『和魂萬才と北朝鮮問題』 ジョージワシントン大学客員研究員 中野 有さん
■萬晩報 コラム配信ジャーナリズム■ 2004年02月19日(木)より著者の承認を得て転載しました。
イラクへの自衛隊派遣や北朝鮮の問題と国際舞台における日本の役割が期待さ
れている。戦後60年近くを経て、日本のかじ取りが最も必要とされる年になる
と考えられる。このような時こそ、世界観と歴史観を持って、日本のビジョンを
明確に示さなければならない。
福沢諭吉は「和魂洋才」の四文字で日本のあるべき姿を表現した。明治維新後
の西洋へのあこがれと、科学、技術、文化を大きく吸収しようとする気概が伝わ
ってくる。
一方、大隈重信は「東西文化の調和」という本の中で、「和魂漢才」という表
現で、東洋思想やアジア主義の重要性を伝えている。この偉大なる先人に共通す
るのは、日本の長い歴史とアジアの東の果てのすばらしい自然環境の中ではぐく
まれた純粋な「日本のこころ」を基軸としているところである。
さて、現在の日本に適した四文字のビジョンをいかに表せばいいのだろうか。
日本は、仏教、儒教、キリスト教と、和魂を失うことなく、ほどよいかげんで導
入し、調和させてきた。戦国武将も、当時の東西思想や先端の技術を海外からと
り入れてきたのである。
この百有余年の歴史をたどってみても、日本は、富国強兵、戦争、敗戦、世界
一の開発援助国と変化してきた。時代の変化がそうさせたのであるが、要は多様
性と柔軟性を備えたお国柄なのである。そして、その源泉は、やおよろずの神
(八百萬の神)を崇拝するという、世界でもユニークな宗教観、思想、風土にあ
ると考えられる。
世界の潮流はグローバリゼーションであり、多様性への対応が重んじられる一
方で、アメリカを中心にした一神教的な価値観が世界を席巻している。
パワーポリティックスによる強制的な行動では、平和は達成されない。愛国心
は大切であっても、他国にそれを押しつけてはいけない。ワシントンでブッシュ
政権の外交政策を見ていると、それを強く感じる。
中東には中東、アフリカにはアフリカのデモクラシーがある。アメリカのデモ
クラシーは進んだ段階であっても、決して世界の規範になるとは思われない。
重要なのは、東西文明の調和や先進国と途上国の調和である。多様性を認める
という「萬」がキーワードになると考えられる。そこで「和魂萬才」という四文
字は、グローバリゼーションが進展する中、地球の多様性を認め、柔軟性に富ん
だ対応をするという意味で、日本のあるべき姿を表しているのではないだろうか。
和魂萬才の観点で北朝鮮問題を考慮することにより平和構想に柔軟性が見えて
くる。対話も圧力も包括するのが萬の考えであるとすると、対話と圧力が対立す
るものでないと考えられる。ブッシュ政権の戦争関与政策では、危険すぎるし、
韓国の太陽政策ではナイーブすぎる。従って、多国間進歩的関与政策が相応しい
政策だと思う。では、この進歩的関与政策とは、現実的にどんな政策となるので
あろうか。
日本の対北朝鮮への空気、即ち拉致問題を察すると、北朝鮮への経済制裁を避
けて通れないようである。然からば、日本は北朝鮮に経済制裁を加えるべきであ
ろう。北朝鮮への制裁なしでは、日本国民の感情が治まらないのなら、そうすべ
きである。歴史が物語るように国際社会の同意がない経済制裁は効力を発揮した
ためしがない。でも、この1年半ほど大した進展のない北朝鮮問題を鑑みると現
在の状態から抜け出す政策が求められている。今から半年以内の経済制裁を仕掛
けることにより、次にここぞとばかり登場するのが対話や建設的な関与だと信じ
たい。
ワシントンの空気に接していると北朝鮮の問題が大きく動くような気がする。
理由は、フランスを除くEU14カ国が北朝鮮と国交を正常化させたことと、中
国の東北3省への関与並びに6者会合を通じた多国間協力の推進である。これに
遅れないためにも、まず日本は日本の意思で北への経済制裁を仕掛け、国民的感
情に納得が見えてきた時点で多国間進歩的建設的関与政策に切り換えることを考
えればいいと思われる。そんな「和魂萬才」の舵取りを期待したい。
中野さんにメールは mailto:tomokontomoko@msn.com
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『異文化国家との勝てない戦い』 2004.2.12 浜地道雄さん (昭40経)
ひとたび事件が起こると一過的に情報が飛び交う。テロ、戒厳令、炭素菌、SARS等々。
1973年オイルショックの際、日本のトイレットペーパー狂乱のお陰で
高値の商談が成立したと感謝された。騒ぎ立てることがなんと無益であることか?
私の原点はここにある。
ハンチントン教授の「文明の衝突」がブッシュ政権(の強攻策)に影響を与え
てると思うが、実は衝突するのは(文明でなく)文化である。
文化とは(広辞苑によれば)人間生活上の内面的、精神的なものであり、基本
的に変えようもない心の状態、習慣であり、その典型は宗教である。
生まれて以来、否、先祖代々肌に摺込まれた文化(=宗教)から、「ある日目覚め
る」ことはありえない。
「この世での苦労があの世での楽園につながる」というコーランの教えはイスラム
教徒の個人、家族、集落、国家、世界と全てのレベルでの絶対生活訓である。そこ
には「挑まれた戦いには堂々と立ち向かえ」(2牝牛186節)とも明記されている。
9・11事件以後一連の報道・解説を翻ってみると、「異宗教の衝突」という、こと
の核心が欠如している。
イスラム教徒にとり聖典コーランは絶対生活訓である。 「どうしてか?」と尋ね
ても、「コーランに書いてあるから」。ピリオド。それ以上でもそれ以下でもない。
コーランの規律(vs. アメリカ文化):
・ 金利禁止 (vs. マネー・ゲーム、デリバティブ)
・ 偶像禁止 (vs. ハリウッド、映画、アイドル)
・ 男性優位 (vs.ウーマン・リブ、女性マネージャ)
・ 同性愛禁止 (vs.同性結婚、ホモ、ゲイ、レス)
・ アルコール禁止
・ 豚肉禁止
・ 犬が嫌い
といった絶対訓からすれば「アメリカ文化」は堕落であり、アラー神への冒涜であ
る。それが商業主義に乗って、イスラム圏に入り込んできている。これを「挑戦」
と受け取り、9・11の「報復事件」となった面がある。
元来宗教は「原理主義」なのであり、信心深い、信仰心の厚い、というのと同義語
である。それが、イコール=テロという短絡化は間違いである。
テキサス出身のメソジスト(規則=原理)派ブッシュ大統領が二〇〇一年の九・
十一事件の直後に口走った「十字軍」という言葉は致命的本音である。
また、開戦演説では「Millenium」と言及した。しかし、キリストを神と認めてない
イスラムでは、ブッシュ大統領の言う「聖戦」を嫌悪こそすれ是認しない。
イスラムの実生活で最重要なこととして、「この世での善行で、あの世の楽園に
入れる(2牝牛20節)。 これはしばしば貧困とも結びつき、「この世で苦労すれ
ばするほどあの世で楽ができる」となり、つまり、打たれれば打たれるほど強くな
る国民、庶民となってくる。
「(西洋型)民主化」とは一言で言えば指導者を選挙で選ぶことだろうが、イスラ
ム下ではありえない。
では、なぜ「勝てない戦い」に派兵するのか?という原点を、実行の前に再確認す
べきであろう。ことは聖書時代以来の怨念である「パレスチナ問題」という泥沼に
帰結する。
宗教対決である以上、勝負はつかないのは歴史が証明するところである。
ps
とにかく「コーラン」(岩波文庫660円)に目を通さずして、国際情勢は語れない。
『在米柔道指導者の「功績」』 2004.1.15 古森義久さん (昭38経)
<産経新聞平成16年1月4日(日)「緯度 経度」ワシントン 古森義久>
ワシントンの日本大使公邸で米国やカナダで長年、柔道の普及にあたって来た
日本人指導者たちの労をねぎらう集いが催された。加藤良三駐米大使の招きに応
じて北米各地から集まった指導者はかって日本の大学柔道で活躍した強豪選手た
ちだが、北米での半世紀にもおよぶ柔道普及の実績を初めて日本政府代表から認
知され、感謝されるという栄えの機会にさまざまな風雪を顧みるふうだった。
この交歓は日本の文化と外国社会との融合という点で「日本と世界」を考える
好機ともなった。
加藤大使は十二月十五日、全米各地とカナダで柔道指導に長年、努めてきた日
本人二十三人を招待し、夕食会を催した。柔道指導者たちはニューヨーク、カリ
フォルニア、テキサスなどから旅費は自己負担で集まり、ほとんどが夫人も同伴
した。
米国では一九五○年代末から六、七〇年代にかけ日本の大学柔道で活躍した柔
道家が各地で指導にあたり、米国柔道の基礎を築いた。米国に永住したこれら柔
道家は若手で五十代、ベテランで七十代となったが、みな現在も自分のクラブで
指導にあたっている。
加藤大使はかねてから全世界百八十カ国にも広まった日本の柔道が各国で日本
への理解や親しみを深めた点で日本外交にも寄与するという認識から米国での日
本人指導者の労をねぎらいたいと考えてきたという。
ちなみにブラジルでは池田維大使が昨年十一月、日本柔道家の集まりの「全ブ
ラジル講道館有段者会」に対し「日本の文化である柔道を普及した長年の功績」
に外務大臣表彰を贈った。
ワシントンでの集いでは加藤大使が「日本の柔道が全世界で認知され、国際隆
盛をみたことへの皆さんの貢献は貴重であり、日本政府を代表して名誉の念と感
謝の意を表明したい」と述べたのに対し、指導者側代表の日大OB米塚義定氏が
「日本人の海外での活動でビジネスや芸術にくらべ日本側でもあまり深い認識の
なかった柔道がいまこうした認知を受けることはうれしい」と謝辞を述べた。
指導者側では9.11テロの四機目の旅客機内でのテロリストに立ち向かい、首
都突入を阻んだジェレミー・グリック氏の柔道の恩師だった国士舘大OBの小笠
原長泰氏や、最年長の東京農大卒の野崎住吉、慶大卒の宮崎剛両氏がそれぞれの
柔道指導の体験を語った。
七つほどの円卓を囲んだ集いはやがて自由な交流となり、これまで一堂に集ま
る機会のなかった指導者たちは大使館側の参加者も交えて、活発な懇談となった。
カナダの柔道指導では第一人者の中村浩氏(中大卒)、名門ニューヨークアス
レチッククラブで四十年も師範を続ける松村洋一郎氏(国士舘大卒)、米国女子
選手の育成に功績をあげた江口幹彦氏(日大卒)、紅一点の竹内久仁子氏(日体
大卒)といった人々は柔道一筋の感慨をみな控えめに語っていた。
柔道で永住しながらも会計事務所を開く本井文昭(早大卒)、西山洋史(同)
の両氏、建設会社を経営する山下裕介氏(同)、レストラン経営の宇土輝彦氏
(日体大卒)らも加藤大使らと親しく懇談した。
指導者のなかの最年少は七十年代半ばに来米した樗沢憲昭氏(早大卒)だが、
それでももう五十代で、近年は米国永住の形での柔道指導者がほとんど来なくな
った実情を反映している。
この中断は日米双方の柔道事情や経済事情の変化に加え、日本の若手柔道家に
は外国に骨を埋めて柔の道をきわめるという発想がうせてきたことにもよるとい
う。
しかし、日本から世界への発信という点では柔道がきわめて希少な存在である
ことは疑いない。自己を律し、相手に礼を尽くし、規律を守り、合理性と併存す
る精神性で鍛え、戦う柔道の基本は日本固有の文化の反映といえよう。その柔道
がスポーツかつ武道として国際的に普及したことは日本の価値観を外部に広めた
点で国際化ならぬ国際社会の日本化現象といえよう。
純粋に日本で生まれ、編まれ、完成された事物が全世界に広まったという事例
は他にまずないから、柔道は貴重である。米国で定期的に練習をするという意味
の柔道人口は約三万とされるが、ワシントン地区の例でも学生に始まり連邦政府
職員や医師、弁護士、軍人と、社会の中枢にいる米国人が多い。海軍や陸軍の士
官学校でも盛んである。そうした生徒たちが「正座」「礼」「始め」という日本
語のかけ声でけいこをし、日本ルールで試合にのぞむ。日本へのまなざしは自然
と温かく、理解は深くなる。
この意味でも在米日本人柔道指導者たちの日本への貢献は大きいといえよう。
『自衛隊のイラク派遣』 2003.12.24 久米 直さん (昭40経)
この小論は多分に私らしい皮肉を込めて、反米、自衛隊イラク派遣反対派への
批判になりますが、私自身の考え方は、本来はイラク自衛隊派遣反対論者でした。
併し現在では、小泉首相のブッシュ大統領との間で何らかの約束があったようで
すし、そしてイラクへ自衛隊を派遣するということが小泉氏の政策であることが
十分に国民に理解されて、その後の自民党総裁選挙、衆議院選挙により小泉首相
が総理大臣に再選されたという経過から判断して、今更反対だというのはミョウ
チクリンな話で、むしろ、イラク派遣法案(テロ特措法案)の手入れをして自衛
隊の現地での被害を最小限にするように手直しすることが必要との見解を持って
います。
・新聞社などのアンケートでは派遣反対が賛成論者より上回っていますが、60
年安保改定のときは、今では考えられないような世論の反対があったにも拘わら
ず、岸首相は強引にこれを国会で通過させました。この結果、日本は国家の安全
保障について忘却して、経済の大発展をとげ、あまねく国民が(反保守思想者は
残念でしょうけど)豊かになり、成年で海外旅行に行ったことがないなどと云う
人がいないという驚くべき高さのレベルで、その分布もかなりシャープな正規分
布の所得階層の国民が存在する国家を形成したのです。(世論というのが正しい
結果をもたらすもではないということ)
実際、朝日新聞をはじめ反保守の立場にあるものは、北朝鮮拉致問題で国民多数
の「反金正日」の声が高くなると、安易に「ポピュリズム」に陥るなと云って世
論を牽制し、イラク問題になると「世論」を聞けと都合の良いことを言っていま
す。(これまでのところ、日本は朝日新聞が反対することをやってきたことによ
り成功したので、今回もそのようになるのではと思っています。)
・ 私の現在の感覚は、歴史的に見ても日本はアメリカの影響を拒絶することが出
来ないということです。即ち、� 日本が江戸時代にそれまでの鎖国をやめたの
はペリー提督に脅迫によってであり、� 経済的な面を含めてどうにもならなく
なっていた日露戦争をタイミングよく日本の勝利という形で休戦させてくれたの
がアメリカであり、� 第一次世界大戦後、列強国家として名をつらねるように
なった日本に対して、ワシントン条約で日本の軍事膨張戦略を止めたのがアメリ
カであり、� 満州を建国し、中国への影響を強くした日本に対して、中国など
の東アジアへの権益を求める為に、日本への石油などの原料の輸出を禁止し、太
平洋戦争に引きずり込んだのがアメリカであり、�原子爆弾で日本を敗戦国とし
て追いやり、占領し、アメリカ式民主主義、憲法を押し付けたのがアメリカであ
り、� 朝鮮戦争が始まると、解散した軍事組織を再び作れと押し付けたのがア
メリカであり、�アメリカなどから技術を導入して、技術輸出国以上の技術開発
で重化学工業が発展し、� 日本製の電機製品や自動車を買ってくれて、私たち
を豊かにしてくれたのがアメリカであり、� その後、日本の経済拡張政策をと
める為に日米貿易協定を結んだり、更に現在ではグローバリズムの名のもと、国
際競争の中に日本を放り投げ、哀れな日本の経営者は、お互い日本企業間で製品
価格を下げあう為に日本人の雇用を解き、東南アジアや中国にその生産拠点を移
し、そのことを含めて日本に不良債権を作らせ、未曾有のデフレに追いこんでい
るのがアメリカなのです。(アメリカに抵抗できないということ)
野球を初め、戦後は特に音楽(ジャズや私の好きなカントリー&ウエスタン音楽、
ポピュラーソングなど)、映画、小説そしてディズニーなどアメリカ文化を多く
の日本人は喜んで受け入れ、影響を受けたのです。(反米でなく反ブッシュとい
うのであれば少しは理解しますが。それでも大江健三郎はアメリカという名のつ
くものはきっと接しなかったのに間違いはない)
・ 日本人のDNAはどちらかというと「判官贔屓」という言葉に表れるように、
世論は弱いものに対して力を入れがちですが(忠臣蔵や阪神タイガーズは顕著な
例・・・タイガーズファンの方々には失礼でした)、国家戦略としては、当然強
いものにつくべきであり、北朝鮮から脅かされ、尖閣諸島を中国からかすめとら
れようという状況においては、アメリカが本当に日本を守ってくれるかどうかわ
からないけれど、「日米安保」を信頼してアメリカのいう通りにせざるをえない
のではないでしょうか。(最近、ある国会議員のお兄様(私の先輩)から、「久
米チャン、サイレント・マジョリティでは駄目だ、ノイジイ・マジョリティにな
れ」と励まされました。)
・前にも触れた通り、総選挙で信任された小泉首相の政策に今更反対しても仕方
がないことで、護憲論者は現在の民主憲法から考えて反対する立場にはありませ
ん。軍隊を派遣するのが憲法違反だというけれど、日本国家はすでに「国が国民
の生命と財産を守る」という憲法13条(?)に関して北朝鮮による拉致被害者
や、デフレで大損した資産家(年金についても同じ)に対して憲法違反している
し、公明党と、創価学会というよりも池田教との関係をみれば明らかに政教分離
の憲法に違反している(新聞社はそれぞれ聖教新聞の印刷引き受けや創価学会系
統の雑誌などの広告収入の関係から絶対に創価学会——池田大作の悪口は書かな
い。週刊新潮が反池田で頑張っているだけ。新聞広告や電車の中吊り広告に新潮
社が創価学会に負けていると書かれているが、必ずしもそうではない。むしろ裁
判官や外交官を初めとする公務員に創価学会員がはびこっており・・・註:私は
創価学会そのものの存在を非難しているのではなく、独裁者池田大作の存在を問
題にしているのです。・・・その注意が喚起されていないことが問題)。また、
男女同権という時代にあって、憲法の中で「子女」なる女性を差別した条文があ
るということに護憲論者はどう考ええているのか。(いざとなったら「憲法」な
どクソ喰らえ)
・ 「集団自衛権」ということが問題になっていますが、実際、イラクで何かコト
が起こったら、アメリカをはじめ、オランダやスペインの軍隊に助けて貰えば良
いし、憲法に違反しようが、助けてやるべきである。特にオランダ軍に対するテ
ロ攻撃に関しては、自衛隊はテロ軍団を武力攻撃し、彼らを助けてやって欲しい。
何しろ私の娘はオランダ人と結婚しているので、日本が裏切り行為をしたら娘が
虐められて可哀相。朝日新聞から批判されてもオランダ人から感謝を受けること
のほうが名誉である。
・ 日本の外交官が殺されたが、朝日新聞や反米主義、反保守主義者らはとても
残念だったらしい。自衛隊がイラクに派遣されて以後にこの悲惨な事件が起こっ
たら「それ見たことか」と自衛隊派遣問題で小泉首相を叩けたのに、それが後先
になってしまいました。
・ そもそも、最近では子供に殺されたり、意味無く、わけなく人の命が毎日失わ
れています。自衛隊員が殺害されるのと、命という面でいかなる違いがあるので
しょうか。国家(アメリカ?)の為に命を捧げるという、昔ならば「尊い」こと
が今では「愚かな」ことに価値基準が変化しました。実際、口角泡を飛ばしてこ
の問題に発言している人々を、横から冷たく見ていると、自分たちの主義とか権
益を貫くために発言しているとしか思えません。こうした雰囲気の中でイラクに
派遣される軍人たちは気の毒です。併し、彼らは覚悟の上で自衛隊に入って、ま
あまあの生活を送れていたから仕方がないのかもしれません。
・ 初めに戻って、自衛隊が北朝鮮と戦ったために命を捧げたら「有難う」という
「感謝」の気持ちにつながりますが、「イラク」で散ったら「気の毒」「運が悪
かったね」というくらいにしか思えない。そのことが私の本来のイラク派兵問題
に関するもともと反対する「感じ」だったのです。(「感じ」で国政を考えてい
いとは思っていませんが)
最後に、私の後輩で今回新衆議院議員になったアメリカの安全保障問題の専門家
である、「長島昭人」氏(民主党)から、ブッシュは来年の大統領選挙までの間
に、必ず右から左旋回してくるので、慌てて自衛隊をイラクに派遣すべきでない
との意見を拝聴しましたが、その通りかもしれません。小泉流で、当面海上、航
空自衛隊を派遣して「ムニャムニャ」となんとなくやり過ごして、様子を見るの
も適当な策かもしれません。
『匿名性の変容』 2003.12.01 小野喜也(昭33経)
自分の姿は見せずに、他人の姿は見えるという状態は、古くからの人間にとっ
ての素朴な願いでしょう。物語から小説へと「透明人間」など、フィクションの
世界では昔から楽しまれて来たと思います。
大勢の人間が集まって暮らす都会では、お互いに名前を知らない人たちが、あ
らゆる所で顔を合わせています。家族、お隣、職場の他は名前を知らなくても、
生活はなりたちます。通勤のための乗り物から買物や飲食に立寄るお店と、生活
に欠かせない所で働いている人たちとも、お互いに名前を知らずに過しています。
何万人もが集まるスタジアムへ出かけても、銀座通りの歩行者天国を往復しても、
名前を知っている人に出会うことはまずないでしょう。
この大都会の生活環境は、自分の姿を見せないという状態に近いものです。自
分もまた他人のことが何処の誰だか判らないのですが、一種の匿名性を生み出し
ています。
ところが、歴史的には人間は、集落を作って暮らして来ました。農林水産とい
う第一次産業においては、近隣の住人が集団で生産活動を行う必要性があります。
近隣は血縁者を含めた職業集団でもあったために、当然ながらお互いに名前を知
り合っています。原点にまで遡らずとも、日本ではほとんどの市町村の単位では
匿名性は低く、何処へ言っても知った顔に出会い、他人に自分を識別されると同
時に他人を識別できる地域が広く存在します。匿名性の高まる住民数は100万
人以上の大都会だと言われますが、その様な大都会は現在でも幾つもありません。
地方都市では匿名性は低い状況にあります。
日本の伝統的な文化では、常に他人の目を意識していました。いまでも使われ
る「みっともない」という言葉は代表的な表現です。正反対の状況としては「旅
の恥じはかきすて」という言葉があります。名前を知っている人も居ない旅先で
は、「みっともない」ことも出来るということでしょう。
「恥」という概念は、お互いに顔も名前も知っている人間の集団の中において、
非難あるいは低い評価を受ける行為に対する自省を求めるものです。武士社会で
は「恥」は命を懸けて避けなければならない、最高位の禁忌でした。
農商工の社会にもその概念は浸透し、責任のある立場の人たちには強く意識さ
れていました。「虎は死んだら皮残し、人は死んだら名を残す」と汚名を残すこ
とは末代までの恥という、家名の連続性への意識も強かったのです。
しかしながら、今、この日本の「恥の文化」は、急速に失われつつあります。
行政権力の中枢にいる最高学府の出身者や、国民を代表する国会議員が刑事責任
を問われたり、大企業や医療機関の不始末や不正行為のお詫びの記者会見で、い
い年をした大人が雁首を揃えて頭を下げる光景は、見なれたものになりました。
自分たちの身近な集団における仲間意識と利害が、より広い社会への責任意識を
越えてしまったという場合が多いと思われます。
電車の中で化粧をする若い女性も目立ちます。人通りの多い道路脇に座り込ん
でいる若者の姿もよく見かけます。彼等にとって名前を知らない他人はまったく
意識されることはないようです。反面、携帯電話を通じて常に仲間と繋がってい
ることは常に確認したがっているようです。
これらの現象は、「自分は自分、他人は他人」という自主独立の考えが確立さ
れたのではなく、仲間内の利害の優先と外の社会への無関心という意識の、拡が
りを示しています。自らの生活を維持し生きていくためには、仕事仲間を必要と
する職業がほとんどですが、その仕事仲間は同時に、より広い社会の一部分であ
り、更には世界環境の上に成り立っているという現実は、まだまだ意識の上でも
行動に際しても稀薄であることを窺わせます。仲間内の顔見知りの間での、見栄
とかっこ良さが、行動原理となっている例は、それこそ枚挙に暇がありません。
池田内閣の高度成長経済政策から始まった、第一次産業から第二次産業への大
量の人口移動は、大都市人口を劇的に増やしました。その経済的効果の反面には
多くの問題が発生しています。地方における血縁と地縁を離れた大量の人々の意
識は、職縁という仕事場の中に転換され、職場以外では精一杯に個人の自由を享
受したいという規範と規律のない自由を追求して来ました。そして、その次ぎの
世代はまだらに親の世代の影響を受けながら育って来ています。
そして、さらに第三次産業への従事者の増加が進んで、職場における村構造も
変化しつつあります。このような大都会の匿名性は、同時に「大衆の中での孤独」
という性格を持ちますから、それへの対処の不器用な人たちも沢山生まれていま
す。少年から青年、さらには親となっても、適切な人間関係を築けない人たちが
大量に発生して、社会問題となっています。
この狭い範囲の人間関係を軸とした日本人の意識を変えることは可能でしょう
か。武士道の伝統を捨てて、村の意識が主流となった敗戦後の日本人社会に、武
士道の価値観を甦らせることは難しいでしょう。「教育」と「躾」に期待しても
既に教える側に無いものは伝えられません。
常に変動を続ける世界環境に適応して、安全と平和を維持しながら経済的にも
高い水準にある生活を将来に亘って続けるための、意識改革への良策は何かと考
えるとき、それは技術革新の中に期待できるのではないかと思われます。
いうまでもなく、インターネット高度利用の社会の実現です。
遅蒔きながら、今日から始まる地上波デジタル放送への切り換えは、テレビとコ
ンピューターとの融合をもたらせます。パソコンとテレビの共生はすでに商品化
されましたが、携帯電話とテレビの組み合せも間もなく実現するでしょう。何時
でも何処でも情報を得ることが出来て、双方向で自分からも情報が送ることの出
来るという環境は、これまで人類の経験しなかった社会です。
あらゆる個人情報も蓄積が進みます。大学生の就職活動にインターネット利用
が欠かせない状況となり、エントリーシートという名の履歴書は、企業に蓄積さ
れ続けます。金融機関との取引から格安商品、ネットオークションと経済的な利
便と、より安価な方法を利用するための、ネット利用によっても個人情報は確実
に外部に蓄積され続けています。
地方自治体の行政サービスもコンピューター利用が進みます。自分の手の届か
ない所に蓄積され続ける、自分の名前と個人情報が不正に流失する事件も増えて
いますが、これらの情報は使い方次第では「匿名性」をかなり減少あるいは喪失
させる可能性を持っています。
自分の名前をネット検索をしたことのある方はご存じでしょうが、誰かが自分
の名前の含まれたサイトを発信していると、検索エンジンはほとんど洩れなく知
らせてくれます。個人でホームページを発信していなくても、所属するあらゆる
団体のサイトには個人名が掲載されています。報道機関の記事もあります。現状
ではまだ掲載されていない人も、いずれは掲載されることになるでしょう。
個人を識別する名前には同姓同名もありますが、付帯する情報で識別できます
から、名前という「パーソナル・アイデンテティ」の重要度は、総べての人にと
って増えつつあります。この様な状況が進むと、今度は住んでいる所が大都会か
村であるかは関係なしに、これまで見えなかった顔と名前を、大勢の他人が認識
する状況が進行することでしょう。
テレビに顔を出す人が有名人である状態は、今後もさらに拡がりながらネット
に多数出ている人も目立つようになり、やがては誰もが「匿名性」を失う社会が
出現する可能性があります。
自分の姿は常に他人に見られていて、自分もまた大勢の個々の他人の姿を知っ
ているという社会は、どのような社会になるのか、一部は先祖返りする部分もあ
りながら、まったく新しい状況も生まれてくるでしょう。
匿名やプライバシーについての感覚や思考もまた、変化を続けていくであろう
と、今から楽しみです。
『憲法問題と福祉問題』 2003.11.21 小野喜也(昭33経)
今月9日に行われた衆議院議員選挙では、初めて自由民主党が憲法改正を目指
すことを掲げました。これに対して共産党と社会民主党が「戦争反対、平和憲法
を守れ」とあいも変わらぬ主張を唱えましたが、投票の結果は惨敗となりました。
先の敗戦後の占領が終わって以来、東西冷戦の下に国内の左右両陣営の激しい
対立によって、憲法改正問題は触れることの出来ない「タブー」のようにされて
いました。平和運動と称する「祈りと願い」で戦争を防げるという空想的平和主
義は、猛威を振るっていましたから、保守系の国会議員も改憲論を唱えることは
しませんでしたが、ようやくその様な社会状況は終わりを告げたと思われます。
国際状況の変化、取り分け北朝鮮による日本人拉致の事実が明らかにされたこ
とによって、攻めなくとも攻め込まれる場合があるという国際関係の現実に、国
民は気付いたものと思われます。また日本各地に照準を合わせた長距離ミサイル
に核弾頭を乗せる計画も、北朝鮮では着々と進んでいることも認識されました。
國と国民の安全を守るためには、占領軍のお仕着せで作られた今の憲法では、
もう対応できないことを、多くの国民は認識したための投票結果であったのでし
ょう。
あらゆる物は変化を続けるという真理からすれば、人が作り社会を形づくる法
律もまた、変化に対応して改正を積み重ねる必要があります。國の基本法である
憲法はそうちょいちょいと簡単には変えられませんが、それでも30年毎に見直
しをする必要があると、昭和30年代から福田恒存さんは『当用憲法論』で主張
しておられました。まさしく正論であります。
これから、憲法改正についての議論が始まります。国会議員の方々はもとより
国民各層から、安全保障に限らない幅広い意見を闘わせて、國の形を再構築する
ための議論が行われることが望ましいと考えます。
明治憲法を制定する前には、福澤諭吉の主宰する交殉社の憲法草案をはじめと
して、全国各地の民間団体から様々な憲法草案が発表されましたが、伊藤博文の
主導する政府案に取り入れられることはありませんでした。大日本国憲法は明治
22年に天皇の名において発布され、ただちに貴族院が設置されました。第1回
帝国議会が開会されたのは翌年の明治23年です。
そして、昭和20年の敗戦の翌年昭和21年には、占領軍総指令部の草案に基
づく日本憲法がまとめられ、婦人参政権を認めた総選挙を経た国会でただちに可
決し制定されました。つまり、歴史的経緯をひもとけば、国民が憲法についての
実質的な議論に参加することが出来るのは、これからが初めてということです。
その意味において、各界各地域のオピニオン・リーダーは極めて責任の重い立
場にあり、これまでのようなお上(国家公務員)まかせの法案とならないよう、
議員を厳重に監視して、国民の意見を反映させるよう努める必要があります。
さて、憲法問題は新たな段階への道筋が見えて来ましたが、お先真っ暗なのは
福祉政策です。
総選挙の最中も与野党こぞって年金と福祉を守ると公約をしていましたが、給
付と負担の相反する影響をどのように配分するかは、与党内でも未解決です。
年金制度も福祉制度も、実は出生率が低下して来た30年も前から、このような
危機的な事態がやがて来ることは分かっていました。人口分布の年を追っての変
化は最も確実な将来予測の数字です。
例によって例のごとく、公務員の問題先送り体質と、不勉強で選挙民の顔色を
うかがうばかりの議員たちは、最初は問題を隠しつづけ、やがて隠し切れなくな
っても、なお甘い期待を振りまき続けています。
難しいと言われる年金も、原則の理解は簡単です。一つの家族で子供が一人だ
と、子供が結婚した時には双方の両親の老後を世話するには、子供が二人で四人
の年寄りの面倒を見ることになります。平均的な出産率は一家族1.3%台まで低
下しているのですから、これから先はますます、若い世代が年寄りのために担う
負担は増えます。
年金も健康保険も収入のある世代が、収入の無いか少なくなった世代を世話
する仕組みである以上は、人口の減少する期間に、この仕組みを維持することは
容易ではありません。
若い世代の国民年金納入をしない人の数が、30数%に達していることは、既
に現行制度による負担を続けることへの、若い世代からの信頼を失っていると見
えます。負担をしても自分が高齢に達した時の給付への不安が大きいのでしょう。
あるいは、追徴制度が甘ければと単なる逃避も含まれているかも知れません。
奨学金の返済が渋滞していることと、同様な背景も感じられます。
すでに、高齢化が急速に進んでいる日本社会で、出生率を引き上げることには
長い期間が掛かることでしょう。加えて男女双方の結婚の高齢化と、未婚のまま
過す層の増加がありますから、容易に事態は変わらないと考えざるを得ません。
となると、負担増加を押さえて給付も押さえるという以外に解決の方向はありま
せんが、負担の割合いを細分化したり、給付の抑制も細分かして、ある所からは
取り、また押さえるという、対症療法の繰り返しの方向になりそうです。
厚生労働省の案は、国税負担の割合いからして財務省と真っ向から対立してい
ますが、例え国税での補填をしたとしても、無限には続けることは不可能であり、
予算の配分を巡って激しい対立の生まれる可能性があります。
年金をはじめ福祉制度の問題もまた、憲法問題と同様に「タブー」は解かれて、
白日の下での喧々諤々の議論が起こることが予想されます。
弱者は社会で守る必要はありますが、同時に各人の自立と自助への道を開く制
度である必要があります。失業保険の制度も維持が危なくなって給付基準をなし
崩し的に締めていますが、本当に必要な人へ届いているのか審査にも問題が多々
あるようにも見えます。
その意味において、公務員と族議員が税金の出口で自己利益の獲得に熱中して
ゼネコンはじめ土建業界が恩恵を受けた構図の中で、国民もまた税金からの余得
を受けなければ損だと言うような風潮が、日本社会に満ちみちでしまったようで
す。
税金というものは、法人であれ個人であれ、國との関わりの基本です。税率と
徴集は公正でなければ信頼は生まれません。クロヨン(964)とかトーゴーサ
ンピン(10、5、3、1)と言われる業種業態別の、課税捕捉率の不公平感は
放置されたままであり改善しなければなりません。
それにしても、他人様の納めた税金の分け前ばかりを求める個人と、それを煽
りたてる政党があり、国民に甘い期待だけを振りまいていても、すぐに現実の厳
しさに突き当たります。
これまで10年を越えて不況の解決を政府に求めていた中小企業の中には、自
立自助のみが生存と成長への唯一の道だと覚った動きが出て来ました。個人もま
た同様です。國も地方も巨額の借金を背負ってしまっている以上、いくら頼って
も助けは減る一方なのです。
政府を頼る国民が多ければ多いほど、全体は沈み続けることでしょう。
そして、総べての人の分け前は減り続けて行きます。負担を担ってくれる層が現れ
ることはありません。国民の一人一人が自立自助を原則として生活設計をしなけれ
ば、この國の将来への道は開かれないでしょう。
公務員の、公務員による、公務員のための國から、国民の國にするためにの基本
を確立するための「憲法改正」を行い、その中で家族・地域の共生する「福祉社会」
を着実に長い時間を掛けて、建設しなければならないと考えております。
『日本を支配しているのは誰なのか?』
2003.10.23 小野喜也(昭33経)
建前と本音の使い分けはどこにもあるようですが、日本を本当に支配している
のは誰なのか、昨今の出来事から次第に見えて来たようです。
無駄使いへ批判の多い道路公団の藤井総裁が、国土交通省の石原大臣の辞職勧
告を蹴飛ばして徹底抗戦をしています。一般の常識からは考え難いこのような事
態はなぜ起こっているのか、この國を実際に支配している構造を、すべての国民
が考え直すための歴史的な機会となったようです。
文部省の主管する義務教育の教科書には、日本は民主主義の國だと書いてあり
ます。民主主義とは「立法と司法と行政」の三つの権限がそれぞれに独立して機
能して、互いを侵さない三権分立の制度だとあります。
あらかたの人は、この教科書に書いてあることを信じていますが、これは単な
る建前に過ぎないようです。この國での本音は、敗戦前の官吏であった人たちが、
国民を支配する体勢を続けようとしたところにあります。
官吏は国家公務員と名前を変えましたが、公務員すなわち公のために務めると
いう英語のパブリック・サーバントの精神には、程遠いのが実態です。敗戦前と
同じように、国民を意のままに指導する「お上」としての権益の仕組みが、保た
れ強化されるよう努力が続けられて来たのでしょう。
教科書にも書かれず、新聞も報道しませんが、敗戦後の国家公務員の仲間内で
の評価、つまりは立身出世の競争のための評価は、「法律を国会で通すこと」と
「天下り先を作り出すこと」の二つであることを、民間人でも知っている人は古
くから知っています。この二つの仕事が各省ごとに一所懸命に継続して行われて
来ています。
ここでまず不思議なことは「法律を国会で通すこと」が、何故、行政の役割を
担っている国家公務員に求められているかと言うことです。民主主義の基本では
法律を作るのは立法府の役割で、国会議員がやるべき仕事です。それが行政府の
仕事になっているところに、この國の基本的な問題があります。
ご承知のように、日本の国会で審議される法律案のほとんどは政府提案のもの
で、それらは所管の省で作成されています。予算案もまた例外ではありません。
野党からの法案や議員提案の法律も、幾らかはありますが、まず例外的な存在に
留まっています。
このような仕組が作られ、今でもまかり通って来ている、その歴史的な背景と
事情の検証はさておいて、これだけを見ても占領統治下の時代にも、支配者の本
音は日本を民主主義国家にしたくなかったことが窺われます。
日本の大学では、法学部に法律を作ることを教える講座はありません。元来は
官吏を養成するために作られた東京大学においても、出来上がった法律の解釈だ
けを教えています。他の国立大学でも私立大学でも同様に、法律を作るための知
識も技術も教えていません。つまり日本では明治憲法の時代から一貫して、法律
を作ることは中央官庁の内部で、指導され訓練を受けた人たちが占有して来てい
るのです。政治家は立法の機能を持っていないのです。
多くの國のことは知りませんが、アメリカの大学では法律を作ることを教えて
います。首府ワシントンには民間の法律事務所が沢山あり、議員が新しい法律の
アイディアを持込めば、議会に提出する法案としてまとめてくれます。議員もま
た政策担当秘書を持っていて、自分の考えや支持団体の要望に添った法案の土台
作りをしています。政策秘書の國からの給与をピンはねするような議員もいませ
ん。
比較をすれば一目瞭然です。日本では民主主義は建前であって本音ではありま
せん。であればこそ、民主主義の基本中の基本である「主権在民」もまた建前で
あり続けてしまうのでしょう。国民の自覚が足らないと言う人もいますが、教科
書からして、その様に誘導し続けて来たことを忘れて貰っては困ります。
大臣を表に立てて台本通りに喋らせ、法案の審議をする国会議員を族議員とし
て味方にし、与党の有力者にはすり寄りながらご説明と称する説得を重ねて、自
らの作成した法案を通して来たのが、国家公務員集団なのではないでしょうか。
大臣はたいていは公務員のお膳立て通りに動いて来ました。例外的に利害が対
立すれば、任期の短い大臣には徹底的に反抗をして、腕力の強い与党幹部との結
び付きを利用して大臣を辞任に追い込んだことは、田中真紀子元外務大臣のケー
スが見せてくれました。彼女は外務省の課長の首すらも切れなかったのです。大
臣も公務員の協力を取付けなければ、仕事が出来ない仕組みになっているのです。
藤井総裁も外郭団体ながら、国家公務員と同様に簡単には首を切られないよう
に法律で守られているようです。たとえ国会に喚問されても、公務員が自らの責
任を認めた例は見たことがありません。必ず知らぬ存ぜぬと言い張ります。山一
証券の破綻を指導したと喚問された大蔵省高官も追求を逃げ切りました。道路建
設の膨大な建設費の無駄使い、割引運賃制度の不明朗な運営についも、実行した
責任は道路公団の長には無いという感覚なのです。もし、国土交通省が総べてを
承認していたのであれば、それはまた別途に国土交通省が責任を追求されるべき
であって、道路公団総裁の責任を軽くするものではないと考えるのが常識です。
建前の民主主義において、行政府の公務員が政治家の思惑や恣意によって首を
切られないようにと、守られているのだそうですが、その法律もまた国家公務員
が立案したものに違いないでしょう。まさに悪智恵の限りが尽されています。
個々の公務員の資質や清廉度とはお構いなく、集団としての公務員はあくまで
も、集団の利益に忠実に法案を作り、天下り先の開拓を続けています。
そして、国民からの選挙による批判を受けることもなく、国民の付託を受けた所
管大臣をも支配して自己増殖を続けています。国土交通省の次官として建設技官
の頂点を極めた藤井道路公団総裁には、そのことを成し遂げて来た自負と自信が
あるのでしょう。
国家公務員の天下り先をコントロールしているのは、中央各省の秘書課だと言
われていますが、秘書課長が独断で決められるのではなく、局長からはじまり
次官へ、さらには次官経験者の大物たち、最後はドンと言われるOBが関与して、
政治家との折衝もあるようです。藤井総裁も大物の一人なのでしょう。彼の徹底
抗戦を支えている背後の力を感じます。
そのことから、藤井総裁と旧創世会との軋轢説や、橋本派青木参議院議員から
の追い落とし説などが、様々に取り沙汰されていますが、そのような憶測に血道
を上げている報道は、すべて現状の建前としての民主主義に満足しているように
見えます。それとも支配者としての公務員批判は未だにタブーなのでしょうか。
法律を作り、足りない部分は省令とか通達を使って、行政指導という英語には
無い概念で、所管する業界を支配している国家公務員が、日本を支配していると
というのが本音の実態ではないでしょうか。自らは価値を産み出すことのない公
務員機構が、国民の負担の上に座って貪り続けている構図に見えます。
行政改革は土光さんの臨時調査会以来、微速でしか前進していません。中曽根
内閣は本省までは手が届かずに国鉄、専売、電電の半端な民営化に留まりました。
橋本内閣は内閣府を強化し省庁統合を行いましたが速効性は生みませんでした。
小泉首相が頑張ってみても、自民党ではシガラミが多くて改革は進まないという
説もありますが、たとえ民主党が政権を取ったとしても、今の公務員機構の上に
乗り続けるのであれば、大きな相違は生まれて来ないのではないでしょうか?
国立大学を独立行政法人にするなど迂遠な方法ではなく、まず東京大学をなく
して、公務員のなり手を広く募集し、公務員法を改正して、行政責任を問う制度
を作り、行政監査を厳正に行うなど、現在の国家公務員による国民支配の体制を
崩すための方策を、マニフェストとして示す政党や政治家の出現はあるのでしょ
うか。改革を口にしながら先延ばし、引き延ばしを計り、自らの権益を守ろうと
する人たちの支配から抜け出さないと、財政破綻の危機から脱する、国民にとっ
ての明るい展望は開けてこないでしょう。
敗戦後の日本の行方を固めた吉田茂首相をはじめ、日本の総理大臣を務めた人
は圧倒的に戦前からの官吏出身者であり、東京大学卒業生でした。今もなお天下
りに近い形で、衆参両院の議員となっている国家公務員出身者は数多く存在しま
す。県知事もまだ同様です。これを行政府による立法府の支配と見ることは自然
な観察です。幕府を倒した明治政府が憲法を制定し議会を開いても、国民を支配
し続けたように、専制の亡霊は姿形ちを変えながらもしぶとく生き残っているよ
うです。
国家財政も地方財政も現在の危機から脱出するためには、国民が主導する自己
努力しか方法はありません。税金を取り立て、税金の出口を押さえている国家公
務員、群がっている族議員と派閥、それに寄り縋っている産業と企業は、寄食を
止めて自立への道へ進んで貰わなければなりません。彼等は他の多くの国民の負
担の上に生きていることへの感謝も気兼ねもありません。
民主主義の本来の主権在民の道へ進むためには、一票の格差をなくすことも必
要なのです。現在の大きな格差を合憲とする司法にまでも、支配者の魔の手は伸
びているようにも見えます。三権分立は絵に書いた餅のように建前に留まり続け
ています。
しかしながら、中曽根内閣から後の11人の内閣総理大臣は、宮沢内閣を唯一
の例外として、国家公務員出身者は選ばれていません。やはり時代は変化を求め
ているのでしょうか。県知事にもまた私学出身の公務員経験の無い人が増えて来
ました。ここに希望の道筋がかすかに見えます。
国民は投票権を行使する以外には、この支配者の収奪から逃れ、破局へ進む道
から逃れる方法はありません。
近く行われる衆議院総選挙において、国家公務員出身の候補者の得票数と当選
者の顔ぶれを見ることで、誰にどのように支配されているか、国民の認識の度合
が測れることでしょう。 そして、支持政党なしという有権者の半ばに近い層が、
こぞって投票に向う時にこそ、主権在民という本来の民主主義への道が開かれる
ことでしょう。
『インターネット選挙自由化と電波規制撤廃』
2003.08.23 小野喜也(昭33経)
自民党総裁選挙を9月に控えて、旧盆明けから自民党内の動きが活発になって
来ました。小泉、反小泉を巡る思惑と駆け引きは自民党内のことではありますが、
同時に総裁選挙の後に控える衆議院議員選挙を、どのように戦うかについての思
惑と駆け引きが重要な要素として絡んでいます。
改革を前面に打出した小泉内閣の発足以来、国民の高い支持率の前に改革を唱
えない政治家は与野党ともに皆無になりましたが、実際には既得権を擁護するこ
とに熱心であって、改革を妨げている人達が存在します。
ここらあたりの見極めは実に厄介で、一般の有権者にとっては判り難く、また
政治家も判りにくくすることを意図していると考えられます。
そこで民主党からは「マニフェスト」なる外来語を使って、政策を明らかな争
点としようという動きが出て来ました。
これまで、政治家と政党の掲げる政治目標が明確に示されず、選挙の時だけに
唱えられたり、有権者もまた政治家の公約などはその程度のものとの認識があり
ました。このことは、政治家と政党の主義主張が日常的に明らかにされていない
環境が作り出した現象です。
すぐにでも出来ることは、インターネットの選挙期間中を含めた利用を自由化
すること。さらに時間は掛っても、電波規制を撤廃し国会の委員会と本会議のす
べてを実況放送するテレビを生み出して、報道の自由化を図ることによって、民
主主義は間違いなく前進すると考えられます。
国会における各法案に対する、個々の議員の賛否の記録は公表されなければな
りません。有権者にとっては投票に際しての重要な判断材料です。
インターネットの選挙期間中の利用は、これまでも一部の野党議員からの働き
かけはありましたが、総務省はいまだに「公職選挙法」に抵触するとして規制し
ています。
選挙期間中に有権者へ配付出来るのは「はがき」と「チラシ」に限定した現行
法の主旨は、選挙の必要経費を抑制しようとしたものと考えられますが、現職有
利への思惑も裏にはあるのかも知れません。
大勢の人達へ自分の主張と考え方を伝えるには、インターネットが最も安価で
あり、掲載した時点でダウンロードされることもありますから、食言は許されず
いい加減なことは言えなくなります。
衆議院議員選挙の前に、是非ともこの「公職選挙法」改正案を野党からでも提
案して頂いて、その改正案に対する各議員の賛否を公表して貰いたいものです。
当会サイトでは、早くから政党と選挙区別に分類した国会議員のホームページ
へリンクをはって、インターネット・デモクラシーの推進へ努力しておりますが、
国会議員の中にはまだホームページを開設しない方もおられます。地方議会議員
に至っては開設者は少数派に留まっています。携帯電話でも見ることの出来るよ
うに、規制を撤廃することによって、政治情報は広く公開され、民主主義は前進
することになります。
テレビ放送に関しては、 CNNなど海外からの衛星テレビ報道を自由に見られ
ない國はアジアでは北朝鮮と日本だけだと言われています。北朝鮮は論外であり、
中国もインターネットを規制していますし、海外の衛星テレビを誰もが視聴でき
るとは思えませんが、いずれも共産主義政党の独裁する國ですから、そんなもの
だとしても、日本の現状は改革されなければなりません。
電波を割り当てる許認可制度として、利権を生み出し公務員は外郭団体を作り、
利権構造に乗る族議員の影がこの分野にも存在します。ケーブルテレビについて
も同様に地域単位の許認可制で、東京都内でも未だに契約出来ない地域が存在し
ています。この規制は報道機関と報道内容への影響力を生み出していることは事
実でしょう。
原則規制の日本に対して、原則自由の米国にはテレビ局の数は膨大です。
どこの地域でも70チャンネルほどは視聴が可能だと思われます。ケーブルテレ
ビも熾烈な競争をしていて次第に広域化へ向っています。
中でも、注目されるのは「C‐SPAN」Cable Satellite Public Affairs
Networkというテレビ局で、民間による議会中継専門テレビを放映しています。
議会の本会議、ホワイトハウス、ペンタゴン、国務省の定例記者会見、公聴会
からシンクタンクのシンポジウムなどを編集なしで、ケーブルと衛星放送のテレ
ビ、ラジオで二十四時間放送しています。三つのチャンネルを持ち夫々が、下院
本会議、上院本会議、公聴会を分担している、いわゆる卸しの局です。
この「C‐SPAN」から配信を受けた衛星放送会社とケーブルテレビ会社
は、それぞれの判断で一つから三つ全部を放映していて、八千万所帯が視聴可
能とされています。「C‐SPAN」の収入は配信先からの加入所帯当たり数
セントという契約のみですから、広告主や補助金などへの配慮は不要であり、
中継中心のため製作費は少なく、スタッフ数も少ないのです。
解説やコメンテーターの自説も入らないので、視聴者は政治や社会への関心
の高い若者と知識水準の高い中高年であるとの調査結果もあり、投票率も90
%と高いことが伝えられています。
日本で、この様なテレビ放送の実現することを、阻んでいるのは誰でしょう?
またその理由は何でしょう? それこそ所管官庁の長は自説をホームページに
掲載して頂きたいものです。
郵政民営化、道路公団民営化もまだまだ簡単には進まないという、この國に
は、「インタネット選挙自由化と電波規制撤廃」と同様に、国民が主権者であ
るために必要な規制撤廃による改革が、まだまだ各分野に山積しています。
小出しの「規制緩和」ではなく、「規制撤廃」への道を進まなければ、この
國の前進はありません。国民はそのことに何時気がつくのか、次ぎの衆議院選
挙の結果が注目されます。
『民主主義と官主主義』 2003.08.10 小野喜也(昭33経)
貴方も私も、敗戦後に日本で義務教育を受けた人は、誰もが我が日本国は民主
主義国家だと教えられて、その仕組みを社会科などで教えられました。
小学校から中学校さらに高等学校、大学でも同じ様に教えられています。しかし
この民主主義国家というものの中味は、それぞれの國によって歴史と文化によっ
て、様々な彩りがあって必ずしも同一のものでは無いことは、教わりません。
自分で他の民主主義の國へ行って、見聞をし或いは生活をしてみると、たちま
ちにして、日本と異なることが沢山あることに気付きます。
外国へ行っても短期間の観光旅行の場合は、水族館の水槽の外から魚を眺めるよ
うな具合ですが、それでも人によっては多くの相違に気付きます。留学あるいは
仕事で外国で生活をすることになると、今度は嫌でもその違いを痛感することに
なります。
日本が民主主義国家となったのは1945年8月に、大東亜戦争(大平洋戦争、
あるいは第2次世界大戦とも呼ばれますが)で、連合国に負けてからのことで
それまでは明治憲法に基づいた立憲君主国家でした。
連合国に占領されていた間に作られた、今の憲法によって日本は民主主義国
家となりました。この憲法は民主主義の原則に添ったものです。
しかし、占領軍は占領政策を円滑に進めるために、官庁組織を手直ししただ
けで利用しました。廃止されたのは陸軍省、海軍省、内務省など戦争遂行を指
導した中心機関であり、その他の省庁は名称変更や指導者の更迭などの手直し
はあったものの、官吏はそのまま日本の國の仕事を続けました。
占領軍の軍事力による制圧の下で、行われた数々の民主化政策に対して、
国家公務員と名前を変えた官吏は、表面的には従いながらも、様々に抵抗して
従来のやり方を残すことに専念してきたと考えられます。それは忠君愛国の精
神で育てられて来た官吏としては当然のことであったと思われます。
その後、講和会議を経て占領は終わりましたが、米ソ対立の冷戦の環境下に
おいて、日本国内の左右両陣営の政治的な対立は激しく、占領下の憲法はその
まま手直しをされることなく現在に至っています。
この日本の民主主義において、他の國と違っていることは何でしょうか?
最も重要なことは、「立法、司法、行政」の三権分立によって権力の暴走を避
ける仕組みが働いていない点にあります。
法律を作るのは立法府すなわち国会の仕事ですが、法案のほとんどは政府と
いう行政府の提案に依存していて、実際に法律を作っているのは所管官庁の国
家公務員であり、国会議員やそのスタッフではありません。近年にいたり議員
立法を増やすべきとの動きもありますが、その数はまだ僅かです。
敗戦後も戦前に引続いて、國を治めるための法律作りは官吏が独占して来ま
した。この法律作りと天下り先の機関を作ることが、戦後の国家公務員として
最も重要な仕事であり、仲間内の評価の決め手であったのです。
当然のことながら、政府提案を行う法案は政府を指揮する内閣総理大臣をは
じめ閣僚の指示と承認が必要であり、与党内の各部会への根回しと承認が必要
でもありますが、文案を作るのは専門家である国家公務員であることに、誰も
不服はなかったのです。
そのために、日本の大学では法律の作り方を教えている大学法学部は、東京
大学をはじめとして一つもありません。すべての大学の法学部で教えているの
は、出来上がった法律をどのように解釈するかというものばかりです。
対照的にアメリカの大学の法学部では法律の作り方を教えています。政府機
関と研究機関の人材交流も盛んなアメリカでは、首都ワシントンに法律事務所
が沢山あって、上下両院の議員が法案を提出するのを手助けする仕組みになっ
ていますから、法案の多くは議員提案であり政府提案ではないのです。
このことは、日本が民主主義を掲げながら実体は官主主義であることをもた
らせた基本原因ではないでしょうか?
立法と行政の暴走を制御するべき司法の働きにも重大な欠陥があります。
その根本の問題は、国会議員の選出の基礎となる選挙区定員の数の較差を、
何倍という大きな幅で認めている点にあります。この問題は古くから指摘され
訴訟も起こされていますが、最高裁判所の壁に阻まれています。都会の1票は
地方の0.5票にも満たない投票権の較差は、民主主義の名とは程遠いものです。
累進的所得税をはじめ税金を都市部から吸い上げて、地方へ散布する方法
はこれまでには国民全体の生活水準を押し上げましたが、今では弊害が多く、
國も地方自治体も財政は破綻状態です。この政策を支え国会の内での多数派
を維持し続けて来た仕組みである、投票権の地域較差は基本的に改めなけれ
ば、三権分立が機能しているとはとうてい言えません。
北朝鮮の拉致問題から、核兵器製造、ミサイル保有の軍事的脅威への意識
が高まり、國と国民の安全保障への認識はようやく変化しはじめました。
憲法改正への意識も大きく変わりつつありますが、憲法改正の必要性は前文
と第9条だけではありません。より広範囲な検討が必要であり、同時に現在
の運用にも、基本的な問題があることを考えて改革を進めなければ、日本の
進路は開けないと思われます。
國の根幹を改めるのですから、一朝一夕にはことは進みません。
まず、国民一人一人が「自立自活」を旨として、国民の払った税金を利用し
て、省庁の利益を最優先して築き上げられている、公務員集団の膨大な利権
構造を崩さなければなりません。
ディレギュレーション「規制撤廃」で経済再生を果たしたレーガン政策を
「規制緩和」と意識的に誤訳して、世論を見ながら小出しに百分の一ほどの
緩和でお茶を濁そうとしている、抵抗勢力の中核は公務員集団です。個々人
の公務員は、大組織の利害の中にいては、良識がある人も無力です。
立法機能を公務員の手から、立法府に移すための法律を公務員が作るはず
もありません。行政改革、政治改革、司法改革と総べてがリンクしている
大きな問題の改革を、根気よく追求しなければなりません。
誰かが何とかしてくれることはありません。僅かに残された国民の権利で
ある国会議員選挙の場を活かして、より良い政策を実現できそうな候補者の
中から選び投票をすることを、国民が実行するようになって、民主主義が前
進するのだと考えます。
自民党の総裁選挙は来月です。そして間もなく衆議院議員選挙となります。
投票をしないで済ませて来た人達は、「投票をしても世の中は変わらない」
と考えて来たようです。それは日本が世界環境に恵まれて、右肩上がりの経
済であった時代の話です。
今では投票をしなければ、悪い方向へまだまだ進むのです。 もし、投票
率が10%上がれば選挙結果はこれまでとは様変わりになるでしょう。20
%上がれば当選者の顔ぶれもがらりと変わることが考えららます。
日本の進む方向を決める投票の権利を使う人を増やすことが当面、私たち
のより良い将来を築くために出来ることです。
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『柔道は"肉体言語のODA"』 古森 義久さん (昭38経)
産経新聞 「緯度経度」 2003年6月8日(日)より転載
ハイチといえば、カリブ海に浮かぶ島々の諸国でも最も貧しく、最も政情の
不安な國として知られる。日本にとっては最も遠い國の1つといえよう。だが
そのハイチでは、日本の柔道が意外と盛んで、ワシントン在住の日本人柔道家
の宮崎剛氏が五月中旬、指導に招かれ人気を博したという。
フランスの植民地だったハイチは独立後、デュバリエ父子の独裁支配や軍事
クーデターの頻発で政治の混乱が続いた。米国はクリントン政権時代の一九九
四年、ハイチでの軍事独裁の悪化や住民の大量脱出に対して、国連の支持を得
て、多国籍軍をつくり、介入した。二〇〇〇年には民主的な選挙でアリスティ
ド大統領が政権を固めたものの、政情の不安は続く。米国務省ではハイチを一
般米人の旅行は避けるべき危険な國として扱っているほどだ。
日本政府はハイチに毎年、十数億円の政府開発援助(ODA)を供与してい
るが、そのうちの草の根文化無償援助七百万円ほどを初めてハイチの柔道界へ
の支援にあてることになった。ハイチ側からの年来の要請に応じ、柔道用の畳
二百九十枚と柔道衣五百着を贈ることを決めたのだ。今年がハイチと日本の国
交再開五十周年にあたるため、その記念も兼ねていた。
ところがハイチ側はこの援助と同時に「日本の柔道師範の来訪を」と強く望
んだ。だが日本から人を招くのは予算限度一千万円強の草の根援助では財政的
に無理で、招聘に応じる人をみつけるのも難しい。そこでハイチの日本大使館
の北沢寛治臨時代理大使や高場輝之派遣員が工夫して、ハイチまで飛行機で四
時間ほどのワシントンから宮崎氏を招くことにしたという。
宮崎氏は米國柔道界では広く知られた講道館八段の大ベテランだが、治安が
悪いうえ、電気も不十分、道路も未舗装のガタボコの首都ポルト-プランスへ
の招聘に気軽に応じ、五月十七、十八の両日、現地の柔道教師たちと選手代表
それぞれ三十人ほどを冷房なしの猛暑のなかで三時間ずつみっちり指導した。
指導に先立っては柔道衣などの贈呈式が催された。
ハイチの柔道人口は約三千人、首都周辺の地域には四十数カ所の柔道クラブ
がある。だがどのクラブも施設は貧弱で、パイナップルの葉の上に古びたキャ
ンバスを敷くところがほとんどだという。柔道は最初は旧宗主国のフランスを
通じてはいってきたが、「正座」「礼」「始め」「大外刈り」「背負い投げ」
など、練習や試合の用語はすべて日本語が使われる。宮崎氏が語る。
「いやあ、パイナップルの葉の道場へ行ったら、正面の額に講道館始祖の嘉
納治五郎氏の『精力善用、自他共栄』という標語が掛けられ、稽古するハイチ
人がみな日本語でそれを唱和するのには驚きました。私の指導にも生徒たちは
みなびつくりするほど真剣かつ熱心に応じてくれました」
高場氏の話によると、ハイチで柔道を学ぶのは社会でも中流以上の人たちが
ほとんどで、学生以外では政府職員、技師、ホテルやレストランの関係者が多
い。ハイチ柔道連盟の副会長アーネスト・ララク氏は元大臣だが、宮崎氏主導
の講習にも柔道衣を着て加わったという。
北沢臨時代理大使もこの講習の効用を高く評価した。
「柔道への支援、とくに宮崎氏による指導は地元のテレビや新聞で大きく報道
され、宣伝効果は絶大でした。日本といえば従来、工業製品のイメージばかり
でしたが、柔道のデモンストレーションで肌の触れ合う人間レベルの交流とな
り、日本の文化や伝統が伝わったと思います」
ちなみに、この柔道指導のODA支出は宮崎氏の旅行経費のわずか一千五百
ドルほど、柔道衣などの贈与を含めてもハイチに対する日本の年間援助の二百
分の一にすぎない。友好や交流とは縁のないまま投入される中国への年間一千
数百億円のODAからすれば、なんと二万分の一である。
柔道が日本側一般で想像するよりずっと国際的に普遍となっている現実はロ
シアのプーチン大統領が小泉純一郎首相に自らの柔道歴をうれしそうに語った
最近の光景にも反映された。柔道は日本にとって期せずして自国の文化や伝統、
さらには存在自体を示すために発信できる魅力ある肉体言語だといえよう。な
にしろ純粋に日本で生まれ、これほど世界に広まった事物はほかにないからだ。
ODAにももっと大幅に盛りこむことの効用はハイチの実例で十分証明され
たようである。
脚注:
古森さんは柔道部出身の産経新聞社ワシントン総局長/著作多数の高名な
ジャーナリストです。記事転載のご了解を頂きました。
記事の中の宮崎剛さん(昭30経)は柔道部のキャプテンです。全米柔道選手
権大会でかって優勝、さらに全米高齢者柔道大会にも優勝され、慶應ニューヨ
ーク学院の柔道部も指導されました。
『サダム・フセインの消えた後』 2003.06.09 小野 喜也(昭33経)
3月21日に始まったイラク軍事攻撃は、多くの悲観的観測を覆してフセイン
体制を短期間に崩壊させました。
戦争の報道を巡る問題点が様々に指摘されて、それぞれの國それぞれの立場か
ら、報道と真実との乖離が議論されています。不確定の情報であっても、先を争
うためにか、意図的に歪めて流されたものか、一定の期間は効果を齎すことがあ
ります。それらの中には、その後に否定される情報も含まれていることを認識す
る必要性が再確認されました。
最大の問題は、イラク攻撃の論拠であった「大量破壊兵器」の存在が、未だに
立証されない点となって来ました。
大量破壊兵器(WMD Weapons of Mass Destruction)ではなくて、大衆
欺瞞兵器(WMD Weapons of Mass Deception)という新語が、米国の報道
に増えて来ています。
「大量破壊兵器」は、国際的な関心の的ですが、大統領選挙戦を控えている米
国にとっては、国内政治の問題でもあり、連邦議会での議論が高まって来ました。
米国防総省の国防情報局(DIA)や、米中央情報局(CIA)の調査分析が
正しく行われたのか、政権内部の開戦論者によって歪めらなかったか? などを
米上院の軍事委員会と情報特別委員会で調査を始めると伝えられます。
ネオコンと目される、チェイニー副大統領、ルイス・リビー副大統領首席補佐
官、ラムズフェルド国防長官、ポール・ウルフォウィッツ国防副長官、ファイス
国防次官、テネットCIA長官たちへの追求が行われると思われます。
先代ブッシュ・パパの二の舞いを避けるべく、再選を大きな目標としている、
ブッシュ大統領にとって、大きな問題となるでしょう。
誘導爆弾の精度向上、電子情報を駆使し、機動力を向上させた、米国の新軍事
戦略は大きな成果を挙げて、「ラムズフェルド・ドクトリン」と名付けられまし
た。今後はこの新戦略に基づく海外軍事拠点への戦力配置の見直しが進められま
す。軍事的な成功によって強い大統領のイメージは高まりました。しかし、その
力の行使が正しかったか否かを問われることになります。
国連の安全保障理事会で対立したフランス、ロシア、中国などと米国の関係修
復は、それぞれに温度差はあるものの緩やかに進んでいます。それぞれの國の政
権を担う立場の人達は、それぞれの國の事情を背景として、虚々実々の駆け引き
を、エビアンにおけるサミット会議でも行いました。
物理的にも情報的にも狭くなった地球上での政治の世界では、内政と外交とを
切り離す認識ではもう通用しません。二つは一体となって政権の行方を左右する
状況にあります。
このことは日本も同様です。小泉首相の日程を見てもそのことが判ります。国
連との関わり合い方への議論も議員の間に生まれて来ました。自己防衛への認識
は変化し、昨年は継続審議に追い込まれた「有事立法」は成立しました。北朝鮮
に対する姿勢も変わり始めました。
東京都は美濃部元知事以来、朝鮮総連への固定資産税免除(在外公館並み扱い)
を廃止することを石原都知事が決めました。スパイ活動、密輸と数々の疑惑に包
まれていた万景峰号の新潟入港は、現行法の厳密な適用という政府方針によって
取り止めとなりました。これまで一体何をしていたのか疑問が残りますが、国際
政治の状況は、従来の外務省主導の外交の見直しを迫っています。
『万物は流転す』人間の細胞も自然の摂理の中で、刻々と生まれ変わっている
ことと同様に、すべての事柄は一瞬の間も留まることなく、変化を続けています。
時の流れの中で、変わらぬことを願い安定を望む人々は数多いのですが、歴史は
そのことが不可能であることを示しています。
『一人の人を長い間、騙し続けることは出来る。大勢の人達を短い間、騙すこ
とも出来る。しかし、大勢の人達を長い間、騙し続けることは出来ない。』とい
う言葉があります。この言葉は、長い短いの期間については言及していません。
月単位か年単位か、あるいは十年を超える長さなのでしょうか?
サダム・フセインの消えた後も、この命題を背負って、それぞれの國も世界も
変転を続けていくことになります。個々の人間も、あらゆる組織も、国家も変化
を恐れずに立ち向かうことが、常にも増して求められているのでしょう。
『國と国民との関係』 2003.3.21 小野 喜也(昭33経)
いよいよイラクへの軍事作戦が始まりました。
国連安保理における武力行使への決議の取りまとめが行われなかったことから、
米國の強硬な方針に対する批判が、フランス、ロシア、中国という安全保障理
事会で拒否権を持つ国々を中心に続きました。戦争反対の抗議活動も世界各國
で街頭デモが起こっています。
米国の方針を支持した小泉内閣に対して、国内世論は反対意見が多いとテレ
ビの世論調査は報じています。一方、米国の国内世論はブッシュ政権の方針を
議会は一貫して支持をしており、国民の反戦デモもありますが、政権への支持
率は高いままに推移しています。
世界で起こっている出来事が瞬時の内に、テレビとインターネットの映像を
通じて伝えられる通信環境の中で、私たちは、その通信環境の各国間の相違に
ついても考えなければならなくなりました。
本当に起こっていることと、テレビで報道されることとの乖離(ギャップ)
についての考察です。
最近になって北朝鮮のテレビ報道が様々に、日本のテレビで流されています
から、あの國のテレビ放送が国民に対する指導者の独裁を、美化し強化するた
めのものであることを、多くの日本人は認識しました。日本では敗戦以前に軍
部からの大本営発表という戦況報道が、国民に真実を知らせるものではなかっ
た事を体験している年齢の人にとっては、経験済みの光景です。
テレビであれ新聞であれ報道というものは、独裁国家においては権力者によ
って容易に歪められるという例は、お隣の中国においても観察されます。ロシ
アのテレビ局も今では総べてプーチン政権の制御の下に置かれました。この様
な國の報道は、常に政府に都合の良いものに限られると容易に判断できます。
イラクもまたその代表的な例です。
國の主権が国民にあるとする「民主主義」が機能するためには、報道に関す
る自由が必要です。しかし、政権を持ち政府を動かしている人達によって、報
道が歪められる危険性は、民主主義を掲げる國の中にも存在します。この見極
めは中々難しいのですが、無視することは出来ません。
民主主義国家においては、政府を担う人達は選挙によって選ばれます。すべ
ての国民が一人の政治家や一つの政党を支持することはあり得ません。様々な
考えと立場によって、異なる支持があり多数の支持を得た政党と政治家が、政
府を組織しますから、当然ながら反対勢力が常に存在します。
政府は次の選挙においても、過半数の支持を獲得しなければ政権を維持でき
ません。そこで政府による広報活動が生まれます。米国においてはブッシュ政
権の広報担当は広告業界における敏腕なる女性が起用されています。
大勢の国民に対して効果的に政策を訴える技術の専門家の指揮する、政府広
報が継続的に行われています。
毎日眺めるテレビ報道の相違が、イラク問題を巡る世論において、米国と他
の国々の相違を作り出しているのではないか? とも考えられます。
日本の報道機関の特色は、経営面と取材面で政府に依存している点と、編集
面では常に両論の中間に立って自分の主張を行わない点にあります。右派と左
派の中間点に立とうとするので、その軸は常に左右へぶれます。
昨今の報道姿勢においては、国際間の左右の中間に立ちたがっているように
も感じられます。そして日本国民の多くがその影響を受けています。
平和を求めることは人類共通の目標ではありますが、イラクの国民もまたそ
の例外ではあり得ません。対イラン戦争以来、サダム・フセインの独裁の下で
20年以上に亘って戦争を続けている、イラクの国民の願いと声をイラクのテ
レビは決して伝えることはありません。
昨年の信任投票でサダム・フセインが100%の支持を受けたということは、
完璧に国民を押さえ付けているという証明に他なりません。国民は恐怖政治を
行う国家権力の下で意志を現わすことは不可能であり、身体生命の危険があり
ます。日本からのテレビ取材には、イラク政府の役人が必ず立ち会っています。
政府の役人の前ででは誰も本音を言えないのは判り切ったことです。しかし、
そのようなインタビューを日本のテレビは放映しています。
時折、断片的に報道関係者以外のNGOとか文化関係のイラク滞在者や訪問
者からの、情報が放映されることがありますが、それらを注意深く見ていると
イラクの国民は、サダム・フセインの政権の下での生活の厳しさ、政治的弾圧
の苛酷さ、将来への希望の無さに、失望し恐怖していることを感じます。
もちろん、クルド族などの国内被圧迫民族や、イスラム教の中での宗派の違
いなどからの批判は古くからありますが、どうもバグダッドに居住している一
般国民の中でもフセインは嫌われていて、米軍の攻撃よりもサダム・フセイン
が追い詰められて生物化学兵器を使うことを、恐れる人の方が圧倒的に多いよ
うです。
国際間での主権国家の相互不可侵は原則ですが、国家を支配している政権が
国民の大多数を押さえ付けて個々の人々の権利を無視している場合に、どの様
に対応するかは難しい問題です。
米国は近世において中南米をはじめとして、独裁権力者を何人も引きずり降
ろして来ました。軍事力を直接行使したこともあります。米国の大義は「民主
主義」です。今回のイラク進攻にも独裁政権からの国民の解放を掲げています。
この米国の大義が何処の國に対しても行われるとしたらば、枕を高くして
寝られなくなる人達が政権を握る國は幾つもあります。世界の秩序は大きく変
化をすることになります。
北朝鮮にも独裁者の下に生活する国民は、多数の逃亡者がいる様に悲惨な状
況にあるようですが、やはり主権国家であることは変わりません。
國の政治形態が「民主主義」制度でなければ、国民はすべて不幸であるとは言
えないかも知れませんが、テレビに映し出される國と国民との関係を今一度、
注意深く観察して考えなければならないと思われます。
「人間の壁」を志願してイラクに行っている日本人がいますが、あの人達は
アラビア語をどの程度使えるのでしょうか? また政府の役人の立ち会い無し
に、直接イラクの国民の話を聴いたことはあるのでしょうか?
彼らの行動は善意からのものであり、病院や学校などの民間人を守りたいと
いう意志からのものであるのでしょうが、フセイン政権が彼らを配置したのは
電力や通信の施設などであると伝えられています。
彼らの命がけの行動が、国家権力を支えるために利用されるだけで、国民の
願いとは異なるものであると知ったなら..........どうするのでしょう? 余計な
ことかも知れませんが、前途ある若者達のより深い観察と思考の不足が嘆かれ
ます。
戦闘開始から24時間以上経過して、米英軍の全体の攻勢内容と状況は明ら
かにされておりません。米軍は心理作戦にも長けていて、報道もコントロール
していると考えられます。
バグダッドの状景などのテレビとインターネット情報を見る限りにおいては、
米英軍の敏速な進撃に対する組織的かつ大規模な抵抗は見えません。制空権を
完全に失っているイラク、通信指揮系統を破壊され、どの様な抵抗が可能なの
でしょうか? 反撃をすれば即座に空からの攻撃にさらされます。平地の多い
国土から山岳に立て籠るゲリラ戦を行う条件もありません。
生物化学兵器を使うか? 都市に立て籠って国民を盾とするか?
国民の生命と政権の生命との何れを優先するのか? 最後の選択の時が迫って
います。世界の戦争反対の願いと抗議運動に参加している人達の多くの願いは
イラクの一般国民の被害の少ないことです。戦争も止むを得ないと思う人たち
もまた同様な願いではないでしょうか?
「國と国民との関係」の原点について深く考え、テレビ報道の中の真実を
見極めることの重要性への認識を新たにしなければなりません。
『「おしん 少女編」再放送に思う』 2003.3.21 小野 喜也(昭33経)
NHKの連続ドラマ『おしん』の少女編が再放送されました。メインチャンネ
ルで連日放映されたので、ご覧になられた方も多かったと思います。当初の放
映の頃には仕事に追われて一度も見ることがなく、評判だけしか知りませんで
したが、今回は総べてを見ることが出来ました。
まだ電気も普及していなかった時代の、山形県の寒村の小作農に生まれた少
女の物語は、その貧しさに耐え忍びながら家族の愛と、巡り会った人からの善
意に恵まれて、逞しく成長して行く過程を描く感動的な物語です。
このドラマが作られた時は、日本は既に農地解放を終え、高度成長の波に乗
って、社会制度も人々の生活水準も大きく変化をしていましたが、それでも、
まだ人々の記憶の中には、以前の生活が数多く残されていたと思われます。
義務教育すら受けられない貧しさ、女性に教育は不必要との考え、戦争に負
けて憲法や民法を変えても、国民の思考の習慣や生活水準は急には変わらない
のが当然ですから、最初このドラマが放映された時点で視聴者の多くは身近な
体験と照らし合せて、身につまされたことも多かったと思います。
その後、このテレビドラマは中国へ輸出されて、放映され中国において大変
な評判と人気を得たと、留学生から聴いたことがあります。まだまだ貧しさが
多く残っていた中国で、貧農の少女が艱難辛苦を乗り越えて立派に成長する姿
は、大いに共感を持たれたものと推察されます。
多くの方々がご覧になられたと思われる、このドラマの筋書きを追うつもり
はありません。この食べる物に追われる貧困は、今日においては日本中から無
くなりました。そして物質的には僅か三世代以前には夢の様であった豊かな生
活を得た私たちは、貧困が溢れていた時代の記憶も急速に失いつつあります。
ドラマの中の随所に見られる、貧富の差を越えた「人間としての生き方」に
ついての教訓を、今一度考えて貰いたいというのが、NHKの再放送の意図でし
ょうか?
誰もが望むより良い暮らしを物質的に追い求めて来て、振り返って見れば一
生懸命に苦労をさせまいと育てた子供達が、甘やかされて人の情けも知らない
人間になってしまったことへの反省が、あるのでしょうか?
貧しさ故に娘を売春業者に売り渡す、生まれた赤子を殺す、老人を山に捨て
るなどの事柄は、昭和に入ってからも残った哀しい史実であり、物語の題材と
して文学にも数多く刻まれていることです。
そこまで遡らなくても、昭和30年前後までは中学を卒業したばかりの大勢
の子供達が集団就職という形で、親元を離れて大都会へ出て来ました。地方都
市の製糸工場などでは寄宿舎に集団で生活する女工さんは沢山いましたし、個
人の家に住み込みで働く女中さんもいたのです。
高度成長のお陰で、貧しさから抜け出して、ようやく家族が一緒に生活ので
きる様になったというのに、今度はその好環境を生かせずに、自分達のしたく
ても出来なかったことを、子供達にしてやることに熱心になって、幼稚園から
お稽古ごと、有名校への進学から大学へと、形に捕われた子供の将来への親の
期待が、幼児期に必要な躾を忘れさせ、勉強さえしてくれればとの単線思考に
よって、才能や天分に差がある子供を、過度の期待で圧迫してしまったのでし
ょうか?
貧困が理由ではない窃盗、傷害などの少年犯罪の増加、援助交際などという
安易な金銭指向に走る少女達、不登校、引きこもり等々の青少年問題の山積す
る、その後ろには社会の変化の表面しか見ることの出来ない母親と、職住分離
の都市生活に不馴れで子弟の教育を母親だけに任せてしまった、働き蜂の父親
の姿がすけて見えるようにも思えます。
バブルが弾けて、右肩上がりの経済を前提としていた金融業は未だに、立ち
直りが出来ずに再編成と業務の見直しにやっきになっています。経済活動の血
液とも言える金融業の混乱は、多くの産業の基盤を揺るがせています。
今日よりは明日の生活が間違いなく良くなるという思考を支えて来た、定期
昇級の制度も崩れようとしています。
親としての自らの人生を見直しつつ、子供の将来を考えるとき、どの様に学
齢前の子供を育てなければならないのか、就学と進学の選択はどの様に指導し
たらば良いのか、自分自身の体験を越えて、この僅かな期間である歴史を振り
返るための、きっかけともなることを期待させる『おしん 少女編』の再放送
でした。
※ この後、『おしん』は全編が再放送されるそうですが、BS放送で行われ
ます。BS受像機の普及率からすると視聴者数は残念ながら激減してしま
うことでしょう。
『経済大国の次に何を創るか』 2003.03.12 木内 孝さん (昭33経)
★「三田評論」三月号掲載の論文を、著者のご同意を得て転載しました。★
木内 孝 NPO法人・フューチャー500理事長
きうち たかし (株)イースクエア会長
ランド・リッチ
「縞麗な暮らし良い国が世界には幾つもあるが、そのような国の人達と話を弾ま
せているとしばしば出て来る会話は「あなた達、日本人はマネー・リッチ」「私
達はお金の面では貧しいが、都会も田舎も綺麗だから、ランド・リッチで幸せよ」
という経済大国、土建国家の日本人にとって胸に突き刺さる言葉だ。
バブルが弾けて十二年、政・官・学そしてメディアは今の状態を不況と説明し、
景気回復のために膨大な「私達のお金」を投入している。この借金を何時、誰が
返すのか。現在の状況はこれから長く続くノーマルな状態と考え、「普況」と理
解した方が良い。
消費を美徳と考える日米の常識も考え直したい。産業革命以来二百四十余年、
先進工業国の行け行けドンドンの拡大主義が地球上で種々な間題を引き起し、将
来の人類の存続に疑問を投げかけている今日、無節操に消費は美徳と考え、欲し
がれ、作れ、捨てろと人心を煽るのは間違っている。
経済活動や生活水準をGDPで測ることも賛成できない。第二次世界大戦が始ま
る直前の一九三八年に経済学者のサイモン・クズネッツが考え出した米独の産業
工業力を比較する目的で考え出された尺度がGDPで、事故、犯罪、訴訟、汚染が
加算され、教育の内容、子供の健康、連帯感をはじめとする人生に大切なものが
含まれていない。
我々が日常支払っている物品の価格も抜本的な見直しを必要とする。例えばガ
ソリンの価格には七億台の自動車が地球上を走り回って排出する二酸化炭素の汚
染を修復するコストは含まれていない。次世代に先送りされて子供や孫の負担に
なっている。
煎じ詰めると間題は四十数年前に経済学者のポール・サミュエルソンが発表した
「幸福の方程式」に象徴される。もっと豊かになりたいと思う人間のテーマは分
子の金銭を増大させることで実現すると説いた考え方だ。冗談ではない。問題は
分母の欲望だ。実社会での我々の欲望は際限なく大きくなり、いずれ百億に達し
ようとする人類が居住している地球という惑星の容量を大幅に凌駕している。
迷惑な幸福の方程式 幸福 = 金銭
欲望
眠りから目を覚ます
自分の生き方に疑間を抱き出して十数年、世界中を随分歩き回った。ボルネオ島
北部のサラワクの熱帯雨林での数日間は私にとって目覚まし第一号だった。熱帯雨
林が持つ独特な匂いに慣れた後、そこに雑然と存在する多種多様な動植物に目を見
張った。全くの無秩序、しかし無駄もゴミもない完全な持続杜会、人間社会がお手
本にできないかと考えた。.
南米エクアドルから太平洋上を西へ一千キロ、ガラパゴス諸島では鮫も、海亀も、
オツトセイも、ありとあらゆる魚、鳥、そしてイグアナも全て人間を恐れないし襲
うこともない。人体の何倍もの大きさの撞木鮫と人間が海中で一緒に泳ぐ光景は私
の目覚まし第二号だった。人間さえ自然に楯突かなければ、自然は平和な持続杜会
そのものだ。
ニュージーランドの十二月は夏の真っ最中。南島クライストチャーチ以南では日
中の肌の露出は禁じられている。実際に半袖で十分間程外気・外光に腕を晒すと皮膚
は火傷に近い状態になった。ここ数年の現象という。
我が家の次男は三十四年前の一九六八年四月十日に東京の都心で生まれた。その
日は三十センチを越す大雪で三キロしか離れていない病院に妻を見舞い、新しい我
が子と初対面することができなかった。三十年前の東京では四月中旬にそのような
大雪が降ったのだ。
フユーチヤー500
企業活動と環境保護の両立は難しいと考える人は非常に多いが、一方では自分達
が持っている知識、情報、技術を企業間で共有して地球環境を守り、.次世代に住み
良い杜会を残したいと考える企業人もたくさんいる。
北米で三菱電機の子会杜の経営を任されていた一九九〇年台の初頭といえばジャ
パン・バツシングが盛んだった頃だ。私共の兄弟会社が世界の熱帯雨林を伐採して
事業にしていることへの反対運動として東海岸から西海岸まで全国的な三菱製品ボ
イコット運動が大規模に展開され大変困った。
熱帯雨林伐採の現場の調査、ボイコット運動の背後にいる団体(レインフオレスト.
アクションこ不ツトワーク)との話し合い、地球環境に関する勉強会、シンポジウム、
セミナーへの参加、学者.有識者に依頼して環境保護と企業活動についての学間的指
摘、公開討論会論会への参画…:テーマが私個人の人生観と合うこともあって情熱を
持って積極的に臨んだ。
数年経ったある時、モトローラ杜の一人が勉強会で発言した。
「我々はこんなに多くのことを知った。この情報、知識をもっとたくさんの人達と
共有して皆で一緒になって地球環境、生命、次世代の杜会を守る活動をしようじゃ
ないか」
一九九五年十二月にコロラド州スノーマスのロッキー・マウンテン協会に六十三人
が集まり新しいネットワーク組織が設立された。[事業規模を誇るフォーチュン500
の時代は終った。これからは環境・生命・次世代に優しい企業が評価されるようにしよ
う。500の企業と団体がネットワークを組めば世直しに貢献できるぞ。フユーチャー
500の誕生!」
私は会長に任命されたので就任の言葉として旧約聖書・創世記に出て来るバベルの
塔の話をした。
「何千年もの昔、人類は協力してバベルの搭を建て始めた。その搭は天に迄届くよう
になったので神様がお怒りになって無残に壊された。神様は人類に無数の言語を与え
て再び協力できないようにされた。しかし今、私達は言語の違いを乗り越えて地球規
模で協力し、この私達の惑星に何時までも人類が住めるように努力しようではないか」
爾来、北米では年一回のワークショップの開催、国・州との共同作業、企業の環境
対策作成の援助、講習、基調講演、シンポジウム、セミナーの開催を三〇〇を越える
会員と一緒に進めている。今年二月には著書『熱帯雨林から何を学んだか:…・自然か
ら学ぶ』を英語で上梓、日・中(二種).韓.ポルトガル語訳の出版が近々実現する。
米国では環境問題については工ール大学、ミシガン大学、デューク大学が権威を持
っているが、その一つ工ール大学では「企業の幹部と杜会活動家の団体が対立せず、
協力して問題解決に当たった珍しい事例」としてケース.スタディーとなった。大変嬉
しい。
日本では一九九九年から地道な活動を開始し、国際シンポジウムの開催を年一回行
うほか、北は会津から南は鹿児島までネットワーク作りを進めている。
二〇〇二年七月にNP0法人の資格を頂戴したが、日本での問題は「資金」である。
現存の九千を越すNPOの三分の一は年間二百万円以下で運営されているという。原因
は国民一人一人の意識と税法上の問題と理解する。私達は自分で杜会を創る、国を創
る考えを強く持たない。、それはお上と政府の仕事と思い込んでいるし、税法上の寄
付の控除の取り扱いも非常に難しい。
米国では自分達で自分達のコミュニティー創りをする気概が旺盛で、事務所には寄
付の小切手が頻繁に送られて来る。NP0とNGOが息の長い意味のある良い仕事ができ
る所以と思う。
日本でのフューチャー500の活動は、焦らず、腐らず、コツコツ進めているが、
会費、参加費、寄付を毎日頭を下げてお願いしていると惨めになって来るので、私の
一九九七年からのパートナー、ピーター・D・ピーダーセンと一緒に、⑭イースクエア
を設立し、環境とイーコマースを結び付けた事業を始めた。
自然経済学の実践
私達は地球の限界を実感した初めての世代であると同時に、自分の子供や孫が必ず
しも今日の私達より豊かな暮らしができると考えていない。私は我が家の三人の孫が
八十歳、八十五歳の老年期まで、生命を保ち続けられるかどうか疑間に思っている。
⑭イiスクエアの事業目的は、このような事実と認識を打ち破り、希望が持てる未来の
杜会を創り出すことにある。思想的には次の六つの原則の上に立った「自然経済学」
の実践である。地球の限界を知った私達の経済学と無限の発展を信じていた人達の経
済学は根本的に異なる。
一、自然のシステムを基本システムと考え、杜会・経済はサブ・システムと認識する。
人類は自然を破壊することはできても創造することはできない。私達は地球と
いう惑星の容量の中で生き続けなければならない。
二、現代文明は地球上の自然資源の人類の利己的な利用に支えられている。自然に
在るものではなく、自然が生むものに頼る、再生可能なエネルギー、再利用・リ
サイクルによって生まれたものを活用する杜会創りが必要である。
三、自然資源を保護し、再生不能な資源より再生可能な資源を利用する方向に生活が
変わり、産業が移行するように物の価値の再評価を行い、税制、奨励金で道を作る。
四、評価された新しい価値で、経済的、社会的、文化的見地から自然システムの修復、
保護を目的とする投資、再投資を促す土壌を作る。
五、産業革命以来続いている労働の生産性向上の努力を資源の有効活用、生産性向上
にも向け、共有・公有の権利、共有・公有の財産の概念を杜会に浸透させる。
六、消費は生活のための基本的な機能であり、ある水準に到達するまでは幸せと深い
関係にあるが、その水準を越えると消費は私達の暮らしの質を必ずしも向上させ
ない。私達は消費や富の蓄積が究極の幸せを生まぬことを知り、『足るを知る満
足感』が人類の未来を拓くと考える。
⑭イースクエアの仕事は、我々日本人が地球環境について意味があり暮らしに反映し
たくなる「見識」を持つための活動と、企業の中・長期計画において環境面で大きく変
化する要素を取り入れた具体的な「絵」を画くことが必須となる時代の到来を促進する
ことだ。
私は共産主義、資本主義が終焉を迎えた後の思想は「知足主義」だと思う。
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☆ご参考 関連ホームページへのリンク
NPO法人・フューチャー500 ・・・日本・・・米国 ・・・月刊誌
(株) イースクエア
『安全保障は広い視野で』 2003.03.09 小野 喜也(昭33経)
平和で安全な暮らしを望むことは人間の本質です。戦争の世紀と呼ばれる20
世紀に世界大戦を2回も経験した世界では、その後に植民地から独立した数多く
の国々においても、国民の望むことは平和と安全でのより良い暮らしです。
しかし、現実には一つの國の中でも、利害の対立はあり武力衝突は絶えません
し、政治権力が平和な手段で交替するルールを持たない国々が大小様々に存在し
ます。國の軍隊の銃口が国民に向けられていると言われる國も沢山あります。
個人やファミリーの専制的な独裁と一党独裁です。
このような世界の現実の中で、国の存続の基盤である、國の安全を保ち国民
全体の身体・生命・財産の安全を守ることが政府の役割ですが、総ての国民を
守っていない政府もあります。しかし、その政府を投票によって選ぶことが出
来る制度が日本にはあります。
この基本的な仕組みを良く理解していない人が日本に多いことは、民主主義
を憲法の柱として採用してから50年程度ではやむおえないのかも知れません。
自らと家族の運命を左右する政治代表を選ぶ、各種の選挙における投票率の低
さに、その国民の理解度が表れているようにも思えます。
北朝鮮のミサイルと核爆弾の脅威を実感する人が増えて来て、ようやく軍備
とそれを運用する規則の改善の必要性を理解する人も増えて来たと思われます
が、國の安全保障を考える場合には、軍事に限らずより広い範囲での目配りと
思考が大切です。
何故ならば、世界の中の國と國との利害の対立の原因は、経済的な得失を巡
ることが普遍的であるためです。日本は敗戦後は米ソの軍拡競争と代理戦争の
外側に過す幸運に恵まれて、西側の自由貿易主義の恩恵を満喫しながら経済成
長を成し遂げました。
そして自らも産業を次第に自由化して来ましたが、農林漁業、金融保険、通
信放送などについては、保護主義を貫いて来ました。しかし、1990年代の
ソ連の消滅以降は、この全体主義的な保護政策は西欧の批判の高まりだけでは
なく、アジア諸國や発展途上国からも、改善の指摘を受けるように国際情勢は
変化しています。
保護主義政策の対象産業はアメリカにもヨーロッパ諸国にもありますが、そ
の程度と対象範囲を巡っての争いがあります。特に発展途上国の大方が依存し
ている農林産品の自由化については、WTO(世界貿易機構)の会議において
対立が続いていて、日本政府はお米を中心に保護主義を維持しようと努めてい
ます。それぞれの國の保護政策は、国内政治と選挙と深く結びついていること
はご承知の通りです。
保護の傘の下にいる人達と、国民全体の利害得失のバランスと、優先順位を
決めることが政治家の役割なのですが、この機能は日本では実質的には官僚が
握っています。官僚は選挙で選ばれるのではありませんから、政治家を選ぶこ
としか国民には出来ません。ここに行政改革の必要性が存在します。
政治家は支援団体や支持基盤の人達のことを考えるのは当然です、支持を失
えば議席を失います。しかし、小選挙区制度の下では特定の人達だけからの支
持では当選できません。より多くの過半を超える人達が支持する政策を掲げな
ければならなくなっています。これが長野県で起きたことです。
「自分だけ良ければ他人はどうなっても構わない」という「自己中心主義」
自分達の仲間さえ良ければというエゴイズムは、多数決では淘汰されます。
高度成長時期に故郷を離れた膨大な数の人達の多くは、経済的な向上を目指し
て、マイカー、マイホームと頭にマイと付く個々人の豊さを求めて来ました。
その頃、大流行した「カラスなぜ泣くの、カラスの勝手でしょ!」なるドリ
フターズのセリフがその時代を象徴していたように思われます。そしてその環
境で育った子供達が成人した後も、その感覚は深く残されたと考えられます。
しかし、国際環境の変化によって、成長環境を失った日本はモデルチェンジ
をしなければ、立ち直れません。國の財政が破綻にひんして健康保険も年金も
支えられなくなる前に、国民は自らの安全を守るためにこれまでの考え方では、
これからは生きていけないことに気付く必要があります。
お米を国際価格よりも遥かに高い値段で食べ続けることには、まだあまり抵
抗を感じない人が多いようです。むしろ国内の自由化によって、高くてもプラ
ンド米を楽しんでいる人が多いのかも知れません。しかし、米価中心に農家の
所得を保証して来た農業政策は、作り手が高齢化によって間もなく居なくなる
という大失敗であったのです。流通業における小売商保護政策も同様に後継者
がいなくなるようでは成功とは言えません。この様な事態となることは暫く前
から分かっていたことでした。
経済特区などで、既得権益の抵抗を薄めて改革を進めようとする考えは現実
的な妥協ですが、農業の法人化、病院の会社経営とまだまだ反対の意見が沢山
報道されています。このような国内の保護政策を巡る改革の遅れは、国際間取
引にも当然ながら反映しています。
ユーロが通貨統一まで漕ぎつけたことに対して、日本は農業国の多いアジア
で相互関税をなくす経済圏など作れないのです。僅かに農業の比重の僅かしか
ないシンガポールとの二国間協定は成立しそうですが、それ以上は前進できま
せん。 この孤立の恐れが日本にある状況下にあつて、中国が新経済圏を唱え
始めましたので、小泉首相も負けてはならじと、経済圏を唱え始めましたが足
元の事情は、両国で全く異なります。
軍事ではなく経済の面でも、国際環境に対応する柔軟な政策変更が出来なけ
れば、日本は国際間の支持を失い孤立化して、自由貿易で得て来た経済的な利
益を失う可能性があるのです。
日本が独立国家として、世界の中で生き抜いて、この国土の育んだ文化と
伝統を次々と世代を越えて引継いで行く為には、国民が自己中心主義、目先主
義からより広い視野と、共存共栄のバランスの取れた思考への移行に努めなけ
ればなりません。
通信放送の統制政策によって、韓国よりも遅れたインターネット環境の中で
も、お互いに声を掛け合って「独立自尊」を柱とした良識を広めるよう努める
ことは可能です。この危機的な状況を打破するために、先導者たらんとする広