第12回 1999.09.15 「能と慶應観世会」 平4年文 小林 泰夫さん
第11回 1999.08.15 「北海道連合三田会/釧路三田会」 平9理工 川井 徹也さん
第10回 1999.07.15 「慶應義塾の通信教育」 昭61文 鈴木 正治さん
第9回 1999.06.15 「アメリカと日本の文化の違い」 昭61経 武本 粧紀子さん
第8回 1999.05.14 「三鷹三田会パソコン教室」 昭38工 堀池 喜一郎さん
特別寄稿 1999.04.28 「慶早レガッタ観戦記」 平3文 田沼 千鶴子さん
第7回 1999.04.14 「『一貫教育』に加え『一生学習』を!」昭51経 妹尾 堅一郎さん
第6回 1999.03.14 「コンピュータなんて笑い飛ばせ!」 昭44経 藤田 秀一さん
第5回 1999.02.14 「日本語のマレーシアンジャーナリスト」 平8文 Yap Toin Yee さん
第4回 1999.01.12 「見たかい? 三田会?」 昭62文 湯浅 直美さん
第3回 1998.12.16 「思い出のパナマ三田会」 昭43経 小笠原 直樹さん
第2回 1998.11.15 「オランジュリー美術館展」 昭43政 芦沢 俊美さん
第1回 1998.10.15 「慶應スピリッツのもとに」 平9総合 蒋 崢さん(本企画提案者)
リレー・メッセージ 第27回 2000.12.15
笹田豊茂さん(昭31経)から温かいご支援のご寄稿を賜りました。
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サービスの対価:人はなぜ床屋さんにお金を払うのか
「日本人は無形のサービスというものにお金を払う習慣がない」と、よく言われ
ますが、習慣がないと言い切るのは言い過ぎで、ちゃんと習慣はあるのです。
たとえば、床屋に行って気持ち良くなって居眠りしている間にちゃんと髪を切っ
て洗って整髪してくれる。だから「あヽ気持ち良かった。ありがとう」と言いな
がらお金をちゃんと払います。これは床屋さんのサービスに対して対価を支払っ
たわけです。ですから、「俺の髪を切り取ったのだから、切った髪のぶんの金を
払え?」とは誰も申しません。
はてさて、なんで床屋さんの話を持ち出したのか? それは下に述べる話に多
少はリンクするからです。というのは、近頃ちょっと思い当たることがあった。
なにを隠そう、今この文が乗っている「インターネット三田会」に関連すること
である。
私は自分の日記をめくってみると、今年の4月に 『インターネット三田会』
に入会しています。インターネット三田会のNews Letterあるいはホームページ
を通じて何かと有用な、あるいは楽しい情報で、大変重宝している。だから、
もうずいぶん前から入会しているとばかり思っていたが、まだ半年程度のお付
き合いでしかないが、大変いろいろなメリットを享受した。たとえばMCC:丸
の内シティキャンパス?私は恥ずかしながらインターネット三田会のNewsで初
めて知りましたが、さっそくプレオープン講演会の8回,9回,10回の三回
を申し込みました。
そのほか、旅行、食べ物、お酒、音楽、ジョークなどの日常的な検索はもと
より、慶応義塾についての様々なニュース?三田通りに立ち上がった新研究棟、
幻の門移転などなどOBにとって知りたいことがたくさん載っている。
そして、何よりもインターネット三田会長の小野喜也さんの「母校に対する
熱い思い」に溢れているのが一番うれしいのである。世のなか慶応のOB数多
しと言えども、身銭を切って在野で母校を語るメディアは他にないであろう。
まさに貴重な存在である。
いつもNews LetterがE-mailで届くたびに、あるいはホームペー
ジをめくるたびに、何が書いてあるのかと言う興味と共に、私が常に思わざる
を得ないのは、作成している小野さんの手作り作業の労苦のことである。だか
ら、いつも「ご苦労様」とE-mailで返信します。
しかし、ただ有難がってばかりで良いのかなと、大変遅かったが、ようやく
私も気づき始めた。それこそ冒頭の床屋の話である。実は、インターネット三
田会の経費は会長である小野さんの完全な手弁当で現在まで維持されて来たの
だ。皆さんもそうでしょうが実はほかならぬ私も、経費はどこかで何とかなっ
ているのだろう位に簡単に考えていた。規約にも第5条「入会金および会費は
無料とします」とあるので、ここまで読んで安心していた?ならば入っても損
はあるまいと。私も含めて人間は自分の都合の良いように勝手に考えるものら
しい。しかし最近さすがに経費はどうなってるの? と考えるようになった。
そして、規約第6条に「本会の運営経費は、本会の活動に賛同する個人およ
び法人の賛助会費によるものとします」とある。 えっ? はじめて第6条を
見たような気がした小生は驚きました。第5条の「無料」に気を取られて第6
条をすっ飛ばして見過ごしていた。
問い合わせると、創刊いらい2年半、払ったのは個人/法人をと問わず、皆無
と!!! 何たる事ぞ。がく然としました。
会員の皆様、おそらく上記の実情を初めてお知りになったでしょう?私もそ
うですが。インターネット三田会を愛するならば賛助会費を払いましょう。そ
うしなければいつか運営が難しくなります?会員が増えれば時にはアルバイト
を使って処理をやらねばならぬケースもあるし、時期が来れば機器の更新も必
要になる?等々。
それに賛助会費の額を決めていないところが良い。
懐と相談しながら相応にやりましょう?年に1000円でも良い。今払えない
学生は就職した初任給から払いなさい(仕送りの多い学生や余裕のある学生の
方は考えて下さいね)、会社からお給料を頂いているOBの方も宜しくどうぞ
?数千円くらい。幸い上限を設けていませんので、いくら多くても政治献金の
ように罰せられることはありません。逆にちょっと今はね、という方はしばら
く無料でインターネット三田会に声援を送りましょう。
会員の皆様に、所感とお願いのメッセージをお送りしました。
2001年新しい世紀の足音がそこまで来ました。
インターネット三田会の皆様のご健勝とご活躍を心から祈念申し上げます。
会員 笹田豊茂 31年経済学部卒業。体育会端艇部OB。
じんせいざん東京/⑭人青山東京エージェンシー代表取締役
E-mail: sasada@jinseizan.co.jp
ご参考:
インターネット三田会の賛助会費の払い込み先:
郵便振替 口座番号 00100ー9ー34715
口座名称 インターネット三田会
銀行口座 さくら銀行 旗の台支店
普通預金 口座番号 6828506
口座名 インターネット三田会
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特別寄稿 追悼 牛田信雄様(昭14経済) 2000.12.10
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1915年生まれ、80歳からインターネットに取組まれ、当会の最高年齢会員
であられた牛田信雄先輩が平成8年4月19日ご逝去されました。
昨年11月には「会員リレー・メッセージ」に軽妙洒脱な文をご寄稿いただき
当会に肩入れをして頂いておりました。
慎んでお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈り申し上げます。
ご子息、当会会員の牛田光さん(昭44経済)にご寄稿をお願いしました。
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「うっしー」の思い出 2000年12月10日
小野さんから、今年4月19日に他界した私の父の思い出話を、インターネッ
トとの係わりで寄稿するようにとのお話しがあり、思いつくままキーを叩きまし
た。
我々のパソコン仲間「CFN」(Click Friends Ninomiya)では、父は「長
老うっしー」と親しみをもって呼ばれておりました。「CFN」は、神奈川県
二宮市に住む4組のご夫妻と父がメンバーでスタートしました。
「うっしー」は大正4年、新宿区牛込の生まれです。大正12年の関東大震災も物
心ついてからの経験であり、よく私に大地震の恐ろしさを語っておりました。震
災後、五反田に移り、そこから当時三田にあった(?)幼稚舎へ歩いて通ったそ
うです。「友達と編み上げ靴を履いて、カシャカシャと、まだ舗装なんてされて
いない道を歩いて毎日通ったモンだ。道路には、まだ馬力が走っていて、馬が糞
をそこらじゅうにボタボタ落としながら歩いていたモンだ。」と、よく当時の話
をしておりました。馬力とは荷馬車のことです。
「うっしー」はスポーツマン・タイプではなく、文学青年でありました。それで
も幼稚舎や普通部の時代には、友達とサッカーをしたり、ボクシングでノックア
ウトをくらったという話をよく聞かされました。福沢先生の教えにそって、塾の
教育は先ず体を鍛えることから始まっていた様です。そして幼稚舎時代からの友
人関係を見ても、いわゆる旧き良き時代の慶応ボーイの典型のような人でした。
予科から大学は経済学部へ進み、よく勉強をしたそうです。「うっしー」の友人
たちからは、優等生と呼ばれておりました。朝早くから三田の図書館に行き勉強
した時のことを、私に、「冬の朝、図書館の階段を上って行くと、『ペンは剣よ
りも強し』のステンドグラスに朝日があたって光っている。その素晴らしい光景
は今でも夢に見るヨ。」と語ってくれました。私も三田に通うようになってから
図書館に行き、そのステンドグラスを見上げて、「これがアレかぁ」と感動した
思い出があります。
「うっしー」は学生時代から豊富な趣味を持っておりました。なけなしの金を持
って、友達とダンスホールへ通った事や、タップダンスまで踊った事が自慢でし
た。また「うっしー」はフランスと絵画に憧れていたようです。大学の講義のほ
かにアテネ・フランセにも通い、フランス語会話が得意でした。絵画は、絵を鑑
賞するだけでなく自分でも油絵を描き、生涯を通じての趣味となりました。そし
て文学では、「マルセル・プルースト」と「ジェームス・ジョイス」でした。
大学卒業後は、サラリーマンとして定年まで勤め上げました。戦渦をくぐり抜
け、終戦後の混乱期から高度成長へと時代が移る中で、いわゆるモーレツ社員の
典型でした。子供の頃の私は、朝、革ベルトのようなもので髭剃機を研ぎ、ヒゲ
を剃っている「うっしー」の姿しか見た事がありませんでした。
そんな「うっしー」に、最も辛い思い出は、最愛の妻に二度先立たれた事です。
一度目は、私の母です。母は、私の18歳の誕生日の二日あとに息を引き取りまし
た。「うっしー」が50歳の時でした。
そして、二度目は「うっしー」80歳の時でした。
「うっしー」は、会社を引退してから60歳のときに永年の疲れがドッと出たかの
ように胃潰瘍で入院しました。胃の4/5を摘出する大手術でした。退院後も、
輸血の影響から血清肝炎にかかり苦しみました。医者は高蛋白摂取と安静をすす
めました。しかし「うっしー」は、「俺は日本人だ。米の飯と適度の運動が健康
の元である。」と云って、玄米食と、それまで続けていたハイキングを再び始め
たのです。
始めの頃こそ、フラフラでしたが、毎週のように山歩きを続け、遂には主治医が
ビックリするほど健康体になってしまったのです。「うっしー」は「山を歩くと、
新鮮な空気と、木々から出るフィットンチッドで健康になるのだ。」と、当然の
ことの様に云っておりました。そして、その山歩きを通じて、素晴らしい女性に
めぐり合ったのです。
60歳から70歳まで「うっしー」は、フランス語ができるという事もあって、あ
る画廊に勤めておりました。仕事のかたわら、趣味の絵画の勉強と、ハイキング
を、その素敵な女性とともに楽しんでおりました。そして70歳を迎えて、画廊の
仕事からも退き、二人で神奈川県の二宮に居を構えました。二人で一緒にハイキ
ングをしたり、絵画教室に参加して絵を描いたりして仲睦まじく10余年の月日を
過ごしたのです。ところが、平成8年2月、突然、最愛の人に、再びあの世へと先
立たれてしまいました。その時の「うっしー」の落ち込みは激しく、入院してし
まうほどでした。
丁度その年は、Windows95がブームになり、インターネット・Eメールが一般
ユーザーに広まったところでした。「うっしー」は、二宮で絵画教室に参加して
いただけでなく、その横で開かれていた、パソコン教室にも顔を出していたので
す。病院を退院後、落ち込んでいた「うっしー」は、「海外にも友人がいるのだ
から、インターネットを始めると、また世の中が広がりますよ。」といったアド
バイスを受けて、その教室の先生のお世話でパソコンを購入し、未知の世界への
挑戦を始めたのです。それから探求心旺盛な「うっしー」は、インターネット・
Eメール・デジカメ・とドンドンはまって行きました。「オイ、パソコンは面白
いぞ。おまえもやれよ。」と言われて、あわてて私も遅れること半年で、パソコ
ンを購入しました。
二宮で一人暮らしとなった「うっしー」と、私の間で親子の交換日誌ならぬ、交
換メールが始まりました。ちなみに「うっしー」は、なんとブラインドタッチで
文章を打っていたのです!
こうして、「うっしー」の生活に、パソコンはなくてはならないものとなりま
した。パソコン教室の先生を中心にして、地元二宮の親しいご夫妻のグループが、
パソコンとインターネットの勉強をする会をつくることになり、「うっしー」も
参加して「CFN」の名付け親になりました。私も後からメンバーに加えていた
だきました。そして、皆で「CFN」のホームページを作り、それぞれ個人のペ
ージをリンクさせようということになりました。「うっしー」のページには現在
でもアクセスできます。
ただ、「うっしー」のボヤキは、同年代の友人にパソコンを扱う人のいないこ
とでした。そこで、こんどは絵手紙の勉強を始め、俳句をつけたお手製の絵葉書
を友人に贈るようになり、贈られた方々から大変よろこばれました。題材は、グ
ルメの「うっしー」らしく、季節の旬の食物や、花をテーマにしたものが多かっ
たようです。
「うっしー」は、その後の2度の入退院で、ソーシャルワーカーさんや、ヘルパ
ーさん・訪問看護婦さんのお世話になるようになりましたが、その皆さんとも
メールで連絡を取り合う、というようにパソコンを活用しておりました。そして
3度目の入院で、あの世へと旅立って行きました。
「したきこと ほぼやり終えて 春の旅」
という句を、「うっしー」は私に残してゆきました。今ごろは、仲の良かった悪
友達と一緒に、天国の銀座を飲み歩いているのではないでしょうか...?
なお、CFNでは、「うっしー」の追悼ページCFNホームページを作成しました。
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今月のご寄稿は、小川原正道さん(平成11年法学部政治学科卒)にお願いし
ました。
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「最近の義塾・塾生事情」
私は昨年法学部政治学科を卒業し、現在大学院法学研究科に所属しています。
本欄では、みなさんに私から見た最近の義塾と塾生事情の一端をお伝えしたいと
思います。
私が慶應義塾にお世話になってからわずか5年半ですが、この間にも塾内の様
子はだいぶ変わりました。長期休暇をはさむたびに教室や図書館のパソコンの数
が増え、かつての大教室や「たまり場」は次々と「パソコンルーム」に生まれ変
わり、今や狭い三田キャンパスではゆっくりと憩う場もなくなってしまいました。
幻の門があった場所にも、最先端の「グローバル・セキュリティー・センター」
のビルが立っています。
湘南藤沢キャンパスを筆頭に日本の情報化の先端に立ち、「慶應義塾スーパー
ハイウェイ構想」など、モデル的な情報社会を提示してきた義塾ですが、最近は
既存の5キャンパスに加え、山形にTTCK(鶴岡タウンキャンパス)、川崎に
K2(ケースクウェア)キャンパス、そして丸の内にシティキャンパスと、全国
に環境科学や遺伝子工学、さらに経営論など、時代の要請に応える衛星キャンパ
スの設置を次々と決定し、空間を越えネットワークで結ばれた巨大キャンパスを
形成しつつあります。
十一月一日には、慶應学術事業会が野村総合研究所とともに「近未来の大学経
営〜課題と展望〜」と題するフォーラムを開催。基調講演では鳥居塾長が、今後
慶応が力を入れる分野として、教育、研究、医療、学術事業の四点を上げ、フォ
ーラムでは学術事業について上記の情報化への対応や新型キャンパスの建設にと
どまらず、「大学運営の課題とビジネスプロセスの改革」「大学における事件・
事故時の危機管理」「受験検討者への情報発信とリレーションシップの構築」
「グローバルな人材の育成と国際水準の研究の推進」「地域の人材育成と産学連
携」といった多様なテーマでの分科会が開催され、様々な民間企業や大学関係者
が次世代の大学経営について議論を交わしました。これは週刊誌に「独走慶応大
学の野望」と書かれるような単なるトレンドの追求やビジネスチャンスの獲得と
いったもの以上に、「時代の先駆者」たらんとする建学の理念に裏付けられた取
り組みの一端と言えるでしょう。
さて、そんな情報化の影で憩いの場が消えつつある三田で、塾生が集う場所は
どこでしょうか?ベンチや教室はもちろんですが、最近になって、地べたに座っ
て過ごす塾生が増えてきました。しかも、三田山上に見える塾生の数全体が増え
ている・・・。これは入学定数が増えたからではありません。端的にいって、「ま
じめに学校に来る学生が増えた」からのようです。
出席をとらない授業でも、近年まじめに出席する学生が増えているというのは、
先生方の印象でもあります。ただ、まじめに出席する学生が増えた反面、共通し
て聞かれる声は、「おもしろい声が減った」ということです。これは私自身が学
部生と接していても感じることですが、みながまじめに勉強して「それなり」の
答えは出すけれど、独創性や個性ある答えが少ない。レポートを求めても、イン
ターネットで調べた出所不詳の情報を切り張りして出してくる・・・。情報化の影で、
そんな画一化も進んでいるようです。
もう一つ、最近の傾向として、サークルに所属する塾生が減っている、という
ことがあります。応援指導部をはじめ、部員の獲得に苦労している声は、文化ス
ポーツ、伝統新興を問わず、あらゆるジャンルのサークルにあるようです。そこ
には、「組織に所属して縛られたくない」という共通の声が聞こえてきます。
これはサークルだけでなく、ゼミが選択制になっている商学部や政治学科などで
も見られる現象です。
もちろん、画一化や個人主義化が進んでいるといっても、個性的でおもしろい
塾生が多いのも確かです。ただ、慶應義塾の塾生とはいえ、世間でとりざたされ
る「若者事情」から無縁ではないのも事実でしょう。少なくとも、地べたに座っ
て携帯電話でメールを書いている塾生も、テストでもないのにごったがえす三田
山上も、大声や携帯の呼出音が鳴り響く日吉図書館も、数年前まで見られなかっ
たわけですから。
また、情報化が進んでいるとはいえ、塾生レベルではインターネットでの情報
収集や電子メールでの交流、といった一般的レベルでの利用がほとんど。今後、
全国規模に広がる高度な情報ネットワークや知的資産を、どう塾生に還元してい
くかが、義塾の大きな課題になるでしょう。
とはいえ、今秋の東京六大学野球の優勝決定戦となる慶早戦での熱心な応援や、
優勝後のパレード、祝勝会などを見ていると、強い愛塾心は脈々と塾生に受け継
がれていることを実感します。情報化の波や、個人主義、画一化の波が、否応も
なく打ち付ける現代。そんな今だからこそ、歴史を一貫して相続されてきた伝統
の精神——独立自尊、気品の泉源、知徳の模範——を温める必要があると思いま
す。
小川原正道
(平成11年政卒。大学院法学研究科政治学専攻所属。洗足学園短大非常勤講師)
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今月のご寄稿は、加賀美公一さん(昭和48年商卒)にお願いしました。
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「塾内紛争と鍛心會」
1968年秋、日吉の並木道の隅を夏休み前から設けられて居る机と椅子のバリ
ケードを避けながら、我々塾高生は毎日真面目に通学していました。
大学は米軍の塾医学部に対する研究資金の供与の報道に端を発した学生紛争で、
学生のスト(授業拒否)と極左過激派に依るバリケード封鎖で、長期に亘り授業
の出来ない状態が続いていました。極左過激派に依る校舎封鎖や違法暴力行為は、
本塾のみならず東大(70年入学試験は実施せず。)、京大など当時の国立一期校、
早稲田、法政、明治などの東京六大学はおろか、全国の大学や一部高校に燎原の
火の如く広がって行き、塾では73年5月の学費値上げ反対紛争の終焉まで続く事
に成りました。
一方、海外に目を向ければ、激化するベトナム戦争に反対するカリフォルニア
大学バークレー校に象徴される米国の学生反戦運動、新学制に反対するフランス、
党の権力闘争が形を変えて表面化した文化大革命に於ける紅衛兵の暴走と、学生
や若人に依る紛争や混乱が同時多発的に起きていました。
当時塾高3年生(馬術部)だった私は、最後の日吉祭をバリケードの隅を通って
行く様なものには絶対したくないと思い、塾高體育會各部や応援指導部の幹部を
糾合、実力に依る並木道のバリケード封鎖の解除を画策していました。 Xデー
2日前、どこから情報が漏れたのか、当時大学で反極左過激派活動をしていた良
識派塾生の集まり「ストを回避し話し合いを守る会」のK氏並びにW氏に、田園
調布の喫茶店「モレシャン」に私と応援団長のKが呼び出されました。 話の主
旨は、前夜 良識派塾生のT、O、S、Yらが過激派に拉致、日吉のバリケード
内に連行され暴行を受け、重傷を負って入院した事、直近にその様な事件が有り、
非常に状況が緊迫している時に體育會系塾高生約300名がバリケード解除の実
力行使をした場合、過激派との攻防は熾烈を極め、彼我の人的損害は図り知れな
い事、大学の事は大学生の手で必ず解決するので、もう少し時間が欲しいと云う
事でした。極左過激派の実体を始めて知った我々は、直ちに実力行使中止指令を
発しました。
自身が鍛心會会員でも在ったKならびにW氏とそこでお会いし、学生紛争に対
する見方や考え方、それに基づく行動などの話を伺った事、又当時の體育會の紛
争不介入と云う姿勢に対する不満が、後日(70年春)、私が交通事故に遭って
鞭打ち症を患い、乗馬が続けられず馬術部を退部、鍛心會に入会するきっかけに
成りました。
その後、良識派塾生の努力が実り、他大学では当たり前だった警察(機動隊)
の導入も無く、米軍資金導入反対紛争は終わり「ストを回避し話し合いを守る会」
も解散しましたが、鍛心會の会員や良識派塾生が塾を護る為に物心両面の多大な
支援を惜しまなかった昭和22年卒を中心とした塾員との関係は現在まで続いて
います。
その後も年中行事と化した学園紛争の度に、鍛心會や良識派塾生は、反極左過
激派組織を作り、学生のストライキは労働者のそれと異なり、権利の放棄である
事、例え本塾に大学改革が必要と有っても、それは福沢先生の建学の精神を生か
し体制内改革で行なうべきものである事、過激派が他大学の過激派に応援を頼む
「外人部隊」の導入は、全くナンセンスである事等々を塾生等に訴え続け、それ
は73年5月の学費値上げ反対紛争の終わりまで続け、その後大きな学園紛争は塾
から姿を消しました。
「学費値上げ反対紛争」のお陰で我々73年卒は当時公式な卒業式が挙行されませ
んでしたが、卒業25周年の1998年3月23日、現役の卒業式の直後、日吉記念館
2階席が満場の招待塾員で揺れる中、「卒業25周年記念卒業式」が塾からプレゼ
ントされ、薬師寺常任理事の昭和47年学事報告、鳥居塾長に依る当時の佐藤 朔
塾長(故人)の卒業式式辞代読の後、万雷の拍手の中、卒業生代表として山本徳次
郎君、小泉体育賞受賞者代表として萩野友康君が鳥居塾長より其々卒業証書、小
泉体育賞の授与を受けました。その後の塾歌は込み上げる涙で最後まで唄える者
少なく、一同改めて塾に学んだ良さを再確認致しました。)
日本全国の学園が、未だに理由は分かりませんが騒然としていたあの時代に義
塾に入学、鍛心會に入部し、極左過激派暴力集団と対峙、一般塾生では及びも付
かない数々の事案に遭遇し、命の危険を冒し乍ら「愛塾」の一念で、塾当局、塾
員そして塾生が力を合わせて一つ一つ問題を解決した経験は、その時々にお会い
し、30年に亘る永いお付き合いに成った先輩、同級生、後輩と共に私の一生の宝
に成りました。
「征共の意気に燃え立つ若き血を 今ぞ散らさむ山櫻花」
おわり。
加賀美公一
(昭和48年商卒 三田鍛心會 日吉回漕店、Metropolitan BMW社長)
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リレー・メッセージ 第24回 2000.09.15
今月のご寄稿は、坪田一男さん(昭和55年医学部卒)にお願いしました。
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『ごきげんだからうまくいく』
東京歯科大学眼科教授
坪田一男(昭和55年卒)
address:tsubota@tdc.ac.jp
Web: tsubota.ne.jp
昭和55年医学部卒の坪田一男です。普通部からお世話になり、卒業後は眼科
医となりました。現在東京歯科大学眼科において角膜専門医として仕事をしてい
ます。角膜といってもなじみがないかも知れませんが、黒目の部分のことです。
ここには透明な蓋のような組織があり、これを角膜といいます。角膜が乾くとド
ライアイとなります。角膜にはコンタクトレンズをのせます。タイガーウッズが
受けて有名になったLASIKという近視手術は角膜にレーザーをあてて行います。
また移植では角膜移植が有名ですね。これらの角膜の病気と白内障の手術が僕の
専門ということになります。
今回も目の話をさせていただこうと思いましたが、最近サンマーク出版から
“ごきげんだからうまくいく”という本を出版しましたところとても嬉しい評価
をいただきました。そこで今回はこの本のご紹介をちょっとしたいと思います
(宣伝もかねてです)。
ごきげんでいるためには“人生で成功しなければならない”とみんな言う。
成功して初めてごきげんになると言う。
本書はこの常識に挑戦する。
ごきげんだから成功するのだ。
現在失業率は5%の越え、つらい世の中になった。病院のためと思って仕事を
すれば上司から誤解され、手術もうまくいかないと胃潰瘍が再発する。文部省の
科学研究費はすべてはずれて、これから研究費の手当ての案もない。企業なら完
全に破産である。風邪はしょちゅうひくし、持病の腰痛とドライアイはいっこう
によくならない。だから僕は今日不機嫌なのだ。人生が100%おもしろくない
のだ。病気があってどうしてごきげんでいられようか?と普通は考える。でも自
分はそういう人生を送りたくない。今、1999年6月2日の早朝だが、なぜか
昨晩から続く胃の痛みに“がんじゃないか”という不安のもとにこうやって原稿
を書いている。でもそういう状態であっても自分のなかに、“胃が痛くても、絶
対ごきげんに今を生きるぞ”という気持ちが芽生えてくるのを感じる。こうやっ
て考えが出てくると胃の痛みも減ってくるから不思議である。
自分は深い満足感につつまれて毎日を送りたい。とても強く思っている。そし
てそれをまわりのひとたちに伝えていきたいと思って生きてきた。毎日、毎月、
毎年それを自分に伝え、まわりの人にも伝えてきた。そうしているうちになぜか
“ごきげん”が習慣になったと思う。まわりにもごきげんな人が多い。たくさん
の友達や楽しい家族、仕事の仲間たち。みんなごきげんだ。どうもごきげんは芽
生えれば伝染するらしい。
今の仕事は大学の教授である。眼科学を教え、患者さんの診察にあたる。自分
自身がドライアイという病気なので、ドライアイを撲滅するのが僕の夢だ。研究
チームを作って一生懸命研究している。そのうち素晴らしい発見をしたらパテン
トをとって薬の開発までのりだしたいと思っている。最近、重症のドライアイで
目が見えなくなってしまった患者さんに新しい治療法を開発した。角膜上皮細胞
のステムセル(幹細胞)移植である。これは今話題になっている骨髄移植が血液
細胞のステムセル移植とすると、こちらは目の細胞のステムセル移植である。な
にしろ今まで治らなかった患者さんが治ってしまうからすごい。画期的な治療法
を始めて世界の注目を浴びている。当然自分の仕事にはとても満足している。家
族はとても素晴らしく5人の子供に恵まれた。友達は幼稚園時代からずーっと今
までいい友達に恵まれている。幸いドライアイを除いて大きな病気もせずに今ま
で生きてきた。 昔の中国の古い教えによれば、幸せになるには4つの基本が必
要だという。1つは天職とよべる仕事、2つは最愛の家族、3つはかけがえのな
い友達、4つは自分の健康だ。これがあれば人生幸せに生きられるという。きっ
と僕はこの4つがあるからごきげんなんだろう。と親友から言われたが本当にそ
うなのかと疑問に思った。これがこの本を書くきっかけだ。
病院に行けば拒絶反応で再手術をしなければならない患者さんが待っている(な
んでなおらないんだろう)。
素晴らしい家族というとそれだけで幸せのシンボルだが、ちょっと今も“お父様
は子供の話を何も聴いていない。”“急に家にお客様を連れてくるのはやめて。
”と家内と子供たちから怒られた(父の権威はどこにあるんだ)。
1998年の文部省のドライアイ研究費の申請を却下したのは僕の友達である
(あんちくしょう)。
今年のスキーでは腰を痛めて、今では10分以上立っているともう我慢ができな
いほどの腰痛持ちになってしまった(本当に痛い)。“この腰痛さえなければ人
生快適なのに”と毎日3回は思う。これだけでも十分不機嫌になれる痛みである。
いろいろな問題に囲まれていながら、それでも僕がごきげんなのは、最初から
ごきげんを選択しているからなのだ。もっと正しく言えば“ごきげんを選択する
ことを習慣”にしているからなのだ。今日は晴れたから“ごきげん”なわけじゃ
ない。晴れようが雨が降ろうがごきげんを選択するのだ。毎日、毎時間、毎分、
毎秒、生きている間中ずーっとごきげんを選択するのだ。
いい仕事があるからごきげんだ、なんてめんどいことは言わない。
いい家族がいるからごきげんだ、なんて暑苦しいことは言わない。
いい友達に恵まれたから自分はごきげんだ、なんてストーリーは作らない。
健康だからごきげんね、なんてそんな単純な解釈にはついていけない。
これでは本末が転倒している。
いい仕事は僕がごきげんに仕事を続けてきたから今あるのだ。
いい家族も僕がごきげんだからいるんだ。
いい友達も僕がごきげんだから長く続くのだ。
ごきげんだったので、病気にならなかったのだ。
ごちゃごちゃ理由を言っているのはめんどくさい。
最初からごきげんになろう。
ごきげんを選択しよう。
あの人はあんなに素敵だからごきげんなのよね、というストーリーはもうやめだ。
あんなに素敵なのはごきげんを選択した結果なのだ。ごきげんはひとつのストラ
ジー(人生の戦略)になりうる時代がやってきたのである。
最近細胞の研究でおもしろいことがわかってきた。T細胞という体の免疫をつか
さどるリンパ球の研究からである。IL-10というサイトカインが実は細胞の状態
によってT細胞を元気にもするし、抑制もすることがわかってきたのだ。同じシ
グナルなのに細胞の状態によって違うのである。ILー10というサイトカイン
を認識するリセプターは同じだが、そのあとの細胞内のシグナルトランスダクシ
ョン(信号伝達経路)が細胞によって違ってきてしまうのだ。
これをたとえば言えば“がんばってね。”と友達に言った時に本当にがんばれる
状態にある時と、もう体力と精神力の限界にきていて“がんばってね”なんてい
うと駄目になっちゃう状態に似ている。うつ病の時には“がんばれ”は禁句とい
うのは細胞レベルからもうなずける話なのだ。
さて外側からの同じシグナルに対して細胞が2つの選択を行えるというのは画期
的な発見だ。今までは同じシグナルに対しては同じ反応が起こると信じられてき
たのに、細胞の状態によって細胞レベルでもこれだけの自由度があったのである。
僕たちはどうか?同じ刺激がやってきても自分の状態によって反応が変わるはず
である。“また患者さんが拒絶反応を起こしました。どうしましょう。”
不機嫌な僕ならどんな反応をしてしまうのか恐いくらいである。でもごきげんの
状態にいる僕は明るく答える。“よーし、次こそがんばろう。至急角膜の手配を
してくれ。患者さんも今度こそよくなりますよ。”T細胞でいえばILー10が
与えられた時に抑制されるのじゃなくて、活性化する状態にしておきたい。自分
をいつもごきげんにしておきたい。そしてそれは僕たちの自由の選択としてそう
したい。
ごきげんは人生の目的でもあり、ストラテジー(戦略)にもなりえる。この本は
“ごきげん”という状態を選択して人生を生きようという提言を行う本だ。細胞
レベルの研究からも十分実現可能なストラテジーなのだ。でも待ってよ。そんな
に簡単にはいかないよ。だっていろいろと問題もあるもんね。ごきげんを選んじ
ゃいけないっていう教育も受けてしまっていることだし、エゴにも対処しなきゃ
ならない。そうなのだ。ごきげんを選ぼうと言っても簡単には選べないところが
おもしろいのだ。本当はとても簡単。自分のごきげんレベルに意識を払って、ち
ょっとごきげんレベルを上げてみるところから練習が始まる。でもそれは信じら
れないって? だからこの本がある。この本の中には7つの基本的な人生に対する
理解が詳しく書いてある。これによって自分のことが今よりもわかるようになる
だろう。友達や同僚のことももっと多く理解できるようになるだろう。そして自
分自身の理解が深まった状態では“ごきげん”を選ぶことが少し易しくなってい
ることに気づくはずである。この本にはあなたがごきげんを選択するために学習
すべき知識と習慣がつまっているのである。
ごきげんだからうまくいく(サンマーク出版)より
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リレー・メッセージ 第23回 2000.08.15
今月のご寄稿は、津賀一保さん(昭51法・政治)にお願いしました。
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『少子化と大学』
まずは自己紹介
インターネット三田会会員の皆様 こんにちは
私は昭和51年政治学科を卒業した津賀一保です。
現在は川崎市高津区久本にある、洗足学園大学・短期大学で事務長を務めてい
ます。
洗足学園大学は音楽学部の単科大学、短期大学の学科構成は音楽科、幼児教育
科、英文科の3科です。
今回は今、大学・短大の高等教育機関が当面する問題について私見をお話させ
ていただきます。
大学を巡る状況
平成12年4月に大学審議会は『大学入試の改善について(中間まとめ)』を
とりまとめました。
この中で大学入学者選抜を巡る状況を6点挙げていますが、その中で変化しつ
つある状況として挙げている3点について記します。
1. 現在の大学=国民の半数近くが進学する教育機関
2. 大学に求められるもの=広く大学教育を受ける機会を提供すること
3. 卒業時における質の確保(出口管理、大学教育の充実)
平成11年度において大学への進学率は約49%に達している。一方、近年の
少子化の進行により、18歳人口は、平成4年には205万人であったものが、
平成11年には155万人までに減少している。平成21年には120万人とピ
ーク時の6割になってしまうとされている。また、大学の収容力については、平
成21年度には大学進学を希望するものはいずれかの大学に進学することが出来
る状況となる。全体としてみれば、既に大学入試は過度の競争ではなくなってき
ている。このように、既に大学は、特別の教育の場ではなく、国民の半数近くが
進学する教育機関となっている。
大学に進学するものが少数の時代には、大学は特別な教育の場であった。その
ために、入試は選抜色の強いものであった。しかしながら、国民の半数近くが進
学する教育機関として、今後の大学は、国民の進学意欲を積極的に受け止め、従
来のように受験生を選抜するという視点ではなく、高等学校と大学の接続を重視
し、広く大学教育を受ける機会を提供する視点を持つことが重要である。
また、国民に広く大学教育を受ける機会を提供していくという観点からは、大
学入学後の教育のあり方が重要になってくる。
従来の大学評価はともすれば、入口段階すなわち大学入試の難易度等により基
づきなされてきており、卒業生の評価さえも入口段階での評価を受けてきた。す
なわち、大学で何を学んだかではなく、どこの大学を卒業したか、もっといえ
ば、入試を突破したかが重要な関心事となっていた。
しかし、国際的競争力の強化が求められる中で、産業構造や雇用形態に大きな
変化が起こり大学の卒業生に対して、どこの大学を卒業したのかではなく、個々
の学生が課題探求能力を持ち、その上に専門的な能力や技能を身につけているこ
とを求めるようになってきている。
また、大学教育は、社会生活を送る上で必要な知識、技能を身に付けるだけで
はなく、幅広い教養を身に付けるなど、一人一人の生活を豊かにしていく上でも
重要な役割を果たすものとなっている。
このような要請に応えるためにも、大学全体として、大学教育を充実し、卒業
時における質の確保を重視していくことが必要になっている。(以上抜粋)
なお、大学の収容力について平成21年において全入になるとしていますが、
この根拠の中には以下の条件でシミュレーションがなされています。
1. 大学の進学率は高いままキープされる
2. 受験者は専門学校より短大、短大より大学を選択する
3. 浪人は存在しない
進学率が今より下がれば、全入は平成21年より早いであろうし、大学の優位
性が崩れても、あるいは、受験生は大学に入学できればどこの大学であっても良
いというのではなく、やはり一部有名大学に人気が集中し浪人が存在すれば全入
時代は早まるし、あるいは、全入時代は既に来ていると考えるのが妥当でしょ
う。日本私立学校振興・共済事業団の調査では、定員割れを起こしている大学は
全体の約3割、短大にいたっては約6割という現実があります。
全入時代の大学教育
全入時代を迎えた大学は多様なニーズを求められる、それに応えることが出来
る教育機関となっていかなければなりません。そのためには現在よりも一層、大
学の教育目的、特色、専門分野の特性に応じて多様化、個性化を進めていくこと
になります。また、受験生の能力、適性、履修歴も多様化してきます。
大学も受験生も多様化していく中で、大学としての特色を打ち出し、専門教育
の内容をより高度化、より多様化、より開放的にしていくことが肝要でありま
す。
一方では、全入時代を迎え各大学の競争は激しくなることが予想されます。そ
の競争には『質』という観点と、『学生確保』の観点の二面があります。どちら
の面にしても、大学の特色を受験生や社会に示していくことによって、競争力が
強化されることとなります。では、何を特色としていくのでしょうか。
受験生等が大学を選択する基準としてはいくつかの要因があります。建物、設
備、備品、奨学金、学生食堂などの学生サービスも勿論大切でしょう。しかしな
がら、受験生等が今後、もっとも重要視するのは、その大学に入学して何を学
び、何を身につけることが出来るかであると思われます。つまり、カリキュラム
そのものであると断言できます。カリキュラムこそが今後は注目され、評価され
ることとなります。
カリキュラムという大学教育の本質を大切にすることが、今後重要になってく
る、ごく当たり前のことなのですが、今までの大学評価はこの本質で議論される
ことが少なかったように思われます。ともすると、大学の評価は、入試の偏差値
であったり、卒業後の就職状況でなされていました。しかし、社会構造の変化等
により、卒業生個人の能力が評価される時代となってきた現在、その大学でどの
ように成長できるのかが問われ、その本質であるところのカリキュラムが評価さ
れることとなります。
カリキュラムの改訂と同時に、教育方法についても研究、開発をすることが重
要です。立派なカリキュラムがあっても、教育の方法がマッチしていなければそ
の効果を充分に挙げる事は難しいでしょう。したがって、教授陣の教育方法の研
究、開発についても同時に進行することが必要となってきます。
また、卒業生個人の能力や質が問われるわけですので、今後は卒業の審査につ
いても厳しくしていくことが社会から求められることとなります。しかし、多様
な学生、様様な学習歴を持った学生が入学してくるわけですからその成績評価に
ついても今後は議論されることとなります。
既存の学部、学科の教育改革は、これまで長く続けられてきた教育課程、教員
組織、教育方法等の改革を伴うことから、その改革には、種々の難しい問題が介
在し、困難も伴うことも事実です。しかし、これからの時代の大学としての社会
的責任を果たしていくためにも、また、競争に打ち勝って評価される大学として
存続するためにも、最大限の努力をして、教育改革を推進することが必要である
と認識をしています。
おわりに
長々と、文章を抜粋したり、私見についてもお解りにくい文章だと思います。
学校の常識は世間の非常識と昔から言われてきました。しかし、これがまかり通
らない時代になってきました。16年前に大学に勤め始めたときに「学校経営」
ということばを使った私に、ある教授が「学校は経営ではない、運営と言うん
だ」といわれたことがありました。いまではごく当たり前に学校経営という言葉
が通用するようになりました。
今後も、世間の常識に近づくべく努力をしてまいりたいと思います。
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リレー・メッセージ 第22回 2000.07.15
今月のご寄稿は、木村(高岸)朋子さん 平4文卒にお願い致しました。
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インターネット三田会会員の皆さま、はじめまして。平成4年文学部文学科英
米文学専攻卒の木村(高岸)朋子と申します。
皆さまは、「故郷」と言われたら、まずどこを思い浮かべますか?
「故郷」を、辞書で調べてみました。(大辞林 第二版)
・ふるさと 【故郷・古里・故里】
(1)生まれ育った土地。故郷(こきよう)。「—の山川」「第二の—」
(2)(比喩的に)精神的なよりどころ。「心の—」
(以下略)
父が転勤族で、幼稚園から中学校まで卒業アルバムを2冊ずつ持つ私には、
(1)の意味での「故郷」がありません。どこの土地、どこの学校でも、根無し
草のような頼りなさを感じていました。高校に至って、やっと入学したところを
卒業することができましたが、東京の区立中学から神奈川の県立高校に入ったた
めか、今一つ溶け込みきれなかったというのが正直なところです。そんな私が、
ついに(2)の意味での「故郷」にたどり着いたのが、慶應義塾大学に入学した
時でした。
あまりの居心地のよさに、ついに就職先にまで慶應義塾を選び、職員となって現
在に至ります。
慶應義塾には、大きく分けて4種類の人間がいます。学生と塾員と教員と職員
です。この中で、学生や塾員の方々にとって、よく分からない存在が職員ではな
いかと思います。学生の方々にとって身近なのは、学事センター(旧教務部)や
学生総合センター(旧学生部、就職部)に働く職員でしょう。また、塾員の方々
にとって身近なのは、渉外・塾員担当(旧塾員課)がある渉外室かと思います。
普通の会社のように、人事部もあれば経理部もあります。私は、この3月まで、
「業務改革推進室」という部署に所属していました(現在は組織変更により、人
事部情報環境担当になっています)。
「業務改革推進室」とは、その名の通り、業務改革を推進する部署でした。
新卒職員募集に際し、人事部がWebページに公開している挨拶から引用します。
http://www.jinji.keio.ac.jp/saiyo/aisatsu.html
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慶應義塾ではいま、より付加価値の高い学生・教育へのサービスを目的とした、
業務改革が推進されています。これは、従来の事務システムを見直し、徹底し
た事務の効率化、最適化を成し遂げようとする意志の表われです。140年余の
歴史という財産を継承しながら、他方では不要な形式や不合理な方法を思いき
って改めていく。
この動きは、事務組織の再編成であり、学校経営に多大なメリットをもたらす
ことになるでしょう。また、これにより職員が事をしやすい環境を作り出し、
職員自身の自己実現をも同時に達成していこうというねらいもあります。
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この3月まで足かけ4年に渡って慶應義塾の職員部門で推進されてきました
「業務改革プロジェクト」について、少し述べたいと思います。皆さまの職員
理解の一助になれば幸いです。
このプロジェクトの中で、大きな位置を占めたのが、業務ネットワークの整備
とそれにともなう新しい文化・習慣の成立・醸成でした。現在、慶應義塾で働く
私たち職員の机上には、ほぼ1人1台のパソコンが置かれ、日常の連絡や情報提
供においては、当たり前のように電子メールが飛び交い、「インフォメーション」
と呼ばれる電子掲示板上では、各キャンパスのさまざまな業務連絡が掲載されて
います。
わずか3年間で、義塾の事務部門ではネットワークに繋がったパソコンを利用し
て日々の仕事をし、ネットワーク上で情報を共有し、そしてそれぞれが情報を発
信していく光景が「日常」になっていました。
振り返ってみれば、業務改革が始まる前の今から5−6年前の義塾の各職場に
は大型計算機の端末としてのデスクトップパソコン(もちろんWindowsマシンで
はありませんでした)が数台ずつ置かれ、文書作成はワープロ専用機とパソコン
上のワープロソフトが混在して文書の交換もままならない状態でした。また一部
のパソコンユーザーが、表計算やデータベースソフトで自己開発のシステムで個々
に処理をするという状況で、データの連携などはまったくありませんでした。
電子メールに至っては、ほんの一部の人が学生と一緒に計算センターのアカウント
を使っていただけです。塾内の情報伝達は紙を主とし、電話や会議などを介して、
徐々に、時には期限遅れで全塾に伝わっていく形でした。
業務改革推進室の発足から約1年間の準備検討期間を経て、1997年3月に全キ
ャンパスの事務系を結んだ業務ネットワークが敷設されました。当初は全塾事務
室(約100)に各1台ずつの共用パソコン配備からスタートしましたが、翌年夏
までに5次にわたって増備を重ね、約1年で800台ものパソコンを設置し、ほぼ
1人1台の配備を完了したのです。これらの設置はすべて職員の手で行いました。
またネットワーク環境に慣れるためのパソコン研修も積極的に行い、紙の回覧や
部課長会議の結果を部課内で口頭で伝達する習慣は、徐々にネットワーク上に移
行し、情報伝達のスピード化と組織のフラット化が確実に進んでいます。
1998年3月には、若手職員数名が指名され、三田キャンパス内の様々な問題点
を探り、また広く意見を集めるための機能を検討すべく、三田キャンパス・ウォ
ッチャーズ(2000年より三田キャンパス・アメニティ・プロジェクト)が組織
されました。三田キャンパスの問題点を提示し、関連する部門に回答を求めると
いう活動を行っています。三田キャンパス・アメニティ・プロジェクトよりの提
言を受け、キャンパスに案内板を設置したり、滑りやすい外の階段の表面を削っ
て滑りにくくしたりという、目覚しい改善が行われました。1999年1月にはこれ
までの経過や成果を紹介するホームページを職員に公開し、同時にWebを活用し
た「意見収集と回答掲載(対象:職員に限定)」の新システムを始動させました。
1999年11月には『教員用要望カード』を研究室受付に設置し、職員以外からの
意見収集をスタートしています。
大型計算機上で稼動していた事務系の基幹システム(経理・管財、学生管理、
塾員管理)も、日本アイ・ビー・エムからの技術支援(一部請負)を受け、業務
改革推進室が中心となって新システム開発を行いました。現在はUNIX機上で稼動
しています(一部開発継続中)。2000年春学期には、すべての学部にWebによ
る履修申告システムが導入されました。学生は、申告期間中なら、いつでもどこ
からでも履修申告を行えるようになったのです。
業務改革プロジェクトにより、情報を活用するためのインフラ部分は、かなり
整備されました。新システムも、順調に稼動しつつあります。ただ、それを使う
のは人間だということを忘れてはいけないなと痛感しています。ネットワークを
より有効に利用し、業務機能を強化し、サービスを拡大していくことが実現され
なければ、せっかくのインフラも生きません。真価を問われるのは、まさにこれ
からだと思っています。
慶應義塾を「故郷」と思ってくださる塾員の方は、どのくらいいらっしゃるの
でしょう? ひとりでも多くの塾員の方にとって、慶應義塾がいつまでも懐かし
い「故郷」であり続けられるよう、職員としての誇りを持って、日々努力してい
きたいと思っています。「故郷」をよりよい所にするため、どうか皆さまのお知
恵をお貸しください。
私のもう一つの「故郷」は、「武蔵小山(東急目蒲線、目黒駅から2つ目)」
です。1995年9月にこの街に住み始めて以来、すっかり長いアーケードの商店
街「パルム」の抗しがたい魅力の虜です。昔ながらの下町の暖かさを保ちながら、
新参者も優しく迎えてくれるこの街で、やっと(1)の意味での故郷に出会えた
気がしています。「この街にずっと住みたい。どこに行っても、いつかここに帰
ってきたい」と強く思います。夫(高岸洋一・平成4年理工学部計測工学科卒)
とふたりで、「武蔵小山お店ガイド」
http://www.mita.keio.ac.jp/~kimutomo/koyamaj.html
というページを立ち上げておりますので、よろしかったらお立ち寄りください。
そして、ぜひ実際に武蔵小山に足をお運びください。その際には、私にもお声を
かけていただけますでしょうか。武蔵小山の居酒屋でご一緒にグラスを傾けつつ、
共通の故郷である慶應義塾のこと、皆さまそれぞれの故郷のことなどを語り合え
るとうれしいなと思います。
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「ハイジスキーアカデミー」長谷川 剛さん(昭和41年法学部法律学科卒)
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はじめまして。
私は昭和41年に卒業(法学部法律学科)、東京で8年間のサラリーマン生活後、
いわゆる脱サラをし、田舎(山形県上山市)に戻り、現在の蔵王山の国有林の中
腹に宿泊施設(ヒュッテハイジをつくり、ここを拠点に子どものためのスキース
クール及びサマースクールを開校しております。
おかげさまで今年で28年を迎えた「ハイジキッズスキーアカデミー」は多く
の方にご利用いただいてきました。現在当校は日本唯一の全日本スキー連盟公認
の子ども専門常設スキースクールであり、日本の子どもスキーの草分け的存在と
して認めて頂くようになりました。
その昔から、雪国に住む人々の狩猟や交通の手段として発達してきたスキーも、
時代の変遷とともに、レジャーやレクレーションとして、非常な人気を博してき
ました。
また、子どもからお年寄りにいたるまで誰もが、気軽に楽しめるスポーツでも
あることから、これからの高齢化に向けて、健康づくりに活用できる可能性も持
つスポーツとしてあらためて注目されています。
「あらゆるスポーツの中で、その王者の名に値するスポーツがあるとすれば、そ
れはスキーをおいてほにない。スキーほど筋肉を鍛え、身体をしなやかに、しか
も弾力的にし、注意力を高め、巧緻性を養い、意志力を強め、心気を爽快にする
スポーツはほかにない。」これは,今から90年前にグリーンランドをスキーで
横断したノルウエーの極地探検家ナンセンの紀行文の一部です。
このようにすぐれた生活用具や遊具でもある「スキー」を柱に、子どもたちを
対象に、 雪や自然の中で遊びながら、自然の美しさと厳しさを感じてほしい。
体を動かすことが楽しいことを感じてほしい。
集団生活を通して、自律心や協調性を身につけてほしい。
そんな願いをこめながら、私たちの教室は1973年にスタートしました。
冬休み、春休み期間に行われるスキーキャンプ「雪の教室」は、フランスの
都会の子どもたちが生活と勉強の場をそのまま、スキー場に移して行われてい
る「CLASSE DE NEIGE」(雪の学校)を参考に、雪国の生活の中で
体験しながら学べるよう、カリキュラムが組まれております。
また、地元の子どもたちを対象に平日、土曜日、日曜日を利用し、3ケ月にわ
たって、冬の自然の移り変わりをみながら、じっくりとスキーの上達を目指す
ウイ—クデー、ホリデーコースも開校しています。
いずれのコースもスキーを楽しみながら、自然な上達をめざすということを第
一義としています。技術的なことより、集団生活を通して協調性、思いやりの心
を育むことを大切にします。
私の掲げるスクールのモットーは"子どもたちが楽しく過ごすこと"です。
ワイワイおしゃべりしながらレッスンをする。ときには、好きなところを好きな
ように滑りなさい、というように、自然にスキーを好きになれるように配慮して
います。
また、毎晩レッスン後に行われるミーテイングでは、ゲームを通して年齢の違
う友達と親しみ、同じ部屋同士で協力して、スタンツ(一芸)を発表するなどの
練習を通して協調性も養うお手伝いができるかと思います。
このほか、小さなお子さま連れのファミリーのために、託児施設「キンダーラ
ンドハイジ」では、6ケ月〜5歳くらいまでを対象に、専任の保母が責任をもっ
てお預かりするサービスも行っています。
ここでスクールの位置する蔵王坊平高原についてご紹介させてください。
蔵王坊平高原は、蔵王温泉スキー場の南側に隣接している、蔵王国定公園のほぼ
中央、標高1000mに位置しております。子どもたちの自然へのファーストス
テップとしては、大変恵まれた自然環境にあります。
蔵王ライザスキーワールド、キャンプ場、ペンションビレッジなどの集団施設
ゾーン、広大な公園、運動施設などがバランスよく配置されており、子どもたち
が安全にのびのびと生活できる理想的な環境です。
この自然環境のなかで夏のスクールも、1976年よりスタートしました。
冬と同じく、夏もやはり"子どもたちが楽しく過ごすこと"を目標に、野外活動、
テニス、乗馬、水遊びなどを通して、自由に自然の中で過ごせる環境を用意し
ています。
強制されるのではなく、また特別なことをするのでもなく、自分の家や田舎で
過ごすように、山の四季の移り変わりを肌で感じながら過ごしてくれることが一
番の理想です。そのため、テニスや乗馬を楽しみながら、ハンドクラフトや野外
活動も、生徒の希望によって日程に組み込んだりすることもできます。
草の上をはだしで走ったり、虫を追いかけて、大地に大の字になって、都会と違
う真っ青な空を見つめることもできます。
やりたいことを自分で選択しながら過ごすことができるよう、スタッフがお手伝
いします。スタッフは幼稚園等の教員経験者、保母資格保持者あるいは教育学部
の学生が多くを占めています。
親元を離れ、ふだん一緒の学校のお友達とも離れ、初めて出会う友達といつも
と違う環境の中で、さまざまな体験をすることによって、子どもの自主性、積極
性が生まれます。
日常から離れたところで、子どもだけの時間を持つことによって、結果的に家族
との時間の貴重さ、を知ることになると思います。
この30年間、子どもたちを見続けてきて、体力の低下が非常に目に付きます。
小子化で、近所の年齢の違う子どもたちと外遊びがしにくかったり、周囲の環境
から、体を動かして遊ぶことが難しいなどの原因があげられるかと思います。
年齢の違う子ども同士で思いっきり体を動かして遊び、時にはけんかをしながら、
関わりあうことが思いやりの心や、感受性を育て、心を豊かにしていく大事な要
素なのではないでしょうか。
最近の犯罪の低年齢化、凶悪化は目を覆うばかりですが、子どもの心を豊かに
する「何か」に、私たちの教室がお役にたてればと考えております。
最近では、雪国の学校でもスキーの授業が減りつつあるのが現状です。私たち
はこの時期こそ、子どもたちの人間形成に、積極的に「スキー」を活用すべきだ
と痛感しております。子どもの心を豊かにできる、一つの選択肢として、
「スキー」や「野外活動」を通じての教育的価値をもう一度見直していただけれ
ば幸いです。
★ ホームページ・アドレス http://www.heidi.co.jp/
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「早慶戦観戦記」 宇賀神 宰司さん(平成5年商学部卒)日経BP社在籍
(うがじん・さいじ)
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タイトル
慶早戦観戦記:学生席には学生証が必要!
本文
卒業して7年以上になる(まだ7年ですが…)。学生時分は春秋と熱心に神宮に
足を運んだものだが、最近は戦績すら感心を持たないありさま。そんなとき、ひ
ょんなことからスウェーデンの女の子を慶早戦に案内することになった。
慶早戦で思い出すのは、なんといってもチケット取りに席取りだ。大人数を抱
えるテニスサークルの幹事だった私は、応援指導部、体育会、塾高出身者などあ
らゆるツテを頼りに学生席のチケット集めに奔走した。
次は席取り。試合前日から男子学生は泊まり込みで行列を作るが、すっかり大
宴会と化す。試合中には最上段につぶれている学生が横たわっている状態だった。
そんなすさまじい争奪戦をいまさらやれるわけはないのだが、とにかく学生席
で観たい!!! なんとかならないものか?
5月28日、第2戦が開催された。私は試合開始の2時間前の11時に球場に向かっ
た。きっと、大量に買いすぎた学生がチケットをもてあましている頃ではないか
と思ったからだ。しかし、今シーズン慶應は5位に低迷。相手の早稲田も前日の試
合で優勝を逃している。午前中は小雨のち曇り。という状況からか、学生席は窓口
で販売していた。しかも内野席をだ。
いささか肩透かしに合いつつ「2枚ください」というと、「学生証をお願いしま
す」と切り返された。それがないと販売できないという。「そんなあ〜、私はOB
ですよ。なんとかならないんですか?」。学生席は当然学生のもの。自分が学生だ
ったら、そう思うだろうが、今となっては理不尽に感じる。「それなら誰か学生に
買ってもらうよう頼んでもらえませんか?」と販売員の女子学生。ああ、そんな簡
単なことでいいのか。
ふと、あたりを見回すと学らんを着た学生がいる。「すみません、OBなんです
が学生席のチケットを買いたいのですよ。販売員が代わりに買ってもらえというの
で協力してもらえませんか?」「ああ、それなら我々のチケットをお譲りしますよ」。
彼は主催者らしく何枚かのチケットから2枚を売ってくれた。「これ、席はどこに
なるのですか? 私が学生のころは整理番号がありましたけれど…」「今日はどこ
か空いていると思いますよ。もしなければ『全慶連』の席がありますから、そこに
座ってください」「全慶連の席っ! 前の方にあるいい席ですよね?」「その通り
です。応援よろしくお願いします」
というわけで、今までの人生の中で一番いい席で見られることになった。超ラッ
キーだ! 次回以降もこの方法が使えるとは思えないが、なんとかなるものだ。
試合の方は理想的な慶応ペースの試合。早い回に先行し、その後も着実に得点を
重ねる。最終的に5対2で勝利! 早稲田も点を入れ、ひやひやする場面もあり、
盛り上がりに盛り上がった。相変わらずの「突撃のテーマ」や「若き血」に加えさ
まざまな新バージョンの応援があった。雰囲気は学生の頃と変わらず楽しかった。
さすがにもはや「学生に戻った気がした」ということはなかったが、思わず一生懸
命応援した。案内した手前もあり、やはり勝ったのはなんとも気分がいいものだ。
しかし、気になったのは学生の頃に比べて、援団の声が響かなかったことだ。
例えばエール交換の時、相手の早稲田の声は球場中に響いたものだが、今回はあま
り聞こえなかった。原因は風向きか、マイクのボリュームを下げているのか?
恐らく後者ではないかと思う。近年、近所住民の苦情が多いらしく、私が学生の時
分には徹夜の席取が禁止されたこともある。なんとかうまく共存して欲しいものだ。
さて、今回の観戦の特記事項は、スウェーデンの女の子を案内したことである。
ほとんどのヨーロッパ人がそうであるように、彼女も野球を知らない。当然、私は
ルールを説明しなければいけない。
予想通り、これは困難を極めた。サッカーなら「手を使わずボールを操り、ゴー
ルと呼ぶ枠にボールを入れると点が入る」というだけ。ラクビーなら「相手の陣地
を越え、ボールを置けば点が入る。前に投げたら反則」という具合におおまかに説
明ができる。しかし、野球とはなんと難しいスポーツなのだろうか!
私の説明方法は以下の通り、
・9人対9人で争い点数が多いほうが勝ち。
・ディフェンスとオフェンスに分かれ、アウト3回で交代。それを9回繰り返す。
・アウトの説明:ピッチャーが投げたボールをバッターが打ち野手がダイレクト
に取ったら即アウト。ダイレクトでない場合、バッターは一塁、二塁、三塁そして
ホームへ順に走る。それぞれの塁に至る前に、野手にボールが来るか、タッチした
らアウト。塁上は安全地帯。ほかに三振したらアウト。
・三振の説明:ストライクゾーン(図で示した)ならストライク。ほかはボール。
振ったらストライク。前に飛ばなかったらファールでストライク。ストライク3つ
で三振アウト。ボール4つで一塁に行ける。
・以上のようにして、ランナーがホームに帰ってきたら1点。柵超えしたらホー
ムランで歩いてホームに帰ってこれる。
とりあえず、これだけ事前に説明してゲームに臨んだ。2ストライクからのファ
ールはカウントされないとか、必然的に塁に行く場合はタッチが必要ないとか、細
かい話は抜き。しかし質問はいろいろされる「今、何が起きたの?」「ランナーが
2塁と1塁と両方でアウトになったんだ」。「なんで三振したのにバッターは走るの」
「ええっと、振り逃げというのは…」。「なんで今ピッチャーはこっちに向かって
(三塁に)ボールを投げたの」「ランナーは走る準備をしていて、ピッチャーはそ
れをけん制するために…、ううむ…」。結局、なんだか分からないうちに慶応が勝
ってしまったようだ。
それと面白かったのは、応援の説明だ。彼女とは英語で会話するが、日本語に興
味があり聞こえた単語の意味を知りたがる。「かっせかっせ」「かっとばせ〜」
「ぶっとばせ」「塾生注目!」「なんだ〜!」などなど。これらを「It means
"hit!".」という具合に説明する。しかし「おーりゃ」とか「よーポン」というのは
一体全体なんなんだろうか? 改めて野球の応援、特に慶早戦には、いわゆる専門
用語がたくさんあるという印象だ。
きっと留学生の多い慶応のこと。野球のルール、慶早戦について、応援について、
英語でまとめられた冊子などがあるに違いない。どなたか所在をご存知でしょうか?
次回はぜひこれをゲットしてから行きたいもの。またOBらしいスマートなチケット
の購入術はあるのでしょうか? OBはやはり一般席でおとなしく見るべきなのでし
ょうか?
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最後に宣伝を1つ。私は現在、日経BP社で「日経WinPC」というヘビーユーザー
向けのパソコン雑誌を編集しています。全国書店には発売しておりますので、ぜひ
ご一読ください。「なんだか難しいなあ〜」という向きには「日経クリック」
「日経PCビギナーズ21」など初心者向けもあります。
ホームページはhttp://www.nikkeibp.co.jp/です。
ぜひこちらもご覧ください。
おわり
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リレー・メッセージ 第20回 2000.05.15
今月は、神山和郎さん(昭和52年法学部法律学科卒)にご寄稿を頂きました。
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「沖縄ロッカーたちの思い出」
今からもう15年以上前のことになる。
当時私は楽器メーカーの大阪支店で営業の仕事をしていた(今も同じ会社にいる
が)。沖縄県も営業エリアとして担当することになり、それで、毎月2回は沖縄
を訪問することになった。
沖縄は九州支店のほうが便利で近いような気もするが、荷物の配送便(ずっと昔
は船が主流だった)は大阪からのほうがずっと多く、ビジネス的には大阪のほう
が身近である、従って戦後はずっと大阪支店が担当していた、という説明を聞い
たことがある。
沖縄か本土に返還されたのはもう少し前のことである。
既に那覇市には基地がなく、自動車も左側通行になっていたが、それでもコザ
(今の沖縄市)までいくと大勢のアメリカ人(ほとんどは兵士)がいる。
沖縄といえば独特の音階を持った沖縄民謡が有名だが、その頃より少し前に、
沖縄ではロックムーブメントが起こり、多くのロックバンドが形成されてきて
いた。
紫、マリーWithメデユーサ、そしてCondition−Green(コンデイション・
グリーン)という、3つの有名なバンドがあって、地元では大変な人気を博し、
さらに本土上陸公演(という言葉は適切なのか)も果たしたグループもいたの
である。
私が訪問した頃にはその熱気は既に下火となり、紫も解散して伝説化してい
た。ある日、取引先の楽器店のFさんから、あるロックバンドの話を聞かされた。
「ウチが付き合ってるバンドと一回会ってみる? 昔活躍したバンドで、みんな
少し年はとったけど今もライブハウスを経営しながらステージで頑張ってるよ。
結構えぐいステージをするよ。」
当時若かった私は、正直言って年取ったロックバンドにはあまり興味はなかっ
た。もともと私はロックよりもJAZZマニアであったのだが、楽器メーカーでは
当時ポピュラー系の楽器の営業を担当しており、ロックやポピュラーのミュージ
シャンと接触することも多く、出張で沖縄に行く以上、仕事に関連する人たちと
コネクションを取るべきことは当然のように考えていた。
「はあそうですか・・・」
えぐい、という事がどんなことなのかわからなかったが、なんとなく気が進まな
いまま、夜になって、そのコザの楽器店の近くの、大通りに面したビルの地下に
ある、薄暗いライブハウスに連れて行かれた。(ライブハウスは大体が薄暗いも
のだけど・・・)
店は結構広く、100平方メートルは軽くあったか。ステージ(といってもほと
んど客席と同じ高さ)に向かってソファーのような長いすとテーブルが並んでい
るが、そのほとんどが破れたり、バネが飛び出したりしている。そして店内のデ
コレーションも化け物の人形があったり、手やコウモリ(もちろん作り物)が天
井からぶら下がっていたり、と、遊園地のお化け屋敷の入り口を髣髴させるよう
な、怪しげな雰囲気である。
入ってみて驚いたのは、客が20人ほど座っていたが、全員アメリカ兵なのであ
る。まだ演奏は始まっておらず、190cm位はありそうな白人や黒人が、ジーンズ
にTシャツで、いすに座って騒いでいる。日本人はどこにも見当たらない。われわ
れだけだ。
これは、考えようによっては、大変物騒なところなのだろう。
しかしFさんは平気で中にずんずんと入っていく。ステージ近くのいすにすわると
、カウンターの奥のスタッフと手で挨拶している。何人かいる男のスタッフはみん
なドリンクを作ったり、料理をしたり運んだりと忙しそうである。
やがてブザーが鳴ってステージが始まる時間になると、さっきまでドリンクを
テーブルに運んでいた人たちが楽器を持って登場した。
なるほど、自分たちで店を運営しながら演奏をしているわけか。と納得する間に
1曲目が始まった。
腰を抜かしそうになった。テクニック自体は最高にうまいというわけではない。
しかし何だろう、パワーだろうか、うちに秘めるソウルがさせるのか。とにかく、
本土では聞いたことがないような迫力をいきなり思い知らされたのである。
そのバンドがあの「Condition−Green」であった。少し前には紫と並んだ地元
の大人気バンドだったのだが、時代は若いバンドに移り、今では米兵が主な客筋に
なっているという。
しかしながら、彼らのバンドの見せ場は他にあった。それは、ステージでのパフ
ォーマンスである。ロックの演奏が終わると、勝ちゃんと呼ばれている大柄のリー
ダーがステージの一番前に腰掛けて、ポケットから歯ブラシと歯磨きをだし、いき
なり歯を磨き始めたのである。
顔中ひげ面で歯磨き粉を顔から床に垂らしながらクチャクチャと動かしている。
兵士たちは「Oh、No!」とか言いながら、しかし期待してきたこともあって、喜ん
でいる。
次に勝ちゃんは履いている大きなブーツを「やっこらせ」と片足脱ぐとその中の
臭いをかぎ、「ウッ」と顔をしかめた。そして次にビール瓶を持ってきてその中に
ビールを注ぎ、ゆらゆらと揺らしたあと、一番前に座っている兵士たちに、こっち
に来い、このビールを飲めという。
兵士たちは「おまえ行け」と譲り合ってはいたが、結局、かなり酔っていそうな
白人がステージに出てきて、足臭と歯磨き粉が入り混じったその飲み物を飲み干し
たのである。
その次には別のメンバーがバケツを持ち出した。そして中に手を入れては何かを
取り出して客席にピッ、ピッと投げている。何かと思って、飛んできたものをよく
見ると、ヤモリであった。ヤモリがテーブルの上の料理の皿の上に張りついている
。
もう他の兵隊たちは大騒ぎで、店中が興奮状態である。
あとでFさんに聞くと、あんなのは昔に比べると何てことはないらしい。
かつてはステージで大蛇を首に巻いたり、ニワトリの首をステージで切って走らせ
たりと、狂気の沙汰で、さすがにその筋から注意があったという。
しかしながら、前述したように、音楽自体は大変スリリングで凄まじいパワーで
ある。すっかり Condition−Green のファンになってしまった。もちろんあの
店の独特の雰囲気、熱気もあるのだろうが、大阪や神戸や東京では体験できない音
楽である。
それからは、出張のたびにこの店を訪れることになった。
いつもステージが終わってから、彼らは店を閉めて食事に出かけるのだが、「一緒
に行きませんか?」としばしば同行を誘われた。焼肉屋が多かったように思う。ス
テージで消耗しきっていたのだろう、彼らの食欲もきわめて旺盛であった。そして
必ず彼らがご馳走してくれた。
彼らは共同生活をしており、昼間は島の北部の方で、ダイビングをしながら漁を
していると言う。そのライセンスカードも見せてくれた。またリーダーの勝ちゃん
の奥さんは金髪のアメリカ人である。一緒に店を切り盛りしている。
当時、私の会社では、影響力のありそうな、ミュージシャンには楽器をプレゼン
トし、ステージで使ってもらうこともしばしばだったが、このバンドのために本社
を説得して、楽器を持ち込んだ。エレキギター、エレキベース、そして当時発売し
たばかりの超小型シンセサイザー(電子楽器の一種)まで持っていったのだが、彼
らも大喜びで楽器を手にし、ステージの上でも使ってくれていた。
ある日「こんな楽器はもらえないか」と言われたのが大変高い楽器で、全国的に
活躍していない彼らに提供することはできない。さすがに断ると、そのギタリスト
はふん、と鼻先で笑って、「なんだあんた、権力ないんだね」と言う。
瞬間に私は不愉快になった。当時私は28才、会社ではかなり若い方に入る。そん
なに簡単に高い商品を人に上げる力があるはずがない。権力がないのは当たり前で
ある。私も若かったので、ムッとして、「うん、もっと有名な人なら別だけどね」
と返した。
リーダーの勝ちゃんはさすがに気配を察したのか、さっと話題を変えて、
「神山さん、こんなの要りません?」と言って大きな貝殻をくれた。
それは直径20cmはあろうかという巻貝で、名前はわからなかったが、土産物屋で
売っているようにつるつるに磨き上げたものではなく、中身を取り払ったままの、
ザラザラ、トゲトゲしたものである。彼らがダイビングをしてとってきたものだ
と言う。
「この位のものはいつもとれるさ」沖縄の人は、内地の人間にわかりやすい言葉を
使うときは、決まって「・・・さ」という語尾を多用する。そのときもそうだった
。
私は彼らに頼んで、その貝にメンバー全員のサインをしてもらった。これでその場
の険悪な雰囲気はどこかへ吹き飛んだ。この貝はその後ずっとわが家のリビングの
一番良い場所を占めることになる。
あるとき彼らに、「Condition−Greenというグループ名の由来は何?」と聞い
たことがある。瞬間彼らの言葉が途切れた後、一人がポツリと答えた。
「なに、そのうちわかるさ。」
後で知ったのであるが、かつてコザで米軍に対する住民の暴動が起きたとき、米
軍は兵士に対して基地から出ないように、またいつでも出動できるような態勢をと
るような指示を出していたらしい。そのときの指示の名称が「Condition−Green」
だったと言うわけだ。それなら Condition−Red とか、Condition− Yellow
もあるのかもしれないが。
沖縄県の営業を担当しながら、こんなことも知らない自分を恥じた。
その後私も大阪支店から異動になって、沖縄に行くこともなくなり、はや15年が
経った。Condition−Greenの経営するライブハウスは、改装して大きくなった後、
米軍兵士もあまり来なくなり、今ではなくなってしまったと聞く。客筋のほとんど
を米軍兵士に頼るというビジネスは、兵士たちのふところを直撃する円高がもろに
跳ね返ってくるのだろう。
Condition−Greenのメンバーをその後テレビの取材番組で一度だけ見たことが
ある。純粋の現地の人だと思っていた人が実はアメリカ兵とのハーフだったり、親
に捨てられたり、潜りで仮死状態になったりと、みんなそれなりの人生を背負って
歩んできたようだ。
ステージだけ見ると常軌を逸したとんでもなく滅茶苦茶なやつら、ステージ後の
食事中は大変お人好し、そして実際はいろいろな苦悩も背負っている人たち、とて
つもなくいい人たち、であった、と思う。あれ以降、もうあんな激しい、心の琴線
に触れるようなロックを聞くこともなくなってしまったような気がする。
沖縄には何かがある、と本当にそう思う。
「紫」は少し前に再結成したことがある。メンバーの人たちがライブハウスを新し
くオープンしたという話も聞く。
「マリーWithメデユーサ」は時々テレビで取り上げられ、バンドも続けているらし
い。
Condition−Greenはあれからどうしているのだろうか。沖縄のどこかでギターを
弾いたり、海に潜って魚や貝を取ったりという生活を相変わらず続けているのかも
しれない。
またいつかどこかで会いたいと真剣にそう思う。
どなたか消息を知っている方がいれば教えてほしい。
終
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今月は、原田典昭さん(昭和47年法学部法律学科卒)にご寄稿を頂きました。
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「アコーディオンのこと」
塾の皆さんこんにちは。いま、33年前の日吉の第三校舎の風景を思い出して
います。
1Fと2Fが学生団体ルームになっていて、ずらりと部屋が並んだその2階は、
ドアといわず、壁といわず、張り紙だらけでした。
「ダンスパーティ案内」、「○○発表会」だとか、華やかだった学生運動のビラ
ももちろんありました。それはとても活力に満ち溢れていました。クラシカルギ
タークラブに所属していた私ですが、5年まえから アコーディオンにオルグされ、
気分は 日吉 です。
アコーディオンは鋼鉄のリードをジャバラが作る空気の圧力で震わせて奏でる
楽器です。最近では小林靖弘や 亡くなったアストル・ピアソラによってアコーデ
イオンや、その親戚のバンドネオンがマイナーから、メイジャーへとその知名度
をあげてきています。
一体アコーディオンの何が面白いのか?について
(1)アコースチックな音 そのもの
ハートにひびく音。電子音楽の世界とは次元の異なる質の文化です。
(2)体の動きが そのまま音になる
右手は鍵盤でメロディー。左手は低音部のメロディとリズム。そして肝心な
ジャバラの開閉。
気持ちの高揚があればジャバラを強く動かし、心 おだやかなれば優しく動か
す。
ピアノと異なって、ジャバラが動く限り 音は伸びていきますから、ピアノと
は異なった表現ができるのです。
(3)ハンディである
重いものでも11kg。軽いものは7kg。気の向く場所に持っていけます。
電源は不要。
(4)運動になる
ジャバラの開閉をしながら演奏(練習)するだけでなく、両手、両腕、さら
に10本の指、 指先をすべて使います。アルツハイマーなどの予防に指の運
動が効果的とありましたから、きっと老化防止 、若返りになるかもしれませ
ん。
(5)和音、楽曲の勉強
左にあるボタン(ベースボタン)は、音楽で云う主要三和音がずらりと並ん
でいます。
基本的にはバッハも、演歌も、タンゴも、ミュゼットもポルカも、全て この
3つ並んだボタンを押すだけで 低音部の演奏(いわゆる伴奏)ができます。
このことは、自分で作曲したりするとき、きわめて便利な機能です。あの亡
きブレスリーも若いときはアコーディオンを習っていたのです。
(6)人と人をつなぐ
−−−「何よりも蛇腹の開け閉めによって生まれる音の息遣いが、さまざ
まな人の息のように 共鳴する。教会で祈っている人、靴を作りつづけてい
る人、大道芸人、夜の通路に立つ女たちのさまざまな声が風で混ぜ合わさ
れて一つになっているような音」−−−−(梅津時比古)
この文章はアコーデイオンの名手の一人であるシュテファン・フッソングの東
京公演時に書かれた新聞記事の一部です。実際、過去数回、ヨーロッパの街で、
私も同じ感覚を得ました。
東京を、日本の街をもっと生き生きとさせたい。
私は、近い将来 ストリート・パフォーマンスをやってみようと考えています。
それは道行く人の顔が、へたな演奏ででも すこしでもにこやかになることが
出来れば、と思うからで、そのきっかけをつくることに興味があるのです。
日吉から33年たって いまだに成長していないのかも知れません。
もし、街であったら声をかけあいましょう。
原田典昭 (S47.法律卒) メール LEJ00523@nifty.ne.jp
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今月は、岡山佳文さん(昭和63年商学部卒)にご寄稿を頂きました。
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「地方公務員の仕事と鳥取県での生活」
昭和63年に商学部を卒業してから12年。鳥取県に帰ってきて10年。月日が
めぐるのは早いものです。私は、鳥取県庁に勤務している地方公務員です。
地方公務員の仕事や鳥取県での生活について、会員の皆様にお話したいと思います。
卒業してから2年間勤めていた民間企業を離れて、私は平成2年に鳥取県庁の職
員となりました。その前年の夏に採用試験を受けましたが、当時はバブル絶頂期で、
公務員人気が低かったことに加えて、退職者が多く補充がたくさん必要な時期でし
たから、かつてない低い倍率でした。だからこそ、私の同期には、農学部なのに農
林技師ではなく行政職を受けて受かった人がいたり、いろいろな業界からの転職者
がいたり、面白い経歴の人がたくさんいます。そんな大勢の同期とともに、私の地
方公務員としての10年間が始まったわけです。
それからの10年間は、ご承知のとおり、めまぐるしい10年間でした。バブル
が崩壊し、大学生の就職活動も当時とは様変わりになりました。そして、公務員人
気は絶好調。ついでに、公務員批判も花盛りです。国民や県民の税金で給料が賄わ
れているので、確かに、公務員は常に監視され批判に晒されるべき立場といえるの
ですが、マスコミの論調などを見ていると、何だか、社会的なストレスのスケープ
ゴートになっているような気がしてなりません。
会社勤めをしていたころ、平成元年のゼミのOB会で、同期生に来年から公務員
になることを告げると、「もう、民間には転職できないね」といわれました。公務
員の仕事は、「お役所しごと」と揶揄されるように、コストパフォーマンスを考え
ない独占的な殿様商売と思われているふしがあります。公務員のやり方では、民間
では通用しないと考えられているふしがあります。
しかしながら、これから急速に進むであろう地方分権を視野に入れるとき、「地
方」公務員は、これまでのそんな公務員のイメージと決別し、戦略的思考をもって、
地域づくりに邁進する必要があると考えます。それは、地域が住民に選ばれる時代
が到来し、地域間の競争が激化するからです。近い将来、もしかしたら、都道府県
の数が淘汰され減っているかもしれない。そんなことが現実に起こり得る時代にな
ってくると思うからです。
民間企業から地方公務員になって、はじめに感じたのは、職場で使用する紙の量
の多さと押印する書類の多さでした。許認可手続きのために申請者に提出していた
だく書類などそのときどきに外部とやり取りする資料、県議会議事録や国からの通
達など過去に遡って保管されている資料のほか、部課単位で情報を共有するための
報告書や事務決裁のための稟議書といった内部でやり取りする資料など、いろいろ
な書類があります。
職員ひとりひとりが職務を分掌しているのですが、公的な意思決定や外部への報
告等を行うに当たっては、原則として、部長あるいは課長の名で公文書を作成しま
す。よって、担当者は文書として原案を作成し、すべての関係者がその起案文書に
いちいち押印して内容の確認をおこなったうえで、決裁権者の部長や課長が意思決
定を行うのが通例です。
通常、関連する資料を添付するなどして、その書類一式を読めば内容がわかるよ
うにしますから、このこともまた書類を多くしている原因のひとつです。しかしな
がら、書類の作成とその供覧は、特定の職員の偏った判断によって公的な意思決定
の公正中立が侵されないためのシステムとして機能していると思いますし、意思決
定の経過を公文書として残しておいて、行政サービスの消費者としての県民に公開
できるようにしておくためには必要なことです。このことは、極端な見方をすれば、
個人は信用されていないということになるのかもしれません。また、公的