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戦後の再検討  日本は無条件降伏はしていない

故江藤 淳さん(昭32文)
江藤さんの著作「忘れたこと 忘れさせられたこと」(文春文庫)175〜203ページに、
江藤さんの三田演説館での講演(昭和53年10月26日)の加筆記録があります。 
塾員として塾員に語りかけた、江藤さんの言葉を追悼の念と共にお伝えします。


 私は、実は慶應義塾に在学中に演説館に足を踏み入れたことはありません。覗いたことはあ
りますが、文字どおりの覗き見で、福沢先生の着流しの、あの気概に満ちた肖像が、ガランと
した館内を見下ろしているのをしばらく仰いでいたことがあります。この肖像は、私が福沢先
生を考えるとき、いつも真っ先に浮かんで来ます。慶應義塾というとお会いしたことのない福
沢先生のことを思うのですが、福沢先生というとこの肖像が私の脳裏に浮かんでくる。そして
大変に勇気づけられるのです。やはりこれは、ぬくぬくと名声に安住している人の顔ではない。
福沢先生という方は、文章を読んでも講話筆記をを読んでも大変に明るい方のようであります
が、しかし大変激しい方でもあったに違いない。「学問のすすめ」を書かれるときも、楠公権
助論で世間を騒がせたことがある。つまり自分の主張を明晰に述べようとするあまり、時代の
風潮、一時代のコンヴェンショナルな考え方に痛撃を加えるのを、少しもためらわなかった方
です。従って敵も多かった。私ども慶應義塾の人間は、福沢先生を仰ぎ見ておりますから、何
よりも先に身内の親しさを感じるのですが、今日に至るまで福沢諭吉という人物を見る日本人
一般の目は、必ずしも塾員の見る目と同じではない。このことは、諸君がこれから社会へ出て
いかれる上で知っておいた方がいいことだろうと思います。慶應義塾は光栄ある少数派の学校
であると私は言ったことがあります。光栄ある少数派とは、日本で一番先に近代精神の息吹に
触れた人々の学校、という意味です。私どもは時代から取り残されているから少数派なのでは
なくて、常に一歩先んじているから少数なのである。私がそのように思って生きてまいりまし
たし、これからも生きていくつもりでおります。願わくば諸君もそのように思い、そのように
生きていかれることを期待したいと思います。

 実事求是の精神

 福沢先生は「スピーチ」を「演説」と訳されました。演説を広めるためには演説する場所を
つくらなければならないというので、この演説館をつくられた。つくっただけではなくて、そ
こで実際に演説会を始められた。ただ言っているだけではなくて何でも実践しなければいけな
いというのは、最近中国でもそのことに気がついたと見えて、ト小平はご承知の通り「実事求
是」とということを言っております。実践によって検証しなければ、いかなるイデオロギーと
いえども先験的に真理だとは言えない。マルクス・レーニン主義も毛沢東主義も、実践によっ
て検証されなければア・ブリオリに真ではないと、ト小平は今年の6月に全軍政治工作会議と
いうところで言明しております。これは注目すべき指摘でありまして、極端なことを言えば「
実事求是」の結果、中国共産党は共産主義政党ではなくなってしまうかも知れないとさえ考え
られている。福沢先生がこのこと聞かれたら、泉下でにやにやしておられるかもしれません。
やっと中国人もわかってくれるようになったか、ト小平を慶應義塾の名誉塾員にしてもいいの
じゃないか。(笑)などと思っておられるかもしれません。それにつけても、いいろいろな意
味で時代は変わり始めていると思わざるを得ないのです。

 さて、きょうの演題は「戦後の再検討」という多少プロヴォカティヴな題です。しかし私自
身は少しもプロヴォカティヴだとは思っていません。戦後の再検討を試みることは福沢精神に
照らしても、ト小平の「実事求是」の精神に照らしても正しいことである、何ら不思議はない
と思っている。ただ世の中にはそうは思わない人々も少なくないようです。中国なら号令一下、
毛沢東思想から「実事求是」に転換するでしょうが、わが国では言論の自由が保障されていま
すが、再検討されると都合の悪い人がたくさんおりまして、いろいろと騒ぎ立てる。騒ぐのは
勝手ですが、騒ごうが騒ぐまいが冷静に、事実に即して戦後という時代を再検討してみなけれ
ばならないのではないだろうかと、私は考えたのです。なぜそういうことを思い立ったかとい
いますと、私が文学者だからと申し上げるほかありません。つまり、私は文章を正確に読み取
り、できるだけ正確な文章を書くことを務めとしているものです。私はいまもある大学に勤務
しておりますが、塾を出てから13年間は全く一介の素浪人でした。ものを書いて生計を立て
て来たのです。ものを書いて生計を立てるということはどういうことかというと、他人の書い
たものをなるべく正確にくみ取って、自分の考えをなるべく正確に表現し、それを原稿料や印
税に換えて生活をする、という意味です。従って物事には、正確さが必要だと考えております。
曖昧なことと、判らないこととは別です。わからないこと、いわく言い難いことは、もちろん
存在します。言葉によるよりはむしろ、沈黙をもってするほか表現し得ないことがあるのを、
否定しようとは思いません。そのことを十二分に認識した上で、そしてその重みに対する畏れ
を抱きつつ、表現し得ることはできるだけ正確に表現する。そして表現されているものからは、
できるだけ正確にその意味をくみ取ろうとつとめて来た。そういう心構えである文章を読んで
みたところが、そこには世上流布されている通念と全く矛盾することが記されていたのです。

 その文章は何かというと、それは戦後の私どものあり方の根底を決めた国際的な宣言であり
ます。いわゆるポツダム宣言、1945年7月26日の米英華三国宣言というのが正式の名称
ですが、それを私は問題にしたいのです。これは全13項目からなっていますが、わが國は昭
和20年8月、苦悩に満ちた検討を重ねた結果、このポツダム宣言を受諾することによって、
連合国との戦争を終結する国家意志を表明した。その結果、戦闘行為は終結し、同年9月3日
に、東京湾上に碇泊中の米国戦艦ミズーリ号艦上で降伏文書の調印が行われた。そしてその日
から日本の軍事占領が正式に発足し、その後昭和27年4月28日、対日講話条約の発効とと
もに占領状態が終結し、日本は主権を回復しました。これが戦後の第1期の経緯です。その期
間、一体われわれはどのような法的地位に置かれていたのか、そのような状態の中で、何が行
われたのか、行われたことは適法であったのか、なかったのかという問題について、われわれ
は従来日本が無条件降伏をした結果進駐軍がやってきて、マッカーサーの占領政策が日本の自
由と民主主義を発展させた、従って敗けてよかったのだ、というふうに何となく考えてきまし
た。果たしてそうだったのだろうか、敗けるということはそんなに簡単なことなのだろうかと
私はかねがね考えていたのですが、ポツダム宣言を読み直してみて、大分通念と実際は違うら
しいと気がつき始めたのです。

 ポツダム宣言の再点検

 第一にポツダム宣言は、日本に無条件降伏を要求した宣言ではないのです。それは宣言の文
言から明らかであって、13項目のうちの第1項から第4項までは、いわば連合国側の一般的
意思表示をでも言うべき条項ですが、第5項は「われわれの条件は左のごとし。われらは右条
件より離脱することなかるべし、右に代わる条件存在せず、われらは遅延を認むるを得ず」と
降伏条件の提示を明記しています。つまりこの宣言は通常信じられているのとは全く逆に、以
下8ヶ条にわたって」降伏条件を明示した文書なのです。それではどのような条件が掲げられ
ているかというと、たとえば第6項には「われらは無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらる
るに至るまでは、平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもっ
て日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたるものの権力及
び勢力は、永久に除去せられざるべからず」と記されている。これは後に公職追放の論拠とな
った条項です。勝った國はいくら勝ったからといって、どんな勝手なことをやってもいいとい
うではない。シニカルに考えれば国際社会は事実上力の社会かもしれませんが、同時に条約や
協定の網の目によって法的に規制されてもいる。国際法の祖であるグロティウスが考えたよう
に、国際社会は概ね法社会たるべき努力を重ねてきているとみてよいのではないかと私は考え
ております。第7項には「右のごとき新秩序が建設せられ、かつ日本国の戦争遂行能力が破砕
されたる確認あるに至るまでは、連合国の指定すべき日本国 領域内の諸地点はー諸地点と書い
てあるところにご注目いただきたいと思いますーわれらのここに指示する基本目的の達成を確
保するために占領せらるべし」と記されている。

 第8項には「カイロ宣言の条項は履行せられるべく、また日本の主権は本州、北海道、九州
及び四国並びにわれらの決定する諸島嶼に局限せらるべし」。これは重要な条項でありまして、
カイロ宣言という宣言は対日戦後政策をごく抽象的な形で明らかにした宣言ですが、そこで連
合国は「領土拡張の何等の念をも有するものに非ず」と明言しております。現在私どもは、ソ
連の北方領土占拠がはなはだ不当であるとしてその返還を要求していますが、その論拠も実は
この第8項にある。なぜならソ連は、1945年7月26日のポツダムにおける宣言署名の段
階においてはこの宣言の署名国に加わっていませんけれども、8月8日深夜、対日宣戦布告と
同時にポツダム宣言に加入する意志を表明して、署名国に加入しました。それはとりもなおさ
ずポツダム宣言によって拘束させられる立場になったということであって、カイロ宣言が領土
拡張を求めないという連合国の意思を表明している以上、そしてソビエト連邦社会主義共和国
が連合国側に加わつて、対日戦に参戦しポツダム宣言の署名国となった以上、ソ連は当然カイ
ロ宣言の条項に拘束されぬわけにはいきません。にもかかわらずソ連は、あたかも日本国が無
条件降伏をしたかのごとく北方領土を軍事占領しつづけている。だからこそわれわれはこれを
不当だと言っているのです。ポツダム宣言は決して33年前の夏の夜話ではありません。サン
フランシスコ平和条約に調印しなかったソ連に対しては、今でも生きているのです。

 一方でソ連に北方領土の返還を迫りながら、他方ポツダム宣言によって日本が無条件降伏し
たというような、精神分裂病のようなことを言う人間がいるとすれば、その人間はよほどどう
かしているといわなければなりません。今日の日本人の意識は、どうやらこの点について、は
なはだ遺憾ながら病的に自己分裂を露呈しているように思われます。先般、ソ連が漁業協定が
らみで日本に揺さぶりをかけてきたとき、北方領土が日本固有の領土であるという点について
は、驚くなかれ日本共産党を含む全政党が国会において満場一致の決議を行った。この度の日
中条約ですら反対票が出ております。自民党清嵐会のうるさ型が、何人か欠席したり否票を投
じたりしました。少数の反対者が意志を表明するのはまことに民主主義的で結構だと私は思う
のですが、北方領土問題についてはまるで独裁国の議会でもあるかのように、共産党に至るま
で全政党一致で日本固有の領土であると決議している。日本の国権の最高機関がそのように意
思表示している以上、北方四島問題については100%のナショナル・コンセンサスがあるは
ずなのに、その論拠となるべきポツダム宣言の解釈については千々に乱れているというのは、
実におかしな話です。誰が千々に乱しているかというと、物事を正確に考えようとしない、あ
るいは考える能力がありながら、考えないふりをしている一部の知識人が、そのような混乱を
引き起こしていると私は思うのです。

 ところで、ポツダム宣言のなかで無条件降伏という言葉が用いられているのはどこかという
と、第13項においてであります。「われらは日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏
を宣言し、かつ右行動における同政府の誠意につき、適当かつ十分なる保障を提供せんことを、
同政府に対し要求する。右以外の日本国の選択は、迅速かつ完全なる壊滅あるのみ」と記して
ある。つまりポツダム宣言を一字一句残らず検討してみると、「無条件降伏」という言葉に逢
着するのは第13項においてだけであって、しかも「無条件降伏」を求められているのは「全
日本国軍隊」なのです。日本国政府でも国民でもないのです。
 従ってポツダム宣言は、その文言が示す通り、降伏条件を明示した文書である。これらの降
伏条件に基づいて、日本が降伏するかしないかを、回答することを求めている文書であると理
解すべきであります。しかしここにはいろいろな議論がありまして、一方的に突きつけられて
受諾したのなら、向こうが幾ら降伏条件を明示していても事実上の無条件降伏ではないかとい
う議論をなす人々もいる。それでは実際に行われたことはどうであったかといえば、鈴木寛太
郎海軍大将を首班とする内閣は、これに対して国体には何らの変更もないという了解のもとに
ポツダム宣言を受諾する用意があると回答している。つまり、日本側から条件を提示したとい
うことになります。それに対して、連合国側は、占領開始と同時に日本国の主権は占領軍最高
司令官の制限のもとに置かれる、という間接的表現で回答してきた。交戦国同士の交渉ですか
ら、実際にテーブルに就いて議論をするというような形ではあり得ませんが、日本側が天皇の
地位に何ら変更がないという了解のもとにという条件を付帯して回答したことは明らかな事実
す。そこで、占領と同時に日本の主権が制限のもとに置かれるという連合国側の回答をどう解
釈すべきかに関して御前会議が開かれ、阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長という
ような軍部の代表者が交戦継続を主張したために、遂に御前会議の票が真っ二つに割れ、陛下
の御聖断で受諾と決定したという事情については、ここで繰返すまでもありません。

 従って、日本はポツダム宣言に示された条件をうのもにして降伏した、だから実質的には無
条件降伏と同じだという言い方は正確ではないのです。こちらから注文をつけたという事実は
歴然として存在する。このことは、たとえばいわゆる東京裁判、極東国際軍事裁判の判決文に
付帯された補足意見のなかでも認められています。その補足意見の中で量刑が軽きに失すると
いう激烈な意見を述べている判事がいる。この判事は誰かというと、フィリピンのヘラニラと
いう判事です。つまり、ヘラニラ判事の補足意見書は、日本に対して最も同情的ではないもの
だと考えなければならない。その同情的でないヘラニラ判事の補足意見書に、「天皇に関する
件を除いては、降伏は無条件であった」というまことに興味深い一節があるのです。ヘラニラ
判事は強引にも日本国は無条件降伏したという論を立てようとしているのですが、にもかかわ
らず天皇の地位を守るという件を除いて、無条件降伏したという言い方をしている。これによ
って判断すれば、日本に対して最も過酷な態度をとろうとした判事といえども、ポツダム宣言
受諾の際、日本側から提示した条件については、明らかにこれを条件として認めているといわ
ざるを得ない。

 高野雄一教授の証言

 このように考えると、やはりポツダム宣言は明らかに有条件降伏であったということになり
ます。先般私が本多秋五氏と論争した際、朝日新聞学芸欄でこの問題について、高野雄一教授
が意見を述べられました。高野先生は、現在上智大学におられますが、敗戦直後、東京大学の
少壮教授であられたころ、国際法学会の機関誌「国際法外交雑誌」第45巻、第1、2合併号
で、ポツダム宣言について国際法学者としての見解を述べられておられるのであります。当時
私は、旧制中学の生徒で、神奈川県の湘南中学校に通っておりました。昭和23年の夏に東京
へ戻ってまいりまして、都立一中に変わったのですが、東京は一面の焼野が原で、食べるに食
なく、着るにも衣料なく、電車はすし詰めで衛生状態も悪く、多きの国民が大変苦労をしてい
た時期であります。しかし横田喜三郎教授、高野教授をはじめとする日本の国際法学者は、そ
ういう苦しい研究環境の中で、自分たちを直接拘束しているポツダム宣言の本質を見定めよう
として努力しておられた。高野教授は「ポツダム宣言受諾の経過」という論文のなかで、次の
ように言っておられます。
 「宣言は全部で13項からなり、実質的に見て最初の5項は前文をなし、後の8項が実質的
内容をなしている。連合国の日本に対する要求的内容は、この文書を基礎に推知されるべきも
のと感じられます。かつそれは目下着々と実行されているところである」。ここにも生々しい
占領当時の空気が感じられます。「宣言は、全体として終戦条件の提示と見られ、同時に自国
民及び爾後の世界にその対日処理方針を示したものと解される。実質的には、事前に条件を提
示した和平勧告降伏要求と見るべきであって(第1項、第5項参照)その点で、ドイツに対す
るポツダム公報のように、ドイツの最終的敗北に至るまでその内容が発表せられなかった場合
の無条件降伏とは性質を異にするというべきである。(題3項に唯一の無条件降伏の語が用い
られているが、同項は日本国軍隊の無条件降伏として直接には、日本の軍隊を対象とする表現
をしている。--但カイロ宣言最終項参照」。これが、昭和22年5月における高野先生のご見
解でありました。まことに正確な認識であったと思います。

 ついでにつけ加えておきますと、ドイツは1945年5月早々に壊滅いたしました。ヒトラ
ーはベルリンの総統官邸で自殺し、ドイツ政府は全く崩壊してしまった。従ってドイツ国の主
権というものは存在しなくなってしまったのです。このように一国が全く滅亡した状態を「デ
ベラチオ」と言います。これは古代ローマがカルタゴを攻め滅ぼしたときの状態に匹敵するも
のです。カルタゴの最後はよく絵の題材になっています。ターナーなども描いていますが、本
当に悲惨な最後であったようであります。そのように交戦国の一方が完全に壊滅的状態になり、
国家統治の主体がどこにもなくなってしまった状態をデペラチオと呼ぶのですが、ドイツは敗
戦当時、文字とおりのデペラチオ状態になりました。従ってドイツを占領管理した連合国が、
一時ドイツの主権をあずかり持つということになったのです。そういう状態でドイツは降伏し
た。従ってこれがこれが、文字どおりの無条件降伏であったことは申すまでもありません。

 しかし、日本の降伏はそうではなかったと高野教授は指摘しておられる。そして第7項の占
領規定「日本国領域内の諸地点は......占領せらるべし」云々については、「第7項は帝国領土
の保障占領に関する」としておられる。.......この「保障占領に関する」という言葉をよく覚え
ておいていただきたい。.......「『基本的目的ノ達成ヲ確保スル為』という目的のもとに行われ
る保障占領であり、連合国軍最高司令官のもとに原則として日本の統治機関の存在、機能を認
容しつつ行われる。クリミヤ宣言に基づくドイツの分割占領、直接統治とは性質が異なる。然
しあくまでも軍隊の軍事行動として行われる占領である」。---これも重要な点ですから覚え
ておいて下さい。

 等々とあって、最後の日本国軍隊の無条件降伏について、高野先生が当時どう言っておられ
たかというと、「第13項は日本国軍隊の無条件降伏に関する先にも触れたように日本国と言
わずに日本国軍隊を対象として無条件降伏の語を使用しているが、カイロ宣言やドイツに対す
るクリミヤ宣言の文句に比して注目される。本項は、8月11日付連合国回答第2項とともに、
最も典型的な休戦条約的条項であり、これに比し前記諸条項は予備的講話条項に等しいものと
考え得る」と解釈しておられる。このうち、「最も典型的な休戦条約的条項」という指摘は重
要です。

 奇々怪々な検定教科書

 ところが、ここにまことに不可思議な事実がある。このように当時占領体制が着々と進行し
ていた只中で、日本の研究者は象牙の塔の中でかくも正確に宣言の本質を分析、解説していた。
そのことを思えば、たとえ中等教育段階で用いられる教科書などは、そのような学問的に正確
な認識に基づき、平易にその内容を書き表したものでなければならないはずだと思われる。
今日の日本では教科書は検定制度を取っております。文部省の初等中等局には教科書調査官と
いう役人がいて、日本史教科書についても歴史記述を一々検討し、甚だしい誤りがないように
心を配っております。もし誤りや不穏当の点があれば調査官の意見を添付して版元の教科書会
社に原稿が戻される。その場合には著者と相談の上、原稿を直さなければならない。どうして
も直さないといって著者が反対すれば、かの有名な家永三郎氏の場合のように國を相手に裁判
をしなければならなくなります。それが現行の教科書検定制度です。これだけの制度があるの
ですから常識的にいって、今日高校生たちが使っている日本史教科書の歴史記述は正確なもの
に違いないと考えたくなるのが人情です。

 ところがあにはからんや、今日大多数の高等学校日本史教科書には、「日本国はポツダム宣
言を受諾して無条件降伏した」と書いてある。のみならずそこには「ポツダム宣言抜粋」なる
ものが掲げられていますが、肝心の「われらの条件は左のごとし」という第5項が抜いてある
のです。もし抜いてなければ、だれが見ても本文の叙述との間に矛盾を生じていまう。その矛
盾を糊塗するために抜いてあるとしか思えない。まことに奇々怪々というべきであります。他
は押して知るべしで、私が二、三参看したところでは、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏し
たという叙述が大部分です。あらゆる日本の教科書を調べたわけではありませんが、暇があれ
ば一度調べて、いかに恐るべき状態であるかについて、またまた大いにキャンペーンを張ろう
かと思います。(笑)一事が万事こういうことになっているのであります。何で日本の史学者
たちは、日本をそれほどまでして無条件降伏させたいのだろうか、実におかしな話ではないで
しょうか。無条件降伏よりは有条件降伏した方が有利だったし、日本がその有利なところから
出発したという事実を確認しておくことに、何の不都合があるというのでしょうか。ドイツに
比べれば有利な条件から出発して、日本は営々として今日に至った。それなのになぜ日本は無
条件降伏したというような不思議なことを、いつまでも言い続けようとするのか。まことに不
可解きわまる心情であります。

 さらに不可思議なのは、わが国の政府部内における見解の不統一であります。わが外交当局
は、ポツダム宣言の条項に基づいてソ連に対して北方領土占拠の不当を鳴らしつづけている。
そしてこれについては、ソ連およびその与國以外の世界の世論は、アメリカっをも含めて日本
の主張を支持しております。そして先ほどもいった通り、日本の国会は全党一致でこの政府見
解を支持している。ところが、同じ政府の文教当局はどうでしょうか。ポツダム宣言受諾とい
う歴史的事実の記述について、二種類の相互に矛盾した歴史記述をそのままに放置し、そのい
ずれをも教科書として検定している。外交当局と文部当局との間に、なんら見解統一のないの
は天下の奇観です。もし私がソ連の外交官であったら、北方領土交渉の時この山川出版社の日
本史教科書を持ち出して、「ほらこの通り日本は無条件降伏しているじゃないか。北方領土に
はなんらの請求権がないではないか」嘯くにちがいない。

 文部省が外務省と見解を統一すると、家永教科書以外に合格する教科書は一つもなくなって
しまうのかも知れませんが、(笑)文部省初中局にしっかりした教科書調査官がいて、この問
題について國史学会のの風潮に囚われることなく、より学際的に外交史や国際法というような
分野における業績を検討していれば、今日の過てる歴史記述はすべて不合格になる筈です。し
かしどうも文部省は事を荒立てたくないらしい。仕事といえば日教組と喧嘩することだけだと
思っているらしい。(笑)日教組と喧嘩することも大事かも知れませんが、日教組も日教組じ
ゃない教員も同じ教科書で教えている。もし日教組に批判的な教員がいたとして「評説日本史
新版」を使っていたらどうなりますか、教師用の指導書にも日本は無条件降伏したと書いてあ
るにちがいない。偉い先生がそう書いているのだから間違いないだろうと思ってそう教えてし
まいます。そう教えてしまえば、何も知らない生徒たちは「なるほど、日本は無条件降伏した
のか」と、そう思い込んでしまう。そうすると、それが通説になります。通説になってしまえ
ば、人間はとかく通説に安住しがちですから、敢えて意を唱える者がいると楠公は権助だと言
った福沢先生に対するのと同様に、とんでもないふらちなことを言うやつだといって、罵声を
上げる手合いがうじゃうじゃ出て来る。従って認識はいつまでたっても混濁し、戦後の再検討
は少しも進まない。日本史教科書の記述もおかしければ、文部省のこれに対する対応もおかし
いと言わなければならない。

 独立自尊のバックボーン

 この不可解な混乱を指摘したのが、歴史学者でもなければ国際法学者でもなく、私のような
門外漢だったというのも、実はおかしな話です。なぜ私がこの問題を提起したかというと、手
前みそになりますが、私が慶應義塾の塾員だからです。つまり独立自尊だと思っているからで
す。月給を棒に振るか、それとも自分の言いたいことを言うか、どっちか一つにしろと言われ
たら、私は自分の言いたい方を言いたいと思っております。言いたいことばかり言っていると、
食うに困るかもしれません。したがって私は、多少のものを貯えるようにしています。(笑)
このインフレですから、遠からず一銭もなくなってしまうかもしれませんけれども、福沢先生
の教えの中にもちゃんとあります。「自から心身を労して私立の活計を為す者は、他人の財に
依らざる独立なり」と、「学問のすすめ」にも記されています。大切なことですよ。もし精神
の自由を守ろうと思ったら、精神の自由を守るだけの物質的な裏付けを必ず努力してつくって
おきなさい。その裏付けがなかったら絶対独立自尊は貫けません。人間は弱いもので、もしな
んらの貯えがなくて生活に窮し、家族が貧に泣いてごらんなさい。幾ら自分の思想を守るの何
のといったって、普通の神経の人間ならとても耐えられなくなります。普通の神経でなくなっ
た人間は異常な人間ですから、われわれ凡人の規範にはなりません。(笑)

 福沢先生の偉いのは、偉大な思想を堂々と説いた常識人だからです。天才は生まれつきで、
われわれがいくらなろうと思ってもなれませんけれども、せめて常識人にはなってもらいたい。
そういう常識人が自分の言いたいことを通そうと思ったら「自から心身を労して私立の活計を
為し、他人の財に依らざる独立」を心がけなければならない。「自から心身を労して私立の活
計を為す」人に対しては、世間はこれを孤立させることはできても、絶対に滅ぼすことはでき
ません。諸君の内で志があって事を為そうとする人々は、必ず自分の背後を固めなければいけ
ません。自分の力で背後を固める。固めた上で堂々と誰に臆することもなく所信を述べる。そ
うすれば時間が解決してくれます。仮に一時は孤立しても5年、10年経つうちに、諸君の言
っていることが正しければ、世間はその言葉を傾聴するようになって行きます。だからちっと
も恐れる必要がない。

 わが「三田文学」の創刊に当たって、慶應義塾文学部教授としてこれに参画され、日本文学
史上に不朽の名をとどめたのは、申すまでもなく永井荷風先生であります。永井荷風先生は大
変にまじめな教授であり、大変わがままな遊蕩児であって、紅燈の巷に耽溺しながら幾多の名
作を遺されました。そして戦後は文化勲章を受賞しながら市川市菅野の自宅から浅草のストリ
ップ小屋に通い、前の日に浅草のアリゾナという食堂で食べたカツ丼を吐いて、三千万円入り
の信玄袋を握り締めながらたった一人で生涯を閉じられた。この荷風先生は、戦争中カーキ色
に媚を売るようなあさましいことは少しもしなかった。麻布市兵衛町の屋敷が戦災で焼けてか
らは、谷崎潤一郎を頼って岡山県まで行ったこともありますが、「私立の活計を為して他人の
財に依らざる独立」を貫くという姿勢を生涯崩さなかった。そのようにして最後の最後まで生
きた自由人でした。もうボケて作品もほとんどかけなくなった最晩年まで、このことを一点の
妥協もなく守り通した。荷風が亡くなったとき世の新聞は、老残をさらした守銭奴の死を見よ
といわんばかりの書き方をした。何たる心無い新聞かと、私は憤激いたしました。もちろん荷
風先生は、生前から犬と新聞記者が一番嫌いだった。(笑)私は犬は好きで新聞記者は必ずし
も嫌いじゃありませんけれども、そう書いた新聞記者は何というつまらない連中かと思いまし
た。彼らには、人間の精神というものが、「私立の活計」に守られているという機微を知らな
い。だからこそ荷風先生がとんなに首尾一貫した生き方をしたかということを、少しも味合お
うとしない。荷風散人は塾の卒業生ではありませんでしたが、塾の教員だった人です。「三田
文学」は現在休刊中ですが、日本文学史に燦とした数々の業績を残しております。その創刊者
である荷風先生がそのような人であったということを、余談ながら諸君にはよく覚えておいて
いただきたい。

 興味深いアメリカ側の解釈

 ところで、アメリカ政府が、当時ポツダム宣言をどう理解していたかという点について、お
話してみたいと思います。対日戦中、昭和18年1月にチャーチルとローズヴェルトがカサブ
ランカに会しました。この英米会談後の記者会見で、ローズヴェルトは枢軸国に無条件降伏を
させるという意味のことを言明したのです。この無条件校降伏という考え方は、アメリカ大統
領ローズヴェルトの固定観念になっていたようですが、彼は南北戦争の終戦処理にヒントを得
て、この方式を着想したと言われております。南北戦争は、もちろん1816年から65年ま
で、当時のアメリカ合衆国を南北に二分して行われた内乱でありますが、この内乱で実に70
万の犠牲者が出た。第一次世界大戦以前地上で人類が戦った戦争の中で最も大規模な戦争は、
アメリカの内戦である南北戦争だったといわれているほどです。この南北戦争の敗戦処理は大
変苛烈なものでありました。北部の大統領エイブラハム・リンカーンは、必ずしもそのような
苛酷な終戦処理を考えていなかったのですが、暗殺されてしまいまして、アンドルー・ジョン
ソンという副大統領が昇格して合衆国大統領になります。ジョンソンはケンタッキー州の出身
で、皮肉なことに北部政権に加わったのですが、南部とのボーダーステートの出身であったた
めに、宥和政策をとると獅子身中の虫といわれて議会の不信を招くというおそれがあり、どう
しても苛酷な政策を取らなければならなかったという事情もあって、酷烈きわまる戦後処理を
行った。南部連合の大統領ジェファーソン・デービスは、手かせ足かせをかけられて獄につな
がれた。その家族は辱めを受け、副大統領で後に合衆国上院に返り咲いたアレクサンダー・ス
チーヴンも、巣鴨の戦犯以上の扱いを受けた。全く有無を言わせず、北部の意志を南部に押し
つけたという形になっている。北部の立場にたてばこれは内戦で、南部が合衆国から離脱しよ
うというのを防ごうとした起った戦争だということになり、国内法を適用して反逆者に対する
刑法上の処罰を行ったという言い分になるでしょうが、南部の立場に立てば南部連合は独立し
てアメリカ合衆国とは別個の国家を形成していた。しかも当時イギリスはこれを交戦団体とし
て認めていたのですが、国際法上公正は戦後処理が行われるべきだったという反論が生まれる
のも当然であります。

 ローズヴェルトの固定観念のなかでは、あたかも世界じゅうがアメリカの版図であるかのよ
うに見え、アメリカ民主主義に楯突いた者に対しては、かっての南部連合と同じように扱うの
が妥当であるという考えが胚胎されていた。この固定観念は、さきほどもいった通りカサブラ
ンカ会談における彼の記者会見での声明にはっきり打ち出されましたし、また同年11月のカ
イロ宣言のときにも、一般的な表現で日本を無条件降伏させるという意志が表明された。しか
しながらカイロ宣言と、先ほど私が幾つかの条項を読み上げたポツダム宣言とを比較すれば、
その間に著しい相違があると言わなければなりません。一般的、抽象的な表現で日本国の無条
件降伏を求めたのがカイロ宣言でしたが、ポツダム宣言においては条件を明示したのでありま
す。したがってアメリカの政策は、ポツダム宣言にいたって相当抜本的な変更を余儀なくされ
たと考えざるを得ないのです。
 ここで興味深いのは、ポツダム宣言発出当時、アメリカ合衆国国務省の担当官たりが、合衆
国の本来の政策とポツダム宣言によって変更を余儀なくされた点との比較検討を行っている文
書が公表されているという事実です。それは『アメリカ合衆国外交関係文書・1945年・ベ
ルリン会議』の中の第1254文書、「国務省覚書・1945年7月26日の宣言と国務省の
政策との比較検討」と題されたものであります。

 それをどのように国務省が分析しているかというと、
 (1)この宣言は日本国及び日本国政府に対して降伏条件を提示した文書であり--これは高
野雄一教授の見解と同じです--、受諾されれば国際法の一般規範によって解釈されるべき国際
協定となるはずである。国際法では国際協定は双務的なものであり、不明確な条件は受諾した
國に有利に解釈され、条件を提示した國はその意図を明確にする義務を負うものとされている。
 一方、国務省の政策は、従来「無条件降伏」とはなんらの契約的要素を含まぬ一方的な降伏
のことだと規定して来た。
 (2)宣言第13項には日本国政府の「誠意」が言及されているが、これは降伏条件履行が
ある程度まで日本政府の「誠意」にゆだねられることを示している。
 これに対して国務省の政策は、降伏の初期段階では一切の要求が連合国によって実施される
べきであり、日本当局の誠意に頼るべきでないとしていた。
 (3)宣言は無条件降伏が「全日本国軍隊」にのみ適用されるものとしている。
 これに反して国務省の政策は、無条件降伏が軍隊のみならず天皇、政府および国民を含む日
本国全体に適用されるものとし、これらのものはひとしく連合国の政策実施のために必要と判
断する一切の行為に黙従するべきであると解してきた。
 (4)宣言は現在の日本国政府が「誠意をもってこれらの条件を遵守するかぎり」継続し得
ると解釈する余地を与えている。また宣言は天皇が宣言に示された諸条件を受諾し引き継いで
在位するが、軍国主義的助言者を直に解任し、憲法を改正し、選挙を実施し、その結果に基づ
いて政府を組織し、この新政府をして宣言に示された条件の実施に当たらせるとも解釈できる
ようになっている。
 国務省の政策は、それとは相違して、連合国政府がその目的を達成するまでの間、日本統治
の全権を保有すべきものとしてきた。
 (5)宣言第6項、第10項、第13項の規定は、占領の目的が単に日本政府に圧力を加え
ることに限られ、日本全土の軍事占領を想定していないかのような印象をあたえる。
 このような解釈には疑義がある。信頼に値する新政府が樹立されるまでの間、一時的に日本
政府は存在しない状態の生ずる可能性があることを宣言が示唆されていると理解すれば、日本
全土を軍政のもとに置くことは可能なはずだからである。この場合占領されるべき「地点」の
数は無制限でなければならない。
 国務省の政策は、右のような軍政による直接支配のみを想定しており、それなくしては日本
国軍隊の完全武装解除、戦争犯罪人の逮捕、民主主義的傾向の助成強化、言論・宗教・思想の
自由及び基本的人権の確立、賠償の取り立て、日本産業の非軍事化、日本による原料支配の防
止等々の諸目的は達成されないものと判断している。
 (6)一見したところ、この宣言が想定している軍事占領は、限定された地点の占領である
にせよ日本全土の占領であるにせよ、いわゆる戦争法規上の占領なのではないかと解釈される
余地を残している。そうであれば占領は、秩序の維持、占領軍の安全確保、占領地の現行法体
系の枠内で敵国政府が行う行政に影響を及ぼすこと等々(ハーグ陸戦規則第43条参照)とい
うような限定された目的のための通常の占領となり、宣言の諸目的達成のためには不完全なも
のとならざるを得ない。
 国務省の政策は、無条件降伏によって一時的にせよ連合国は、日本国政府の有する一切の権
限を行使するものとし、その結果占領軍当局は戦争法規の下で通常の軍事占領が行われた場合
よりも、はるかに強大は権力を行使し得るものと了解している。云々。

 まだほかにもありますが、だいたいこのように国務省は解釈していたのです。つまりポツダ
ム宣言は、当初の国務省の政策とは多くの点において著しく異なっている。この宣言によつて
アメリカの当初政策は変更を余儀なくされたという認識を持っていた。
 この国務省見解が更にくつがえされたのは、昭和20年9月6日のマッカーサーに対する統
合参謀本部通達「連合軍最高司令官の権限に関する通達」(JCS1380/6)によってです。
この通達の第1項には、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つものではなく、
無条件降伏を基礎とするものである」と明記されている。これはアメリカの当初政策へのです
が、いうまでもなくポツダム宣言からの逸脱です。しかも、統合参謀本部はなんの権威によっ
てこの通達をマッカーサーに下達したのかも明らかではない。マッカーサーは合衆国陸軍の元
帥には違いありませんが、同時に連合国軍という国際的軍隊の最高司令官です。合衆国統合参
謀本部に国際的軍隊の司令官への指揮権があるとは、おかしな話ではないでしょうか。このこ
とは直に占領そのものへの合法性に対する疑義とならざるを得ません。
 すでに私どもは、高野雄一教授が、昭和22年の5月の段階で、連合国軍の占領を「保障占
領」と規定されていたことを」見て来ました。国務省の見解も、ポツダム宣言による占領が「
戦争法規上の占領なのではないかと解釈される余地を残している」としています。

 曖昧な占領の概念規定

 戦争法規上の占領とは何かというと、ハーグの陸戦規則というものがありますが、これによ
って規定された占領のことです。---これは1899年に締結されて、1907年に修正され
た。日本もアメリカも、いずれもこの条約の署名国であり、いずれの国においても、条約は批
准されておりますから、当然この陸戦規則に拘束されている。この陸戦規則は今日に至るまで
廃止されておりません。ただ戦争の様態が非常に変わりましたので、有名無実になっていると
いう傾きがありますが、第二次大戦の段階ではもちろん完全に効力を持っておりました。
 ハーグ陸戦規則の第5章は休戦という章でありまして、第43条には、「国ノ権力ガ事実上
占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ絶対的ノ支障ナキ限リ、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、
成ルベク公共ノ秩序及生活ヲ回復スル為施シ得ル一切ノ手段ヲ尽スベシ」と記されています。
つまり占領軍は万やむお得ざる理由がない限り被占領国において現行されている法令を尊重し
なければならない。これは非常に重要な条項だと思われます。もしポツダム宣言第7項が、高
野教授が昭和22年5月の「国際法外交雑誌」でそう規定され、アメリカ国務省見解もそう「
解釈する余地がある」としていたように、「保障占領」を規定していたとすれば、昭和27年
4月28日まで日本は連合国軍と休戦状態にあったと解釈するほかありません。現に高野教授
は、同じ論文で、ポツダム宣言第13項が「最も典型的な休戦条件的条項」であると指摘して
おられるのです。従って、もし連国国軍の日本占領が戦争法規上の占領であり、軍隊の軍事行
動として行われた占領であったとすれば、占領中被占領地の現行法を尊重する義務を連合国側
は負っていたと考えなければならない。もしそうであれば、国務省の解釈は後段が少し曖昧な
のですけれども、占領軍が当時現行の日本基本法たる帝国憲法の改変を要求したということは
、陸戦規則の違反になるのではないだろうかという疑問を発せざるを得ないのです。

 アメリカ軍を主体とする連合軍による日本の占領の様態をどう規定するかについては、同じ
「国際法外交雑誌」第45巻第1・第2合併号で、安井郁氏が「連合国の日本占領の本質」と
いう綿密は論文を書いておられます。安井郁氏は後に原水爆禁止運動の代表者になられて、た
しかソ連のレーニン平和賞を受けらたはずであります。いわば日本の革新陣営の一方の旗頭に
なっていかれたのですが、元来安井氏は優れた国際法学者であったのです。この論文を読んで
みると安井氏は、どうも連合軍の日本占領は過去の事例に照らしてみるとかなり様態を異にし
ている、新しい概念を考えなければ説明しきれないと思われたらしい。これは単なるハーグの
陸戦規則に規定された休戦期における保障占領ではなくて、強いて言えば、”戦後占領”とで
も言うべきものであるという見解を述べられています。「戦後占領の新形態」というのがこの
論文の副題です。この”戦後占領”という概念は、おそらく安井氏がこのときつくり出された
新概念と考えてよかろうと思います。しかし同じ雑誌所収の前掲論文で、高野教授はそうは言
っておられない。保障占領であると解釈しておられる。つまり新しい概念を導入して日本占領
を解釈しようとされた安井氏と、あくまで実定国際法によって日本占領を解釈しようとしてお
られる高野教授の間には、明らかに見解の相違があるといわなければならない。

 ところで、先般の本多秋五氏との論争の後、朝日新聞学芸欄に、二回にわたって現在は上智
大学に移られた高野教授が寄稿された小論文を拝見すると、高野教授は、連合国の日本占領は
「ハーグ条約における一般の占領と同じではなく」、また「保障占領とも異質の点がある」と
しておられる。昭和22年と昭和53年との間には、31年の歳月が介在していますから、学
説が発展したのは当然ともいえますが、それにしても高野教授はほとんど百八十度自説を転回
されて、「占領管理」という新しい概念を説いておられる。この点で安井氏によほど近くなっ
ているように見うけられます。つまり事実上日本の占領は従来のハ−グ陸戦法規における典型
的は保障占領ではなかったのだから、違った形態の占領が行われたと解釈しなければならない
というお立場に現在は立っておられる。

 しかし、そこで私が疑問に思うことが一つあります。いったい、国際法学者というものは国
際的な法現象を記述することをもってよしとするものなのか、それとも国際法になんらかの規
範性を認めて、その規範性に照らして合法的な措置が行われたのか、あるいは非適法な措置が
行われたのかを判断するのを目的とするものなのか、その両方を同時にするものなのか、それ
を混同して曖昧にすべきものなのか、その辺がはなはだもってよくわからない。私は高野先生
の学殖には深い敬意を抱いている者でありますが、31年前の学説が今日の学説に発展した理
由を知りたいと切望しております。現実にそのような占領が行われたからそうであったという
のでは、説明になりません。現実にそのような占領を行わしめたものは政治であって、法では
ないからです。政治がどのような力を行使し、その結果どのような現実が生まれたとしても、
それが適法か非適法か、合法か非合法かを判断する視点がなければ、国際社会を法社会として
成立させることはできない。どんな力任せのことが行われても、それを合理化する説明があと
を追いかけていればよく、そうですか、仕方ありませんな、と言っていて済むものなら国際法
などというものは仮構にすぎないことになります。強い者がやったことを次から次へと合理化
して記述すれば、それで済んでしまうことになる。そうではあるまいと私は考えるのです。
現実の国際政治の上では、そんなことを言ってもゴマメの歯ぎしりにもならない。何ら事態は
変わらないかもしれないけれど、アメリカは果たしてポツダム宣言の条項を戦後遵守したのか
どうか。ポツダム宣言によって日本を降伏させたけれども、現実に軍事占領が始まってから後
の段階でではポツダム宣言とは著しく逸脱したことをしたのではないか、それはポツダム宣言
違反であり、また占領軍の権利、義務を規定しているハーグの陸戦法規に照らしても、適法性
を欠いているのではないか。

 タブーへの安住を許すな

 これは何も私が今こと新しくいいだしたことではありません。あの極東国際軍事裁判少数意
見の中でも最も浩瀚な内容を持っているのは、インドのバール判事の判決意見書です。これは
一千ページに上る浩瀚ななもので、パール判事はこの中でハンス・ケルゼンの国際裁判に関す
る見解などを縦横に引きながら、いかに極東国際軍事裁判の根拠となったマッカーサーの発令
にかかる「裁判所条例」なるものが非合法であるかということを痛論し、この裁判は成立せず、
被告はしたがって全員無罪と主張しております。ここで大切なことは、被告が無罪であるかど
うかではなくて、マッカーサー最高司令官に裁判所条例なるものを発令する権限が何ら存在し
ないというパール判事の論点です。マッカーサーは一体「日本国及び日本国民に関する絶対的
主権」を誰から付されたのかと、パール判事は問うているのです。ポツダム宣言第8項によっ
て、日本の主権は「本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限」された
のは事実です。また天皇の大権が連合国軍最高司令官の「制限」の下におかれたのも事実です
が、一体軍事占領した連合国軍の最高司令官が主権の無制限な行使を行っていいかという問題
になると、これは全く別問題だといわなければならない。そこにこそパール判事の最も核心に
触れた批判があるものと思えます。

 同じことは憲法の問題についてもいえるはずです。現代の日本国憲法は、国内法的観点から
言えば、全く合法的に制定されている。それは旧帝国憲法の改正手続きによって、天皇の御発
議から改正手続きが始まり、帝国議会の議を経、枢密院の御諮詢を経て、公布、施行されてい
るのですから、国内法の手続きとしては、現在の日本国憲法は全く合法的に制定されておりま
す。しかしながら憲法制定の事実上の手続きがどのようなものであったかというと、問題が多
く伏在している。NHKの「日本の戦後」というドラマ・シリーズに「サンルームの衝撃」と
いうのがありました。つまり、こちらから松本烝治博士が中心になってつくった甲案、乙案を
持っていって提示したところが、こんななまぬるいものじゃだめだといって、アメリカ側の原
案を提示し、もしこれをのまなければ天皇のお身柄に変化があるかもしれないと揺さぶりをか
けたという一幕であります。そのとき提示された英文の草稿が現在の憲法の草案であって、そ
れを日本語に直して理屈をつけて、帝国議会を通した。この改憲議会で自衛力放棄に最も執拗
に反対したのは、日本共産党でした。塾員野坂参三氏は当時日本共産党の衆議院議員で、まこ
とに理路整然と舌鋒鋭く、一体国家が自衛力を持たないとは何事であるかと、当時の憲法担当
の国務大臣金森徳次郎氏に詰め寄った。これは速記録を見れば、今でも誰でも確かめることが
できます。現在、日本共産党は憲法擁護有事立法反対と言っている。政党ですから政治情勢が
変化すればサギがカラスになり、カラスがサギになっても仕方がないのかもしれませんが、あ
まりの変わり方に驚かないわけにはいきません。

 そのように考えると、国内法的には全く合法であるかのようにとりつくろわれているにして
も、憲法改正のイニシアチブをとったのが占領軍の権力であったという客観的事実がある以上、
私は釈然としないものを感じないわけにはいきません。そこのところのつぎ目をわれわれはど
う考えたらいいのか。非常に曖昧模糊としていて、実に不明朗であります。そう考えて行くと
日本の戦後というものはまことに不思議ないくつかの暗黙の了解のもとに成り立ってきたと言
わざるを得ません。ポツダム宣言が条件提示の文書であるというような明白な事実すら、なぜ
かわれわれはいままで公然と認めずにきた。それのみならず、碩学が編集しておられる高校の
検定済日本史教科書の多くが、「日本は無条件降伏した」という不正確な歴史記述を行ってい
て、恬として恥じずにいる。われわれもまた、そのことにろくに注意もしないで生活に追われ
て来た。何者かが、われわれ自身が無意識のうちに共謀して、正しい認識を覆い隠してきたと
しか思われない。殿様の名前を書いた紙でお尻を拭くとばちが当たるというタブーがあった。
福沢先生はそんなばかなことがあるものかと言って、奥平左近将監殿と殿様の名前を書いた紙
片を便所に持っていって、落し紙に使ってみた。何のばちも当たらなかったから、うそだとわ
かったと「福翁自伝」に書いてある。(笑)実事求是です。ト小平がそれに学んでいる。(笑)
あの毛沢東思想という驚くべき、夢幻のごときイデオロギーに酔いながら過去30年間暮らし
てきた中国人が、これではもう生きていけない。実事求是でやろうと言っている今日、わが国
は物質的繁栄をきわめ、円は上がったり下がったりし、財政危機、不景気とは言うものの、誰
も明日首をくくろうという顔をした人はいない。そういう日本人が、なぜかかる不可思議なタ
ブーの中に安住しているのか、私は納得しかねるのであります。

 もう時間もこのあたりでこの辺でやめますが、私のきょう申し上げたことは、今日私どもの
意識を漠然と、しかしかなり執拗に拘束しているタブーを一度全部解き払ってみないと、本当
に自由にものを考える人間にはなれないということに尽きます。戦時中誰にためらうこともな
く平和を研究し、平時に誰にためらうこともなく戦争を研究できる場所が、真にアカデミーの
名にふさわしい学園でなければなりません。それが学問の自由です。その自由がなかったら、
一体どこに学問の意味がありますか。世の中が戦争をしていたら諸君は一所懸命に平和を研究
なさい。平和のときには、どこから攻めてくるといけない、もし攻めてきたときはどうしたら
いいかということを、冷静かつ真剣に考えていただきたい。どれが正しく考えるということで
す。それが自由に考えるということです。付和雷同しないということです。独立自尊を身を以
て実証する所以であります。
 ご静聴をありがとうございました。
(この論文は昭和53年10月26日、三田演説館で行われた講演に加筆されたものである)

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