慶應義塾と皇室 「慶應キャンパス/雑感」(O)さん 

 12月1日、皇太子ご夫妻に皇孫第一子が誕生した。メディアは皇室報道一色、
長期不況の閉塞感にあえぐ我が国も、久しぶりの嬉しいニュースに沸いている。
 福澤諭吉はかって「帝室論」を著し、「帝室は政治社外のものなり。苟も日本
国に居て政治を談じ政治に関する物は、其主義に於て帝室の尊厳と其神聖とを濫
用する可からず」と述べて、苛烈な政争の中にあってもそれに左右されることな
く、「人民これを仰げば悠然として和気を催す」、民心融和の中心となるのが帝
室の任務だと記した。

 この発言から約一世紀の間、帝室は時として政争の渦中に置かれることもあっ
た。しかし、現在、天皇が国家の象徴として民心融和に少なからぬ影響力を発揮
していることは、今の世相を見ても明らかであろう。先月「歴代天皇総覧」(中
公新書)を刊行した笠原英彦法学部教授が、「戦後、新憲法により象徴天皇制が
採用されてのちも、その社会的存在感は決して薄れることがない」と述べられる
通りである。

 慶應義塾と現皇室との関係は、浅くない。特に故小泉信三元塾長は東宮御教育
参与として皇太子殿下(今上天皇)の教育を担当し、美智子皇后とのご結婚に際
しても仲介役として大きな役割を果たされたことはよく知られている。

 知力・体力のバランスのとれた教育を目指す小泉元塾長は慶應庭球部の顔でも
あった。奇しくも今年は慶應庭球部創設百周年であるが、小泉元塾長は皇太子殿
下のテニス修得にも専心して、その上達ぶりを見守った。
 そのご夫妻に現皇太子殿下徳仁殿下が誕生した際、祝いの文章を書いた小泉元
塾長は、福澤の「帝室論」を引きながら、「皇室の任務が精神的道徳的にいよい
よ重いものになった」と記した。それは、立憲君主は直接政治に関わらないが、
不偏不党の立場から政治家の及ばない特殊な見識と感覚をもち、政治に対する最
良の道徳的奨励者及び警告者であってほしいという願いからであった。(今村武
雄「小泉信三伝」文芸春秋)

 天皇がこうした役割を果たすには、知力も体力も両方必要だと小泉元塾長は考
えていた。「まず獣身を成し、しかる後に人心を養え」は福澤の教育方針でもあ
る。小泉元塾長は死の直前の庭球部後輩へのメッセージでも、「慶應庭球部の練
習は厳しかったのであるが、この伝統の部風はいまもよく維持されているか否か。
練習の際の服装などにも十分注意して、苟も惰容を示すことのないようにしても
らいたい」叱咤し、塾生にたくましさを求めた。これが公刊された最後の言葉と
なった。

 新たな皇孫御誕生を迎え、天の小泉元塾長は何を思うだろうか。おそらく、困
難な時代に立ち向かう知恵と体力の双方を求めることだろう。福澤もまた、明治
14年の政変で国内情勢が混乱する中、「帝室論」を著したのであった。
 知力も体力も、日々の鍛練なくして身に付かない。日吉には今も、小泉元塾長
の「練習は不可能を可能にす」との言葉が刻まれた碑が立つ。

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構造改革の砂時計 2001.11.28  小野 喜也(昭33経)

 小泉内閣の掲げる構造改革は、特殊法人の一部廃止、一部統合と事業見直し
と僅かながらの前進を見せています。「聖域なき全面改革」をスローガンに
掲げた小泉改革も、アメリカ経済の後退という環境の中で補正予算編成など
でも苦戦を強いられました。
 内閣を支持する役割の与党の中に、既得権益の守護者がおり、既得権益を積
上げて来た国家公務員自身に、改革計画を立てさせるという仕組の下にあって
は、官邸が主導し民間の意見も取入れた改革を進めるには、大変な苦労と駆引
きが必要とされている様子が窺えます。

 道路の問題一つを見ても、かっての国鉄の巨大な赤字をさらに上回る破綻財
務を抱えながら、道路予算を手放すまいとする関係者の抵抗は凄まじいもので
す。目先はなんとか玉虫色の決着が付きましたが、これからの事業見直しを国民
は充分に監視しなければなりません。

 自民党内で首相に「待った」をかける議員連盟の旗揚げが相次いでいます。
首相周辺では「高い支持率を背景とした官邸主導での政策決定」を求める民間
グループの動きが活発化し、首相を挟んで自民党内の「抵抗勢力」と対峙(た
いじ)する構図となっているようです。
自民党の松岡利勝氏ら有志議員が16日に結成した「日本の危機を救い、真の
改革を実現し、明るい未来を創造する議員連盟」(略称・未来創造議連)は、
「60人は超えた」(議連幹部)とされ、道路整備をめぐって栗原博久国土交
通部会長らが「道路問題を考える会」を13日に旗揚げし、「第二東名建設促
進議員連盟」(斉藤斗志二代表世話人)も15日に設立された。 と報道されて
います。

 支持団体からの支援を不可欠と考えている議員心理が働いているのでしょう。
代議士に不可欠なものは「票」と「金」とされて来ましたが、「金」に重点を
置き続けることは、次の総選挙でより多くの「票」を失うことに変りそうだと
言っても、目先の「金」との縁を重視している人たちがいるのでしょう。

 特定道路財源を握り、採算性や効率性を無視した高速道路建設を造り続けて
大借金を積上げて来たことへの反省などは微塵もありません。その大借金を背
負わされる側の人間の数の方が遥かに多いのですから、誰がどのように動いて
いるか総選挙の時まで選挙民が記憶していれば、政界地図は変わるでしょう。
ご自分の選挙区から選出されている代議士の動向を、インターネットで常に見
守ることが必要です。

 行政不況と高失業率の中にあっても「構造改革なくして日本の将来なし」と
考える人が増えて内閣支持率は依然として高水準にあります。
 しかし、特殊法人・公益法人に限らず、官僚機構全体の非効率性と自己権益
化は、国家財政をむしばみ続けていて国債の海外からの格付はさらに低下して
います。
 加えて職務に対する忠実さと義務感の低下の横行はあきれるばかりです。
外務省の公金不正使用の実態調査の中間報告を田中大臣が行いましたが、外務
省内のほとんどの部局において、水増し請求などの不正が発見されたとのこと
です。しかも、これらの裏金を個人でくすねているケースもありました。
 これらは一体何なのでしょう。外務省だけの事例ではなく他の省にも同様の
国費の不正使用が蔓延しているのではないかと懸念されます。
 古来、我が國は外国から見ると「恥の文化」と呼ばれるほどに、名誉を重ん
ずる生き方が主流を占めていたのですが、今や「恥も外聞もない」自己中心の
生き方が広がっています。
 
 公務員の方々の中では上に立つ人たちの責任は重大です。現場を支える数多
くの人たちは公務員組織においては、上を見て仕事をしています。犯罪捜査に
あたる警察官なども、日常の捜査活動の中で不正事件のお詫びをしながら民間
人への協力を求めている実態があります。これでは志気も能率も上がるはずが
ありません。

 構造改革は確実に速く行わなければなりません。国家財政も地方財政も巨大
な借金の利息は、毎日増え続けているのです。地方財政の破綻さらには国家財
政が破綻するまでの時間は無限ではありません。砂時計の砂が落ちるように貴
重な時間が過ぎて行きます。

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個人別・対国家収支表 2001.10.06  小野 喜也(昭33経)

 「都会でネクタイを締めている人たちは税金の絞り滓です」という言葉を聴きました。
日本の税金の仕組が長年の間、都会から吸い上げて地方に散布する方法が続いて来たこと
を、端的に表している言葉です。

 10年を超える景気低迷の回復策とされていた、公共投資が一向に効果が上がらないこ
とから、これまでの仕組を変えなければ駄目だという「構造改革」の実現へと、国民の
期待は向かっています。

 特殊法人の改革、公益法人の見直し、国家公務員法の改革と、官僚機構の非効率性と
天下り等による利権構造への批判も高まっています。しかしながら、これまでの所、
特殊法人改革への各省庁の回答は「零」に等しいようなレベルであり、新年度予算の概
算要求に大胆な変化の兆しも感じられません。

 官僚機構は集団として巨大な利権構造を、国民から吸い上げる税金・保険をはじめ諸
制度で築きあげて来ました。談合その他でその利権の恩恵を受けている企業もあれば、
利権に介在することをもって職業としているかのごとき代議士もいるようです。この
問題への監視はより厳しくしなければなりません。

 しかし、日本の法律は、これまで殆どが行政に携わる国家公務員の手により立案され
て来ました。議員立法の実績はごく僅かしかありません。税金で賄われている東京大学
をはじめ各国立大学から、あらゆる私立大学に至るまで「法学部」で教えられているの
は出来上がった「法律」の解釈だけで、「法律」をどの様にして作るかの授業はありま
せん。立法の技術は歴史的に明治以来、公務員に独占されて来たのです。

 欧米の大学では勿論、両方を教えていて、特に米国においては立法のための手助けを
するサービス機関が多数存在して、議員の立法提案を支えているということです。こう
いった肝心なことを新聞が報道したことはありません。

 三権分立の民主主義とは程遠い日本で、公務員の不利益となる構造改革を、公務員自
身に立案させようという、現在の手法では「得意の先送り」の抵抗を突破できないとの
懸念を抱かされます。

 議員立法で立案するべき法律の一つに「個人別・対国家収支表」の作成があります。
消費税は個人別負担の数値を押さえるのは困難ですが、それ以外のあらゆる税金を誰が
負担しているのか、個々人の単位で明確に調べることが必要です。そして、より重要な
ことは税金を様々な形で受取っている金額もまた個々人について調べる必要があります。

 個々の人が、国から受取っている金額と支払っている金額とを調べることは、大きな
意味があります。この日本の運営経費が不足して大きな負債を先送りしている中で、現
在の負担は誰がしているのか、また誰が受取っているのか。この先は誰に負債を負担さ
せようとしているのか。すべての国民一人一人について明らかにする必要があります。

 地方自治体の課税している「固定資産税」にも大きな問題があります。バブルの頂上
で算定した高い課税評価額は極々僅かしか引き下げられていません。都市部では実勢価
額の3倍近くに据え置かれ、これが不動産価格の低迷の理由の一つになっています。
上げる時には、どんどん上げて税収を増やしていたのが、減らす方向には全く働かずに
誰かの所へ税金は使われ続けています。

 恐らくは、国民全体で見ると、非常に数多くの人々が「個人別・対国家収支表」では
赤字の状態にあるのではないでしょうか? そして特定少数の人たちが黒字であり、中
でもさらに一握りの人が大幅な黒字の状態にあるのではないかと想像されます。

 国民総背番号制度には反対の意見もありますが、制度は道具であり目的ではありませ
ん。ここまで公務員のモラルが問題にされる事件が続発する状況の下では、総背番号の
仕組みを使って、「個人別・対国家収支表」を作った方が、ほとんどの真面目に暮らし
ている国民にとっては、失うものより得るものが大きいと考えられます。

 国民のために働く「公僕」としての、国家公務員も地方公務員も必要です。しかし、
国民から絞り上げて無駄使いと使い込みで上前をはねているのは「犯罪者」です。
「正直者が馬鹿を見ない世の中に」と随分昔に言った代議士がいましたが、このまま
では「正直者」などは一人も見当たらないようになります。

 小さな政府を実現するための議員立法は、ほとんどの有権者が支持するでしょう。
現在の立法府で反対をする人々への対抗手段は、解散総選挙あるのみです。
 この次の総選挙は、2000年6月の総選挙とは全く様子の異なる選挙戦となるで
しょう。不良債権の処理をまだ出来ずにいる既得権力層に対する国民の怒りは高まり
こそすれ納まることはないと感じられます。

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切開手術と対症療法  2001.09.2   小野 喜也(昭33経) 

 参議院議員選挙を終えて一ヶ月余、失業率の上昇と株価の下落によって、小泉政権の
「構造改革」路線への不安を生じさせようという動きが目立ち始めています。
 9月の臨時国会の主たるテーマは雇用対策ということになり補正予算の検討も始まり
ました。しかし、構造改革の規模をどの様に描くかによって、雇用対策への取組み方も
変わってくるのでしょう。その点の議論はまだ煮詰まっていないように見えます。

 本質的に「構造改革」は、これまで膨大に積上げて来た無駄な支出を削減することか
ら始めなければならないことは明らかです。その税金の恩恵を受けて来た人たちにとっ
ては、仕事の減少であり職場の縮小による所得減少あるいは失業をもたらせます。

 特殊法人の民営化、国立大学の独立法人化などは総て、非効率で無駄の多い税金の使
い方を改善する目的で行おうとしているのですから、効率化の過程で構成員の報酬の引
下げや、雇用の削減が起きることは当然です。公務員制度の改革による効率化への道は
まだまだこれからですが、ここにも同様に雇用の問題が起ります。しかし、これらは総
てこれからの問題です。

 現在の失業率の上昇は、倒産企業の増加もありますが、主たる原因はアメリカ経済の
後退に伴う業績悪化企業の人員整理、金融業界や重厚長大の民間企業がこれまで長年の
あいだ年功序列制度により抱えて来た過剰雇用の状態を支え切れなくなったための人員
整理などが主たる原因と思われます。中にはNTTのように現在利益を上げていながら、
今後の競争激化に備えて人員整理を進めようとしているケースもあります。

 「寄らば大樹の陰」とばかりに安定した雇用を求めた、「親方日の丸」や大企業の傘
の下での生活設計は大きく揺らいでいます。不採算部門の分離から売却へ、連結決算対
象会社の見直しなどの民間企業の対応は必要に迫られてどんどん進行しています。
 なにも不良債権の処理が進まなくとも、経済は生き物ですから、事態は先行きの見通
しに従って民間では進行します。長年の労働慣行や賃金制度の構造改革が民間では個別
にすでに進行しているのです。

 「構造改革」による失業者はどの程度の規模かとの質問は、よく野党から出されます、
10万とか15万人とかの公式答弁もあるようですが、このような質問はあまり意味が
ないでしょう。
 このような議論では、局部を捉えた「対症療法」に議論は留まってしまいます。
「構造改革」とは「切開手術」です。切らなければ生命が危ないという判断で患者もや
むを得ず受け入れるものです。切れば血は出ますし、痛いことは間違いありません。
しかも、手術が成功するとは限りませんし、余病の併発や後遺症もあるかも知れません。
それでも手術をしなければならないのが我国の財政破綻の現実です。
手術の後の回復には、手術よりも長い期間が必要であることは常識です。

 雇用を支えるには、新しい雇用の場を作り出す必要があります。新規事業を起こし易
い環境を創らなければなりませんが、その為の規制の撤廃はまだまだ進んでいません。
教育や福祉関連の政府支出に頼る雇用は、急場しのぎの対策であり、民間の事業活動を
盛んにしなければならず、そのための総合的な施策が必要です。

 来年度予算の各省からの概算要求が出ました。小泉首相は「それぞれが、よく頑張っ
ている」とのコメントを言われましたが、証券市場は期待外れと低い評価をしました。
 自らのリストラへのプランを官僚が作れるかどうか、疑問と疑念を持つ人は多いでし
ょう。民間人も参加している「財政・経済諮問会議」の方針決定と「財務省」の予算編
成作業との関係も初めてのこととて不安定感があります。

 年金制度、健康保険制度の改革も必要です。これらは長年の問題先送りで追詰められ
ています。「取りやすい所から取る」税制も変える必要があります。それぞれの改革へ
の取組みは見えますが、より大胆に抜本的な政策が必要ではないかと思われます。

 国民総背番号実施のための設備は朝霞にすでにあります。課税の公平の実現、脱税の
捕捉、各種特例法による軽減措置のゼロベースの洗い直し、消費税の仕組の見直し等々
取る方に力を入れるのと同時に、減税策も大幅に行わなければならないでしょう。

 三年間の期限付きで、株式投資への課税を全廃し、期間内に名義書換えをした人の株
式に対しては相続税は全額免除するとでもすると、裏のお金も含めて高齢者の資金が株
式投資に向い死に絶えかけている投資家層が復活するでしょう。
 同時に一株単位の株式取引にも免税措置をとり、若年層を含む広範囲の人々に資本主
義・自由主義による我国の進路を支持してもらう必要があります。

 かって、敗戦後のインフレ対策であった「預金封鎖」の時期に、株式のみは「封鎖預
金」による投資が可能であったと思います。財閥解体による余剰株式を処理するための
持株整理委員会の故事は様々に参考になる事例ではないでしょうか。
 民主主義、ピープルス・キャピタリズムの理想を追求するスローガンは、その後は色
褪せて株式持合いの花見酒経済に堕し、いまその解消に追われています。

 改革は常に断行しなければなりません。計画はたてなければなりませんが、実施によ
って起る現象をすべて予測することなどは不可能です。今年の焦点「30兆円」とは、
国債の増額をその線以下に押さえようというので、まだまだ国債残高を減らす額では
ないのですから、これから長い長い期間が「構造改革」には必要だと認識しましょう。

 間もなく日本の人口は減少を始めます。小子化現象で先行するドイツでは「移民受入」
の立法へ進んでいます。日本の前途にはまだまだ、国民の意志によって解決しなければ
ならない問題が山積しているのです。

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政治の慶應義塾 2001.08.01 塩川 正十郎 財務大臣(昭19経) 

 「慶應義塾」といえば「経済」。財界には塾員が多く、かっては経済界の人脈では主流派
を形成していた。現在もなお財界のみならず官界やマスコミ界において、幅広く人材が活
動し、私学の雄として先導的地位にある。特に近時、政治界で塾員の活動が目立ってきた。

 今、国会議員は衆参両院で732名であるが、うち塾員は57名で東京大学、早稲田大
学についで第3位、以下京都大学、中央大学となっている。しかも、平成8年には橋本内
閣が成立し、バブル経済の立て直しをやったし、また現小泉内閣は総理以下5名の塾員が
主要閣僚に就任しており、まさに「慶應義塾の内閣」といえるのである。

 明治23年帝国議会が召集され、そのとき福澤門下生が多数当選して代議士となったが、
当時与野党の区別が明確でなくグループ毎に集まって政策を論争していた。かかる幼稚な
機会運営に際し、福澤先生は塾出身の議員を築地の料亭に集め、懇親を兼ねて勉強会を主
催された。「塾で学んだ者は同種同根、政治の主張は異なることがあっても志を同じくす
る者同士であるから、お互い切磋琢磨して国家興隆のため一致協力すべきである」と訓示
されたときいている。

 私は学生時代にはあまり福澤先生のことを勉強しなかったので、その偉大な思想の深淵
を知らず、また寛大な人柄からくる処世の術も学び取れなかった。今年1月、綿貫民輔衆
議院議長と保利耕輔代議士および私の3名が、政治の腐敗や惰性で無気力な政界の沈滞し
た実情を憂え、懇談したとき「福澤先生が今御健在ならばわれわれをどう指導されるであ
ろうか」という発想が起き、「先生を勉強しよう。まず、『学問のすすめ』から始めよう」
ということに衆議一致した。これを実行するため、われわれ3人が発起人となって、2月
『学問のすすめ』を勉強する会を結成した。この会をつくるのに鳥居前塾長に大きいご指
導をいただいた。感謝しています。

 『学問のすすめ』はご承知のごとく17篇のエッセイで編集されているので、毎回1篇
ずつ17回の講議で完結する。各篇の勉強に各学部所属で福澤研究センターのベテラン教
授を派遣していただいて、この先生を中心に約2時間講議と対論で勉強することにした。
 第1回は2月8日で、衆議院第1議員会館の第2会議室で、福澤研究センター所長の坂
井達朗教授に講議を受けた。内容は、明治維新時に政府が先生に指導を受け、封建思想を
民主思想に転換する際の先生の努力と指導を勉強した。第2回は4月17日で、法学部教
授寺崎修教授から第2篇の講議。先生の人と人との関係および明治5、6年頃のわが国の
厳しい国際関係について、国の外交姿勢と基本政策について政府をどう指導したかを勉強
した。
 代議士は昼間、委員会出席等で多忙であるので開会は午後4時としているが、出席率は
良好。毎回35名位出席する。与野党の議員が一堂に会して共通のテーマ、すなわち福澤
先生を勉強することは、政界に連繋をつくるために大きい成果がある。第3回は6月21
日で、講師は坂井達朗教授にお願いし第3篇を勉強することになっている。

 『学問のすすめ』は百数十年を経ってなお生々しい教訓となっている。今の日本は原則
なき政治と混迷する思想の中に迷走しているが、ここに一本筋の通った福澤先生の思想を
活用して、日本を正しい自由で民主的な国家に再生しようと念願している。あわせて同根
の同志が結束して、国民のための政治に精進できれば塾員としての矜持があると思う。

 ※本論は「三田評論」2001年8,9月号の巻頭随筆 丘の上から転載したものです。

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自己責任社会への道』 2001.07.27 小野 喜也(昭33経) 

 参議院議員の選挙を前に、各政党と候補者は政策と考えを明らかにしています。
これまで「選挙公約」というものは、その場限りの言葉で実行されることのないものの
代表のように言われて来ました。確かにその様な事例はこれまでに沢山ありましたが、
この「公約不履行」を許して来たのは、投票をした国民の方にも責任があります。

 国民の選挙投票の判断基準の水準によって選ばれる議員の質は左右されます。公約を
記録し議員活動を監視して、公約の実行程度を判断するのは国民であり、それを助ける
ことは報道機関の重要な役割ですが、これまでの我国にはこの民主主義が充分に機能し
てこなかった面があります。

 国際情勢の変化に適応できずに、様々な分野で行き詰まり財政危機の迫っている中で、
自民党の総裁選挙ではこれまでに無い現象が起こり、少数派閥からの候補であった小泉
純一郎さんが圧倒的多数で選出され、「改革断行」を唱えたことにより、今回の選挙の
焦点は「構造改革」となりました。

 国も地方も財政は破綻状態に陥っています。税金による収入を大きく上回る支出を長
年の間積重ねて来た結果です。後の世代の負担となる債務は膨大な金額となりました。
この状態から抜け出すためには、まず支出の中味をよく調べて大幅な削減をしなければ
なりません。小泉内閣の掲げる「聖域なき構造改革」とは、これまで税金の支出を受け
て来たあらゆる分野について見直しをすることを目標としています。

 これまで情報公開が行われず、すべての実体が明らかにされていない部分に、大きな
削減の必要があることは次第に明らかにされています。マクロの数字からの公的部分の
非効率性は外国からも指摘されています。「親方日の丸」という言葉にあるように予算
の獲得に全力を傾け、傘下の組織を増やすことを至上の目標としている官僚組織は税金
を使うことにのみ熱心です。中央官庁をはじめ特殊法人など税金の無駄使いは山積して
います。

 この国の税金の出口に対する「タカリ」の体質は、国を覆い尽して官庁・政治・産業
の利権構造を拡大して来ました。組織の腐敗は常に頭から始まりますが、この自己責任
の不在は、この国の社会の隅々までも行き渡っています。都合の悪いことは「何でも他
人のせいにする」思考と言動の多いことは、目にあまるものがあります。子供の非行も
社会の責任だとする親までも沢山います。

 今回の選挙運動の中で、改革に伴う「痛み」についての議論が目立ちます。これまで
国民に甘い見通しばかりを繰り返して来た政治家が、ようやく国民に「我慢」を求めて
いるのですから、これまで税金の恩恵を受けて来ていた人たちは勿論のこと、そうでは
なかった人たちも、総ての国民が応分の負担と我慢を求められる状況に陥っていると考
えるのが常識ではないでしょうか。

 「痛みの中味を明らかにしろ」という、不安にかられた発言も多く、それを煽るよう
な野党政治家の発言も目立ちます。他人はともかく自分の痛みは嫌だというような自己
中心主義では、もはや現状の打開は出来ないという現実がまだ見えていない人が多いの
でしょう。老後の生活を支える年金制度も、国民の健康を守る健康保険制度も行き詰っ
ています。

 結婚をしない子供を沢山作らないという多くの国民の選択が「少子高齢化」を招きま
した。あと数年で日本は人口の減少が始まります。国が始まって以来の人口減少であり、
この傾向は今後何十年かは変化しません。結婚をしない人、結婚をしたが子供のいない
人、子供はいるが一人の人、扶養の義務を無しか少なく済ませて来た人たちも総て年を
取り高齢化するのが自然現象です。

 一人っ子同士が結婚すると、二人で両親二組4人の老人の世話をする時期があるとい
う社会が来ます。この一人っ子の二人にさらに子供のいない、あるいは親の世話をしな
い子供を持つ老人たちの世話の負担もさせることが出来るのでしょうか。
 弱い人たちへの思いやりは必要であり、困っている人たちを社会全体として保護する
ことも必要ですが、でもその負担をしてくれる人たちの能力には限界があります。

 「国が面倒をみるべきだ」と言う人は沢山いるようですが、その「国」というのは自
分以外の他人の負担している税金だということは自覚されているのでしょうか。他人の
情けにすがって生きるのに威張っているような言い方は可笑しくありませんか。
「人様のお世話にはならない」という意地は、人間としてのプライドです。

 現在の制度の無駄を省き、より効率的な予算の配分に努めることは必要不可欠であり
最優先の課題です。しかし、それでも好むと好まらずに関わらず、人口構成の変化は社
会保証制度の後退をもたらせることでしょう。先に人口減少を迎えているヨーロッパ諸
国において社会保証への支出削減は数年前から既に起っています。社会主義的な政党が
与党である国もまたその例外ではありません。
 日本もまた「自己責任社会への道」を進むことになることでしょう。


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環境変化・変革・生存』 2001.07.25 小野 喜也(昭33経) 

 地球上に生物が生まれる以前から、地球の自然環境は次々と変化を続け、その変化に
より様々な生物が繁殖しやがて滅亡をしています。現在は地球上で最強の生物となって
いる人類も、その自然環境の変化に適応してその数を増やし続けて来ました。
 群れをなして生活をする人類は、その群れの集団の仕組みもまた様々に変化させなが
ら、次第に自然環境の制約を克服して全体としての数を増やして来た言えます。

 古代・中世・近世と地球上の人類の様々な集団は、互いに争いあるいは助け合って来
ましたが、この相互関係は長期に固定化することなく常に流動的であり、人類集団相互
の生み出す国際環境もまた変化を続けています。

 ごく最近の動きとしては、1945年に第3次世界大戦が終り、この戦いに勝った国
を中心とする新しい世界の秩序が築かれることになりました。しかし、資本主義を掲げ
るアメリカと、共産主義の世界への普及を目指すソヴィエトは対立し東西冷戦と言われ
る争いの時期に入り、その他の国もすべてこの冷戦構造の中に置かれました。

 この東西冷戦構造も、1989年のベルリンの壁の崩壊を契機として、ソヴィエト連
邦が消滅したために変化を始めました。共産主義を理想としていた国々が資本主義の手
法を採用するようになり世界の構造は大きく変化しました。欧州ではユーロを結成し更
にその範囲を広めることが進んでいます。
 このような国際環境変化の中にあって、日本もまた新しい環境に適応する変革が必要
となり、過去10年ほど低迷していましたが、ようやく、これまでの集団としての仕組
みを変える試みが始まりました。

 小泉内閣の掲げる構造改革方針が多くの国民の支持を受けています。これまでは国民
に対して甘いことばかりを言って来た政権にある政治家が、変革の必要性とそれに伴う
苦痛に耐えるよう呼び掛けたのは1945年以来の出来事です。
日本の過去数十年の間の高度経済成長と国民生活水準の向上に貢献してきた方法が、効
力を失いさらには変革の障害となってなったことに、多くの国民が気付き始めました。

 この国民の意識変化が現段階でどの程度のものであるかは、間もなく行われる参議院
選挙の結果に示されます。投票日を直前とした新聞による世論調査では、これまでに見
られない新しい動きがありますが、まだまだ根本の変化に気付いていないかそう思いた
くない人の数も多いようです。もちろんこれまでに築いた権益を守ろうとする集団もあ
ります。
 
 しかしながら、この世界の環境変化に適応するための変革は日本の生存のためには欠
かせません。日本の中の個々の集団の利害を争うのではなく、全体としての世界の中で
の位置を強くする方法を考えなければ、全体として衰退して滅亡への道を進むことにな
ります。有史以来、国の興亡の例は枚挙のいとまがないほど多数あります。日本もまた
その例外であるはずはありません。

 西欧諸国の植民地拡大の時期に、幕藩体制から立憲君主制度に転換して国の存続を図
った明治維新ほどではなくとも、中央集権と国家統制に基づく集団としての仕組みの中
の、様々な弊害と無駄をなくすための改革は生存のための必要条件となりました。
幸いこのことについての認識は広まり、もう後戻りはしないと期待されます。
 
 しかし、この改革は短期間に簡単に済ませることは難しいと考えられます。
基本には憲法を自主的に改めるための、国民的議論と検討が必要です。検討自体に反対
する集団はようやく少数派になりつつありますが、首相公選制度の検討から始まったこ
の改革は、議院内閣制度とのバランス、2院制度と定員数、一票の格差問題と政治制度
だけでも課題は山積しています。第9条についての課題も当然ながらあり、経済も産業
も含めた安全保証の仕組みを強化しなければなりません。

 一内閣がこれら総ての大改革を成し遂げることが果たして出来るでしょうか。少なく
とも衆議院議員選挙の洗礼を2回は受けなければ不可能だと思われます。当然ながら多
くの反対意見との論争を重ねつつ、単なる閣僚の首のすげ替えだけではない内閣改造を
第2次、第3次と続けて長期政権を維持する必要があるかも知れません。

 幸か不幸かこの改革に腰が引けているのは与党の側にあると言われていて、野党第一
党はより改革に積極的です。連立の組合わせがどの様に変化しても改革は継続されるの
ではないかと期待されます。国は政治家と政党の利害のためにあるのではありません。
広い視野を持って「環境変化」の先を読み、「変革」を断行し、国民の「生存」と繁栄
を目指す政治家を選び続ける国民の存在が必要です。

 自立・自助の精神を中心とした、世界に誇れる国を次の世代に残したいものです。

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政治家へのリトマス試験紙』2001.06.17 小野 喜也(昭33経) 

 小泉内閣は「改革断行内閣」というスローガンを掲げています。
バブルの崩壊後の10年を超えるジリ貧の不景気に希望を失った多くの国民は、
何らかの「変化」を期待する夢を小泉内閣に託しているようです。
 この国の将来を左右する重要な転機になるかも知れない、地方選挙と参院選挙
を目前に控えて、日本は何を改革しなければならないのか、改革を望まない人が
いるのは何故なのか、ご一緒に考えてみたいと思います。

 改革が必要になっている一番の理由は、財政の行き詰まりです。
国の収入である税金では毎年の支出が賄えず、国債という形で将来の税金を当て
にして借金を増やして来たことが、限界に近付いたことにあります。
 毎年の税収の6割もが、借入返済にあてなければならず、そのためにさらに借
入を増やすという借金地獄に陥っています。地方自治体の財政も同様の状態です。
日本の国債の利息の支払いや元本の返済の安全性への国際的な評価は、近年次第
に下がっています。

 個人でも会社でも、収入を上回る支出を借入金増加で無限に続けることは出来
ません。返済の見込みが危なくなると貸付を受けることは難しくなります。
 自己破産や会社倒産がこの10年の間に増えていることはご承知の通りです。
国の財政は規模は大きくても基本は同じことです。ただし、国は財政が破綻して
も会社のように無くなってしまうことはありません。外国から資金援助を受けて
再建を図ることになりますが、その援助の条件として厳しい条件を求められます。
経済的に自立出来ない場合には、自主性を失うのが常識です。

 収支を建直すには、誰もが知っているように二つの方向しかありません。
第一の道は、収入を増やすことです。国の収入は税金ですが単純に税金を増やせ
ば、それを負担する個人と会社の活動は鈍くなりジリ貧になってしまいます。
個人と会社の活動を活発にするようにして、それぞれの収入増加によって税収が
増えるようにしなければなりません。
第二の道は、支出を減らすことです。個人でも会社でも支出を減らすときに考え
るのと同様に、まず無駄を省くことから始まって、我慢出来ることは我慢して、
収入を生み出すために必要な支出に絞る必要があります。

 第一の道を進む為に必要なことは「あらゆる規制の徹底的な見直し」です。
日本のこれまで採用して来た官僚主導の方法では、あらゆる経済活動は規制され
ています。何の仕事をするにも役所の許可・認可が必要とされています。
国民の安全を守ることは政府の責務ですが、それを守ることを理由とした規制が
山の様に積み上げられてしまい、経済活動を妨げ大きな負担をさせています。
 アメリカの経済復興のきっかけを作ったレーガン大統領の「ディレギュレーシ
ョン政策」の日本語訳は「規制撤廃政策」で「規制緩和」ではないのです。

 第二の道の進路を見ると、国の支出である国家予算の硬直化が問題であること
はすぐに気付かれるでしょう。これまでも財政に危機感を持った政治家は何人も
おられましたが、支出を押さえる方法としては各省庁一律に押さえるという横並
びの抑制策しか実現出来ませんでした。これは国家予算の作り方に問題があった
ためです。各省庁からの概算要求に対して大蔵省が査定し、復活折衝を経て政治
的調整の後に確定するという、行政主導の予算編成方法の問題です。
 橋本内閣の行った行政改革では、省庁再編成と同時に内閣府の機能強化が決め
られ、予算の大筋は経済財政会議で決めることになりました。この2001年の
1月から行われるようになりましたが、その最初の実行は小泉内閣が担うことに
なりました。

 国の支出に頼っている仕事はどこの国にもあります。防衛・教育・福祉などの
国民のための事業にも関連する会社は数多くあります。そしてその支出配分を決
める各省庁の権限に影響を与えるために様々に努力を行っています。このこと自
体は当然の行為ですが、その相互関係が自己点検の不在な各省庁単位に行われて
いて、国民全体の目からは隠されていることに大きな問題があります。
 どのような組織にも自己防衛の意識は働きますが、国家機関は総合的な立場か
ら国民全体のために調整し機能するように運営されなければなりません。

 総人口がもう数年後からは減少することの確かなこの日本の財政は、第一と
第二の方法を同時に進めなければならないことは明らかです。日本全体の収支の
バランスを改善しなければ、ともに衰退と滅亡への道を辿ることになります。

 秋からの来年の国家予算の編成は歴史的な試練であり大きな山場となります。
本来、政策を立案するべき立場ではない国家公務員は、国民の信任投票とは無縁
です。政策の失敗にも責任を追求されることはありません。国民が選べるのは、
政治家です。どの政治家が国全体のために政策を提言し実行しようとしているか、
これまでと同様に各省庁の国家公務員のお膳立てに乗って政策を進めようとして
いるのか、国民が投票をする政治家を選ぶための、リトマス試験紙をそのことを
判断するために作ってみました。

 どのように利用されているかは判りませんが、今年度から衆参両院議員には
国の予算を使って「メール・アドレス」が与えられています。貴方の選挙区か
ら選出されている議員に「リトマス試験紙」をメールで送りましょう。
 質問の項目は、貴方のお考えで追加されても一向に差支えはありません。
貴方の貴重な投票に際しての重要な判断に役立つと思います。

 「政治家へのリトマス試験紙」

(1)日本の国家予算を作るのは誰が良いとお考えですか?
   A 国民の付託を受けた国会議員全員
   B 国会議員の数の多い党派と派閥   
   C 財務省の専門部局役職員

(2)日本の国家予算の作り方を改める必要をお考えですか?
   A 根本的に改める必要がある。
   B 部分的に手直しをすれば良い。
   C 全く改める必要は無い。

(3)改める必要があると回答された方の改善点を箇条書きでお聞かせ下さい。

(4)過去1年間に貴方が出席した会合の団体名(後援会以外)をお聞かせ下さい。

(5)ご自分のホームページを発信しておられますか?
   A 発信している。 (URL アドレスをお教え下さい。)
   B 発信していない。 その理由をお聞かせ下さい。

※以下の2問はホームページに掲載されておられる場合は不要です。
 
(5)これまでの政府機関での役職をお聞かせ下さい。

(6)これまでの党内での役職をお聞かせ下さい。

以上

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『田中真紀子大臣を支援しよう!』2001.06.02 小野 喜也(昭33経)   

 田中真紀子外務大臣の就任以来、大臣と外務官僚との争いは激しさを増しています。
どこの官庁でも行われて来た、官僚のお膳立てに乗って台詞まで付けられていた大臣
が、自分の意志を主張し権限を行使しようとしているのですから、官僚にとっては前
代未聞・驚天動地の危機と感じていることは間違いありません。

 人事異動の差戻しから異動凍結、機密費流用問題の責任追求等々、外務官僚の事務
次官を頂点とする官僚組織の構造を破壊しようとする田中大臣に対して、徹底抗戦の
意向が生まれているようです。
 それにしても、中国の外務大臣との電話会談の内容が「李登輝元大統領再訪日を抑
止する」と約束したと報道陣に漏らされたり、北京での外相会議の席上でのイタリア
大使との会話の中に「アメリカの核戦力について批判的な発言があった」などという
ことは、一体全体どこから報道機関へ伝わっているのでしょうか?
 日本の報道機関には、この問題で中国やイタリアの外務大臣に直接取材をする能力
も意志もなかったことは明らかです。となると、田中外務大臣のすぐ側にいた人物が、
報道機関に外務大臣の発言を伝えているとしか考えられません。
 外務官僚は自分たちの組織を守るために、報道機関を利用して田中大臣への攻撃を
しかけていると解釈せざるを得ないでしょう。

 4月15日の「インターネット演説館」掲載の『新聞の病理』--見失った独立性--
にもあるように、日本の新聞は欧米の新聞と異なりニュースソースを明らかに示さず
に記事を書きます。「某政府高官によれば.....」「自民党幹部筋によると....」などの
表現は日常的に行われています。外務省記者クラブ所属の記者は外務官僚のトップに
はいつでも接触できるでしょうから、「リーク」という形で大臣の言葉が伝えられた
と推定してもまず間違いはないと思います。
 このように日本の報道機関が、従来と変わらずに既存権力の側に立った報道を続け
ていることを、国民は十二分に意識しなければなりません。

 これらの行為は明らかに「反乱」です。多数の国民の支持をもとにした内閣の任命
した大臣の方針を、自分たちにとって都合の悪いという理由で実施しないだけではな
く、その大臣を攻撃しているのです。このことは官主導の考えに基づく構造が如何に
根を張っているかを象徴しています。
 日常の外交業務が停滞することから、小泉首相が仲裁に入って田中大臣の性急な改
革をたしなめ、官僚にも大臣攻撃を控えるように直接伝えた模様ですが、田中大臣は
6月6日に「外務省改革プラン」を発表すると表明しました。どの様に進めようとも
この改革は成し遂げなければ、主権在民への改革にはなりません。

 田中真紀子外務大臣はその個性から、先頭を切って官僚機構の改革へと走っていま
すが、同様の問題は総ての省庁に存在していることは、過去の中央官庁の高級官僚の
不祥事件の数々から見ても明らかです。「省あって国なし」と言われる狭い範囲での
利益共同体として、中央官庁とそれを取巻く各種法人による国費の乱用は恐るべき水
準に達していると考えられています。経理内容を一切公表しないこれらの組織を改革
しようという行政改革担当は石原大臣です。

 外務省の反乱は権力闘争の緒戦にすぎません。「これから、すさまじい戦いが始ま
る。」という認識は小泉首相は正確に持っていると伝えられています。自民党の中で
少数派閥から総裁に選ばれた小泉首相は、いちはやく派閥を離脱して自民党の改革を
目指しています。参議院選挙候補者の派閥離脱も提言しています。これまでの長い間
の義理や利害で組み立てられている派閥への忠誠を優先するのか、国民のために働く
意志を鮮明に示すのか、派閥離脱は参議院選挙候補者にとっては「踏み絵」として、
差し出された問題です。

 投票による選挙権の行使こそは、国民が自分と家族の将来を選択する唯一の機会で
す。傍観をしていても何とかなっていた時代は終りました。これまで投票に参加して
いなかった人たちの動向が、これからの選挙結果を大きく動かすことでしょう。

 今一つ、投票行動を予測するための方法が「世論調査」ですが、これは各種の報道
機関が、電話アンケートなどで行って来ましたが、最近ではネットからのアンケート
募集をしている報道機関が増えています。
 政党や政治家への直接的なメール送信の他にも、この様なネット上のアンケートへ
の参加によっても、国民の意志は集約されて世論形成に参加することが始まっている
のです。
 
 田中真紀子さんは新潟選出の議員ですから、その他の地域の人は投票による支持は
出来ません。また報道機関がランダムに抽出するアンケート回答者に選ばれることは
僅かな確率しかなくて、自分の意志で参加することは出来ません。
 しかし、インターネットを通じて応援することは出来るうようになったのです。
これは「大きな変化」です。国民の多くが僅かな費用と手間で直接自分の意志を政治
に伝える方法が出現したということです。「インターネツト・デモクラシー」は必ず
政治の世界の変革をもたらすに違いありません。

 インターネットで田中真紀子外務大臣を支援しましょう。

 
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プライド』    2001.05.27  小野 喜也(昭33経)

 自尊心を表すこの言葉は、近ごろの日本では輝きを失っているようです。昨年来の
未成年者の犯罪の多発、幼児虐待、行きずりの喧嘩殺人など、家庭内教育と公的教育
の長年の誤りが表面化して来ています。

 人間が集団の中で生きるためには様々な知識と能力が必要です。生まれてから自立
して独力で生きられるまでの、教育には哺乳類の中では最も長い期間が必要であり、
成人(日本では満20歳)を迎えるまでの間は、子供は社会的な保護を与えられてお
り、親は扶養の義務を負っています。

 この扶養の義務には当然ながら教育が含まれていて、税金で賄われている義務教育
の学齢に達するまでの間は、全面的に親が教育の責任を負っています。
 昔から『鳶は鷹を生まない』と言われているように、遺伝子の働きの範囲の中であ
っても、親の子供に与える教育がその子供の大脳の発達する初期段階において確定し
ます。『三つ子の魂百まで』と古来から経験則として伝えられている通りです。

 ところが、近年の政治家、公務員、企業経営者の不正行為の多発を見ますと、これ
らの年齢層の人達が、生まれてから受けて来た教育について考えざるを得ません。
 社会的に高い地位にまで登っておられるのですから、学識を積まれ人並み以上の知
力もお持ちなのだと思われます。それにも関わらず「嘘をつく」「ごまかす」「盗む」
「責任を逃れる」と世界の何処の国でも悪とされることをしています。

 かって日本は「恥の文化」の国と対外的に評価をされていました。自分自身はもと
より家族や所属集団の不名誉となる行為は「恥」として、集団内部から厳しく制約さ
れていて、その「恥」を償うためには生命すらも賭けた文化を持っていました。敗戦
前に生まれた日本人は総てそのような社会環境に育っていたのです。
 若い世代に道徳教育が必要だと言っている、その戦前生れの人たちが「恥」を忘れ
た行為に多数走っている原因は、深く考えなければなりません。

 学問的な解明にはまだ接していませんが、私はこれは官主導の歪みと日本人の集団
主義の伝統が、悪い方向に働いてしまった結果ではないかと考えております。『赤信
号皆で渡れば恐くない』という言葉が作られたのは何時頃かご記憶でしょうか。
 吉田内閣以来、官出身の総理大臣が行政機構を率いていた時期から、いつしかl総理
大臣もまた行政機構に担がれる時期に移行してしまいました。

 法律を作るのも行政機構ならば、法律の網の目を埋める解釈も「行政指導」という
ことで行政機構が握っている中で、銀行業界を筆頭にして民間企業もまた横並びして
無批判にそれに従うことが、許認可権限を背景にして拡がっていたのです。
 このような社会環境の中で、個人としての自尊心や倫理観からは疑問を持っても、
集団の行動に異を唱えれば「書生論」あるいは「正論ではあるが青い」などと批判さ
れ、集団の中では通ることなく圧殺されて来たのではないでしょうか。

 司法で警察で起った法律違反の事件は、この集団主義が実は極めて狭い範囲の仲間
意識によるものであることを示しています。何々一家と称される疑似家族的な集団主
義は、個々人の倫理観と「プライド」を麻痺させる働きをしていたと考えられます。
 かって三重野日銀総裁が金融機関のモラールハザードへの懸念を語った時には、す
でに事態は最悪に近く、組織の通例として「頭から腐っていた」とも思えます。

 このような流れを通観するにつけても、戦前の社会が持っていた「恥の文化」で教
育された人たちも、その文化が集団として維持されなくなった戦後からは次第に変化
してしまったとしか考えられません。やがて『カラス何故泣くの、カラスの勝手でし
ょ』という、個人の欲望の放縦を許す社会の空気に情けなくも染まってしまったとも
言えます。

 このことからの教訓は、人間の社会が正しさを保つためには、まず個々の人間が自
ら誇りを持って生きるための「自尊心・プライド」を持つことが、何よりも大切であ
るということだと思われます。 
 誰もが自然に持っている「他人に認めて貰いたい」という欲求の中にプライドの芽
は存在します。責任ある立場の人びとには当然ながらプライドを正しく保つよう努め
て、結果として集団から正しい尊敬を得られるような社会の枠組みに変えなければな
りません。肩書きがその地位を示していることへの敬意ではなく、肩書きに相応しい
言動についての敬意を受けなければなりません。

 国民の税金を預かり、国民のために働くことが本来の義務である公務員の方々には
この個々人の「プライドを保つ」という意識を、ことに強くお持ち頂きたいと願いま
す。「省あって国なし」と自省の権限の拡大と下部機構の拡大に邁進してきた弊害は
巨大な財政負担として国民の生活を圧迫しています。

 小泉内閣の掲げる「聖域なき改革」に対する驚異的な国民各層からの支持は、その
ことの必要性を感じながらも、押さえ付けられ諦めて政治から遠離っていた人たちが
動き出したとも言えるのではないでしょうか。自民党の少数の幹部で選んだ森総理へ
の批判が、総裁選挙の手続きの変更をもたらせて、今回の小泉総理の誕生のための条
件となったことは不思議な巡り合わせですが、やはり時代がそれを要請していたとい
うことでしょう。

 これまでは一部の論であった、景気対策は構造改革からという論は、いまや広範囲
に受け入れられました。変革に挑戦するリーダーに頼るだけではなく、与野党の国会
議員、公務員はもとよりのこと、国民の総ては個々の立場の責任を自覚し「プライド」
を持った行動をもって改革に努力するべき時期にあると確信します。 

 『自立・自助』を呼び掛ける小泉首相の真意は『独立自尊』にあると思います。弱
者の保護には充分の配慮をしながらも、国民の税金に依存・寄食するかのごとき「プ
ライド」を失った集団は改革をしなければなりません。
 特殊法人の問題だけを挙げても大変な税金の無駄使いがあります。明治以来の行政
の歪みを糺して、国民一人一人が「プライド」を取り戻すことが今世紀の課題である
と考えます。

 大相撲夏場所の千秋楽、横綱貴の花は前日の膝の怪我を押して出場し、本割りの一
戦に敗れましたが、優勝決定戦において見事に勝って優勝を果たしました。相撲界の
頂点に立つ横綱としての義務感と多くのファンの期待に応えるための、貴の花「プラ
イド」を賭けた見事な戦いでした。
 勝った瞬間の表情は、これまでに見せたことのない「仁王様の顔」で、テレビを通
じて多くの国民に感動を与えたことと思います。貴の花の敢闘精神と淡々として全力
を尽くした姿勢に大いなる賛辞を呈します。

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新聞の病理--見失った独立性--    2001.04.15 

              東京経済大学教授 前澤 猛 (昭29経 昭31経修)
               慶應義塾発行『三田評論』通巻第1034号より転載  

 繁栄に潜む危機

「日本の新聞は病んでいる」といっても、読者はとくに驚かないだろう。
しかし、新聞記者を辞める十年前までの私がそうだったように、新聞内部の人々
はその事実に、真剣に目を向けようとしない。それが、新聞の病理を一層深刻に
している。
 日本の新聞は、普及度と経営の安定度では、世界各国の中で抜きん出ている。
1999年の世界64カ国の日刊紙発行部数(世界新聞協会「世界の新聞概況
2000年版」)をみると、日本は1位(朝、夕刊合わせて7,222万部)で、
2位アメリカ(5,598万部)を断然凌駕している。
 人口千人当りの発行部数は、ノルウェー(583部)に次ぐ2位(574部)
だが、その差は僅かで、イギリス(321部)アメリカ(202部)を大きく
引き離している。
 それは、「日本だけが高級大衆紙を実現しており、今や欧米に学ぶべき点は
ない」という自負につながる(新聞協会会長 渡邊恒雄氏、新聞協会報1999
年6月29日)。

 しかし、実は日本の新聞には三つの危機が迫っている。
 そおの一つは法的保護の見直しだ。膨大な部数と経営破綻がまれな業界の経営
基盤は、「定額と宅配」「拡材と懸賞」という日本独特の販売制度によって確保
されているが、それは独占禁止法の「適用除外による再販価格維持制度」に支え
られている。その恩恵がなくなれば部数は激減するだろう。
 第二は、インターネットを中心とするIT革命の攻勢だ。それは遠からず新聞
を初めとする印刷メディアの命運をゆさぶるだろう。
 第三は、新聞のバックボーン、ジャーナリズムの衰退だ。日本語という言語障
壁と島国の地理的条件は、国外の新聞批判や資本導入の外圧を防いできたが、そ
れらは一方では、閉鎖的なジャーナリズムを生んだ。
 知的な各分野でグローバル・スタンダード(世界的に通用する基準)の確立が
求められているにもかかわらず、とくに日本のジャーナリズムの倫理基準は世界
のそれとかけ離れている。

 新聞の三つの病理

 世界のジャーナリズムでは「常識」とされる行動規範の多くが、まだ日本では
「非常識」とみなされている。
 例えば、欧米では「取材源や情報の出所」は公開が原則で、秘密は例外とされ
ている。そうでなければ読者の信頼を得ることはできない。しかし、日本ではい
まだに秘密が鉄則で、出所不明の情報が紙面を埋めている。
 政治との癒着、ジャンキット(招待旅行)、一方的な議題設定(提言報道)な
ど、ほかにも問題は山積している。

 私はそうした日本の新聞の病理現象を次の三つに集約した。
1)独立性への無自覚
2)けじめ(「利益の衝突」回避)の無視
3)公開性の欠除

 独立性については、2000年6月21日制定の日本新聞協会「新・新聞倫理
綱領」に次の一項が加わった。
 独立と寛容 新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの
干渉を排するとともに、利用されないように自戒しなければならない。
 この規定は、日本のジャーナリストのあるべき倫理観が、世界のそれと共通で
あることを示した。しかし、現実には日本の新聞界は、この理念とかけ離れたと
ころで行動し、その矛盾に目をつぶっている。


 例えば、メディアがこぞって幹部社員を政府審議会委員に送り込む現象をどう
受け取るべきか。メディア人の政策過程への関与は、ジャーナリズム本来の責務
と利害が衝突し、社の独立性も疑われるのではないだろうか。
 審議会でメディア人は個人として発言し挙手をするのだろうか。自社の社論に
従うのだろうか。執筆する記事や論説とどう折り合いをつけるのか。
 職業倫理の根幹は「独立自尊」
 欧米のジャーナリストは、社員のままでは政府機関に参加しない。政策過程へ
の関与は、ジャーナリズムの独立性の否定であり、ジャーナリストの自殺行為に
等しいとみるからだ。そのことは倫理基準に明文化され、外部に公表されて読者
の監視を受ける。


 「ガネット」(アメリカ最大の新聞シンジケート)の倫理行動原則(1999
年5月採用)は、次のように誓約している。
 独立性の維持
●われわれは、報道の信頼性を損なうような外部の利益、投資あるいはビジネス
関係にはかかわらない。
●われわれは、ニュースを左右しようとするいかなる人物とも公正な距離を置く。
●われわれは、公私の利益を峻別し、報道に対する不当な影響を排除する。
●われわれは、ニュース・ソースやニュース当事者や広告主に対する不当な負い
目を持たない。
 また、米新聞編集者協会の「倫理原則声明」は次のように述べている。
第三 独立 ジャーナリストは、公正でないこと、および公正でないとみられる
ことは避けなければならない。同時に、あらゆる利害の衝突、あるいは利害の衝
突するとみられることも避けなければならない。ジャーナリストの廉潔さを損な
いそうな行為、あるいは損なうとみられる活動は、一切引き受けてはならないし、
またそうした活動に従事してはいけない。
 ジャーナリストの独立性は、利害の衝突回避(けじめ)や廉潔さと切り離せな
い。つまり、ジャーナリスト倫理の根幹は、「独立自尊」の堅持に他ならないと
思う。
 「透明な取材活動」の時代か
 メディア人の独立性とけじめのなさを嘆く筆者に、昨年、現役の記者から次の
ような反論の手紙をもらった。
「現時点で、六、七十年代と同じ物差しで取材していたとしたら、筆者の主張は
正しい。(しかし)ウォーターゲート、ロッキード、グラマン、リクルート等の
実体験をし、成長したはずのマス・メディアの一員として、昔より公正、透明な
取材活動をする時代に入った。時代は変わり日本のマスコミも勉強した」
 第一線の記者の気概としてはその通りなのだろう。しかし、残念ながら古い感
覚を持ち続けたまま、メディアを支配している人々も少なくない。
 四十年近く在日するアメリカ人ジャーナリスト、サム・ジェームソン氏は、次
のように観察している。
「(日本の記者は)対象を観測してニュースにするのではなくて、自ら参加して
結果を左右するように働きかけているという面が非常に多い。政治家のメッセン
ジャーになっていたり、自ら政治家と同じ役割を果たそうとする人もいる」(2
000年9月の東京地区マスコミ倫理懇談会講演、「マスコミ倫理」10月25
日号)
 私にジェームソン氏はこういった。「日本の記者たちは、ジャーナリズムにと
って大切な「利害の衝突」を知らないのでしょう」。
 日本人記者とジェームソン氏と、どちらの認識が正しいのだろうか。次のよう
な最近の出来事をみると、ジェームソン氏の見方を否定するのは難しい。

 臨床例1 首相指南書事件
 森喜朗首相が「神の国」に対する釈明記者会見を開くことになっていた前日(
2000年5月25日)。その朝、首相官邸記者室の共用コピー機のそばに、「
明日の記者会見についての私見」と題する文書が落ちているのを西日本新聞記者
が見つけた。
「準備した言い回しの繰り返し、質問をはぐらかす言い方で切り抜けるしかない」
「くれぐれも時間をオーバーしないこと。強引に打ち切らせるようにしないと墓
穴を掘る」と助言し、各社の対応も紹介していた。首相周辺にあてた記者会見指
南書と分った。
 この事実を報道した新聞は、西日本新聞のほか、毎日、北海道、朝日各紙だけ
だった。大きく取り上げた週刊誌は、その多くが指南書の筆者を「NHK記者」
と明示した。
 しかし、新聞報道は筆者を「不明」とし、当の記者会は責任追求を回避し、日
本新聞協会と当事者のNHKは、事件を完全に無視した。
 こうして、新聞倫理綱領の独立規定は、制定早々骨抜きにされた。

 臨床例2 吉兆会談
 加藤紘一自民党元幹事長が森内閣不信任の姿勢を明確にした日(2000年
11月2日)の夜、東京・銀座の料理店「吉兆」で、渡邊恒雄読売新聞社長、氏
家斉一郎日本テレビ社長、中曽根康弘元首相、瀬島龍三氏、そして森喜朗首相と
会食した。集まった各紙の取材記者を、渡邊氏は「(巨人軍優勝の)祝勝会だ」
とあしらった。
 渡邊氏は日本新聞協会会長、氏家氏は日本民間放送連盟会長でもある。メディ
ア人としての「公私のけじめ」にもとることはなかったろうか。

 臨床例3 外務省機密費
 2000年1月、私はカンボジアで小淵恵三首相一行と出会った。首相の行く
先々に日の丸ののぼりと「日本国内閣総理大臣小淵恵三閣下、令夫人歓迎」と大
書の横断幕が掲げられていた。
 しかし、それ以上に目立ったのは日本政府職員とジャーナリストの大名行列だ
った。同行記者は五十人に絞られたと報じられたが、自由取材記者を含めると、
実際はその倍に膨らんだ。プノンペン市内のホテルを覗いた現地の人は驚いて、
私にこういった。
「プレスルームは日本の記者クラブを移したようで、至れりつくせり。その豪勢
さに驚いた。食事はビュッフェで自由。冷蔵庫のビールは日本製で飲み放題。お
まけに夜食用にカップラーメンが山積みだった」
 そうした費用は一体誰が負担したのだろうか。2001年になって、外務省機
密費び」ずさんな管理が表面化したが、それには首相外遊経費も含まれているこ
とが明るみに出た。
 日本の新聞の病理は、その後もひそかに、あるいは公然と進行している。

 IT革命の二十一世紀に新聞が生き残れる条件は、「情報の質」と「読者の信
頼性」の維持に他ならない。そして、それは、「権力からの独立」と「衝突する
利害へのけじめ」に対するジャーナリストの自覚がなければ保証されない。と私
は思うのだが。

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心をこめた仕事』2001.03.01 経営管理研究所委員長 小野 桂之介
                   慶應義塾発行『塾』通巻第228号より転載

 20世紀を通じて、我々の生活は、機械の進歩、エネルギー革命、エレ
クトロニクス化、情報技術革新などを背景に、目を見張る変化を遂げた。
かっては思いもよらなかった自家用車やテレビを皆が手に入れ、中学生ま
でが町を歩きながらケイタイで友達と話す時代になった。現代は飽食の時
代と言い、物余りの時代とも言う。

 それでは、こうして物とサービスが溢れた世の中に生きる我々が、自分
たちの生活に満ち足りた豊かさを実感しているかというと、どうもそうと
は言えない。何かが欠けている。何かが失われている。それは何なのだろ
うか、私の見るところ、心のこもっていない商品やサービスばかりが我々
を取り囲むようになったことにその最大の問題がある。

 今日、高度に発達した貨幣経済の下で、我々は、仕事は「カネを稼ぐ」
ためにすることで、社会の他の人からの恩恵は「支払うカネの対価として
得る当然の権利」と考えがちである。しかし、本来、カネは、分業によっ
て構成される実体経済活動をスムーズに促す潤滑油として人間が考案した
補助的な道具にすぎない。だが、実際には、補助的な道具だったはずのカ
ネの意味が肥大化し、これを増やすことが企業活動の究極目的だと考える
ようになってしまった。
 我々の身の回りから「感謝の念」とか「物を大切にする気持ち」が薄れ、
売って儲けることだけが先行し、顧客への思いやりが欠け、心のこもらな
い商品やサービスが溢れてきている根本問題はここにある。

 我々は、肥大化してしまったカネの呪縛から一旦離れ、”人の役に立つ”
という仕事本来の意味を回復し、心をこめて仕事をする必要がある。そして、
幸いなことに、このことをしっかり意識し、思慮深く誠意をもって実行すれ
ば、カネによって象徴される経済的効果についても”結果として”よりよく
実現することが可能なのである。いまスタートした21世紀、我々が取り組
むべき最も大切ね課題はこの点にある。

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恐ろしき後遺症』  2001.02.19 小野 喜也(昭33経)

 この所、にわかに公立学校の教員の問題点についての報道が増えて来ました。
いわく、教室で生徒を教えることの出来ない教員の再教育などについて報道されて
います。このような教員が多数存在するということは恐ろしいことです。それぞれ
の親にとって大事な子供は、国にとっても次代を託す大切な子供達です。現状はた
だちに徹底的に改善しなければならず、文部省と教育委員会の国民に対する責任は
重大です。

 このような恐ろしい事態はなぜこれまで隠されていたのでしょうか。日の丸、君
が代を巡って校長先生が自殺をされたとき、国旗国家法案の成立には力が入ったよ
うですが、校長先生を追い込んだに違いない職場の環境改善の必要性については、
あまり報道されませんでした。国会の委員会における証人として登場した現場の先
生からの恐るべき実態についての証言も、教員再教育の論には繋がらなかったので
す。むしろ証言をした現場教員は帰郷後に同僚から迫害を受けたとも伝え聞かれま
した。

 今回の問題の焦点の当て方は、教員の教育能力の角度からのものですが、この教
員の質の低劣化を許して来た原因は、日教組と文部省の長年に亘る不毛の争いにあ
ったのではないでしょうか。勤務評定反対闘争の昔から、結果の平等を理想とする
人たちの集団が、欠陥教員の存在をも覆い隠し管理監督をするべき校長と教育委員
会の機能を圧迫していたのではないでしょうか。ここに問題の所在を国民に対して
明らかにして、政治と行政に反映させなければならない報道機関の機能に対する疑
問も生じて来ます。書かれ無ければ、多くの国民は問題の存在を知ることは出来ま
せん。

 敗戦後の我国の歴史を振り返って見ると、今日の私たちが直面している問題の多
くは米ソ対立の世界情勢の中で、米国型自由主義の立場による国民と、ソ連型社会
主義の立場に立つ国民との抗争が、国内代理戦争として戦われて来た傷跡が随所に
残っているのが見えます。その間に報道機関はいずれの側にも寄らず、常に中立と
称し両者の中間に立つことを原則として来ました。近世の歴史は現在を生み出した
実の母です。

 昭和26年講和条約締結の後だけを見ても、昭和27年皇居前血のメーデー、昭
和30年砂川米軍基地反対闘争、昭和35年全学連国会乱入、昭和44年東大安田
講堂占拠と、その折々の国際政治情勢を背景とした社会主義勢力の攻勢に数多くの
若者が共鳴し参加した歴史があります。連合赤軍事件、昭和45年よど号ハイジャ
ックと、軍事行動に類する暴力によりその後は次第に若者の関心は離れました。

 青春の大事な期間をこれらの直接行動に費やした若者たちは、その後の人生をど
のように歩んで来たのでしょうか。若い頃の共産主義かぶれはハシカみたいなもの
と軽い病気で済んだ人は多かったでしょうが、熱心に活動した少なからぬ人たちは
そう簡単には済まなかったと思います。学生運動華やかなりし頃は、民間企業は過
激な体制批判を実行した学生を採用することを極力避けようとしました。表向きに
ではなくとも、採用試験の際には学生の「思想調査」が必要とされたのです。

 その結果、有名な大学を卒業して一流の頭脳を持っていても、民間企業への道を
閉ざされた若者たちは「思想調査」の無い所へ、大量に就職をせざるを得なかった
と思います。彼らの多くを受け入れたのが公務員の世界でした。現業職員を多数必
要とした、国公立教育機関、郵政事業、国有鉄道、電電公社などの大組織が彼らを
学業成績の基づいて採用しています。また司法の道へ進んだ人たちもいました。
この事実を振り返ると、これらの若者たちの中には、青春の夢去りやらず職場の中
で若き日の理想を追求しようとした人が多かったとしても不思議ではありません。

 暴力派の中には40歳50歳になっても、革マル派だ何派だとの争いも続いてい
るようで、私立大学の職員が街頭で複数の犯人に襲われ撲殺される事件も昨年起き
ています。世界の情勢が変化し国内の情勢も若者の思考も変化していることを、理
解出来ない頭脳の持主とは思えない様な人たちも、青春期の主義主張の呪縛から逃
れられずにいるのでしょうか。アラブとでも中国とでも結託して、祖国を変えよう
と本気で思い続けている女性が最近に逮捕されています。彼女を支援している人た
ちもいました。

 彼らが死ぬまで信念を変えることなく、自らの道を進む自由を違法行為の無い限
りは、この国は許しています。しかし、自らの主義信条を明らかにせずに、子供た
ちに片寄った考えだけを教えることは許されるのでしょうか。
 彼らが果たせなかった幻想を次代を担う子供たりにすでに長い期間に吹き込み続
けています。日本の義務教育期間を担う学校の中で、中学校の段階を見ても国公立
学校4,000校以上に対して、私立学校は170校ほどしか存在していないのです。こ
の期間の公立教育機関の歪みが子供たちにどのような影響を与えて来たか、40年
前、30年前の思想の対立は「恐ろしき後遺症」を残したと言えるでしょう。

 これまで見られなかった少年の重大犯罪の多発、児童虐待の横行は、法律の規制力
を強化するよりも、家庭内教育とりわけ学齢期以前の親の担う教育の再建をするべ
きであると、昨年5月に述べましたが、教育機関にもまた重大な改善するべき問題
があることを付け加えたいと思います。


 教員もまた労働組合を持つ権利はあります、しかし子供たちをまともに教えると
いう義務があることを忘れては困ります。特に義務教育期間の教育経費は地方税と
国税で賄われているのです。その義務の遂行姿勢の評価は、管理者からも同僚から
も生徒かも多角的にかつ透明性をもって行う制度を確立する必要があると思います。
 納税者の一人として、職責を担う方々に対して義務の厳格な履行を求めます。

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権力は腐敗する......』2001.02.11 小野 喜也(昭33経)

 「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」歴史学者J・E・アクトンの
有名なことばです。
 人間の歴史への考察から生まれたこの言葉は、日本の現状について考えさせられる
ものがあります。敗戦後から50余年かけて築いて来たはずの民主主義の制度が、ど
うも上手く機能していない様に考えられます。日本の権力はどこにあるのでしょう。

 現在の国民の最大関心事は、「景気の回復」にあります。増えない所得、減らない
債務、株価と不動産価格の低落に伴う資産の減価で、長期間続いた右肩上がりの景気
から下降への大転換に、大きな衝撃を受けている国民の願望は景気の回復です。
 今の生活が厳しいだけではなく、年金・健康保険などの社会保障制度、生命保険・
金融機関の行き詰まりによる貯蓄の将来への不安も抱えています。国の経済活動の中
で大きな部分を占める消費が伸びずに、物価は下がっても消費が低迷しているのは、
この不安に基づくものであることへの認識は広まっています。
 これに対して、政府の1990年以降のバブル崩壊以降の景気の下落を食い止めて、
回復と均衡の軌道に乗せるための諸政策は、これまで効果を挙げることは出来ません
でした。その理由はどこにあるのでしょうか。

 その最大の理由は、民主主義体制に必要な要件が満たされていないことにあるので
はないでしょうか。小学校から教えられている民主主義の基本は、立法・行政・司法
の三つの権力が、それぞれに独立して相互が牽制しながら、片寄らずに国民の合意の
上に運営されることにあります。この理想を実現させるためには国民の判断力が必要
であり、それぞれの国は国民の認識に沿った民主主義運営が行われています。
 わが国においては、この三権分立というジャンケンのような仕組みが機能していな
いという問題が基本にあるようです。

 さらには、立法・行政の部門の責任ある立場の人たちの中から、法令に違反し処罰
を受ける人が続出し、警察から検事・判事と司法を支える人たちにまで広がりました。
民間では既に金融機関をはじめとして、各種製造業にいたるまでの広範囲な法令違反
事件と株主への義務違反の事例が多発しています。この憂うべき無責任の横行する状
況の根本には、やはり基本構造の問題が反映されていると考えられます。
 
 歴史を調べ、世界各国の実情を観察すると、いま我が国にとって基本的に改善の必
要なことは何かが見えて来ます。 

 まず、立法の問題から見ますと、立法を担う国会議員の選出方法の問題があります。
衆議院議員選挙は中選挙区制度から小選挙区制度に変わりましたが、国民の投票を反
映する選挙人と議員の数の比率は、不均衡のままです。同じ一票の価値が選挙区によ
って大きく異なる状態をまず改めなければなりません。今年7月に行われる参議院議
員の一票の格差は、衆議院よりももっと大きな格差が放置されています。
 この事態の違法性への訴訟はこれまでに何度も行われましたが、すべて最高裁判所
で否決されています。人口の移動もありますが一票の格差はせめて1対1.5の範囲に
納めらなくては、国民の意向を反映するものではないと考えるのは当然です。それを
歪めている構造を司法も含めて改めなければなりません。

 立法は、法律を作り改廃をするのが、その本来の機能ですが、この法案の提出は長
い間、政府提案がその殆どを占めています。その政府提案の原案は行政官庁によって
起案されています。与党による検討は加えられていますが、行政を担う官庁が立法の
機能を代行して来たのが、この50年の歴史です。議員からの提案によって成立した
議員立法の件数が極端に少ないことが問題であることは、近年にいたり議員の中でも
認識が広がりましたが、最も重要な予算案からして官庁が作成している状況は続いて
いるのです。今年からの省庁再編成がどう機能するかはこれからの注目点です。

 国と国民の関係とは、国民の権利としての立法への参加と、国民の義務としての納
税の仕組の上に成立っています。戦後は徴兵制度による国防のための兵役の義務があ
りませんので、納税の義務は唯一の義務となりました。国民の生活はこの税金の制度
によって大きな影響を受けます。「国のかたち」を作りそして示すのが、この税制で
あるとも言えます。この税制の立法を徴税を仕事とする行政が支配しているも大問題
です。国の運営に必要な経費を国民が負担するのは当然ですが、その負担は公平なも
のでなければならないことは、大前提条件です。

 現在のわが国の税制は公平を著しく欠くものであることは、内外の研究からも明ら
かです。徴税には手間と暇が掛りますから、徴税経費を考慮しなければならないこと
はありますが、取り易いところから取ると評される安易さは避けなければならず、他
の政策からの影響も排除されなければ公平とは言えません。
 源泉徴収制度という仕組で、給与収入はすべて雇用者が国に替わって、給与所得者
から徴税し納税することを義務付けられています。このために給与所得は総て正確に
補足され課税されています。これに対して事業所得はそれぞれの事業者による申告で
納税されます。その申告が適正であるかどうかは税務署が調べますが、事業所の数と
調べる税務署員の数の不均衡もあり、申告が適正に行われているのは5〜6割程度と
評されています。また、農業所得については様々な保護制度により所得の3〜4割程
度の課税と言われる状況が長年続いています。最後に政治家は1割程度とされていて
「くろよん964」「とーごーさんぴん10、531」などという徴税の度合いを示
す成語も古くからあります。

 税金は収入のある人が負担するのは当然ですが、収入があっても正直に納税をしな
い人が絶えないのも、歴史から見た人間の限界です。徴税側の公平性を維持するため
の努力が欠かせません。コンピュータ機能の活用に励むことこそ「IT戦略」の第1
に掲げられるべきであると考えられます。国民番号の採用は重要な施策です。
 もう一つ所得のあまり多くない人への課税は免除しようという考えがあります。
給与所得者であっても一定水準以下であれば、課税をしないという訳ですが、この水
準の決め方には国民の合意が反映されなければなりません。現状は米国よりも高い水
準にまで引き上げられています。

 収入に対する課税の他に、資産に対する課税もあります。持っていることだけで、
収益を生み出していない資産も課税対象とする税金で、不動産保有に関する税金が
最大のものです。この個人住居をも含む不動産課税の歴史はそれほど古くからのも
のではなく、戦争のための必要性から始まったのではないでしょうか。戦後は地方
自治体の主要財源となり、地価の上昇と共に評価額が増えて課税額もうなぎ上りの
上昇がありました。この実態と乖離して自治体の収入を膨張させた課税制度が、放
慢な支出を可能にし、現在の自治体の財政破綻をもたらせたと観察することが出来
ます。

 国民の死亡に伴う遺産への課税にも大きな問題があります。相続税の納入状況を
見ると不動産の占める金額の多いことが判ります。戦後一度も値下がりのなかった
不動産が、バブル崩壊により一気に下落したことは日本の経済基盤を揺るがしてい
るのですが、居住用不動産から小規模企業の営業用不動産まで、「三回の相続で、
どんな大きな資産家の資産も零にする」という他国ではあまり例の無い苛烈な相続
への課税は国民の子孫を思う心を希薄にし、正直な納税を妨げていることは明らか
です。
 数年前からは所得にも資産にも関係なく消費に課税する方法も始まりました。経
費の削減に努力をせずに、税収不足を新税や課税強化で穴埋めしようとしても、と
ても間に合わない状況で、その数年前からの財政悪化状態は急伸しています。

 これらの税制を改善するのは、国民の格差の少ない投票によって選出された議員
の検討と討議によって行わなければなりません。立法・行政・司法の三権がそれぞ
れに独立して、国民に対する責任を全うすることが何よりも大切です。
 これまでにも論議がありながら、未解決なままに過ぎている基本問題を避けてい
たのでは、現在の危機的状況は打開できないのではないかと思われます。

 国費を支出している部分の不正を糺すのは当然ですが、非効率と無駄が無責任に
長年積み重ねられた行政の関与している部分の大きな改革が必要なことは明らかで
す。 国民の望む景気の回復は、政府支出の増加ではなく、政府支出の削減のため
の行政機構の縮小と、行政機関の持つ許認可権限の撤廃による、民間活力を引出す
環境作りにあるのです。これを行うのが政治であり立法府の役割です。
 揺れ動く葉や小枝に一気一憂するのではなく、大木の幹そして根の部分を改める
必要があることを、国民がどれほど理解しているか、今年の地方議員選挙と参議院
選挙は大きな山場となります。残された期間はどんどん少なくなります。

 改善をするべき歪んだ制度の下でも、国民の権利はこの投票によって意志を示す
しか方法はありません。事態は一度の選挙では解決しないでしょう。地方首長選挙、
衆議院選挙と何度も選挙を繰り返して、この国の土台から築き直すくらいの覚悟が
必要なのだと思います。既存の利権、既存の権益、これまで国民の税金を使うこと
の上に乗っていたのは誰なのでしょう。その真ん中にいた勢力もおこぼれを受けて
いた人たちの数も有権者総数の一部に過ぎません。特定の人物や家族に権力がある
のではありません。人は替わりながらも変わらずにいる人の集合体に権力が留まっ
ていることが腐敗の原因であると思われます。

 誰かが何かをやってくれるのを待っていても、誰も助けてはくれません。私たち
国民自身が腐敗不正を糺し、自らが正しい行動を示すことの重要性を自覚するとき、
状況は変化し景気回復への道筋も見えてくると考えられます。 
 政党と政治家に期待できないとお考えの方もおられるかも知れません。目を拡げ
て他国の政治状況を観察すれば、国民の投票行動そのものが、政治家をそして政党
を動かすことの例を沢山見ることが出来ます。

 それでも貴方は棄権を続けますか?

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教育は誰が変えるのか』2001.02.01 伊藤良典さん(経済学部2年生)

 昨今、17才の犯罪が取りざたされその原因をさまざまな学者や作家、ジャー
ナリストが分析しています。事件の裏には戦後日本がかかえてきた問題ととも
に教育の荒廃が密接に関連付けられているのが大抵です。また、教育に関する
議論は新聞紙上でも毎日取り上げられ、一般に識者と呼ばれる方がその持論を
展開しています。教員の評価性導入、学校間の競争の促進、少人数学級の実現
などどれももっともな議論ばかりです。
 しかし、私がいつも違和感を覚えるのは教育の当事者たる学生の意見はつい
ぞ見たことが無いということです。まるで、教育に関しては学生は忘れ去られ
たかのような感を覚えます。また、教育論議は制度や主義・主張に偏りがちで
一体我々の社会はどこまで現在の教育の実態を知り,その上で論議をしている
かというとどうも危ういものを感じます。学生の教育に関する意見が聞こえて
こないというのは主に学生自身の無関心に負うところ大ですがそもそも意見を
述べる場がないというのも一理あるとこでしょう。

 そこで、私はまずは主義・主張を超えて高校生が今の教育に関して何を考え、
何を問題と受け止め、教育をどう変えたいと思っているのか、をはっきりさせ
たいと考えています。まだ高校生だから彼らには問題を解決する能力がないと
は私は思いません。当事者である彼らが感じている問題にこそ教育を変えてい
くファクターが存在すると信じています。
 具体的には、私が考えたリレー方式というアンケートで高校生にアンケート
をとり、出版社に持ち込み本として社会に発信したいと考えています。もっと
も、単なるアンケートなら新聞社や出版社がやっていることですし、それでは
意味がありません。このリレー方式についてですが、高校生に教育に関する疑
問、質問をみずから考えてもらい、その質問に関して別の高校生が答えていく
というものです。このプロジェクトは各高校の生徒会に協力してもらい、また、
メンバーにも各高校の生徒に参加をお願いし、飽くまで学生が自ら教育を変え
ていこうという動きにしたいと思っています。
 さらに,上記のリレー方式に関して説明します。

l リレー方式に関して
高校生Aに、1)今の教育に関しておかしいと思うところを一人3個述べても
らう。そして、2)教育に関して自分ならこう変えたいと思うところを3個
述べてもらい、3)教育に関しての疑問を3個用意してもらう。中高生Aに書
いてもらった前の回答を中高生Bに見せAが3)で用意した質問にBに回答
してもらう。BにもAと同様に1)、2)3)に回答してもらう。今度は同
様にBの回答をCに見せ、Bが3)で用意した質問にCに回答してもらう。
同じくCには1)、2)、3)にも回答してもらう。これを関東圏の高校生
に繰り返し行う。つまり、高校生自ら教育に関して疑問,質問を提起しても
らい、それに対して彼ら自身に答えてもらうのである。バトンを渡すように
してこれを高校生に行えばあるいは多少は彼らが何を考え、何を変えたいと
考えているのかがわかるのではないか。Aが用意した質問にBが答え、Bが
用意した質問にCが答え、Cが用意した質問に今度はDが・・・。というよ
うにまるでリレーのようであるのでこれをリレー方式と名付ける。
こちらがアンケートを行い、彼らの意見を摂取するのではなく、彼ら自身に
質問を作成してもらい答えてもらうのである。それにより、加工される前の
高校生の意見に近づけるのではないかと考える。

実施対象の高校を関東圏に絞ったのは、メンバー、経済の問題があるからで
す。メンバーに関してはこれから高校と折衝を繰り返す中で順次拡大をはか
っていくつもりです。経済的にもわれわれ学生のみで実施するため、関東圏
の高校と頻繁に折衝を繰り返す際に必要となる交通費、アンケート用紙に関
する費用がかかります。関東全都県を対象にするため用紙代だけでも馬鹿に
はなりません。
 そこで今回はこのプロジェクトに参加してくれる学生(慶応生であるとな
きに関係はありません)を広く募集します。具体的な仕事としては各高校と
の折衝になります。また、このプロジェクトに意義をお感じになった方から
のカンパもお待ちしております。学生だけで行うには負担が大きいのでどう
か、ご理解をください。
アンケートを行う高校は総数の半分を考えています。東京都だけでも高校は
460近くあり、神奈川県、埼玉県,千葉県なども230近くに上るためこのプロ
ジェクトは相当な労力を要するものですがこのまま、教育論議から学生が取
り残されていっていいわけはありません。もっとも望ましいあり方は学生、
学者,作家などのさまざまな人間が論議を尽くし、しかもその論議が主義・
主張に偏ることなく現実に立脚したものであることでしょう。それには、や
はり学生自身が教育に関する意見を社会に発信していくことが必要不可欠と
考えます。「教育は誰が変えるのか」、結局この答えは単一のものではあり
えない。各人が考えを尽くし,一人で終わるのではなくリレーのように次の
人と確実に連絡を取り合うことがなによりも肝要だと思います。
ここでは、このプロジェクトを更に詳しく説目することは字数上できません
ので参加や更なるご説明をご希望の方は私のほうまで気軽にお問い合わせく
ださい。皆様のご参加を心よりお待ちしております。構想、計画などをメー
ルにて添付してお送りいたします。
 

                 慶應義塾大学経済学部2年 伊藤良典
                   Eメール;senkusha@nifty.com  
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構造改革と社会通念のズレ/新世紀に何を継承していくか/』                        2001.01.21   対馬好一さん(昭51政) 


<サンケイ新聞 2001年1月16日夕刊コラムより執筆者の認可を得て転載> 

 東京・三田の慶応義塾綱町武道館では毎年一月恒例の柔道部の寒稽古(かんげいこ)
が今年も五日から十四日までの十日間行われた。就学前の子供から、八十歳に迫る大
先輩まで、あらゆる年齢層の人たち約百人が、毎朝、寒風の中、汗を流した。
 明治十年(一八七七年)に創立されたこの柔道部では、いつ寒稽古を始めたか詳細
には分からない。しかし、戦時中も、戦後の連合国軍総司令部(GHQ)によって武
道が禁止されていた時代も、とぎれることなく寒稽古がつづけられてきた記録がある。
 その寒稽古も、世の中のすべての事象とともに、二十一世紀に突入した。私が子供
のころには、二十一世紀という時代がどんな時代か見当もつかなかった。しかし、実
際にそのときを迎えてみると、柔道の稽古などの日常は変わらず、二十世紀だった昨
年までと同じように続いている。
 東京では三十年、四十年前に比べ、気温が高くなる傾向が続き、昨年などは寒稽古
のために一月の早朝五時前後に外に出ても全く寒くなく、地球温暖化がここまで来た
かと思うほどだった。しかし、今年は寒さが厳しく、窓ガラスについた水滴は明け方
には凍り付き、八日には積雪まで記録した。地球の営みは新世紀に入っても実はそう
変わっていない。
   ▼…▼…▼
 昨年の大みそか、慶大では、百年前の故事に倣って「第二回世紀送迎会」が開かれ
た。大学関係者によると「前回と同じ学生主催の形式を取ったが、多少趣が違うよう
だ」という。
 前回は、十九世紀の悪弊として封建社会を描いた風刺画に向け一斉射撃を行い、そ
れを燃やすと「20センチュリイ」と書かれた仕掛け花火が現れたという。
 今回は教室の中で「20世紀の名授業」という催しが行われた。何人かの慶大名誉
教授らが往時をしのんで別々の教室で同時刻に授業をするのだが、その中の一人、法
学部長や常任理事を務めた生田正輝名誉教授(七七)=マス・コミュニケーション論
=は「慶応義塾と歩んだ私の20世紀」と題した一時間半の授業の最後にこう語った。
 「世の中には変わるものと変わらないもの、変えなくてはならないものと変えては
いけないものがある。その見極めが大切だ」
 世紀の変わり目は、キリスト教など、西暦を使う社会の区切りであり、百年前の明
治日本にはあまり関係はなかった。しかし、今回の世紀替わり、もっといえば千年紀
が替わるこの時間を共有した現代の若者にとっては、七五三や成人式以上に大切な通
過儀礼だったかもしれない。
 普段、何も変化がないようでも、時代は着実に進んでいる。
 そうした中で、今月六日には中央省庁の再編が行われた。「縦割り行政を排除し、
行政の効率化を目指す」という。省庁の数は減っても、局や課の数はあまり変わらな
い。定員総数に至っては、全く変わっていない。
 当然、「何のための省庁再編か」という批判が新聞紙上などをにぎわしている。
   ▼…▼…▼
 だが、ちょっと考えてみると、例えば、建設、運輸両省と北海道開発庁、国土庁が
一緒になってできた国土交通省がきちんと機能すれば、「首都圏第三空港問題など、
航空行政と国土の再開発が一体化し、簡単に解決する。それを官僚にやらせるのが、
これからの政治家の仕事だ」(財界幹部)という。
 日本の官僚はきわめて優秀だ。「政治家に使われたような顔をして実は、自分たち
の思うとおりに社会を動かしている」(生田教授)といわれる。そうした従来の官主
導の行政を、政治主導、民主導に持っていこうというのが今回の改革の趣旨だが、官
の高い専門能力をより生かせるようにすることも併せて求められている。
 そのために、政府には、閣僚に加え、副大臣、さらには政務官と、国会議員が数十
人も名を連ねることになった。ということは、国民が選んだ国会議員が、従来より官
庁の奥深くまで入り込み、官僚を監視することになる。
 しかし、政務官などは当選二、三回の経験の乏しい議員もいる。百戦錬磨の官僚を
使い切るには、かなりの勉強が必要になるだろう。
 一方、企業でも終身雇用が崩れ、給与体系も、従来の年功序列から年俸制などに移
行するところが増えている。まさに、自分の人生は自分で切り開かなければならない
時代に来ている。
 しかし、こうした新しい制度は、長年積み重ねられてきた日本の習慣とは相いれな
いところが多い。それだけに、導入当初はとまどいの方が多く、社会の活力たり得な
いというのが実情ではないか。
 低迷する経済を見るにつけ、動き出した構造改革と伝統的社会通念のミスマッチが
原因ではないかと思う。
 新しい世紀を迎え、何を継承し、何を残すか。民族の文化と伝統とは何か。改革に
はどのように魂を入れるか。地に足をつけて考えてみるときではないだろうか。
(つしま・よしかず)

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独立自尊 導新世紀』 2001.01.19 昭33経 小野 喜也

 2000年12月31日 三田山上の第二回世紀送迎会の席上、鳥居泰彦塾長は、
100年前の「独立自尊 迎新世紀」を一文字変えたスローガンをを唱えられまし
た。独立自尊の考えを持つ人達が21世紀を先導しなければならないという気概を
示されたものと思われます。

 同じ世紀送迎会の席には、行政改革を担う大臣に就任された橋本龍太郎さんの姿
もありました。橋本さんが総理大臣在任中に纏められた内閣府の新設を含む省庁の
再編成の実施の時期に、再び実務を担当されることになりました。
 明治以来の官権主義思想と、戦後の経済成長と共に許認可権限を核として肥大化
した公務員の利権構造を破壊することは、容易なことではありません。国民の一人
ひとりが福澤先生の提唱された、独立自尊の精神を持つことが21世紀の重要なる
課題です。

 新年に入って自民党には「株価対策委員会」が編成されました。この動きを推進
した政治家はご存じの通り公務員出身者です。公的資金つまりは国民の税金を使っ
て、株価を支えようという思考方向がこの委員会の中からまた出て来るでしょう。
これは全くの間違った方向です。政府や行政機関は株価を形成する諸条件を整備し、
株式の流通が公正適切に行われることを助けるのが正しい仕事です。
 バブルの崩壊以降のPKOと呼ばれた政府の株価への直接介入策は百害あって一
利もない、過ちであったことは明らかです。英語ではマニュピレーションと言われ
る価格操縦は、民間が行えば犯罪行為として厳罰の対象です。国家機関がそれを行
った場合は、国民がそれを支持している限りは国際的な処罰はありません。
 しかし、他国は冷静に市場原理に基づいて実態の行方と「価格操縦」を観察し、
評価を下して株式も債券も売買します。 現在の国際的に開かれた市場取引における
国際的な評価が、株価水準を決めているのです。

 この資本主義の原則が、どうも公務員には理解できないのか、理解はしていても
都合が悪いので無視しているのか、「失われた10年」を経ても、行動は変わらな
いようです。日本は「世界で最も成功した社会主義国である」と言われます。この
社会主義とは共産主義的な社会主義ではなく、国家社会主義という戦前からの官僚
主導の思想です。冷戦終結後に資本主義陣営の国々が一斉にこの国家社会主義を敵
視して日本の改革を迫っていることは明らかです。アメリカ合衆国の大統領がブッ
シュ氏に変わってもこの姿勢には変化は起りません。
 好むと好まらずとに関わらず、世界は力の均衡によって動いています。日本の国
を動かす原理は、国家社会主義ではなく共産主義的社会主義でもなく、民主思想に
基づいた資本主義でなければならないと思うのが現実的な判断でしょう。
 国家の利益を第一義とし国民をそれに従うべきとした国権主義は、個人の独立を
求め民権の確立を目指した福澤先生の思想の反対側のものです。

 今や日本の国家財政も地方財政も破綻に近い状態に追い込まれています。国債の
世界での格付けは低下傾向が止まりません。国民の多数が第一順位で求めている
景気の回復に必要なことは、税金を使った公共投資では実現しません。国家社会主
義を支えている機構を改革すること、公務員の寄生によって無駄な国費が費やされ
れいる諸制度、諸機関をすべて改めることなのです。
 日本には国際的な比較からも、依然として競争力に優れた能力が沢山あります。
民主主義と資本主義の原理に沿った政策を推進し、民間の能力が有効に働くように
するための改革、「大変化」が必要なのです。

 中央官庁の公務員の側に立つ政治家の手による改革は望めません。延々と自己
保存のための引き延しと先送りが続けられて、事態は悪化の一途を辿っています。
日本の総人口は2007年で峠を越えて減少傾向に入ります。
 その時に貴方は何歳でしょう。私達の子供達は何歳でしょう。改革のための時
間はもうあまり残されていないのです。「大変化」にはそれなりの時間がかかり
ますから急がなければならないのです。「自分が死んだら後のことは知らない。」
というのは自己中心の極みです。自分を生み育ててくれたのは誰だと思っている
のでしょう。自分の子や孫にどのような状況の国を残しても平気だと思っている
のでしょうか。そんな人の老後を世話しようと思う人はいないでしょう。
 
 年金制度も福祉制度も健康保険制度もすべて財政的に行き詰まることは、以前
から判っていたことなのです。国民に不安を与えてはいけないという「国民」を
見下ろした考えから隠されていた事態も次第に明らかになりました。それでもま
だ、与えることのみを約束して国民を甘えさせて来た政治手法は続いています。
これらの諸制度の破綻への対応として、税金を使うことが提案されています。
税金は天から降ってくるもので、自分が貰えるならという姿勢は悪徳の極みです。
 その税金は誰が負担するのでしょう。そして受取る人は誰なのでしょうか。
納税者と受益者との利害対立は、鋭く対立してしまい国の分裂の危機を招くこと
になります。それは経済力による対立だけではなく、世代間の対立でもあります。

 この21世紀は最初の年から、私達日本人一人ひとりに対して、これまでの思
考と行動の習慣を変えることを求めています。変われなければ更に悪い状態に追
い込まれるでしょう。生活を防衛して将来を切開くために行うことは、まず第一
に政治へ参加して投票場に足を運ぶことです。現在の調査では支持政党なしとい
う無党派層が有権者の半ばを越えています。そしてこの層の人達のほとんどが投
票をしていないことが、変化を妨げているのです。

『学問のすすめ』はネットの上でも読める時代になりました。初編の結びの部
分を今一度、読み直して頂きたく次に掲げます。
 『故に今、我日本国においてもこの人民ありてこの政府あるなり。仮に人民の
徳義今日よりも衰えてなお無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重に
なるべく、もしまた人民皆学問に志して物事の理を知り文明の風に赴くことあら
ば、政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。法の苛きと寛やかなるとは、
ただ人民の徳不徳に由って自ずから加減あるのみ。人誰か苛政を好みて良政を悪
む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮を甘んずる者あ
らん、これ即ち人たる者の常の情なり。今の世に生れ報国の心あらん者は、必ず
しも身を苦しめ思いを焦がすほどの心配あるにあらず。ただその大切なる目当て
は、この人情に基づきて先ず一身の行いを正しく、厚く学に志し博く事を知り、
銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政を施すに易く諸民は
その支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得て共に全国の太平を護らん
とするの一事のみ、今余輩の勧むる学問も専らこの一事をもって趣旨とせり。』

「私」という個人の強い意志が国家を動かす原動力であり、また、自立した個人
でなければ、国のことを主体的に深く切実に考えられない、とも説かれています。

 混乱と波瀾の時には、どこの国でも古を訪ねて、指針を求めます。
福澤先生の示されたのは慶應義塾だけの指針ではありません。常に日本の指針を
示し、より良い国を作り出す先導者を育成するために慶應義塾を建てられたので
す。「独立自尊 導新世紀」のスローガンにはそのような意味が含まれているの
でしょう。「独立自尊」で行動する人の連帯が広がり前進することを願っており
ます。

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貴方の耳は何度ですか?』 2001.1.6 昭33経 小野 喜也


 視力を計る「目の度数」は、小学生からは身体検査でお馴染みですね。
視力検査表の一番上の大きな字から、一番下の小さな字まで、読める範囲で
その人の目の度数を簡単に知ることが出来ます。そして度数の低い人は年齢
に関わらず視力を補うための眼鏡を使用しています。

 人間の生まれながらの能力の相違は、この「視力検査」によっても明らか
ですが、自然は多数の人間にそれぞれに様々な個性と能力を与えています。
現在の日本では視力検査のみは普及し、個々人の能力差が認められています
が、その他の能力差については認識されることが少ないようです。

 目と同じように「耳の度数」を計る簡単な方法があれば、「聴力検査」に
よって自分の耳の度数の自覚も簡単になります。今でも難聴を判定する機械
はありますが、度数までは判定されていないと思います。また聴力は単に聞
こえるか否かだけではなく、高音から低音まで、聞き分けられる範囲も異な
る筈です。微妙な音階の違いを聞き分けることの出来る人と出来ない人も、
視力と同様に広い範囲に分布しているのだと思われます。

 自分の聴力で聞き分けの出来る音は、自分の声や楽器で再現することが出来
ます。しかし、聞き分けの出来ない音を再現することは不可能です。音楽の世
界で一流となる人は、例外なく特別に優れた聴力を持っていると思われます。
外国語の習得についても、聞き分けの出来る発音は、真似ることが出来ます。
しかし、聞き分け出来ない発音は、似たような音を出すことになります。
「耳の度数」を「目の度数」と同じように簡単に調べられれば、無駄な努力
や悩みも随分と少なくなるのだと思われます。

 この事は「耳」に限らず、「舌の味覚」、「鼻の臭覚」、「皮膚の触覚」に
も夫々個性による能力格差が経験的に古くから知られています。自然は人間の
総てを同じようには作っていないことは、古くから明らかなのです。

 五感といわれる感覚だけではありません。手先の器用な人と不器用な人がいま
す。視覚ではありませんが、色彩や造形への感覚も各人まちまちです。数字や計
算の得意な人と不得意な人、暗記力の強い人と弱い人、方向感覚の良い人悪い人、
様々なことで人間の個体は異なる能力を備えているのが自然の摂理です。

 世界の人類のために広く貢献した業績を残してくれた人達も、決して万